月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

人間関係をめぐって(1)(2)

 人間関係に関する悩みは、体験されない方はほとんどいないでしょう。ヴィパッサナーの視点からこれをどう捉えるのが良いのか、これまでのインタビューの中から関連するものを取り上げました。


(1)

Aさん:あまりに非常識な人間を相手にした時、あるいはそのような相手から同意や行動を強要された時にはどうすればよいでしょうか。

アドバイス:
  そのような人を相手にしたくないと感じるのは、心と体が防衛反応を起こしているのです。どうしても相手との接触が避けられない場合には、智慧を使わなければなりません。ケースによって対応は異なるでしょうが、いずれにしても、頭を使って喧嘩を避けるようにする以外にはないでしょう。
  私たちは仏教徒ですから、五戒を守るという方針は定まっています。どう強要されようと絶対に悪はしない、巻き込まれない、興奮という反応を起こさないという確固としたものを持っているはずです。
  そのうえで、慈悲の瞑想などいろいろ力を尽くしているにもかかわらず非常識をやめてくれそうになければ、その時は仕方がないので研究モードでいくしかありません。つまり発想を転換するのです。視点を変えて、「人はここまでエゴイステックになれるんだ」とか、「この人はこんなふうに人を傷つけるんだ」というような観察モードに入れば、とりあえずこちらのストレスになることは避けられます。
  要するに、人が非常識な言動をする実態調査というか、具体例としてサンプルを見せてくれているからよく記録しておこうぐらいの意識です。今の私には人間というものの勉強が必要なのだと考えるのです。こちらの意識が観察モードであれば、心を汚さないような良い智慧がひらめくものです。

Bさん:こちらが真剣に助言を求めたにもかかわらず、その言葉がいい加減だというふうに受け取られたらしくてきわめてぞんざいな対応をされ、納得がいかず憤りを感じました。これはどう解釈したら良いのでしょうか。

アドバイス:
  先ず、嫌なことが起きた時には、それに相当する何らかの原因を組み込んでしまっていたのだという理解は自動的になされなくてはなりません。
  もしかして、誰かからアドバイスを求められたような時、いつでも真剣にアドバイス:をしてきたでしょうか。こちらの気分でおざなりな対応をしたこともゼロとは言い切れないでしょう。やはり何かそういうことが過去にあったため、今度は自分が「苦受」を味わっているのです。「いい加減に軽くあしらわれた」という苦受を味わったら、考え方としては、自分も人のことをいい加減に軽くあしらうようなことはしていなかっただろうかと反省をすることです。
  そして、その時の嫌な思いを学びの糧にするのです。「信頼してアドバイスを求めたのにいい加減な扱いをされたらどういう気持ちがするか。私は今後絶対にそれはしない」という決意です。
  また反対に、誰かが親身になって心配してくれる、そこまでと言うほど相談に乗ってくれたり世話をしてくれることも起き得ます。もし、そういうことが起きたら、基本的には因果応報なので、「自分が今世か過去世で同じように人に対して親身にやってきたその結果がいま出たんだな」と考えるのです。ですから、良いことであれば感謝だし、良くないことが起きた時には、これから何を直すべきかをその現象によって教えられていると受け止めます。
  どういうカルマがあってそうなったのか、本当のところは分かりません。でも、起きたことは絵解きが出来ていないだけで、因果のエネルギーの転変ですから、苦受を味わったならそれは不善業の結果だし、楽受を受けたら善業の結果がその時に現象化したという理解です。
  問題は反応です。自分の過去の誤った行為がこういう形で今現象化している、どうすれば良いのかはその現象自体が教えてくれています。それなのに「怒る」「恨む」と反応するのは適切ではありません。人にどう接するべきか、アドバイスを求められたらどうすべきかをその方に教えていただいている、その方も、自己のカルマを悪くしながら尊い教えを示してくれているのです。そう思えば、その学びだけを受け取って「本当にありがたいことだ」とその人に感謝する気持ちも自然に出てくるのではないでしょうか。
  要するに、どんなやり方であっても出力を善くしない限り、現象世界というのは駄目なのです。怒るに足る正統な理由がどれだけあっても、そこで怒れば「怒り」という不善業を出力して、自分のカルマを悪くするだけです。だから、どうしても逆転の発想、超プラス思考が大切なのです。「悪いカルマを消してくれてありがとう」くらいの発想をして心を明るくしていけば、当然そういうエネルギーが出力され、必然的にいい結果につながってくるということです。

