月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

             人間関係をめぐって (1)  (2)  (3)  (4)

人間関係をめぐって(1)

 人間関係に関する悩みは、体験されない方はほとんどいないでしょう。ヴィパッサナーの視点からこれをどう捉えるのが良いのか、これまでのインタビューの中から関連するものを取り上げました。


(1)

Aさん:あまりに非常識な人間を相手にした時、あるいはそのような相手から同意や行動を強要された時にはどうすればよいでしょうか。

アドバイス:
  そのような人を相手にしたくないと感じるのは、心と体が防衛反応を起こしているのです。どうしても相手との接触が避けられない場合には、智慧を使わなければなりません。ケースによって対応は異なるでしょうが、いずれにしても、頭を使って喧嘩を避けるようにする以外にはないでしょう。
  私たちは仏教徒ですから、五戒を守るという方針は定まっています。どう強要されようと絶対に悪はしない、巻き込まれない、興奮という反応を起こさないという確固としたものを持っているはずです。
  そのうえで、慈悲の瞑想などいろいろ力を尽くしているにもかかわらず非常識をやめてくれそうになければ、その時は仕方がないので研究モードでいくしかありません。つまり発想を転換するのです。視点を変えて、「人はここまでエゴイステックになれるんだ」とか、「この人はこんなふうに人を傷つけるんだ」というような観察モードに入れば、とりあえずこちらのストレスになることは避けられます。
  要するに、人が非常識な言動をする実態調査というか、具体例としてサンプルを見せてくれているからよく記録しておこうぐらいの意識です。今の私には人間というものの勉強が必要なのだと考えるのです。こちらの意識が観察モードであれば、心を汚さないような良い智慧がひらめくものです。

Bさん:こちらが真剣に助言を求めたにもかかわらず、その言葉がいい加減だというふうに受け取られたらしくてきわめてぞんざいな対応をされ、納得がいかず憤りを感じました。これはどう解釈したら良いのでしょうか。

アドバイス:
  先ず、嫌なことが起きた時には、それに相当する何らかの原因を組み込んでしまっていたのだという理解は自動的になされなくてはなりません。
  もしかして、誰かからアドバイスを求められたような時、いつでも真剣にアドバイス:をしてきたでしょうか。こちらの気分でおざなりな対応をしたこともゼロとは言い切れないでしょう。やはり何かそういうことが過去にあったため、今度は自分が「苦受」を味わっているのです。「いい加減に軽くあしらわれた」という苦受を味わったら、考え方としては、自分も人のことをいい加減に軽くあしらうようなことはしていなかっただろうかと反省をすることです。
  そして、その時の嫌な思いを学びの糧にするのです。「信頼してアドバイスを求めたのにいい加減な扱いをされたらどういう気持ちがするか。私は今後絶対にそれはしない」という決意です。
  また反対に、誰かが親身になって心配してくれる、そこまでと言うほど相談に乗ってくれたり世話をしてくれることも起き得ます。もし、そういうことが起きたら、基本的には因果応報なので、「自分が今世か過去世で同じように人に対して親身にやってきたその結果がいま出たんだな」と考えるのです。ですから、良いことであれば感謝だし、良くないことが起きた時には、これから何を直すべきかをその現象によって教えられていると受け止めます。
  どういうカルマがあってそうなったのか、本当のところは分かりません。でも、起きたことは絵解きが出来ていないだけで、因果のエネルギーの転変ですから、苦受を味わったならそれは不善業の結果だし、楽受を受けたら善業の結果がその時に現象化したという理解です。
  問題は反応です。自分の過去の誤った行為がこういう形で今現象化している、どうすれば良いのかはその現象自体が教えてくれています。それなのに「怒る」「恨む」と反応するのは適切ではありません。人にどう接するべきか、アドバイスを求められたらどうすべきかをその方に教えていただいている、その方も、自己のカルマを悪くしながら尊い教えを示してくれているのです。そう思えば、その学びだけを受け取って「本当にありがたいことだ」とその人に感謝する気持ちも自然に出てくるのではないでしょうか。
  要するに、どんなやり方であっても出力を善くしない限り、現象世界というのは駄目なのです。怒るに足る正統な理由がどれだけあっても、そこで怒れば「怒り」という不善業を出力して、自分のカルマを悪くするだけです。だから、どうしても逆転の発想、超プラス思考が大切なのです。「悪いカルマを消してくれてありがとう」くらいの発想をして心を明るくしていけば、当然そういうエネルギーが出力され、必然的にいい結果につながってくるということです。

Cさん:とてもうるさい人がいて、こまっています。

アドバイス:
  偶然ではないと思います。これは怒りの初期状態で、聞いた、うるさい、と、反応としては嫌う心が出ています。
  不思議なことに、嫌だと思って掴んで対抗している間は、自分の業のエネルギーが発揮されているので、そういった現象は続くものです。
  鳥は鳥で囀りながら勝手に生きているのに私たちは干渉できません。そういう認識があれば、対象を嫌うという反応は起こらないでしょう。これは自然の営みなのだとして現象を受け入れれば、うるさいという状態は変わらなくても、心は静かになります。
  それに、「もういいです。私、この人と一生つきあいます」というような気持ちになると、見送って終わったようなものですから、不思議な暗合ですが現象自体も終わってしまうことが多いのです。嫌なことでも受け入れが出来ればその現象はなくなる可能性が高い、そう頭に入れておくことは反応系の対処法として理に叶っています。

Dさん:仲良くしてきた友人がなぜか突然離れていってしまいました。集団の中で会うことがあっても心にロックがかかったような状態で修復できません。何とかサティを入れて「しんどい」とか「無理している」とか観察は出来るのですが、改善されません。どう向き合えば宜しいのでしょうか。

アドバイス:
  個々の状況によってはなかなか難しいこともあるかも知れませんが、先ず普通に考えられることは、そういう現象がなぜ起きたのかという要因を探ることでしょう。
  自分に非があったり何か思い当たることがあれば、やはり率直に謝った方が宜しいです。自分のなにげない言葉が人を傷つけてしまったことも無いとは言えません。そうであれば、これからも同じことを繰り返してしまう可能性がありますから、誤りは改めていきます。すでに気づいているわけですから、素直な気持になればさほど難しいことではないと思われます。
  また、いろいろ探ってみたら全くの誤解だったということもあるでしょう。些細なこと、あるいは全く思いもよらなかったことでこじれることがあるかも知れません。もしそういうことが明らかになったら、これも率直に話してみることです。それが相手に通じたら、すべてが分かった時点で今までのこだわりは氷解するはずです。
  しかし、相手が全く聞く耳を持たない、あるいは直接的にも間接的にも原因を全く掴めない、丁寧に慈悲の瞑想をしてもそれでも改善に向かわない等々、何をどうやってもダメなこともあります。そのような場合に、こちらが今現れている関係にこだわっている限り、その先は推測を重ねていくようになるでしょう。それでは妄想の世界になってしまいます。
  ここで視点を変えてみましょう。
  このヴィパッサナー瞑想は、あるがままの事実をあくまでも客観的に観ていこうということですから、そこから今の自分の状態を観察してみるとどうなのかということです。その結果、もし当面の相手だけではなく、私は誰ともうまくやれないとか、いつも同じパターンでことごとく人間関係が壊れてしまうというようなことであれば、問題はかなり深刻です。かなり由々しい状態となっているわけで、それは何としても一番で直さなければなりません。
  ですが、その相手の方は別として、概ね他の人たちとはうまくやれているのなら、あまり気にしなくて良いでしょう。ブッダも「アトゥラよ。これは昔にも言うことであり、いまに始まることでもない。沈黙しているものも非難され、多く語るものも非難され、すこし語るものも非難される。世に非難されないものはいない」「ただ誹られるだけの人、またただ褒められるだけの人は、過去にもいなかったし、未来にもいないであろう、現在にもいない」(中村元訳『真理の言葉・感興の言葉』岩波書、1996)と言われています。だいたいのことは「捨て置け」というひと言で済んでしまうものです。
  つまり、「縁あれば来たり縁尽きればすなわち去る」という言葉があるように、やはりこの世は縁ですから。すべての現象はどうしようもない因果と無常性で展開しています。何にもしないのに勝手に始まり勝手に終わる、なるようになっていくものです。人と人との関係も全く同じ、因縁によって生じ滅しを繰り返しているのです。ある時ある場所で出会い、互いにするべきことを為して、因縁が尽きればやはり自然に離れていく、終わっていくということです。
  思い出してください。小学校、中学校、幼なじみとか親友、親類の人たち等々、遠近はいろいろありますが、喧嘩したわけでもないのに全く会わなくなっている人がたくさんいます。これは自分の努力ではどうにもなりません。そういうものです。冷静に観察して、これは縁が終わっているなと思ったらもう執着しないことです。
  ただ、「幸せになって欲しい」という気持ちで慈悲の瞑想をしてください。そのような時には、何とか関係を修復したいというような力みもない、執着のないピュアーな慈悲の瞑想になりますから、かえって思いの外の結果がもたらされたりするものです。ただそれを期待してはダメですが。
  付け加えるとすれば、もし似たようなことが繰り返されるような場合、それは過去に原因がありそれが傷となって影響していることが考えられます。そうすると、いつまでも同じパターンが続いてしまいますから、その時には、内観などの方法でその原因を完全に自覚にのぼらせ、受容してその傷を修復していくことが必要になります。(文責:編集部 )

