月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

ヴィパッサナー瞑想と心の変化(1)

Aさん:どうしても貪りの心が消えません。

アドバイス:
  貪りの心というのは、本当に無くすのが難しい煩悩と言えるでしょう。すべての生物は、たとえ微生物でも、快感を好み不快感を嫌悪するというプログラムのもとで生きています。生命にとって快感を得られる状態が安定しているということは、その生命が生きていくことと直結しています。ですから、それを止めるというのは生きるのを止めようというようなもので、快く美しいもの、快美なるものを好む心を無くすのは並大抵のことではありません。
  ですが、たとえそのような前提があったとしても、問題はなぜ人間は必要以上に貪り、執着するのかということです。その理由は、頭の中で諸々の快楽を作り上げていいとこ取りをしているからに他なりません。その妄想の中の綺麗なところ、美味しいところ、楽しいところだけを頭の中でつなぎ合わせ、「とても素敵だ」「あれを手に入れれば最高に幸せだ」「あれも欲しい、これも欲しい」と欲望を起こしているのです。対象を冷静にありのままによく観ることができれば、それらの欠点や自分に合うかどうかも分かってくるでしょうし、甘いと思ったら酸っぱかったというような勘違いもあるでしょう。オブラートを取り去ればそれほどでもないのに、良いイメージだけをつなぎ合わせて膨らませ、そこにポイントを絞って執着する、そこに貪りという心が生まれてきます。
  ところで、ヴィパッサナー瞑想の中には、概念を使うサマタ系のやり方で行う随念という瞑想があります。これには慈悲随念、仏随念、死随念などがあって、そのうちの一つに不浄随念があります。この発想は、不浄な面、醜悪な面にだけ目を向けさせるような仕掛けを施して、快感に執着する心を組み替え、補正していこうというところに眼目があります。
  不浄随念に限らず随念の修行は、言葉の影響を瞬間的に受けることが如実にわかりますので、そういう意味では、ある程度修行が進んだ段階では、ヴィパッサナーの総合システムの一環として経験すると良いでしょう。ただ、修行者のマナシカーラ(manasikāra:作意、心の注意力)がどのようなものかを踏まえて、インストラクションを受けながら正しく実践していかなければなりませんので、合宿などに参加してしっかりと身につけるようにしてください。
  いずれにしても、ヴィパッサナー瞑想を正確に修行して定力が高まれば、こうしたことも鮮明に観えてくるということです。

Bさん:あと1年ほどで八十歳になります。ヴィパッサナー瞑想のモチベーションには当然「より良く生きるため」というのがありますが、この歳になりますとやはり死というものを身近に感じるようになりましたし、瞑想の時に意識を死の方のシフトに変えると執着も捨てやすく、サティも入りやすい感じがします。
  死というものは概念的なものですが、それを思うことでむしろより多くの生が向こうからやって来るように感じる時もあります。死は経験したことはないので所詮概念ではありますが、ヴィパッサナー瞑想の中で具体的に死というものを意識してそれを捉えるというのは、どういうことなのかというのをお聞きしたいのですが。