Cさん:とてもうるさい人がいて、こまっています。

アドバイス:
  偶然ではないと思います。これは怒りの初期状態で、聞いた、うるさい、と、反応としては嫌う心が出ています。
  不思議なことに、嫌だと思って掴んで対抗している間は、自分の業のエネルギーが発揮されているので、そういった現象は続くものです。
  鳥は鳥で囀りながら勝手に生きているのに私たちは干渉できません。そういう認識があれば、対象を嫌うという反応は起こらないでしょう。これは自然の営みなのだとして現象を受け入れれば、うるさいという状態は変わらなくても、心は静かになります。
  それに、「もういいです。私、この人と一生つきあいます」というような気持ちになると、見送って終わったようなものですから、不思議な暗合ですが現象自体も終わってしまうことが多いのです。嫌なことでも受け入れが出来ればその現象はなくなる可能性が高い、そう頭に入れておくことは反応系の対処法として理に叶っています。

Dさん:仲良くしてきた友人がなぜか突然離れていってしまいました。集団の中で会うことがあっても心にロックがかかったような状態で修復できません。何とかサティを入れて「しんどい」とか「無理している」とか観察は出来るのですが、改善されません。どう向き合えば宜しいのでしょうか。

アドバイス:
  個々の状況によってはなかなか難しいこともあるかも知れませんが、先ず普通に考えられることは、そういう現象がなぜ起きたのかという要因を探ることでしょう。
  自分に非があったり何か思い当たることがあれば、やはり率直に謝った方が宜しいです。自分のなにげない言葉が人を傷つけてしまったことも無いとは言えません。そうであれば、これからも同じことを繰り返してしまう可能性がありますから、誤りは改めていきます。すでに気づいているわけですから、素直な気持になればさほど難しいことではないと思われます。
  また、いろいろ探ってみたら全くの誤解だったということもあるでしょう。些細なこと、あるいは全く思いもよらなかったことでこじれることがあるかも知れません。もしそういうことが明らかになったら、これも率直に話してみることです。それが相手に通じたら、すべてが分かった時点で今までのこだわりは氷解するはずです。
  しかし、相手が全く聞く耳を持たない、あるいは直接的にも間接的にも原因を全く掴めない、丁寧に慈悲の瞑想をしてもそれでも改善に向かわない等々、何をどうやってもダメなこともあります。そのような場合に、こちらが今現れている関係にこだわっている限り、その先は推測を重ねていくようになるでしょう。それでは妄想の世界になってしまいます。
  ここで視点を変えてみましょう。
  このヴィパッサナー瞑想は、あるがままの事実をあくまでも客観的に観ていこうということですから、そこから今の自分の状態を観察してみるとどうなのかということです。その結果、もし当面の相手だけではなく、私は誰ともうまくやれないとか、いつも同じパターンでことごとく人間関係が壊れてしまうというようなことであれば、問題はかなり深刻です。かなり由々しい状態となっているわけで、それは何としても一番で直さなければなりません。
  ですが、その相手の方は別として、概ね他の人たちとはうまくやれているのなら、あまり気にしなくて良いでしょう。ブッダも「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙しているものも非難され、多く語るものも非難され、すこし語るものも非難される。世に非難されないものはいない」「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない」(中村元訳『真理の言葉・感興の言葉』岩波書、1996)と言われています。だいたいのことは「捨て置け」というひと言で済んでしまうものです。
  つまり、「縁あれば来たり縁尽きればすなわち去る」という言葉があるように、やはりこの世は縁ですから。すべての現象はどうしようもない因果と無常性で展開しています。何にもしないのに勝手に始まり勝手に終わる、なるようになっていくものです。人と人との関係も全く同じ、因縁によって生じ滅しを繰り返しているのです。ある時ある場所で出会い、互いにするべきことを為して、因縁が尽きればやはり自然に離れていく、終わっていくということです。
  思い出してください。小学校、中学校、幼なじみとか親友、親類の人たち等々、遠近はいろいろありますが、喧嘩したわけでもないのに全く会わなくなっている人がたくさんいます。これは自分の努力ではどうにもなりません。そういうものです。冷静に観察して、これは縁が終わっているなと思ったらもう執着しないことです。
  ただ、「幸せになって欲しい」という気持ちで慈悲の瞑想をしてください。そのような時には、何とか関係を修復したいというような力みもない、執着のないピュアーな慈悲の瞑想になりますから、かえって思いの外の結果がもたらされたりするものです。ただそれを期待してはダメですが。
  付け加えるとすれば、もし似たようなことが繰り返されるような場合、それは過去に原因がありそれが傷となって影響していることが考えられます。そうすると、いつまでも同じパターンが続いてしまいますから、その時には、内観などの方法でその原因を完全に自覚にのぼらせ、受容してその傷を修復していくことが必要になります。(文責:編集部 )