Eさん:人間関係のことで友人に相談したら、「あなたは人を見下すところがある」と言われてしまいました。思いもよらなかったことなのでとても衝撃を受け、「人を見下しているかどうかという観点で気をつけて観ていこう」と心に決めました。そうしたら、すれ違う人にも「うっ」と違和感がわき上がって、「あ、見下した」とサティが入るようになり、すぐにニュートラルに戻してスッと切り捨てられるようになりました。
  自分がこれまで人に好かれたり嫌われたりがとても激しかったのは、人を尊敬したり見下したりがひどくて、すぐに上か下かに分けていたためではないかと分かりました。それが相当自分を疲れさせていたという感じがしています。友人の指摘に驚いてそこに注目していったら、人間関係のかなりの部分が楽で穏やかな感じになりました。

アドバイス:
  素晴らしいですね。今の話からは二つのことが言えます。
  先ず、テーマを絞って厳しくヴィパッサナーに取り組んだこと。一瞬でも心の中に相手を見下すような動きがあるかどうか、そこだけを厳密に検証していこうとしたことです。
  現象すべてにサティを入れようとすると、あまりに散らばりすぎて結局は出来なくなってしまいます。
  このように、他への心の向きをいわば放棄してテーマを絞るということをすると、課題へのサティは入りやすくなります。例えば、今日1日嫌悪感がどのくらい出るか数えてみようとやってみると、普段気づかなかったことまでカウントされ、それは膨大な数になるはずです。
  ですから、人に指摘されるまでもなく、「ひょっとしたらこのあたりに何かあるかもしれない」と思った時には、何かテーマを設定してやると、普段は気づくこともない微かなレベルで起きていることにも気づけるようになるのです。これは心の随観としても良い修行になります。また、そういう心が起きているということは何か根っこがあるわけですから、それに自覚的になるということは、心を清らかにしていくという方向でもたいへん有力な修行のやり方です。
  それから、見下すのは結局「慢」(māna:マーナ)という煩悩で、人と比べることから起こります。この慢という煩悩は、人間だけではなく動物にもあります。オオカミなど順位のある動物には必ず上下関係がありますし、キツネなどもプライドが高く、それは「他と比べて」というメンタル要素の働きです。動物たちにとっても慢は本当に根本的な煩悩です。
  ですから、「そんなのが私にあったの?」と思っても、あるに決まっています、絶対に。慢のない人などいません。預流果になっても慢は残る。一来果になっても残る。不還果でも慢は消えない。阿羅漢にならない限り慢は消えないのです。そのくらい根本的な煩悩ですから、もしそれに無自覚でいれば、心の中では不善心所モードを知らないうちに続行して、結果的にはそのために疲れてしまうことが多いということです。
  さらにもう一歩踏み込んで、どういうタイプの人に起きているかに焦点を絞って見ていくとどうですか?

Eさん:はい、ある傾向が幾つかありました。それも自分のコンプレックスと関係があることに気づきました。

アドバイス:
  そうです。見下すというのは必ず自分のコンプレックスの裏返しなのです。
  このように、心の随観の特別バージョンのような感じでテーマを設定して徹底して観ていくと、無自覚だったコンプレックスや抑圧していたものが浮上してきて、はっきりと客観視できる方向になります。
  またこのやり方は、限定された合宿よりも、普段の生活の中で行う方が相応しいでしょう。そうすると通行人に対してとか、仕事上で会う人とか、かなりのことができて、結果的に自分の心の重荷を肩から下ろせます。まさに、在家者がヴィパッサナーをやる意味がそこにあります。
  合宿で特訓的に瞑想に打ち込むことも素晴らしいですが、合宿に入らなければ修行ができないかというと、そんなことはなくて、そういう心の随観的な部分は日常生活で十分やれます。その友人の言葉が菩薩の一言みたいな感じになって、またそれを受け止める条件もあったと言うことですね。ぜひその線で頑張ってください。

Fさん:会社の人間関係で執着や恨みが出てくることがあります。ヴィパッサナー瞑想でそういうことから解放されることが期待できるのでしょうか。

 アドバイス:
  
「あいつにこんなことをやられた」というように恨みの心がよみがえってくるのは、まさに過ぎ去った過去の記憶、イメージに執着しているからです。しかし、冷静に考えてみると、その人が今も昔も同じだという証しは無いわけです。
  私たちの妄想の中では、悪いことをしたあの人間はずっと同じ状態だというイメージが出来上がっていますが、人の心は変わるものです。過ぎ去ったことを今に投影すること自体、現実をありのままに観ずに妄想によって情報を歪めているということですから、その妄想を止めなければなりません。
  苦を発生させる原因は嫌悪、貪り、高慢、嫉妬などの「不善心所」と言われる貪瞋痴の煩悩です。煩悩は妄想とも言い換えられ、それを捨てない限り苦は消えません。
  ですから、過ぎ去ったことは水に流して捨ててしまった方が良いのです。とにかく妄想しないこと、あるいは積極的に善の方向に発想の転換をして相手の美点だけを観ていく、そのあたりは心をきれいにしていくための現場では、確実に要求されることです。もちろん、ヴィパッサナーの訓練でそのように変わっていきますから大丈夫です。心配ありません。

Gさん:会社でも慈悲の瞑想をしています。ですが、会社に1人だけ、20歳ぐらい年下の人で、私にちょっと敵愾心を持っている人がいます。私はその人の仕事が終わらない時に手伝ったり、敬語を使ったりして、あえて慈悲モードで接しています。ただ、しばらくして心を観ると、いつの間にか慈悲ではなく慢(māna:マーナ)の心になってしまっています。 (再録『月刊サティ!』2008/3

アドバイス:
  弱者や苦しんでいる人に対して「かわいそうだな」と憐れむカルナの瞑想が難しいのは、どうしてもこちら側に「優越」「見下す」というようなものが微妙に混入しがちだからです。わずかでも慢が入ってしまえば、ピュアな慈悲の瞑想はできません。
  丁寧、精細、緻密に観なければ、憐れみの瞑想をしているようでも、実は見下して自分のプライドを満足させることになってしまいます。特に自分の中に劣等感、コンプレックスがあればあるほどこの要素は強まります。ですから、慢の心が起きる背景には自らの劣等意識に対する鈍感さ、それが良く観えていないということがあるのです。

Gさん:特に不善心所に入っているその人が、過去の若いころの自分と似ているのです。

アドバイス:
  それはよくあるパターンです。似ていると、自分の心の内面の独り相撲的なものが投影されてしまいます。恥ずかしながらやってきてしまった過去は誰にでもあります。それに対して「受け入れられない」「拒否したい」というのがあれば、どうしてもそれを抑圧しますので、相手に対してもそのようになりがちなのです。
  ダンマの世界から観たなら、お粗末で情けなく、エゴ的で恥の大きな人生をみんな生きてきています。それをありのままに承認できる潔さがあれば、はっきりそれを対象として乗り越えていくターゲットにできるわけです。ところが、そこから巧妙に目を背けて、自分にはそういうものが無いかのように思う心でいたら、それをどうやって乗り越えるのでしょうか。自覚しなければターゲットにはなり得ません。
  ですから、ありのままに認めたくはないけれども、不善心所の自分を承認する潔さがなければその先には進めません。
  そこのところがしっかりと腹に入ってくれば、抑圧は減っていきます。相手の人から見れば、過去の自分を嫌うような形でその抑圧を投影されているのですからいい迷惑です。またそういった微妙な波動がこちらから出ているので、「何となく虫が好かない」というように、どこかで察知して分かってしまうのです。
  そこが乗り越えられて、本当にピュアな慈悲の瞑想ができると、その瞬間もう何かが起きたように変わるものです。慈悲の瞑想にはそれほどすごい力がありますから、ぜひそこを目標にしてください。

Hさん:私の知人に自我とか先入観が強い人がいます。例えば、脳梗塞になっているのにたばこを吸っていたり、本人のやり方で押し通した結果失敗しても決して非を認めないので、いろいろなことがうまくいかないような人です。そういう人にアドバイスするための一言があれば教えてください。