アドバイス:
  まず、サティの瞑想を始めたら、たとえそれがすばらしいテーマであっても考えごとには一切手を出さないというのが原則です。ですから、もし「死とは何ぞや」的な考えが始まったら必ず「妄想」とサティを入れて中心対象に戻さないと、気づきの瞑想にはなりません。
  ただ、Aさんへのアドバイスでも触れましたが、随念の瞑想の中に「死随念」というのがありますので、少しお話ししたいと思います。
  タイのお寺で、「瞑想中に眠いんですけど」なんて言って、アチャンによく、「死ぬことを考えろ!」というようなことを言われている人がいましたが、本当に明日死ぬかも知れないという気持だったらまず怠け心は吹っ飛びますよね。だから死を随念すること自体はものすごく重要な随念系の修行の代表的なテーマなのです。
  「有終の美を飾る」と言いますが、どれくらい先かは分からなくても、誰でも例外なく今世は終わる訳ですから、自分のフィナーレではきれいな心で来世につないでいく、聖なる修行の完成に向かってより良い再生を目指して死んでいくべきでしょう。
  死ぬ瞬間の心、自分の存在に対して終了宣言する心を「死心」と言い、その直前の最後に業を作る心を「死近心」と言います。これは、チェータナー(cetana:行為を引き起こす原因となる心の要素)という意志が伴って、その内容によって次はただちに「結生識」(けっしょうしき)で再生してしまう、原始仏教ではこう考えています。
  死んだあと再生するまでに「中有」という時間帯があるとする考え方は、原始仏教にはありません。「死近心」が怒りだったら怒りの所に再生します、貪りや物惜しみだったら餓鬼系のところに再生するというようなことです。この死の直前の心が次の心に接続して、再生した最初の心「結生識」になるのです。
  例えば、私が母親の介護をしていた2年間、毎日ではありませんが、どうやって死んでいくかという話ばかりでした。「お母さん、これから死ぬんだから、人生最後の仕事は死ぬことだから、キレイに死のうね」みたいな感じで。死は怖くないし、どういうふうに自分の人生を締めくくるかという、死に方のレッスンのようでしたが、母は完全に納得していました。
  輪廻転生が有るのか無いのかという段階の話ではなく、これはもう本当に詳しく説かれています。私たちも、若いうちはまだ先がある印象ですが、だんだん歳を取ってくれば確実にこの世を出て行くときが近づくわけですから。それならもう最優先の仕事は、キレイな心でいかに死んでいくか、自分の今生の人生の幕を閉じるかということですね。ですから、基本的な方向としては、死を随念しながらヴィパッサナー瞑想を総合的にやることは正解と言えます。頑張ってください。

Cさん:以前は何時間眠らなくてはと、その時間の長さに囚われていた気がします。仕事に行き詰まったり、不安とか焦りや苛立ちがあった時、眠ることで逃げているような状態があったのですが、合宿以来そういうことが薄れてきた感じです。
  また、坐る瞑想の時など、今までは短距離競走のスタートですぐに飛び出したくなるような感覚、焦りのようなものがありましたが、合宿の後はそれも薄れたなという感じです。仕事や日常の生活の上でも、合宿が終わった時の状態をある程度保っているように感じます。

アドバイス:
  修行者の方の修行が進んだかどうか、それをどこで見るかというと、やはりその人の実生活がどう変わったかというところです。本当に良い修行をすれば、やはり変わります。合宿の修行も一時的な体験に終わってしまい、実生活が前と何も変わらなかったら、それでは修行が実を結んだとは言いがたいでしょう。
  睡眠時間については、何時間寝なければという考えを持っている方も多いと思います。ですが、自分の思いどおりの時間寝られたとしても、もしネガティブな妄想が多く、不善心所モードに陥ることが多ければ、とても疲れるということです。当然仕事の効率も悪いし、いくら寝ても疲れが残っている感じですっきりしないでしょう。逆に、頭の中が常に整理されて妄想もなく、一つひとつの動作や仕事に気づきがあって集中できるなら、基本的に睡眠の質がよいので、短い睡眠でも疲れは取れてしまいます。
  そういう意味で、ヴィパッサナー瞑想をすると頭の使い方の効率がとても良くなるはずです。結果、心がスッキリし、生活がシンプルになってますます良い循環になっていきます。
  ネガティブな妄想が頭に充満している状態こそ、悪いホルモンが分泌され、悪疲れする元凶だと心得てください。「疲れた、疲れた」と言いたくなるのは、物理的に体が疲れているのではなく、不善心所だったことの証しです。不善心所モードになれば、芋づる式に嫌な記憶が連想され、そのたびごとに心が曇り体も反応し、暗くなり重くなり鬱陶しくなって疲れていくのです。
  ですから、これは皆さん全員に申し上げたいのですが、毎日10分以上の瞑想がいかに重要かということです。調子の悪い時ほど頑張ってください。今日はやりたくないという時でも、内容はどれだけ悪くてもやった方が良いのです。妄想を離れよう、心をきれいにしようという意志を持つだけでも意味があるのです。そうすると必ず心がきれいになる方向が出てきますし、苦のない人生に向かって歩みを廻らすことができます。

