月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

 親子関係の再確認(1)(2)


(1)

(2015年3月号「慈悲の瞑想 (1) 」につづくEさんへのアドバイス

アドバイス:
  基本的には、親を嫌っている間は自分を嫌う感覚も残ります。私たちは良くも悪くも親のコピーですから、親を嫌っているということはそのまま自分をも嫌っているということです。逆も同じで、自己嫌悪があるということは同じ資質を持つはずの親を嫌っているという訳です。そういうものです。ですから、親のことを完全に受け容れている人にはそれを原因とする自己嫌悪はありません。
  このような関係を克服するためには内観がぴったりです。内観は「私が」というエゴ感覚を越えるところが関門ではありますが、親子関係を総当たりでチェック出来るたいへん優れたシステムであることは間違いありません。適切な手順を踏めば必ず乗り越えられます。
  内観によって、親への怒りなどの鬱積が手放され、親に対するネガティブな心が完全に無くなると、ワンセットで自己嫌悪も消えていき自己を愛せるようになります。これは一般論として一つの典型的なパターンです。もし心当たりがある時には、がんばって自己否定感覚を乗り越え、良い意味での <自尊感情>を育てていきましょう。
  ただし、親子関係があまりにも難しい場合、いくら修復しようとがんばってもことごとく挫折してしまい、それがまた自己嫌悪につながってしまうということもあります。そのようにきわめて深刻な場合であれば、<自己有用感>を育てるのです。
  これは、「私は無益な存在ではない」「人のお役に立てる有用な存在なんだ」という自覚です。それによって<自尊感情>が生まれてきます。
  ではそのためには何をすれば良いのでしょうか。それは、「善行をやりなさい」ということです。クーサラです。心から「ありがとうございます」「おかげさまで助かりました」と人に言われたらジーンとならない人はいないでしょう。「自分も人の役に立てるのだ」という嬉しい感情、ボランティアをした人が逆に感謝の気持ちを抱くようになるという事実、自己否定感情がかなり強い人でも「自分も生きていて良かった」となっていく、そこにつながります。
  さらに、親子関係がどれほど難しくても、最終的には完全にそれは受け容れることが出来るであろうという確信、勇気を持ってそれに向かうことです。大丈夫です。あきらめないで、妥協しないで、それが人としての本来の生き方です。良い意味で自分を尊重できる、完全に自分で自己完結する、そういう人になれば他人に対しても心から幸せであれと言えます。そして心から慈しみの瞑想が出来るようになるのです。

<父親の価値観とのズレ>
Aさん:父の価値観の影響で、 私も「バリバリ仕事をして頑張るのが人生」というふうに必死で働いてきましたが、体調を壊してしんどくなり、今は異なる道に進んでしまって話し合うこともできていません。現在働いている職場はとても働きやすく幸せを感じています。このまま今の仕事を続けることにたぶん父は反対しないと思うのですが、これまで父の期待に添おうと頑張って勉強してきたことを無駄にしてしまうようで、わだかまりと罪悪感を抱えたままなのです。

アドバイス:
  それはそう思っているだけで、実際に会って話をしてみないとわからないでしょう。お互いの価値観と生き方の違いを、どうすり合わせていくかで違った展開も生まれてきます。
  親としては、やはり自分の価値観と同じように、いわば思い通りに子供が歩んでくれたらそれは満足でしょう。しかし子供が違う方向に行き始めたら、それをどこまで許せるか受け容れられるか、これは親にとっての修行です。その時には、親として世代間の葛藤を乗り越える心の広さ、異質なものを受け容れる能力、「雅量」、つまり人間的な器量が問われます。
  たとえ自分の価値観とは違う道に進んで行っても、娘への信頼と愛情が勝って、「自分の好きな道で成功しなさい」と言えたらそれは最高です。しかし、ここで子育てに失敗するタイプの人は自分の価値観の押し付けをやってしまい、結果的に子供に背かれることになってしまうと考えられます。
  では子供の方から見るとどうでしょうか。親とは価値観が違うのに、いろいろな条件に囲まれてそれに背けない、背こうとしない子供なら、親のために、親に喜んでもらうために自分を犠牲にし、自分を殺してそれに沿うような生き方をすることになります。そうなったらその子は本当に幸福なのかどうか、あるいは真から満足できる人生を送れるかどうか、当然ですがかなりストレスのある生き方になると思われます。