Eさん:人間関係のことで友人に相談したら、「あなたは人を見下すところがある」と言われてしまいました。思いもよらなかったことなのでとても衝撃を受け、「人を見下しているかどうかという観点で気をつけて観ていこう」と心に決めました。そうしたら、すれ違う人にも「うっ」と違和感がわき上がって、「あ、見下した」とサティが入るようになり、すぐにニュートラルに戻してスッと切り捨てられるようになりました。
  自分がこれまで人に好かれたり嫌われたりがとても激しかったのは、人を尊敬したり見下したりがひどくて、すぐに上か下かに分けていたためではないかと分かりました。それが相当自分を疲れさせていたという感じがしています。友人の指摘に驚いてそこに注目していったら、人間関係のかなりの部分が楽で穏やかな感じになりました。

アドバイス:
  素晴らしいですね。今の話からは二つのことが言えます。
  先ず、テーマを絞って厳しくヴィパッサナーに取り組んだこと。一瞬でも心の中に相手を見下すような動きがあるかどうか、そこだけを厳密に検証していこうとしたことです。
  現象すべてにサティを入れようとすると、あまりに散らばりすぎて結局は出来なくなってしまいます。
  このように、他への心の向きをいわば放棄してテーマを絞るということをすると、課題へのサティは入りやすくなります。例えば、今日1日嫌悪感がどのくらい出るか数えてみようとやってみると、普段気づかなかったことまでカウントされ、それは膨大な数になるはずです。
  ですから、人に指摘されるまでもなく、「ひょっとしたらこのあたりに何かあるかもしれない」と思った時には、何かテーマを設定してやると、普段は気づくこともない微かなレベルで起きていることにも気づけるようになるのです。これは心の随観としても良い修行になります。また、そういう心が起きているということは何か根っこがあるわけですから、それに自覚的になるということは、心を清らかにしていくという方向でもたいへん有力な修行のやり方です。
  それから、見下すのは結局「慢」(māna:マーナ)という煩悩で、人と比べることから起こります。この慢という煩悩は、人間だけではなく動物にもあります。オオカミなど順位のある動物には必ず上下関係がありますし、キツネなどもプライドが高く、それは「他と比べて」というメンタル要素の働きです。動物たちにとっても慢は本当に根本的な煩悩です。
  ですから、「そんなのが私にあったの?」と思っても、あるに決まっています、絶対に。慢のない人などいません。預流果になっても慢は残る。一来果になっても残る。不還果でも慢は消えない。阿羅漢にならない限り慢は消えないのです。そのくらい根本的な煩悩ですから、もしそれに無自覚でいれば、心の中では不善心所モードを知らないうちに続行して、結果的にはそのために疲れてしまうことが多いということです。
  さらにもう一歩踏み込んで、どういうタイプの人に起きているかに焦点を絞って見ていくとどうですか?