アドバイス:
  思い込みが強いのはけっこう生得的な要因もありますから、普通には本人が痛い思いをして深く自覚しなければ難しいと思います。情報処理と反応の仕方が完全にパターン化されて生きているわけですから、かなりサティの技術的なことでもしない限り、簡単には変わらないでしょう。それに、たとえ本人が気づいたとしても変わるのは大変でしょうし、まして、本人が変えようと思っていないのをこちらから変えさせるのはかなり困難に思います。
  私たちは何かに失敗した時に、それをやりっ放しにしたり責任を誰かになすりつけたりしないで、原因を徹底的に考察すればかなり多くのことが学べますし、次のステップにつながります。ですから、もし相手にそういうことが起きた時に、「次の成功につながる」とか、「ここで敗因の研究をしておけば絶対にレベルアップする」などの言葉で、うまくいかなかった原因に本人が自分から目を向けるような、発想の転換ができるような方向のアドバイスは有効かもしれません。
  いずれにしても本人の自覚がない限り、外側から変えることは出来ないと思います。結局本人の自覚をいかに促すかにかかるでしょう。

Iさん:いつでもアラ探しと文句ばかりの職場の人に悩んでいます。その人の嫌悪や怒りの波動を感じると、どうしてもムカつくのを抑えきれないのです。「イライラしている」とサティを入れてみましたが、ただ言葉をつぶやいているだけという感じでなんの効き目もありません。 (再録『月刊サティ!』 2002/7

アドバイス:
  どんな現象もサティを入れた瞬間にブツリと立ち消えになって終りになります。サティには、その一瞬の経験をすべて対象化してしまう機能があるので、後続が断たれてしまうからです。
  しかしそのときの対象に執着があり、掴んでいれば、この対象化作用がうまく機能しません。サティがうまくいかなかった揚合の対応策を考えてみましょう。
  ひと言で言うと、反応系の心のプログラムをちょっと変えるのです。発想の転換です。不満を持つ人は、何を見ようが聞こうが不満なのです。心にいったん嫌悪や怒りの心所が起ち上がってしまえば、すべてが怒りの色でしか見えません。しかしもう一歩踏み込んで洞察すれば、なぜその人が怒りや嫌悪に支配されているのかが見えてくるものです。妬み心、家庭不和の八つ当たり、コンプレックスの裏返し、我執が強すぎる、幼少期から常に不満足感を強いられた環境要因・・・等々。諸々の因果関係の必然的結果として、怒りの心が生じてきます。
  悟った人に怒りが生起しないのは、一つには常にものごとの因果関係が観えているからです。ものごとの消息が判然と見て取れると「悲(karuņā:カルナー)」の心が起動します。
  今自分の目の前には、嫌悪と不平不満で怒りのエネルギーを出し続けている可哀想な人がいるのです。やがて自分自身の未来にドゥッカ(dukkha:苦)を生起させようと頑張っているとは、なんとも気の毒な悲しい現実です。
  そのように達観するなら、こちらの心にはもはや怒りはなく、静かに「悲」の瞑想をしてあげることができるでしょう。怒りが残存しているか否かのチェックは、相手を心から受け容れているかどうかで分かります。やっぱりちょっとイヤだな、という気持ちがあれば、かすかに怒りが残っています。
  私たちがヴィパッサナー瞑想に着手した時から、怒りはもちろん、すべての煩悩を根絶やしにするゴールに向かって歩み出しているのです。断固として貪・瞋・痴をなくそうと意欲するので、わずかでも実現し始めるのではないでしょうか。出来る、出来ない、ではなく、いつの日か心の清浄道を完成させたいと目指していくことが大事です。(文責:編集部)

人間関係をめぐって(2)

Eさん:人間関係のことで友人に相談したら、「あなたは人を見下すところがある」と言われてしまいました。思いもよらなかったことなのでとても衝撃を受け、「人を見下しているかどうかという観点で気をつけて観ていこう」と心に決めました。そうしたら、すれ違う人にも「うっ」と違和感がわき上がって、「あ、見下した」とサティが入るようになり、すぐにニュートラルに戻してスッと切り捨てられるようになりました。
  自分がこれまで人に好かれたり嫌われたりがとても激しかったのは、人を尊敬したり見下したりがひどくて、すぐに上か下かに分けていたためではないかと分かりました。それが相当自分を疲れさせていたという感じがしています。友人の指摘に驚いてそこに注目していったら、人間関係のかなりの部分が楽で穏やかな感じになりました。

アドバイス:
  素晴らしいですね。今の話からは二つのことが言えます。
  先ず、テーマを絞って厳しくヴィパッサナーに取り組んだこと。一瞬でも心の中に相手を見下すような動きがあるかどうか、そこだけを厳密に検証していこうとしたことです。
  現象すべてにサティを入れようとすると、あまりに散らばりすぎて結局は出来なくなってしまいます。
  このように、他への心の向きをいわば放棄してテーマを絞るということをすると、課題へのサティは入りやすくなります。例えば、今日1日嫌悪感がどのくらい出るか数えてみようとやってみると、普段気づかなかったことまでカウントされ、それは膨大な数になるはずです。
  ですから、人に指摘されるまでもなく、「ひょっとしたらこのあたりに何かあるかもしれない」と思った時には、何かテーマを設定してやると、普段は気づくこともない微かなレベルで起きていることにも気づけるようになるのです。これは心の随観としても良い修行になります。また、そういう心が起きているということは何か根っこがあるわけですから、それに自覚的になるということは、心を清らかにしていくという方向でもたいへん有力な修行のやり方です。
  それから、見下すのは結局「慢」(māna:マーナ)という煩悩で、人と比べることから起こります。この慢という煩悩は、人間だけではなく動物にもあります。オオカミなど順位のある動物には必ず上下関係がありますし、キツネなどもプライドが高く、それは「他と比べて」というメンタル要素の働きです。動物たちにとっても慢は本当に根本的な煩悩です。
  ですから、「そんなのが私にあったの?」と思っても、あるに決まっています、絶対に。慢のない人などいません。預流果になっても慢は残る。一来果になっても残る。不還果でも慢は消えない。阿羅漢にならない限り慢は消えないのです。そのくらい根本的な煩悩ですから、もしそれに無自覚でいれば、心の中では不善心所モードを知らないうちに続行して、結果的にはそのために疲れてしまうことが多いということです。
  さらにもう一歩踏み込んで、どういうタイプの人に起きているかに焦点を絞って見ていくとどうですか?

Eさん:はい、ある傾向が幾つかありました。それも自分のコンプレックスと関係があることに気づきました。

アドバイス:
  そうです。見下すというのは必ず自分のコンプレックスの裏返しなのです。
  このように、心の随観の特別バージョンのような感じでテーマを設定して徹底して観ていくと、無自覚だったコンプレックスや抑圧していたものが浮上してきて、はっきりと客観視できる方向になります。
  またこのやり方は、限定された合宿よりも、普段の生活の中で行う方が相応しいでしょう。そうすると通行人に対してとか、仕事上で会う人とか、かなりのことができて、結果的に自分の心の重荷を肩から下ろせます。まさに、在家者がヴィパッサナーをやる意味がそこにあります。
  合宿で特訓的に瞑想に打ち込むことも素晴らしいですが、合宿に入らなければ修行ができないかというと、そんなことはなくて、そういう心の随観的な部分は日常生活で十分やれます。その友人の言葉が菩薩の一言みたいな感じになって、またそれを受け止める条件もあったと言うことですね。ぜひその線で頑張ってください。

Fさん:会社の人間関係で執着や恨みが出てくることがあります。ヴィパッサナー瞑想でそういうことから解放されることが期待できるのでしょうか。

 アドバイス:
  
「あいつにこんなことをやられた」というように恨みの心がよみがえってくるのは、まさに過ぎ去った過去の記憶、イメージに執着しているからです。しかし、冷静に考えてみると、その人が今も昔も同じだという証しは無いわけです。
  私たちの妄想の中では、悪いことをしたあの人間はずっと同じ状態だというイメージが出来上がっていますが、人の心は変わるものです。過ぎ去ったことを今に投影すること自体、現実をありのままに観ずに妄想によって情報を歪めているということですから、その妄想を止めなければなりません。
  苦を発生させる原因は嫌悪、貪り、高慢、嫉妬などの「不善心所」と言われる貪瞋痴の煩悩です。煩悩は妄想とも言い換えられ、それを捨てない限り苦は消えません。
  ですから、過ぎ去ったことは水に流して捨ててしまった方が良いのです。とにかく妄想しないこと、あるいは積極的に善の方向に発想の転換をして相手の美点だけを観ていく、そのあたりは心をきれいにしていくための現場では、確実に要求されることです。もちろん、ヴィパッサナーの訓練でそのように変わっていきますから大丈夫です。心配ありません。

Gさん:会社でも慈悲の瞑想をしています。ですが、会社に1人だけ、20歳ぐらい年下の人で、私にちょっと敵愾心を持っている人がいます。私はその人の仕事が終わらない時に手伝ったり、敬語を使ったりして、あえて慈悲モードで接しています。ただ、しばらくして心を観ると、いつの間にか慈悲ではなく慢(māna:マーナ)の心になってしまっています。 (再録『月刊サティ!』2008/3