Aさん:学生時代には経済的に大きな負担をかけており、そのことも負い目になっています。

アドバイス:
  少々バトル気味になるかも知れませんが、それはやはりちゃんと向き合って話をするほうが宜しいです。そこをいい加減にしたらお互いに良くないですね。誰だって自分の共感者がいるというのは嬉しいことですし、反対に、自分とは違う価値観の話や違う方向に行かれるのに直面するのは決して嬉しくはありませんから。
  例えば、脳科学者の養老孟司さんの母親はお医者さんだそうです。彼は子供の時に昆虫採集をめちゃくちゃやったといいます。母親というのは自分の分かる範囲に子供がいると安心なのですが、理解出来ないような世界に子供が行ってしまうのは基本的に嫌うものです。彼のお母さんは、「わけの分からないことをやっている」「どこがおもしろいの?」という感じで、本当はやめさせたいくらいだったらしいです。
  彼はそういうことをやりながらも、母親の理解できない世界を徹底的にしていたという認識があったそうです。でも母親は否定しなかった。そうかと言って、ただの一度も、「そんなに好きなら昆虫学者になれば」というようなことも言わなかったそうです。本当は受け容れたくないけれど結局は受け容れていたのです。もしそこで母親が前後の見境をなくしてしまうと、極端な場合は親子の縁を切るとか、自分の世界観、価値観を子供に押しつけて結局失敗してしまう、そのようなケースは数え切れないほどでしょう。
  死ぬまで人は成長していかなければならない。そこに例外はありません。お父さんもお歳は分かりませんが、まだまだ成長していただかなければということです。ここで娘と価値観が違って少しは怒ったり悲しんだりしても、それでもやはりかわいい娘に「やりたいことをやりなさい」って言って欲しいです。その方がお父さんにとっても間違いなく良いことだと思います。
  ただ、すべては表現次第ということもありますから、やさしくやわらかい言葉で話してみることです。お父さんに対して心から慈悲の瞑想をして、そうするとまず喧嘩の波動にはならないし、展開は必ず調和的、和合的になりますから。きちんと向き合って、お互いに腹蔵なくコミュニケーションしたら必ず良い結果が生まれるものです。がんばってください。

<父親の愛情を感じない>
Bさん:父は自分と自分の親兄弟や親族は大事にしても妻や子育てには全く無関心、愛情をあまり感じずに育ちました。父親はいても母子家庭のようで、もう何を言ってもダメだという感じで、子供心にも私から見切りをつけたというほどの父親でした。そんな自分勝手な父親でも慈悲の瞑想で変われるのでしょうか。

アドバイス:
  そうですね。例えば、内観に行ったりすると分かってくるのですが、そういう父親が結局学資を出してくれたり、学校に行かせてくれたり、稼いでご飯を食べさせてくれたりしていた訳です。でも家族が何となく自分に対して心を閉ざしているとか反感を持っているとかすれば、それを分からない人はいません。それでも一所懸命に働いてお金入れてくれるだけでもありがたいじゃないですか。
  たくさん稼いでいるのに、ギャンブルや何やらで全部自分が使ってしまって家に全然入れないような父親もいて、そのためお母さんが苦労してかつかつの生活をしているという、そんな家庭もあります。
  もし愛情がゼロだったらお金を入れないでしょ。たとえ仕事がつらくても、子供が自分を慕って優しい波動で接してくれたら苦しくてもやり甲斐も出ますけど。ところがそうでなく、心を閉ざして目を背けられたらお父さんもそれで頑なになるということもありますから。そういったことはお互い様なのに、どちらが悪いかというような雰囲気になって、喧嘩の波動が響き合う状態になってしまいます。
  どれだけ自分が傷つけられたり悲しい思いをしたかという、不満に占められた心の波動が出ている限り、互いに愛し合って優しくしていこうという展開にはなっていかないでしょう。今のお話ですと、心を閉ざしてもう何年も経ってしまっている感じですね。そうなるとお父さんとの関係は本当に固まってしまっているでしょうから、放っておいて自然に良くなるということはちょっと期待できないと思います。ですから、それはどこかで変える作業をしなくてはなりません。そうすることで人の心は変えられる、その可能性はどなたにでも備わっています。
  瞑想も当然ですが、特にそのためには内観を勧めてきました。一週間かかりますけど。内観は、父親からかけられた迷惑は一切調べないで、自分がどれだけ愛されてきたか、どれだけ迷惑かけてきたか、そこだけを調べていくようなやり方です。これがうまくいくと、認識の革命というか全く違う父親像が見えてくることになります。