Eさん:はい、ある傾向が幾つかありました。それも自分のコンプレックスと関係があることに気づきました。

アドバイス:
  そうです。見下すというのは必ず自分のコンプレックスの裏返しなのです。
  このように、心の随観の特別バージョンのような感じでテーマを設定して徹底して観ていくと、無自覚だったコンプレックスや抑圧していたものが浮上してきて、はっきりと客観視できる方向になります。
  またこのやり方は、限定された合宿よりも、普段の生活の中で行う方が相応しいでしょう。そうすると通行人に対してとか、仕事上で会う人とか、かなりのことができて、結果的に自分の心の重荷を肩から下ろせます。まさに、在家者がヴィパッサナーをやる意味がそこにあります。
  合宿で特訓的に瞑想に打ち込むことも素晴らしいですが、合宿に入らなければ修行ができないかというと、そんなことはなくて、そういう心の随観的な部分は日常生活で十分やれます。その友人の言葉が菩薩の一言みたいな感じになって、またそれを受け止める条件もあったと言うことですね。ぜひその線で頑張ってください。

Fさん:会社の人間関係で執着や恨みが出てくることがあります。ヴィパッサナー瞑想でそういうことから解放されることが期待できるのでしょうか。

 アドバイス:
  
「あいつにこんなことをやられた」というように恨みの心がよみがえってくるのは、まさに過ぎ去った過去の記憶、イメージに執着しているからです。しかし、冷静に考えてみると、その人が今も昔も同じだという証しは無いわけです。
  私たちの妄想の中では、悪いことをしたあの人間はずっと同じ状態だというイメージが出来上がっていますが、人の心は変わるものです。過ぎ去ったことを今に投影すること自体、現実をありのままに観ずに妄想によって情報を歪めているということですから、その妄想を止めなければなりません。
  苦を発生させる原因は嫌悪、貪り、高慢、嫉妬などの「不善心所」と言われる貪瞋痴の煩悩です。煩悩は妄想とも言い換えられ、それを捨てない限り苦は消えません。
  ですから、過ぎ去ったことは水に流して捨ててしまった方が良いのです。とにかく妄想しないこと、あるいは積極的に善の方向に発想の転換をして相手の美点だけを観ていく、そのあたりは心をきれいにしていくための現場では、確実に要求されることです。もちろん、ヴィパッサナーの訓練でそのように変わっていきますから大丈夫です。心配ありません。

Gさん:会社でも慈悲の瞑想をしています。ですが、会社に1人だけ、20歳ぐらい年下の人で、私にちょっと敵愾心を持っている人がいます。私はその人の仕事が終わらない時に手伝ったり、敬語を使ったりして、あえて慈悲モードで接しています。ただ、しばらくして心を観ると、いつの間にか慈悲ではなく慢(māna:マーナ)の心になってしまっています。 (再録『月刊サティ!』2008/3

アドバイス:
  弱者や苦しんでいる人に対して「かわいそうだな」と憐れむカルナの瞑想が難しいのは、どうしてもこちら側に「優越」「見下す」というようなものが微妙に混入しがちだからです。わずかでも慢が入ってしまえば、ピュアな慈悲の瞑想はできません。
  丁寧、精細、緻密に観なければ、憐れみの瞑想をしているようでも、実は見下して自分のプライドを満足させることになってしまいます。特に自分の中に劣等感、コンプレックスがあればあるほどこの要素は強まります。ですから、慢の心が起きる背景には自らの劣等意識に対する鈍感さ、それが良く観えていないということがあるのです。

Gさん:特に不善心所に入っているその人が、過去の若いころの自分と似ているのです。

アドバイス:
  それはよくあるパターンです。似ていると、自分の心の内面の独り相撲的なものが投影されてしまいます。恥ずかしながらやってきてしまった過去は誰にでもあります。それに対して「受け入れられない」「拒否したい」というのがあれば、どうしてもそれを抑圧しますので、相手に対してもそのようになりがちなのです。
  ダンマの世界から観たなら、お粗末で情けなく、エゴ的で恥の大きな人生をみんな生きてきています。それをありのままに承認できる潔さがあれば、はっきりそれを対象として乗り越えていくターゲットにできるわけです。ところが、そこから巧妙に目を背けて、自分にはそういうものが無いかのように思う心でいたら、それをどうやって乗り越えるのでしょうか。自覚しなければターゲットにはなり得ません。
  ですから、ありのままに認めたくはないけれども、不善心所の自分を承認する潔さがなければその先には進めません。
  そこのところがしっかりと腹に入ってくれば、抑圧は減っていきます。相手の人から見れば、過去の自分を嫌うような形でその抑圧を投影されているのですからいい迷惑です。またそういった微妙な波動がこちらから出ているので、「何となく虫が好かない」というように、どこかで察知して分かってしまうのです。
  そこが乗り越えられて、本当にピュアな慈悲の瞑想ができると、その瞬間もう何かが起きたように変わるものです。慈悲の瞑想にはそれほどすごい力がありますから、ぜひそこを目標にしてください。