アドバイス:
  弱者や苦しんでいる人に対して「かわいそうだな」と憐れむカルナの瞑想が難しいのは、どうしてもこちら側に「優越」「見下す」というようなものが微妙に混入しがちだからです。わずかでも慢が入ってしまえば、ピュアな慈悲の瞑想はできません。
  丁寧、精細、緻密に観なければ、憐れみの瞑想をしているようでも、実は見下して自分のプライドを満足させることになってしまいます。特に自分の中に劣等感、コンプレックスがあればあるほどこの要素は強まります。ですから、慢の心が起きる背景には自らの劣等意識に対する鈍感さ、それが良く観えていないということがあるのです。

Gさん:特に不善心所に入っているその人が、過去の若いころの自分と似ているのです。

アドバイス:
  それはよくあるパターンです。似ていると、自分の心の内面の独り相撲的なものが投影されてしまいます。恥ずかしながらやってきてしまった過去は誰にでもあります。それに対して「受け入れられない」「拒否したい」というのがあれば、どうしてもそれを抑圧しますので、相手に対してもそのようになりがちなのです。
  ダンマの世界から観たなら、お粗末で情けなく、エゴ的で恥の大きな人生をみんな生きてきています。それをありのままに承認できる潔さがあれば、はっきりそれを対象として乗り越えていくターゲットにできるわけです。ところが、そこから巧妙に目を背けて、自分にはそういうものが無いかのように思う心でいたら、それをどうやって乗り越えるのでしょうか。自覚しなければターゲットにはなり得ません。
  ですから、ありのままに認めたくはないけれども、不善心所の自分を承認する潔さがなければその先には進めません。
  そこのところがしっかりと腹に入ってくれば、抑圧は減っていきます。相手の人から見れば、過去の自分を嫌うような形でその抑圧を投影されているのですからいい迷惑です。またそういった微妙な波動がこちらから出ているので、「何となく虫が好かない」というように、どこかで察知して分かってしまうのです。
  そこが乗り越えられて、本当にピュアな慈悲の瞑想ができると、その瞬間もう何かが起きたように変わるものです。慈悲の瞑想にはそれほどすごい力がありますから、ぜひそこを目標にしてください。

Hさん:私の知人に自我とか先入観が強い人がいます。例えば、脳梗塞になっているのにたばこを吸っていたり、本人のやり方で押し通した結果失敗しても決して非を認めないので、いろいろなことがうまくいかないような人です。そういう人にアドバイスするための一言があれば教えてください。

アドバイス:
  思い込みが強いのはけっこう生得的な要因もありますから、普通には本人が痛い思いをして深く自覚しなければ難しいと思います。情報処理と反応の仕方が完全にパターン化されて生きているわけですから、かなりサティの技術的なことでもしない限り、簡単には変わらないでしょう。それに、たとえ本人が気づいたとしても変わるのは大変でしょうし、まして、本人が変えようと思っていないのをこちらから変えさせるのはかなり困難に思います。
  私たちは何かに失敗した時に、それをやりっ放しにしたり責任を誰かになすりつけたりしないで、原因を徹底的に考察すればかなり多くのことが学べますし、次のステップにつながります。ですから、もし相手にそういうことが起きた時に、「次の成功につながる」とか、「ここで敗因の研究をしておけば絶対にレベルアップする」などの言葉で、うまくいかなかった原因に本人が自分から目を向けるような、発想の転換ができるような方向のアドバイスは有効かもしれません。
  いずれにしても本人の自覚がない限り、外側から変えることは出来ないと思います。結局本人の自覚をいかに促すかにかかるでしょう。

Iさん:いつでもアラ探しと文句ばかりの職場の人に悩んでいます。その人の嫌悪や怒りの波動を感じると、どうしてもムカつくのを抑えきれないのです。「イライラしている」とサティを入れてみましたが、ただ言葉をつぶやいているだけという感じでなんの効き目もありません。 (再録『月刊サティ!』 2002/7

アドバイス:
  どんな現象もサティを入れた瞬間にブツリと立ち消えになって終りになります。サティには、その一瞬の経験をすべて対象化してしまう機能があるので、後続が断たれてしまうからです。
  しかしそのときの対象に執着があり、掴んでいれば、この対象化作用がうまく機能しません。サティがうまくいかなかった揚合の対応策を考えてみましょう。
  ひと言で言うと、反応系の心のプログラムをちょっと変えるのです。発想の転換です。不満を持つ人は、何を見ようが聞こうが不満なのです。心にいったん嫌悪や怒りの心所が起ち上がってしまえば、すべてが怒りの色でしか見えません。しかしもう一歩踏み込んで洞察すれば、なぜその人が怒りや嫌悪に支配されているのかが見えてくるものです。妬み心、家庭不和の八つ当たり、コンプレックスの裏返し、我執が強すぎる、幼少期から常に不満足感を強いられた環境要因・・・等々。諸々の因果関係の必然的結果として、怒りの心が生じてきます。
  悟った人に怒りが生起しないのは、一つには常にものごとの因果関係が観えているからです。ものごとの消息が判然と見て取れると「悲(karuņā:カルナー)」の心が起動します。
  今自分の目の前には、嫌悪と不平不満で怒りのエネルギーを出し続けている可哀想な人がいるのです。やがて自分自身の未来にドゥッカ(dukkha:苦)を生起させようと頑張っているとは、なんとも気の毒な悲しい現実です。
  そのように達観するなら、こちらの心にはもはや怒りはなく、静かに「悲」の瞑想をしてあげることができるでしょう。怒りが残存しているか否かのチェックは、相手を心から受け容れているかどうかで分かります。やっぱりちょっとイヤだな、という気持ちがあれば、かすかに怒りが残っています。
  私たちがヴィパッサナー瞑想に着手した時から、怒りはもちろん、すべての煩悩を根絶やしにするゴールに向かって歩み出しているのです。断固として貪・瞋・痴をなくそうと意欲するので、わずかでも実現し始めるのではないでしょうか。出来る、出来ない、ではなく、いつの日か心の清浄道を完成させたいと目指していくことが大事です。(文責:編集部)

人間関係をめぐって (3) 

Aさん:先日カウンセラーの先生に罪悪感があるのではないですかと言われ、それで思いついたことがあります。
  中学校の時のクラスに、今考えるとちょっと知的障害があったような子がいました。友達もなくて私にくっつこうとしてきて、最初は付き合っていたのですが話しも面白くないしウジウジするしで、電話がきたりもしたのですが離れちゃったのです。そしたらその子はクラスで孤立してしまって・・・。今はすごく酷いことをしたって思っています。もしその子に会えれば謝りたいけれど、もう一生会う機会もないだろうと思われるし、どうしたら良いのかって言うことです。
  それからもう一つ、瞑想している時にサティをするのがすごく苦しくなってきて、まるで孫悟空の頭の輪のような感じがしてググーっと押さえつけられているような気がする時があります。
  私は正しく修行の道を歩んでいるのでしょうか、間違ってないでしょうか。


アドバイス:
  まず、頭の締めつけの問題ですが、おそらく心に原因のある現象だと思います。サティを入れるのが苦しくなるということは、事実をありのままに観るのが苦しいということです。実際、孫悟空の頭の締めつけ状態では瞑想どころではないでしょう。まともなサティが入ろうはずもなく、結果的に事実から目を背けることになります。
  オーソドックスなサティの瞑想はできなくても、事実から目を背けている現実を自覚することができれば、「あるがままの事実」に気づくことができたとも言えます。

  コジつけのようですが、自分には、目を背けて抑圧している何かがあると認め、その問題に向き合っていければ、あなたは「正しく修行の道を歩んでいる」と言ってよいでしょう。真実を見ようとせず、目を背け続けることが、道を踏みはずし、間違っている状態です。 

  では、いったい何から目を背けているのか、それを見出すことがなすべき仕事です。そして、その答えの一つが、今おっしゃられた知的障害の子の一件かもしれません。

  中学生のことですから、優しくなりきれなかったご自分を過度に責めることもないとは思いますが、孤独になっていく友を見捨てたかのような痛みを感じている事実があるのですから、放置しておかずに完全に終わりにすべきでしょう。

  どうしたら良いでしょうか。
  これは、現実に探し出して詫びを入れるという問題ではありません。「酷いことをしてしまった。会えるものなら会って謝りたい」と忸怩たる思いに独り苦しんでいるあなたの心の中をきちんと整理して、過去に終止符を打つ修行をやるべきです。つまり後悔を終わりにするための「懺悔の瞑想」がやるべきタスクです。

  懺悔の瞑想のポイントは、大きく3つあります。

  ①素直に自分の非を認め、謝ること。
  ②自分はひどいことをした悪い人間だと自分を責めるのではない。ダンマ(理法)を知らなかった自分の愚かさを恥じ、無知だったことを詫び、懺悔する。