Bさん:私はいつも人間関係がうまくいかなくて。それはやはり家族がうまくいってないから、基礎ができてないのかなと思いました。

アドバイス:結局自分から親子関係をちゃんと整えなければ、代わりに誰かがやってくれる訳ではないですから。親との関係をそのまま放置していれば、これから新しい人に出会ったり付き合ったりしても自信のない後ろ向きの気持ちを何時までも引きずったりして、結果としてやはりうまくいかない可能性が高いでしょう。それでは、これからの人生にあまり希望が持てない展開となってしまいます。
  そうならないために過去を整えていく、そうするとこれまでとは違う人間関係の持ち方が自分の中に起きてきます。それは、父親に対して変わってほしいという次元からはあり得ない話で、自分の方のものの見方、認識を変えてきたことで起きるのです。
  ただこういうことは、いくら頭で分かってもシステムの力を借りて訓練しない限りは上手くいかないのです。内観というのはそのための強力な技法なのです。一週間休みを取らないとならないのですが、人生の大きな問題だからできるだけ早めに行かれたらとお勧めします。

<内観について>
Cさん:内観について、もう少し知っておきたいです。

アドバイス:
  「内観」で検索してみると、全国に内観研修所がありますが、まず本を読むと良いでしょう。内観というものがどういうもので、何を要求されていて、何をやるのか、それがちゃんと分かって入った方がより効果的です。
  一般的には、内観研修所という所に日曜に入って日曜に出るという感じで1週間入ります。母親、父親から始まって、第一にお世話になったこと、第二にお返ししたこと、第三に自分が迷惑をかけたこと、この三つの点に絞りこんで一番古い記憶から自分の過去を総点検していきます。
  このやり方で、これまでの親子関係は間違った認識によって一方的に決めつけてきたのではないかという、そういう根底からの反省が心に起き得るのです。それがうまくいくと、連動してそれに沿った波動が出て、以心伝心で鏡のようにこちらと同じ波動に相手も変わるのです。
  つまり分かりやすく言えば、父親が無関心なのは、自分が完全に父親に対して心を閉ざして無関心を決め込んでいるから父親もそうなっているという構造です。瞑想や内観は、それを頭だけの理解ではなく、徹底的にそのへんを修行によって確認して心の底から受け容れていく作業なのです。大丈夫です。人の心は変わります。全てのものは無常に変化していきますので、頑張ってほしいです。(文責:編集部)



(2)

Aさん:4歳と5歳の子どもがいます。瞑想会に参加するためにはどうしても子どもを置いて行かないといけませんし、また瞑想しようと早起きすると子どもも一緒に起きてしまって出来なくなることがあります。

アドバイス:
  子さんに瞑想している姿を見せると良いですよ。

Aさん:うまくいく時もあります。それから、瞑想しているからここで寝なさいとか言って膝の上に乗せることもあります。

アドバイス:
  いや、膝の上では寝せないでください。膝に載せないで、お子さんが来たらサティを入れながら、「今ちょっとお母さん大事なことをしているの。終わったら遊んであげるから・・・」と言うようにすると良いですね。
  このような場合の私の答えはいつも決まっています。親が瞑想している時間というのは明らかに日常のモードとは何かが違っています。小さな子はそのバイブレーションというか雰囲気の違いが一発で分かるものです。最初は「お母ちゃん何やってんの?」とか言って遊びに来たりもしますが、「あ、これは何かちょっと違う」「何かやっているんだ」というように、特別で神聖な時間になっているという雰囲気をすぐに感じるんです。
  そうすると瞑想している時には絶対に邪魔しに来なくなります。そういうけじめはつけた方が良いんですよ。神棚のある家の子はグレないと言うような、冗談みたいなことも言われているほどですから。
  こういうことは世界的に見ても普遍的にあてはまります。つまり、境界を設定するようなある特別な時間、空間での畏怖を教えるということですね。日本で一つの例をあげれば秋田に「なまはげ」があるでしょ。大みそかの夜に鬼の面をかぶって、「悪い子はいねがー」「泣く子はいねがー」と家々をめぐる民俗行事です。これは悪を懲らしめると同時に吉をもたらす意味があると言われているのですが、それはともかく、子どもはとても怖がるじゃないですか。ああしたことはとても大事なんですよ。
  同じようなシステムは、世界のどんな民族でも長い歴史の中で多かれ少なかれ必ず持ってきました。そういうシステムの中では子どもは暴走しません。家庭内暴力で歯止めが利かないとか、手が付けられない、グレてどうしようも無いというような育ち方はしません。やはりこの世には本当に畏怖するものがあるんだという感覚を小さい頃に教えておくわけです。
  ですから、たとえ私たちみたいな普通の凡夫の親であっても、瞑想している時だけは何か神聖な畏れ多い、ちょっと近寄りがたいような雰囲気は子どもに教えておいたほうが絶対に良いですね。いずれ大人になって、人生のことで悩んだりした時には必ずそれを思い出しますから。
  「自分が子どもだった時、何か分からないけど親が普通の日常の時と明らかに違う意識状態に入っていた。あれは何だったんだろう」と言うように。そうすると、そのことから瞑想などに必然的にアクセス出来ていくという、とても良い刷り込みになっているわけです。
  つまり、瞑想の時にはけじめをつけましょうということです。そうすると、膝の上で寝かせて瞑想するのは「ない」ということです。それは日常の働きと神聖な時間とをゴッチャにするような話ですから。人を説得しようとする時、あるいは理解してもらおうとする時には、どなたでもきちんと説明するように心掛けるでしょう。これは子どもに対しても同じです。たとえ言葉は幼児語であっても、その姿勢は変わりません。瞑想は瞑想としてお子さんに堂々と毎日その姿を見せながら実践してください。子どもが小さくてもそうして夫婦で瞑想しているカップルが結構おられます。必ず分かりますよ。 