Hさん:私の知人に自我とか先入観が強い人がいます。例えば、脳梗塞になっているのにたばこを吸っていたり、本人のやり方で押し通した結果失敗しても決して非を認めないので、いろいろなことがうまくいかないような人です。そういう人にアドバイスするための一言があれば教えてください。

アドバイス:
  思い込みが強いのはけっこう生得的な要因もありますから、普通には本人が痛い思いをして深く自覚しなければ難しいと思います。情報処理と反応の仕方が完全にパターン化されて生きているわけですから、かなりサティの技術的なことでもしない限り、簡単には変わらないでしょう。それに、たとえ本人が気づいたとしても変わるのは大変でしょうし、まして、本人が変えようと思っていないのをこちらから変えさせるのはかなり困難に思います。
  私たちは何かに失敗した時に、それをやりっ放しにしたり責任を誰かになすりつけたりしないで、原因を徹底的に考察すればかなり多くのことが学べますし、次のステップにつながります。ですから、もし相手にそういうことが起きた時に、「次の成功につながる」とか、「ここで敗因の研究をしておけば絶対にレベルアップする」などの言葉で、うまくいかなかった原因に本人が自分から目を向けるような、発想の転換ができるような方向のアドバイスは有効かもしれません。
  いずれにしても本人の自覚がない限り、外側から変えることは出来ないと思います。結局本人の自覚をいかに促すかにかかるでしょう。

Iさん:いつでもアラ探しと文句ばかりの職場の人に悩んでいます。その人の嫌悪や怒りの波動を感じると、どうしてもムカつくのを抑えきれないのです。「イライラしている」とサティを入れてみましたが、ただ言葉をつぶやいているだけという感じでなんの効き目もありません。 (再録『月刊サティ!』 2002/7

アドバイス:
  どんな現象もサティを入れた瞬間にブツリと立ち消えになって終りになります。サティには、その一瞬の経験をすべて対象化してしまう機能があるので、後続が断たれてしまうからです。
  しかしそのときの対象に執着があり、掴んでいれば、この対象化作用がうまく機能しません。サティがうまくいかなかった揚合の対応策を考えてみましょう。
  ひと言で言うと、反応系の心のプログラムをちょっと変えるのです。発想の転換です。不満を持つ人は、何を見ようが聞こうが不満なのです。心にいったん嫌悪や怒りの心所が起ち上がってしまえば、すべてが怒りの色でしか見えません。しかしもう一歩踏み込んで洞察すれば、なぜその人が怒りや嫌悪に支配されているのかが見えてくるものです。妬み心、家庭不和の八つ当たり、コンプレックスの裏返し、我執が強すぎる、幼少期から常に不満足感を強いられた環境要因・・・等々。諸々の因果関係の必然的結果として、怒りの心が生じてきます。
  悟った人に怒りが生起しないのは、一つには常にものごとの因果関係が観えているからです。ものごとの消息が判然と見て取れると「悲(karuņā:カルナー)」の心が起動します。
  今自分の目の前には、嫌悪と不平不満で怒りのエネルギーを出し続けている可哀想な人がいるのです。やがて自分自身の未来にドゥッカ(dukkha:苦)を生起させようと頑張っているとは、なんとも気の毒な悲しい現実です。
  そのように達観するなら、こちらの心にはもはや怒りはなく、静かに「悲」の瞑想をしてあげることができるでしょう。怒りが残存しているか否かのチェックは、相手を心から受け容れているかどうかで分かります。やっぱりちょっとイヤだな、という気持ちがあれば、かすかに怒りが残っています。
  私たちがヴィパッサナー瞑想に着手した時から、怒りはもちろん、すべての煩悩を根絶やしにするゴールに向かって歩み出しているのです。断固として貪・瞋・痴をなくそうと意欲するので、わずかでも実現し始めるのではないでしょうか。出来る、出来ない、ではなく、いつの日か心の清浄道を完成させたいと目指していくことが大事です。(文責:編集部)