  ③これからは五戒を守り、きれいに生きていくことを誓って赦しを乞う。二度と同じ過ちを繰り返さない、と未来志向のエンディングで締めくくる。

  具体的な文言を考えてみましょう。

  「**君、中学生の時に君を孤立させてしまったことを謝りたい。済まなかった、赦してくれ、と心からお詫びしたいのです。あのクラスでは、君には僕以外の友達は誰もいなかった。君に残されたたった一人の友だったのに、僕は君を孤独に追いやってしまった。付き合うのが何となく面倒になり、結果的に君を一人ぼっちにさせてしまい見殺しにしてしまったのだ。なんて酷いことをしてしまったのだろう。どんなに君は寂しく、孤独な思いをしていたのだろう・・と、あの時の君の心中を推察して、本当に申し訳ないことをしてしまったと心から悔やんでいる。

  赦してください。愚かだった僕がやってしまったことを今、心からお詫び申し上げたい。あの頃は、仏教のダンマも知らなかったし、因果論も慈悲の瞑想も何も知らなかったのです。無知ゆえに犯してしまった、愚かで冷たい仕打ちを、どうぞ赦してください。

  今どうしているのか知る由もありませんが、幸せな良き人生であることを心から祈りたいです。そして、自己中心的で、優しくなれなかった自分の愚かさと無知を、心から謝り、赦してくださいと土下座したいのです。ごめんなさい。
  今後二度と同じ過ちを繰り返さないことを誓います。これからはブッダのダンマを拠りどころにして、殺さない、盗まない、不倫をしない、嘘を吐かない、酩酊しない、と五戒をしっかり守り、きれいに正しく生きていくので、無知ゆえに犯した自分の仕打ちを赦してください。申し訳ありませんでした・・」  これは思いつきのサンプルにしか過ぎないので、この文言をそっくり真似る必要はまったくありません。これと同じような意味になる言葉をご自分で考えて、納得できる懺悔の文言を作ってください。
  真剣に、感情を込めて、少しウルウルしながら謝るくらいがよいでしょう。懺悔の瞑想は、自責の念や後悔を情緒的に解放することが主たる目的ですから、心から実感を込めて納得するまで真剣に行うのです。すると「もういい。これだけ謝ったんだから、これは終わりにして良い」と腹の底から感じられるようになるでしょう。謝って、謝って、謝まり抜けば、過ぎ去ったことは終わりにしてよいのだ、という気持ちに自然になれるのです。だから、過去から解放される修行と呼ばれるのです。

  例えば、私たちが何か重大な被害を受けたとして、加害者がそれを謝りに来たとしましょう。その人が本気で土下座し、泣きながら「申し訳なかった。・・赦してください」と、心の底から謝っていることが伝わってきたらどうでしょうか。ああ、この人は本気で、心の底から謝っているのだ・・と感じられれば、たいていの人は赦すのではないでしょうか。

  あなたの場合も、その知的障害の方に心の底から謝って、真剣に幸いを祈らせていただけば、その誠心誠意が必ず伝わるだろうし、赦されるだろうと思います。こちらの気が済むまで、終わりにしていいと心が納得するまで、懺悔の瞑想をおやりになるのです。中途半端なやり方では蒸し返しが起きてしまいますが、徹底すれば必ず過去から解放されるでしょう。

  もしそれでも、どうしても気が済まないのであれば、知的障害者の施設などへボランティアに行き、そこで出会った方を、かつての友だと思って言葉をかけ、お世話するのもよいでしょう。同じ人に対してやれなくても、カルマ的にはそれで償いになると考えてよいのです。

  懺悔の瞑想はヴィパッサナー瞑想の一部です。サティの瞑想も、慈悲の瞑想も、一点集中のサマタ瞑想もヴィパッサナー瞑想の一部です。過去に捕われていない人はいないのですから、この機会に、懺悔の瞑想をしっかり修行することをお勧めします。



Bさん:瞑想会には初めての参加ですが、これまで本で読んだりして瞑想の実践は日常生活でもしてきました。それで、欲のようなものはけっこう抑えられていると思うのですが、今度は世間とのズレのようなものを感じるようになってきました。例えば、食べることにしても、世間では欲を刺激するような情報が溢れていますが、私はそれに全然魅力を感じないとか。そんなズレ、違和感が最近どんどん強くなってきているのですが。

アドバイス:
  「類は友を呼ぶ」と言いますね。同じ波動のものが互いに響き合い惹きつけ合うという法則ですから、波動がズレてしまうと群れることは自然になくなります。こちらが煩悩路線で生きていればそれに相応しい人と知り合い親しくなるし、正反対のダンマ的な生き方を始めれば煩悩フレンドとは自然に縁が切れていきます。考え方が変わり、生き方が変われば、自分を取り巻く人の流れも変わるし、好みも価値観も全て変化していくのは当然なのです。

  私は20年余年、多くの瞑想者を見てきましたが、生きるのが苦しくなって瞑想にたどり着いている方がとても多いのです。その苦しみが何に由来しどこから来たのかと言えば、自己中心的な考え方や煩悩路線で生きてきたことに起因しているわけです。そこで瞑想を始める、心がきれいになっていくし、仏教の考え方にも共感の度が深まっていきます。悪を避け善をなし、アンチ煩悩の浄らかな生き方に変わってくるにつれ、苦が減ってきます。人生観も価値観も生きていく拠りどころが変わってくるので、観るものも読むものも出かけるところも当然変わってくるし、今までの煩悩路線の友人とは波動が合わなくなり、ズレてくるし違和感が強まっていくのが自然な流れです。

  これは誰にも避けられない通過点であり、あなたの修行が順調に進んでいる強力な証しと言ってよいでしょう。瞑想をきちんとやり、仏教を学びながら、これまでの煩悩世界に完全に順応しながら面白おかしくやれるとしたら、そちらの方が変なのです。あなたは修行が正しく進んでいるとレポートされていると言ってよいでしょう。

  グルメやバイキングで満腹するまで食べ放題をやりながら酒を飲み、良い瞑想ができる・・。そんなことはあり得ません。瞑想するということは、身と心を律していくことであり、欲望の論理で展開するこの世とソリが合わなくなるのは当然であり、苦しみを寄せつけない人生を生きるためには不可避の道と仏教は考えています。

  このターニングポイントの過渡期で人の流れが大きく変わり、これまでの悪友・ポン友・煩悩フレンドとは縁が切れ、友達が誰もいなくなるのも多くの方が経験することです。寂しくなってしまいますが、心配ありません。昆虫でも変態といって、芋虫から蛹になりさらに蝶になる時は大変なのです。醜い芋虫が美しい蝶になるには、それなりの苦しみの代価を支払わなければなりません。大変ですが、孤独は一時的なものです。遠からず、新しい良き友が得られます。価値観も生き方もお互いに共感し合える素晴らしいダンマフレンドと縁ができるでしょう。これは誰もが経験する通過儀礼のようなものだと思ってください。

  この世は基本的に強く思っていることが現実化してくる業の世界ですから、善き友に出会いたい、法友に恵まれてよかったと常に思っていれば必ずそうなってきます。キリスト教でも「求めよ、さらば与えられん」と言っていますが、ブレないで求めれば必ず得られる法則です。そういう強い意志、専門用語ではチェータナー(cetan?)と言いますが、明確な強い意志を出力し続ければ必ず現象化し、具現化してくるということです。この世の、現象が生じて滅していく世界はそのような基本構造になっていますから、心のきれいな素晴らしい法友に恵まれて嬉しい!といったイメージを持ち続け、常に善心所モードで生きていくことが大事です。頑張りましょう。



Cさん:受容する力はどのようにしてつけていけるのでしょうか。

アドバイス:
  受容する力というのは、ネガティブなものをいかに受け容れることができるかという能力です。
  楽しいこと、幸せなこと、気持ちの好いことを受け容れるのに努力は必要ないし、それを受容する力などという表現はあり得ません。嫌なこと、困ったこと、ネガティブなこと、受け容れられないことを突きつけられた時に、さあ、どうするか、という受容の問題が出てきます。

  嫌なものを遠ざけ、気に食わないものを叩き潰し、困ったことから逃げ出せるなら、そうしても良いでしょう。動物たちも皆そうしています。しかし、いくら頑張ってもあがいても、逃げることも抵抗することもニッチもサッチもいかない状態にハメられ困却することが、人生にはどうしてもあるのです。業が噴き出るというか、業の力で生起してくる事象からは逃げようにも逃げられないという印象があります。こうなると行き詰まって、どん底状態の絶望感に襲われるのが普通です。