Dさん:今まで私は身体の調子がすぐに悪くなったり、すぐキーンと頭が痛くなるような緊張状態がありました。先生のお話から、何か理想型みたいなのに囚われて、これじゃだめだという自分を否定する気持ちがいつも働いていて、それが私の身体を緊張させてしまうことに気づきました。
  今までは、主人がイヤなことを言うから私がストレスで身体を壊すのだといつも人のせいにしていたのですが、そうではなくて、私は自分で自分を緊張させるものを発していたのだなあ、と気が付きました。

アドバイス:
  いいですね。非常に良い話です。それは、来し方ですね。いわば幼児期から、ずっとそういう反応をするように条件付けられた原因があるので、そういう心の動き方になっているのでしょう。いわばそれが自分の人生だったわけです。
  もしそのために自分の身体を痛めるようなことになるのだったら、その反応パターンは良いパターンではありませんから、修正した方がよろしいでしょう。実に多くの人が、原因を自分以外の誰かのせいにしたがるものです。家族が無神経だからだ、上司や同僚が悪い性格なので、私が苦しむ。といった具合に人のせいにすると、自分の心の問題を見なくてすむし、プライドが守られます。でも、真実から目を背けている限り、問題が解決することはありません。
  しかるに、ヴィパッサナー瞑想のセオリー通り、ありのままに自分の心を観ていけば、真相が明らかになっていきます。原因が判明し、それを修正していけば、どんな問題も必ず乗り超えられていくでしょう。とても素晴らしいレポートです。良い発見をなされたし、ヴィパッサナー瞑想の鑑とも言うべきものです。頑張ってください。

Eさん:一般論としてですが、ヴィパッサナーを続けていけば思考の転換はおのずと起きてくるものでしょうか。

アドバイス:
  起きてきます。ただし、ヴィパッサナー瞑想をちゃんとやっていけば、です。つまり、サティやサマーディ狙いの瞑想だけに特化するのではなく、いつもお話ししているように、慈悲の瞑想や懺悔の瞑想を始めとして、悪を避け善をなす、戒を受け入れる、善行を心がける、といった総合的システムとして実践していくならば、ということです。それが、ブッダのヴィパッサナー瞑想本来のやり方なのです。
  サティの瞑想と慈悲の瞑想だけは好きなのでやっていくが、それ以外のものはやりたくないというような、部分的なやり方では完璧とは言えません。もちろん、サティと慈悲の瞑想の二つだけでも、気づく心と慈悲の心が育っていきますので大きな効果が得られるでしょう。
  しかしそうは言っても、元々煩悩に汚染された心で生まれてきた私たちは、明確な倫理の基軸を持たない限り、人生の現場ではいとも簡単に濁流に呑み込まれてしまうものです。いかなる情況に置かれても、正しい判断ができるかどうか。正しく考え、正しい道を揺るぎなく選ぶことができるか。サティが入らなくても、たとえ反射的に反応しても、悪を避け善を選ぶことができるだろうか、と問われれば、難しいのです。まちがった考え方を長年に渡って心に組み込んできた人が、汚染されていた心をきれいにするためには、それなりの覚悟が必要です。腐った思考と発想のパターンを根底から組み換えるには総力戦なのです。
  そのためには、ブッダが説いた「戒→定→慧」の流れに従い、仏教全体を総合的システムとして実践していくことが不可欠です。そういうやり方をしていけば思考の転換は自ずと起き、苦は必ず癒せます。

Eさん:五戒というところから始めることになると、瞑想だけに限らず生活全般にわたるということですね。

アドバイス:
  仰る通りです。「自分の生き方の基本軸にブッダの教えを選ぼうじゃないか」という感じでやっていくと、それだけで激変します。生活全部が変わり、生き方も変わっていきます。もちろん心も変わって発想、価値観も変わるので、過去の受け止め方も変わり、受容できなかったものが受容できるようなるということです。(文責:編集部)


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