(2)

Eさん:人間関係のことで友人に相談したら、「あなたは人を見下すところがある」と言われてしまいました。思いもよらなかったことなのでとても衝撃を受け、「人を見下しているかどうかという観点で気をつけて観ていこう」と心に決めました。そうしたら、すれ違う人にも「うっ」と違和感がわき上がって、「あ、見下した」とサティが入るようになり、すぐにニュートラルに戻してスッと切り捨てられるようになりました。
  自分がこれまで人に好かれたり嫌われたりがとても激しかったのは、人を尊敬したり見下したりがひどくて、すぐに上か下かに分けていたためではないかと分かりました。それが相当自分を疲れさせていたという感じがしています。友人の指摘に驚いてそこに注目していったら、人間関係のかなりの部分が楽で穏やかな感じになりました。

アドバイス:
  素晴らしいですね。今の話からは二つのことが言えます。
  先ず、テーマを絞って厳しくヴィパッサナーに取り組んだこと。一瞬でも心の中に相手を見下すような動きがあるかどうか、そこだけを厳密に検証していこうとしたことです。
  現象すべてにサティを入れようとすると、あまりに散らばりすぎて結局は出来なくなってしまいます。
  このように、他への心の向きをいわば放棄してテーマを絞るということをすると、課題へのサティは入りやすくなります。例えば、今日1日嫌悪感がどのくらい出るか数えてみようとやってみると、普段気づかなかったことまでカウントされ、それは膨大な数になるはずです。
  ですから、人に指摘されるまでもなく、「ひょっとしたらこのあたりに何かあるかもしれない」と思った時には、何かテーマを設定してやると、普段は気づくこともない微かなレベルで起きていることにも気づけるようになるのです。これは心の随観としても良い修行になります。また、そういう心が起きているということは何か根っこがあるわけですから、それに自覚的になるということは、心を清らかにしていくという方向でもたいへん有力な修行のやり方です。
  それから、見下すのは結局「慢」(māna:マーナ)という煩悩で、人と比べることから起こります。この慢という煩悩は、人間だけではなく動物にもあります。オオカミなど順位のある動物には必ず上下関係がありますし、キツネなどもプライドが高く、それは「他と比べて」というメンタル要素の働きです。動物たちにとっても慢は本当に根本的な煩悩です。
  ですから、「そんなのが私にあったの?」と思っても、あるに決まっています、絶対に。慢のない人などいません。預流果になっても慢は残る。一来果になっても残る。不還果でも慢は消えない。阿羅漢にならない限り慢は消えないのです。そのくらい根本的な煩悩ですから、もしそれに無自覚でいれば、心の中では不善心所モードを知らないうちに続行して、結果的にはそのために疲れてしまうことが多いということです。
  さらにもう一歩踏み込んで、どういうタイプの人に起きているかに焦点を絞って見ていくとどうですか?

Eさん:はい、ある傾向が幾つかありました。それも自分のコンプレックスと関係があることに気づきました。

アドバイス:
  そうです。見下すというのは必ず自分のコンプレックスの裏返しなのです。
  このように、心の随観の特別バージョンのような感じでテーマを設定して徹底して観ていくと、無自覚だったコンプレックスや抑圧していたものが浮上してきて、はっきりと客観視できる方向になります。
  またこのやり方は、限定された合宿よりも、普段の生活の中で行う方が相応しいでしょう。そうすると通行人に対してとか、仕事上で会う人とか、かなりのことができて、結果的に自分の心の重荷を肩から下ろせます。まさに、在家者がヴィパッサナーをやる意味がそこにあります。
  合宿で特訓的に瞑想に打ち込むことも素晴らしいですが、合宿に入らなければ修行ができないかというと、そんなことはなくて、そういう心の随観的な部分は日常生活で十分やれます。その友人の言葉が菩薩の一言みたいな感じになって、またそれを受け止める条件もあったと言うことですね。ぜひその線で頑張ってください。