  どうしたらよいでしょうか。

  それは、逃げ切れなかったら、受けきっていくのです。いかんともしがたく、手の打ちようがないのですから「認知を変えるしかない」と悟ることです。法としての存在はただあるがままで、それを苦と受け止めるのも楽と受け止めるのも認知の問題です。頬を思いっきり平手打ちされるのはいかがですか?痛いし、とんでもなく嫌なことだし、苦ですよね。でも、一発叩かれるたびに100万円くれると言われたらどうですか?お金に困っている時なら、何発でも喜んで叩いてもらいたくないですか。苦であるはずの痛みが、舞い上がりたくなるような楽になりませんか。認知を変えるとは、例えばこんな具合です。頬を平手打ちされる行為も、その瞬間の痛みも、何も変わらないのに、苦楽が逆転することもあるのです。



Cさん:逃げて良いケース、逃げるに逃げられないケースというのはどのようなことでしょうか。

アドバイス:
  基本的に、どんな人に出会うのも、どのような事象に遭遇するのも、それ相応の原因があり、業の力が働いていると考えられます。生命というものは、不快なものを避け、快なるものを求めるように設計されているので、嫌なものや苦を与えるものに対する反応は、攻撃するか逃げるかのどちらかです。だから、逃げられるなら逃げてもよいし、わざわざ苦しい人生を選択する必要もありません。古来から「君子危うきに近寄らず」とも言われてきました。

  しかし、避けようにも避けられず、逃げようにも逃げられないのが、業の力でありカルマです。微弱な業は縁がつかないように回避することもできるでしょうが、強力な重たい業にはいかんともしがたい力が働いてしまうのです。そうなったら、腹をくくるしかありません。

  例えば、すごく嫌な人が家族だったり、絶対に辞めたくない会社の直属の上司だったら、顔を合わせない訳にはいかないでしょう。夫婦だったら離婚することもできますが、親子だったらもっと別れづらいですね。どうしてもソリの合わない上司を嫌って転属願いを出し、翌年希望通り逃げ出すことに成功した人がいます。ところが、その目の上のタンコブだった上司も転属となり、その行き先がなんと、同じ新しい部署だったという話があります。

  逃げることのできない因縁というか、長い人生の中ではそういう事態に追い込まれることもあるのです。あるいは、背が低いとか高いとか、女に生まれたのは嫌だとか、そういう条件をいくら嫌がっていても、努力でどうにかなるものではありません。逃げられないのです。

  また、若い頃には「醜形コンプレックス」という、自分は醜いのではないかという思い込みに囚われる人もいます。鏡で自分の顔も見られなくなってしまうこともあるようです。変えようのない先天的資質を欠点として否定してしまえば、苦しみ続けることになってしまいます。その苦しみを乗り超えるには、嫌っているものを好きになるよう、認知を変えるしかないでしょう。



Cさん:
  では自分の性格についてもそのまま受容するのでしょうか。


アドバイス:
  性格については、変えられるものもあれば、そのまま受け容れて活かすべきものもあるでしょう。例えば、発達障害や自閉症スペクトラムに起因する性格傾向に関しては、変更できない先天的資質として受け容れるのが原則です。もちろん輪廻転生を視野に入れた長期的展望で努力すれば変更可能ですが、今世で変えることはできません。
  後天的に繰り返した反応パターンに由来する性格は、断固たる決意をもってブレずに取り組めば、望むように変われるでしょう。この世のことは、煎じつめれば業の所産であり、万物が無常に変化するのですから変わらないものはありません。

  しかし何事も適材適所ですから、あるがままの自分で輝ける場所が必ずあるものです。例えば、細かな小さなことにこだわる性格の人は、几帳面さを要求される仕事では素晴らしい才能を発揮するでしょう。その反対に、おおらかで人に好かれるのですが、大雑把なザルのようなタイプだったら緻密な仕事には向きません。細かなミスも許さない完璧主義者は敬遠されることもありますが、そうでなければ芸術の分野ではいい仕事ができないかもしれません。

  このように、美点と欠点は表裏の関係です。どんな性格であっても輝ける場所が必ずあり、ものごとの表と裏の二面性を観ることができれば、認知を変えやすく受容力があるということになります。自分の性格や資質を気に入らないと感じている人が少なくありませんが、そのように評価しているのは何者で、何を根拠にそのように判断しているのかを問わなければなりません。エゴの猿知恵で愚かな評価をしていないか・・ということです。

  長年に渡って多くの瞑想者に接してきましたが、どうしてそんなつまらないことを気にするのだろうと思うことが多々ありました。本当に些細なことにこだわって、悩んだりコンプレックスにしている人が多いのに驚いています。自分を客観的に正しく評価することがいかに難しく、エゴの視点や視座を柔軟に変えるためにはヴィパッサナー瞑想をやるしかないと感じてきました。

  他人に迷惑や苦しみを与えていないのであれば、自分に与えられているものに満足するのは才能であり、幸福になれる秘訣です。眼前の対象が問題なのではなく、それをネガティブなものとして認知してしまう精神が問題なのです。自分に与えられている身体的特徴や性格傾向というものは、長い輪廻の中で自分が作ってきた業の結果なのだと心得なければなりません。そして生まれてこの方、何を思い、何を話し、何を行なってきたのかが新たな業を作るし、これからそれを強化することも変更することも可能なのだと自覚しなければなりません。そのために瞑想と仏教の学びがあるのです。

  どんな失敗にも無限の学びがある・・と理解されてくれば、変えるべきものとありのままに受容すべきものも自ずから見えてくるでしょう。
(文責:編集部)



人間関係をめぐって (4)

Aさん:
  長年、他人と比較する癖があって慢の問題を抱えています。また、自分ではそのような自覚はないのですが、他人から「あなたは自信がない」とよく指摘されます。


アドバイス:
  自信がないのなら、自信が持てるようになる対策がいろいろあります。しかしあなたの場合は、人に指摘されなければ気づかないくらいですから、基本的に自信があるのだと思われます。自信のない人は劣等感を持ちやすく、劣等感に悩めば反動や裏返しで高慢になりがちなのも通例です。しかし自分の優秀さに自己陶酔しながら、傲慢に他人を見くだすタイプの人もいます。
  自信の有無にかかわらず、「人と比べる」ことから生まれる煩悩が「慢」です。自分よりも優れた人と比べれば劣等感や卑下慢になり、劣った人と比べると高慢になります。自覚がなくても、他人から「自信がない」と指摘され、そのように見られているのであれば、恐らく劣等感の雰囲気が出ているのかもしれません。無意識に自分よりも優れた人と比べ、能力や資産や環境や容姿や出自などで敗北感のようなものを感じていないでしょうか。その様子が自信なさそうに見えるので指摘されてしまうのではないかと推測されます。
  自信のある人も無い人も、他人と比べなければ慢の問題は発生しません。もしあなたが自分以下の劣った人と比べていれば、高慢で人を見下しているとか、「あなたは自信過剰だ」と指摘されるかもしれません。もし比べる相手が常に自分より劣った人だったなら、高慢で人を見下しているとか、「あなたは自信過剰だ」と指摘されるかもしれません。高慢も卑下慢も不善心所なので「慢」の煩悩を放置すればカルマが悪くなるし、清浄道の瞑想をしている者として乗り超えるべきものです。
  どうしたら良いでしょうか。
  人と比べることを止めるには、現象面の違いからさらに一歩を進めて、何事も因果の帰結であり、どのような現状もそうなるだけの原因があったことに気づくべきです。能力が優秀なのも劣っているのも、裕福な環境も貧乏も、健康も美醜も、全てそうなるだけの原因を当人が組み込んできた業の結果としての現状なのです。誰もが、自分の蒔いた種を自分で刈り取っているだけの話で、因果の理法どおり、必然の力でそうなった千差万別なのです。
  そうした因縁の流れを見れば、今その瞬間の優劣を比較することは愚かな、滑稽なことなのです。過去の努力や背景が千差万別なのに、今の状態だけを見て比べることはできないのです。死ぬほど頑張ってきた人と怠けていた人が、同じ結果になる筈がありません。たまたま年齢や出身地が同じだけで、アイツだけには負けたくない、などとライバル心を燃やすことの滑稽さに気づくべきです。
  仏教は輪廻転生論ですから、今世の努力だけではありません。無限の過去から、努力してきた分量も経験してきた内容も何もかも異なる人が、たまたま同時期に出会っただけで、何をどう比べるのでしょうか。同じ海に棲息している魚というだけで、時速110kmで泳ぐ世界最速のバショウカジキと海底の砂に隠れたヒラメを比べられますか?仏教のダンマに基づけば、嫉妬も劣等感も高慢もすべて本来比べようのないものを比較して愚かな反応をしていることになります。そもそも比べている「私」が妄想に過ぎないと、仏教は無我論を説いています。ありもしない妄想を拠りどころに、愚かな反応を繰り返して不善業を作り、その結果である苦しい人生に身悶えする「無明」から目覚めなさい。真実をあるがままに観るヴィパッサナー瞑想をやりなさい、とブッダは言うわけです。
  しかしそう言われても、エゴ妄想の根は深く、本能的に人と比べて、劣等感に苦しんだり傲慢に見くだしたりしてしまうのが私たち凡夫衆生です。「慢」の煩悩は、悟りの最終段階に達しないかぎり無くならないと言われます。いきなり根絶やしにはできませんが、最終的なゴールを見据えて徐々に、段階的に削って減らしていく覚悟です。エゴや慢が強烈にギラついている人よりも、少ない人の方が人生の苦しみも少ないのです。
  自分に自信があれば、他者と比較しません。本当の自信は、因縁の流れを観て、あるがままの自分を正しく理解する人に生まれてくるものです。他人も自分もこの世界もあまりにも違いすぎるし千差万別なのですが、それもこれも、いかんともしがたい因縁因果の結果、そうなるしかなかったのだと正しく知っている者は「比べる」ことの愚かさを心得ているはずです。能力がなくても、頭が悪くても、カッコよくなくても、自分に与えられた一切を引き受けて、光を目指して一歩一歩進んでいくしかない、と腹がくくれるかです。この静かな覚悟が、本当の「自信」です。そうした自信を持つ人は、優れた人も劣った人もネガティブな情況も、ありのままに受け容れ、上にも下にも差別せず、なすべきことを淡々となしていくでしょう。そのような智慧の眼差しを体現していく具体的な修行法の一つがヴィパッサナー瞑想です。我が道を歩み抜いていきましょう。