Bさん:いま言われた「なまはげ」の例に関連しての質問ですが、畏怖というか「絶対に怖いものがある」と教えるつもりで、「なまはげ」的なものを家庭でもやれるでしょうか。

アドバイス:

  なぜ「なまはげ」のような民俗があるのかというと、家庭では出来ないからです。いろいろな文化での習俗を見てもそれは同じで、家という閉じた単位で行われるわけではありません。外部からとても怖いお面かぶったものがワーっと出てくる。そうすると、子どもが泣き叫んで父親や母親の胸に抱きついて守ってもらおうとする。そこは役割を分担しているわけです。
  どこかにそういう怖い、越えがたい存在があるという、それは畏怖として改めて教えるべきであって、家の中で父親や母親が「なまはげ」に似たことをするというのでは筋が違うわけです。

Cさん:私は瞑想を始めてからそれほど長くはありませんが、少し心は落ち着いてきて、世の中のこともわりと客観的に観られるようになった気がします。でも、まだ子どもを見ていると、今まさに欲を作っているただ中で、欲の塊のように見えてきて、そんな時には感情的になったりイライラしたり、叱る時に逆上してしまうようなこともあります。そういうのもやはりこの瞑想で何とか解決されていくものなのでしょうか。

アドバイス:
  怒りについては『瞑想クイックマニュアル』という本でまとめて書いてありますので、よろしかったらぜひお読みになってください。
  子どもを叱るというのは、本来は教育や躾のためにするわけですね。これから立派な人間になっていくために教えるべきことを教えるという、いわば大切なメッセージを伝える重要な行為であるわけです。ところがその時に怒りを伴っていると、そのメッセージは伝わっていきません。
  なぜなら、子どもは怒られた瞬間にはもう反射的に耳を塞ぐか、表面では聞いているようでも心の扉はしっかりと閉めているというように、防衛体制を取りますから。ですから、怒りを伴ってしまうと肝心なことは伝わらないのです。
  そうではなく、教育や躾などは落ち着いて、冷静さをもって、しかも力強くメッセージを伝えるべきなのです。たとえ声が大きかったとしても、そこに怒りが入っているかどうかはどんな小さい子でもすぐにわかります。声が大きいということと怒りをぶつけられたということとは全く別ですから。
  大人であっても、自分に向かって怒りがぶつけられているかどうか、それが分からなかったら生きていくのが難しいでしょう。何かに出会った時、相手の怒りを感じたら瞬間的に防いだり逃げたりする、あるいは逆に攻撃したりというような反射的行動を取らなければ生存が脅かされることになります。それはもちろん人間にかぎりません。生命は命を守るために怒りの波長を検出する速度が本能的にとても速くなっているのです。
  これは心理学的な実験ですでに報告されています。例えば、50人くらいの顔写真を並べておいて、中に 1枚だけ怒りの顔を入れておきます。そうすると、その怒りの顔を見つけるスピードはとても速いのです。反対に、喜んだ顔を見つけるのは遅い。つまり、怒りはすぐに相手に伝わり、相手もまたすぐにそれを察知する、そしてその逆もまたありと言うことです。
  ですから、怒りを抱きながら子どもに対して教育や躾をしようとすると、子どもには怒られた印象しか残らないという結果になりかねません。そして反射的に身をすくめて聞き流すだけ、心は閉じてしまって知らず知らずに反発する心が溜まっていくという、かえって逆効果になってしまいます。
  さらに言えば、怒りというのは最終的に人を支配するための感情だとも説明されています。つまり、言うこと聞かない時に強制的に言うことを聞かせる、その手段として最後に使う切り札のようなものですね。そこから考えても、そんな最後の手段をしょっちゅう使うのは良くないでしょう。