Fさん:会社の人間関係で執着や恨みが出てくることがあります。ヴィパッサナー瞑想でそういうことから解放されることが期待できるのでしょうか。

 アドバイス:
  
「あいつにこんなことをやられた」というように恨みの心がよみがえってくるのは、まさに過ぎ去った過去の記憶、イメージに執着しているからです。しかし、冷静に考えてみると、その人が今も昔も同じだという証しは無いわけです。
  私たちの妄想の中では、悪いことをしたあの人間はずっと同じ状態だというイメージが出来上がっていますが、人の心は変わるものです。過ぎ去ったことを今に投影すること自体、現実をありのままに観ずに妄想によって情報を歪めているということですから、その妄想を止めなければなりません。
  苦を発生させる原因は嫌悪、貪り、高慢、嫉妬などの「不善心所」と言われる貪瞋痴の煩悩です。煩悩は妄想とも言い換えられ、それを捨てない限り苦は消えません。
  ですから、過ぎ去ったことは水に流して捨ててしまった方が良いのです。とにかく妄想しないこと、あるいは積極的に善の方向に発想の転換をして相手の美点だけを観ていく、そのあたりは心をきれいにしていくための現場では、確実に要求されることです。もちろん、ヴィパッサナーの訓練でそのように変わっていきますから大丈夫です。心配ありません。

Gさん:会社でも慈悲の瞑想をしています。ですが、会社に1人だけ、20歳ぐらい年下の人で、私にちょっと敵愾心を持っている人がいます。私はその人の仕事が終わらない時に手伝ったり、敬語を使ったりして、あえて慈悲モードで接しています。ただ、しばらくして心を観ると、いつの間にか慈悲ではなく慢(māna:マーナ)の心になってしまっています。 (再録『月刊サティ!』2008/3

アドバイス:
  弱者や苦しんでいる人に対して「かわいそうだな」と憐れむカルナの瞑想が難しいのは、どうしてもこちら側に「優越」「見下す」というようなものが微妙に混入しがちだからです。わずかでも慢が入ってしまえば、ピュアな慈悲の瞑想はできません。
  丁寧、精細、緻密に観なければ、憐れみの瞑想をしているようでも、実は見下して自分のプライドを満足させることになってしまいます。特に自分の中に劣等感、コンプレックスがあればあるほどこの要素は強まります。ですから、慢の心が起きる背景には自らの劣等意識に対する鈍感さ、それが良く観えていないということがあるのです。

Gさん:特に不善心所に入っているその人が、過去の若いころの自分と似ているのです。

アドバイス:
  それはよくあるパターンです。似ていると、自分の心の内面の独り相撲的なものが投影されてしまいます。恥ずかしながらやってきてしまった過去は誰にでもあります。それに対して「受け入れられない」「拒否したい」というのがあれば、どうしてもそれを抑圧しますので、相手に対してもそのようになりがちなのです。
  ダンマの世界から観たなら、お粗末で情けなく、エゴ的で恥の大きな人生をみんな生きてきています。それをありのままに承認できる潔さがあれば、はっきりそれを対象として乗り越えていくターゲットにできるわけです。ところが、そこから巧妙に目を背けて、自分にはそういうものが無いかのように思う心でいたら、それをどうやって乗り越えるのでしょうか。自覚しなければターゲットにはなり得ません。
  ですから、ありのままに認めたくはないけれども、不善心所の自分を承認する潔さがなければその先には進めません。
  そこのところがしっかりと腹に入ってくれば、抑圧は減っていきます。相手の人から見れば、過去の自分を嫌うような形でその抑圧を投影されているのですからいい迷惑です。またそういった微妙な波動がこちらから出ているので、「何となく虫が好かない」というように、どこかで察知して分かってしまうのです。
  そこが乗り越えられて、本当にピュアな慈悲の瞑想ができると、その瞬間もう何かが起きたように変わるものです。慈悲の瞑想にはそれほどすごい力がありますから、ぜひそこを目標にしてください。