Bさん:
  人に「優しくしなければ」とか、「気を遣わなければ」と思うあまり、自分自身を抑圧していたことに気づき、「優しくなくてもOK」と許可を与えることで気持ちが楽になりました。


アドバイス:
  「(人に)優しくしなくても良い」との宣言はひとつの心の成長であり進歩でしょうね。あるがままの自分自身を承認できずに、「かくあるべし」と理想の追求にのめり込んでしまうと苦しい人生になってしまいます。苦しくて心が汚れ不善心所になれば本末転倒です。
  努力精進し、限りなく向上し、最終的に悟りの状態を目指していくのが仏教ですが、何事も順番があります。ダメな自分が修行して立派になっていくのですから、まず最初の仕事は自分自身の現状をあるがままに把握し、潔く認めることなのです。不善心の状態であっても、それが事実なのですから、いったんありのままに承認し、受け容れて、次にきっぱりと決意するのです。私は必ずこれを乗り超えていく、と。
  このプロセスをいい加減にすると、自分のネガティブな側面に気づいた瞬間、怒りや嫌悪の心でサティを入れ、現状から目を背けるように否定するだけになってしまう人が多いのです。善い心も悪い心も、原因があり、因縁因果の結果、なるべくしてその状態になったのですから、その展開や流れをしっかり把握することです。問題がなぜ、どのように生起してきたかを明確に心得るからこそ、乗り超えていく道がはっきり視えてくるし、これから何を、どのようにしていけばよいか腹に落ちるのです。
  これが正しいサティの一瞬です。束の間の時間かもしれませんが、本来否定されるべき怒りやエゴイズムや残酷な心が生じても、ありのままに認めて受け容れる瞬間があれば、怒りで打ち消すことも抑圧することもないのです。この状態を修行現場の言葉で表現すると、例えば「優しくなくてもOK」などということになるのだと思います。


Cさん:
  やるべきことは全てやり、どうにも手の打ちようがなくなった場合には、どうしたらよいのでしょうか。(『月刊サティ』2002/8再録)


アドバイス:

  追い詰められて土壇場になると、思いがけない智慧が出るものですが、本当にそこまでやってみたのなら、仕方がありません。その時は<捨ておけ>です。
  カルマが縁に触れて現象化してくる時は、避けようも逃れようもなく、いかんともし難くそうなっていく・・という印象です。黙って甘受していく他ありません。耐えるべきものは耐え、忍ぶべきものは忍び、淡々と事の展開を見守るしかないでしょう。無常の法則を受けないものはないのですから、必ず情況は変化します。
  気をつけるべきことは、絶望や愚痴など不善心にならないようによく見張ることです。心が暗くなると、それが原因エネルギーとなってよくない現象が生起してくるのが法則です。必ずよくなると信じて、不善心に陥らないことが仕事だと考えてください。悪いことが永久に続くことは絶対にありません。
  心が暗くなりそうだったら、慈悲の瞑想をするのもよいでしょう。苦しみを受けることに意味があるのだと確認するのもよいでしょう。不善業が現象化した瞬間に因果が帰結し、一つの不善業が消えていくのです。苦受を受ける瞬間が、まさに不善業が消えていく瞬間なのだと心の中で認識を新たにしてください。
  耐え忍ぶというのは、歯を食いしばって、訳も分からず我慢することではありません。それは愚か者の忍耐であり、十波羅蜜の一つである「忍耐(カンティ)」の徳目を修行することではないのです。仏教の瞑想では、智慧の伴わない修行は、無意味な愚者の苦行と同然と見なされるでしょう。なぜそのような事が我が身に降りかかってきてしまったのか、明確に、正しく理解しながら、苦受を受ける瞬間に業が消えていく構造をしっかりと腹中におさめながら、心を汚さず、淡々とサティを入れながら、平然と観じきっていく・・・。これが、ヴィパッサナー瞑想者の「忍耐」の修行です。


Dさん:
  自分の仕事以外のことを振られましたが、「理不尽なことでも受け入れることが大切」と聞いていたので、冷静に目の前のことを淡々とやりました。その結果、仕事に関する知識が増え理解が深まり、他の人や仕事を振った相手にも説明ができるようになりました。また、振られた当初はイライラしていましたが、実はその仕事を理解出来ず自分に自信が無くてイライラしていたことが分かりました。今回のことから受容することの大切さを学びました。


アドバイス:
  素晴らしいですね。ヴィパッサナー瞑想者はかくあるべし、教科書に載せたいほどの事例です。事象の生滅を、あるがままに観察していく瞑想の基本的態度は「受容的」であることです。好ましいものは掴みたくなり、不快なものは嫌悪して遠ざけたくなるのが自然な反応なのですが、快も不快も等価に観て、起きたことは起きたこととして受け容れ、淡々とサティを入れていくのが受容的態度です。それを支えているのが「捨(ウペッカー)」の心であり、究極の客観視と言ってよいでしょう。
  ヴィパッサナー瞑想の修行現場で訓練している心が、この世の、生き馬の目を抜く苛酷な職場環境でも維持され、適用されていることに感銘を覚えます。結界の中の聖域である寺の修行よりも、難易度の高い修行をやり抜いたことに賞賛を禁じ得ませんね。
  智慧の眼差しが備わっているので受容できるのだとも言えますが、逆もまた真なりで、受け容れる覚悟が智慧の眼をゲットさせるのだとも言えるでしょう。たとえ理不尽なことでも、起きたことには意味があるのだから、ひとまず受け容れようと腹がくくれているので、事態を冷静に客観的に観ることができ、結果的に多くの深い学びが得られたという流れです。
  不快なことや理不尽なことが起きれば、「ふざけんな!アホンダラ!」と反射的に拒んだり防衛的になったり、逆襲モードになったりします。自己中心的な視座から眺めている時の特徴です。しかるに、「起きたことは正しい、と言われてるのだから、ひとまず受け容れよう・・」と思った瞬間に視点が変わり、客観的に、ありのままに事態を眺めることが可能になってきます。自分に不足していた点やマイナス要因も視えてくるだろうし、次にどう対処すべきかの筋道が見えてきます。智慧が出てくるプロセスだとも言えるでしょう。
  しかし、馬鹿の一つ覚えで、常に「全てを受け容れる」と決めてしまうと、致命的なダメージを受けて壊されてしまうこともあり得ます。飽くまでも自分の力量や分際を心得て、どうしても納得がいかなかったり、危ないと感じたら断る勇気も必要です。自己客観視の瞑想をしているのですから、大事なポイントです。


Eさん:
  仕事の上で苦手というか、人の言葉を否定したり非受容的な態度が目について、どうしても好きになれない人がいます。むしろ嫌悪していると言ってもいいかもしれません。人を多角的に観るためには情報を集めることが重要だということをよくお聞きしますが、たまたまその人の知り合いからいろいろと話を聞くことがありました。それで、その人がそうなった背景も少しわかって、見方が少し変わったと感じたこともあります。ただ、いつも必ずそうなるわけではありません。集まった情報だけではうまくいかない時には慈悲の瞑想をするのが一番良いのではと思っていますが、いかがでしょうか。


アドバイス:
  嫌いなものが嫌いではなくなっていく心の変容は、心の清浄道と呼ばれるヴィパッサナー瞑想の最重要課題とも言えます。これは怒りの煩悩を根絶やしにしていくのと同義であり、人生の苦しみは、心の変容がなかなか思いどおりにできないことに起因すると言ってよいでしょう。人生には必ず嫌なことが起きてきます。現実というものは、頭の中の妄想どおりにはなりません。皆と一緒に生きている地球だし、誰もが業を作りその結果を受けている複雑系の宇宙網目の世界です。何よりも自分自身が過去に作ってきた膨大なカルマが日々現象化してくるのです。善業しか作らなかった人がいるでしょうか。誰も悪いことをしてきたし、怒ったり貪ったり意地悪だったり傲慢だったりしてきたのだから、嫌なことが何も起きない日が永続することなどあり得ないのです。