  そんなやり方とは全く次元が違う、しかも効果が絶大なのは慈悲の瞑想です。この瞑想会では最後にやりますからそれをしっかりと身に付けて、子どもに大事なことを伝えたい時、あるいは言うことを聞かなかったりした時に、ぜひ子どもの名前を入れて心からやってみてください。
  例をあげれば、夫婦喧嘩をして言い合いになりそうな時、相手の怒った声を聞きながら目の前で旦那さんや奥さんの名前を入れて慈悲の瞑想をやってしまうのです。そうするとたちまち大人しくなります(笑)。
  大人でもそうなのですから、子どものほうがより純粋なだけ驚くほどの結果が得られるはずです。
  慈悲の瞑想の働きについては多くの人が検証し、膨大な実例があります。先生が生徒に対して、家族が家族に対して、職場で同僚に対して、怒りモードで荒れ狂ってる時に相手の顔を見ながら「うんうん」と頷きつつも心の中で慈悲の瞑想をすると、本当にたちどころに怒りモードがなくなってしまうというレポートは枚挙にいとまが無いほどです。是非実践してみてください。

 Dさん:父親に対する感情の問題で1DAY合宿の面接でご指導を受け、実践しています。まだ「大好き」とまではなりませんが、だんだんニュートラルな状態になってきました。そうすると、日常生活でも焦燥感とか焦りのようなものもだんだん治まってきていたんです。
  ところが、先日職場の人からきついことを言われてとても傷ついてしまい、それから瞑想していてもサティもうまく入らなくなったりとか、またモヤモヤと不安定な気持ちが沸きあがってきます。

アドバイス:
  幼少期の経験というのは、成人になってからのものとは違って、かなり深く入っていると言えます。ですから、終わったかなと思っても、そうではなくてまた蒸し返して出てくるケースが多いのです。そこでその都度やり直しをする。そういうことを何度も繰り返さないと完全に終わりにはできないという根深さがあります。「三つ子の魂百まで」と言いますが、3歳ぐらいを中心とした数年間の刷り込みというのは実に頑固なのです。
  もちろん、瞑想の合宿中に完全にスパッと終わったようなケースもあります。男の方で、幼いころ生まれて初めて紙パックのジュースを飲もうとした時のことだったそうです。それを口につけて飲もうとしたら、いきなり後ろから父親に、「みっともないことするな!」と怒鳴られた。それは「コップに入れて飲め」という意味だったらしいのですけれど、紙パックに入っているジュースを初めて楽しそうに飲もうとしたら、いきなりガーンと背後からものすごい恐怖がやってきたという経験をしたということになってしまいました。そうしたら、それがずーっと尾を引いていて、いろいろな所で恐怖とか不安という心の現象を引き起こしていたらしい。
  でもそのような現象の要因は自分では長い間わからなかった。それが合宿中にその幼いころの出来事にたどりついた。そしてそれを完全に自覚した時に、「今までトラウマになっていた恐怖や不安がバーンと終わりました」というように、劇的にしかも完璧に解放されたのです。このような形で問題が解けてしまうと、もうぶり返すことはありません。
  しかし先ほども言いましたように、幼児期の刷り込みはとても頑固ですし、人それぞれ経験はみな違っています。ですから、劇的にドーンと終わる場合もあれば78割で道半ばだったりとか、それはさまざまなケースがあるわけです。
  ですから、最終的に解けていなければやはり何かの折にぶり返してきたりはするでしょうが、たとえそうであっても、それはそういうものだと受け止めて、出てきたときにはもう一度やり直そうという感じでやっていけば、必ず終わりになる時が来ます。頑張ってやっていきましょう。(文責:編集部)

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