Hさん:私の知人に自我とか先入観が強い人がいます。例えば、脳梗塞になっているのにたばこを吸っていたり、本人のやり方で押し通した結果失敗しても決して非を認めないので、いろいろなことがうまくいかないような人です。そういう人にアドバイスするための一言があれば教えてください。

アドバイス:
  思い込みが強いのはけっこう生得的な要因もありますから、普通には本人が痛い思いをして深く自覚しなければ難しいと思います。情報処理と反応の仕方が完全にパターン化されて生きているわけですから、かなりサティの技術的なことでもしない限り、簡単には変わらないでしょう。それに、たとえ本人が気づいたとしても変わるのは大変でしょうし、まして、本人が変えようと思っていないのをこちらから変えさせるのはかなり困難に思います。
  私たちは何かに失敗した時に、それをやりっ放しにしたり責任を誰かになすりつけたりしないで、原因を徹底的に考察すればかなり多くのことが学べますし、次のステップにつながります。ですから、もし相手にそういうことが起きた時に、「次の成功につながる」とか、「ここで敗因の研究をしておけば絶対にレベルアップする」などの言葉で、うまくいかなかった原因に本人が自分から目を向けるような、発想の転換ができるような方向のアドバイスは有効かもしれません。
  いずれにしても本人の自覚がない限り、外側から変えることは出来ないと思います。結局本人の自覚をいかに促すかにかかるでしょう。

Iさん:いつでもアラ探しと文句ばかりの職場の人に悩んでいます。その人の嫌悪や怒りの波動を感じると、どうしてもムカつくのを抑えきれないのです。「イライラしている」とサティを入れてみましたが、ただ言葉をつぶやいているだけという感じでなんの効き目もありません。 (再録『月刊サティ!』 2002/7

アドバイス:
  どんな現象もサティを入れた瞬間にブツリと立ち消えになって終りになります。サティには、その一瞬の経験をすべて対象化してしまう機能があるので、後続が断たれてしまうからです。
  しかしそのときの対象に執着があり、掴んでいれば、この対象化作用がうまく機能しません。サティがうまくいかなかった揚合の対応策を考えてみましょう。
  ひと言で言うと、反応系の心のプログラムをちょっと変えるのです。発想の転換です。不満を持つ人は、何を見ようが聞こうが不満なのです。心にいったん嫌悪や怒りの心所が起ち上がってしまえば、すべてが怒りの色でしか見えません。しかしもう一歩踏み込んで洞察すれば、なぜその人が怒りや嫌悪に支配されているのかが見えてくるものです。妬み心、家庭不和の八つ当たり、コンプレックスの裏返し、我執が強すぎる、幼少期から常に不満足感を強いられた環境要因・・・等々。諸々の因果関係の必然的結果として、怒りの心が生じてきます。
  悟った人に怒りが生起しないのは、一つには常にものごとの因果関係が観えているからです。ものごとの消息が判然と見て取れると「悲(karuņā:カルナー)」の心が起動します。
  今自分の目の前には、嫌悪と不平不満で怒りのエネルギーを出し続けている可哀想な人がいるのです。やがて自分自身の未来にドゥッカ(dukkha:苦)を生起させようと頑張っているとは、なんとも気の毒な悲しい現実です。
  そのように達観するなら、こちらの心にはもはや怒りはなく、静かに「悲」の瞑想をしてあげることができるでしょう。怒りが残存しているか否かのチェックは、相手を心から受け容れているかどうかで分かります。やっぱりちょっとイヤだな、という気持ちがあれば、かすかに怒りが残っています。
  私たちがヴィパッサナー瞑想に着手した時から、怒りはもちろん、すべての煩悩を根絶やしにするゴールに向かって歩み出しているのです。断固として貪・瞋・痴をなくそうと意欲するので、わずかでも実現し始めるのではないでしょうか。出来る、出来ない、ではなく、いつの日か心の清浄道を完成させたいと目指していくことが大事です。(文責:編集部)


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