  苦が必ず発生してしまう世界構造の中で、苦を乗り超えるには、嫌なものが嫌でなくなるように心を変容させるしかないでしょう。あなたは今、その仏教の最重要課題に取り組んでいるのですが、そうそう簡単なことではありません。心を変えるのも、視座を転換させるのも、執着や渇愛を手放すのも、エゴ妄想のカラクリを覚るのも難題です。
  私も「情報の力」ということをしばしば申し上げてきましたが、その効果は検証されたようですね。とはいえ、いつもうまくいくとは限らないのは仰るとおりです。それは、集められた情報が「認知の転換」を起こすほどのものではなかったことが一因です。素晴らしい、感動的な情報が集まってくれば心の変容もたやすいのですが、そんなことは滅多に起きないでしょう。
  さて、どうするか。やはり慈悲の瞑想か、というご質問ですね。
  慈悲の瞑想は正解なのですが、どのように実践し、いかに深めていくかがポイントです。慈悲の瞑想の文言を唱えることは誰でもすぐにできますが、心の底から怒りを手放し慈悲の心を確立するのは大変ですね。どうしたら慈悲の瞑想ができるようになるか、は私にとっても長年のテーマだったので、瞑想ブックレット第1号『瞑想との出会い-瞑想とやさしさ-』の中で考えてみました。参考になるかと思いますので、よろしかったらお読みください。


◎念仏式慈悲の瞑想
  私自身は、いろいろなことをきちんと納得して腹に落とし込んでいかないとダメなタイプですが、念仏を唱え続けるように慈悲の瞑想を繰り返すうちにうまくいった事例も数多くあります。私もそういうやり方で、とても嫌悪を感じていた人に対する認知を完全に逆転させたことが一度ありました。その時のことを振り返ってみると、慈悲の瞑想をしながらいろいろなことを妄想していましたね。文言を言い続けているので、ロジカルに考察することなどはできませんが、嫌いな人が嫌いでなくなる結論は明確なので、断片的なイメージや妄想がポジティブなものに絞り込まれるように頑張っていました。詳細はもう忘れましたが、相手の嫌な顔が笑顔に変わるような強引な妄想を矢継ぎ早に繰り出しているうちに、何か一枚の絵になるようなイメージがヒットしたのでしょう。慈悲の瞑想をやっている最中に、認知がガラッと変わったのです。認識というより、情動でしょうね。何もかも赦して水に流せるような気分に包まれたのです。長時間取り組んでいましたが、終了した時には、もうこの件は完全にオシマイという状態になっていて驚きました。昔からその人が好きだったのかもしれない・・という感じでした。
  このやり方がうまくいった記憶は、この時だけだったかもしれません。理論的なのが好きですから。実践はもっと好きですけど・・。(笑)問題の相手を心に浮かべた途端に嫌悪感がどうにも止めようがないような時には、やればやるほどネガティブなイメージや妄想に巻き込まれていくのが普通かもしれません。この流れが変わらない時には、それ以上続けるのは逆効果です。慈悲の瞑想が終ったら怒りが倍増していたのでは、やらなかった方がよいことになります。


◎決意の力
  どうしても好きになれない人に慈悲の瞑想をする場合、いちばん大事なのは決意でしょうね。この因縁は必ず解く!どのような態度を取ってこようとも、絶対に乗り超えていく覚悟を定めることです。揺るぎない結論が出ていれば、全てはその方向に向かって展開していくようになります。ブレなければ必ずそうなっていくのが現象の世界です。
  次に大事なのは、やはり情報です。ネガティブな情報が耳に入った瞬間、聞かなかったことにして、ポジティブな好い情報しか受け取らないと決めるのです。事実の情報が集まらなければ、想像や妄想でもかまいません。自分の心の中の怒りを手放すことができるなら、実際の相手がどうであろうと関係ないのです。
  卑劣な、心の腐った悪人なら、怒りを持ってもよいという結論にはならないのが仏教です。こちらの心の中から怒りの煩悩が引き算されれば、相手への嫌悪感は消えるのです。その結果を出すために、公平な客観的な情報の集め方ではうまくいきません。なぜなら、こちらの心が怒りで真っ赤に染まっているのですから、相手の良いイメージだけが浮かぶように片寄った情報の集め方をしなければならないのです。


◎「内観」式発想の転換

  この考え方は、内観と同じです。自分の掛けられた迷惑は一切思い出さず、自分が相手にかけた迷惑だけを思い出す。このような極端なやり方をしないと、自己中心的な視座は変わらないし、嫌う心もなくならないということです。この内観の基本構造に基づく具体的なやり方は、こうです。
  その嫌いな人に初めて出会った時からこれまでに、お世話になったこと、助けてもらったこと、好意的な態度を示してもらったことに絞り込んで、年代順に思い出します。次に、自分がその人にどんなお返しをしてあげたかを調べます。最後に、自分がその人に対してかけた迷惑を、時系列で思い出します。行為や言動に表れたものだけではなく、殺人ビームのような怒りの眼差しで睨みつけたことや、腹の中で『クタバレ、馬鹿野郎!』と罵倒したことなど心理的行為も含めます。最後に、申し訳なかったように思えたら、懺悔の瞑想をします。・・・そして、まさにこのタイミングで、その方に慈悲の瞑想をするのです。たぶん情動脳が働いて、ウルウルしながら心のこもった慈悲の瞑想ができると思います。慈悲の瞑想が真の効果を発揮するのは、こちらが本気の本気になった時の慈愛の念の出力なのです。心がこもらなかったら、妄想や寝言とさしたる違いはないと言ってもよいでしょう。強い意志(チェータナー)が業を作るし、人の心も、未来に生起する事象も変えていくのです。
  私の経験からも、最初にしっかり懺悔の瞑想をして、自分の身を低め、お詫び申し上げるかのような懺悔モードで慈悲の瞑想を発信する時が最強の印象です。若い人でしたが、慈悲の瞑想の達人のような人がおりました。彼は、小説家になれそうなほど想像力が豊かで、これから慈悲の瞑想をする相手と自分の過去世物語を作って、涙ながらに慈悲の瞑想をしたりするのです。驚くほど、巧みな妄想でしたが、結果的に理想的な慈悲モードが全開になるのですから、私は肯定しますね。慈悲の瞑想がセオリーどおりうまくいくなら手段は選ばない方です。慈悲の瞑想マキャベリズムでしょうか・・。(笑)


◎因果論の力
  とはいえ、何の根拠もない想像や妄想では納得感が得られないのであれば、因果論の力を使うのがよいでしょう。そのような嫌らしい人に遭遇し、不快な思いをしなくてはならないカルマがこちらにあったのだと考えなくてはなりません。今、自分が感じている嫌悪感は、過去のどこかで自分が人に与えてきたものだ、と理解すべきです。誰に対しても、いつでも、どこでも、好感しか与えてこなかった人は、素敵な人や感じのよい人に出会い、うるわしい関係になっていきます。

  人に嫌悪感を催させるようなことばかりしてきた者が、嫌らしい人に出会ってしまうのが法則です。「ボク、そんなことやってきてませんけど・・」と言い切れるでしょうか。人は誰でも、自分にふさわしい人にしか出会わないのです。悪口ばかり言う人に出会うのは、自分が悪口を言ってきたからです。人を否定しネガティブな言葉ばかり言ってきた人が、今度は否定的な言葉を言いまくる人に出会って因果が帰結する法則です。今、出会っている人は、自分の作った業が避けようもなく引き寄せた人です。機が熟し、因縁を解くために出会ったのだから、腹をくくって乗り超える覚悟をすることです。
  ・・・と、まあ、このように、因果論に基づいて基本的な心構えをした上で、慈悲の瞑想の「私が嫌いな人も幸せでありますように」の一行にチャレンジしていくのはいかがですか?


◎認知が変容すると・・
  苦手な人や嫌な人というのは、こちらの修行が進むように、心が成長するように、という配慮から、天が与えてくれた絶好の修行環境なのです。がんばって因縁を解くことができれば、あなたの怒りの煩悩が削減された証しとなるでしょう。慈悲の心を成長させ、心の清浄道に大きな一歩を踏み出すことができるのです。それは、感謝以外の何物でもないでしょう。そうなった時、その嫌いだった人は自分を導いてくれた菩薩のような役割を果たしてくれた・・・と認識が完全に変わり、心から感謝を捧げることができるのです。
  ・・・これが、仏教の因果論を基礎にした心の変容の仕方ということになります。そのとき苦しみは激減しているでしょう。眼の上のたん瘤だった嫌いな人が完全に消え去って、心から感謝を捧げたい仲間と一緒に仕事をしているのですから。


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