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ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~


            <ヴィパッサナー瞑想と心の変化 (1)(2)(3)


ヴィパッサナー瞑想と心の変化(1)

Aさん:どうしても貪りの心が消えません。

アドバイス:
  貪りの心というのは、本当に無くすのが難しい煩悩と言えるでしょう。すべての生物は、たとえ微生物でも、快感を好み不快感を嫌悪するというプログラムのもとで生きています。生命にとって快感を得られる状態が安定しているということは、その生命が生きていくことと直結しています。ですから、それを止めるというのは生きるのを止めようというようなもので、快く美しいもの、快美なるものを好む心を無くすのは並大抵のことではありません。
  ですが、たとえそのような前提があったとしても、問題はなぜ人間は必要以上に貪り、執着するのかということです。その理由は、頭の中で諸々の快楽を作り上げていいとこ取りをしているからに他なりません。その妄想の中の綺麗なところ、美味しいところ、楽しいところだけを頭の中でつなぎ合わせ、「とても素敵だ」「あれを手に入れれば最高に幸せだ」「あれも欲しい、これも欲しい」と欲望を起こしているのです。対象を冷静にありのままによく観ることができれば、それらの欠点や自分に合うかどうかも分かってくるでしょうし、甘いと思ったら酸っぱかったというような勘違いもあるでしょう。オブラートを取り去ればそれほどでもないのに、良いイメージだけをつなぎ合わせて膨らませ、そこにポイントを絞って執着する、そこに貪りという心が生まれてきます。
  ところで、ヴィパッサナー瞑想の中には、概念を使うサマタ系のやり方で行う随念という瞑想があります。これには慈悲随念、仏随念、死随念などがあって、そのうちの一つに不浄随念があります。この発想は、不浄な面、醜悪な面にだけ目を向けさせるような仕掛けを施して、快感に執着する心を組み替え、補正していこうというところに眼目があります。
  不浄随念に限らず随念の修行は、言葉の影響を瞬間的に受けることが如実にわかりますので、そういう意味では、ある程度修行が進んだ段階では、ヴィパッサナーの総合システムの一環として経験すると良いでしょう。ただ、修行者のマナシカーラ(manasikāra:作意、心の注意力)がどのようなものかを踏まえて、インストラクションを受けながら正しく実践していかなければなりませんので、合宿などに参加してしっかりと身につけるようにしてください。
  いずれにしても、ヴィパッサナー瞑想を正確に修行して定力が高まれば、こうしたことも鮮明に観えてくるということです。

Bさん:あと1年ほどで八十歳になります。ヴィパッサナー瞑想のモチベーションには当然「より良く生きるため」というのがありますが、この歳になりますとやはり死というものを身近に感じるようになりましたし、瞑想の時に意識を死の方のシフトに変えると執着も捨てやすく、サティも入りやすい感じがします。
  死というものは概念的なものですが、それを思うことでむしろより多くの生が向こうからやって来るように感じる時もあります。死は経験したことはないので所詮概念ではありますが、ヴィパッサナー瞑想の中で具体的に死というものを意識してそれを捉えるというのは、どういうことなのかというのをお聞きしたいのですが。

アドバイス:
  まず、サティの瞑想を始めたら、たとえそれがすばらしいテーマであっても考えごとには一切手を出さないというのが原則です。ですから、もし「死とは何ぞや」的な考えが始まったら必ず「妄想」とサティを入れて中心対象に戻さないと、気づきの瞑想にはなりません。
  ただ、Aさんへのアドバイスでも触れましたが、随念の瞑想の中に「死随念」というのがありますので、少しお話ししたいと思います。
  タイのお寺で、「瞑想中に眠いんですけど」なんて言って、アチャンによく、「死ぬことを考えろ!」というようなことを言われている人がいましたが、本当に明日死ぬかも知れないという気持だったらまず怠け心は吹っ飛びますよね。だから死を随念すること自体はものすごく重要な随念系の修行の代表的なテーマなのです。
  「有終の美を飾る」と言いますが、どれくらい先かは分からなくても、誰でも例外なく今世は終わる訳ですから、自分のフィナーレではきれいな心で来世につないでいく、聖なる修行の完成に向かってより良い再生を目指して死んでいくべきでしょう。
  死ぬ瞬間の心、自分の存在に対して終了宣言する心を「死心」と言い、その直前の最後に業を作る心を「死近心」と言います。これは、チェータナー(cetana:行為を引き起こす原因となる心の要素)という意志が伴って、その内容によって次はただちに「結生識」(けっしょうしき)で再生してしまう、原始仏教ではこう考えています。
  死んだあと再生するまでに「中有」という時間帯があるとする考え方は、原始仏教にはありません。「死近心」が怒りだったら怒りの所に再生します、貪りや物惜しみだったら餓鬼系のところに再生するというようなことです。この死の直前の心が次の心に接続して、再生した最初の心「結生識」になるのです。
  例えば、私が母親の介護をしていた2年間、毎日ではありませんが、どうやって死んでいくかという話ばかりでした。「お母さん、これから死ぬんだから、人生最後の仕事は死ぬことだから、キレイに死のうね」みたいな感じで。死は怖くないし、どういうふうに自分の人生を締めくくるかという、死に方のレッスンのようでしたが、母は完全に納得していました。
  輪廻転生が有るのか無いのかという段階の話ではなく、これはもう本当に詳しく説かれています。私たちも、若いうちはまだ先がある印象ですが、だんだん歳を取ってくれば確実にこの世を出て行くときが近づくわけですから。それならもう最優先の仕事は、キレイな心でいかに死んでいくか、自分の今生の人生の幕を閉じるかということですね。ですから、基本的な方向としては、死を随念しながらヴィパッサナー瞑想を総合的にやることは正解と言えます。頑張ってください。

Cさん:以前は何時間眠らなくてはと、その時間の長さに囚われていた気がします。仕事に行き詰まったり、不安とか焦りや苛立ちがあった時、眠ることで逃げているような状態があったのですが、合宿以来そういうことが薄れてきた感じです。
  また、坐る瞑想の時など、今までは短距離競走のスタートですぐに飛び出したくなるような感覚、焦りのようなものがありましたが、合宿の後はそれも薄れたなという感じです。仕事や日常の生活の上でも、合宿が終わった時の状態をある程度保っているように感じます。

アドバイス:
  修行者の方の修行が進んだかどうか、それをどこで見るかというと、やはりその人の実生活がどう変わったかというところです。本当に良い修行をすれば、やはり変わります。合宿の修行も一時的な体験に終わってしまい、実生活が前と何も変わらなかったら、それでは修行が実を結んだとは言いがたいでしょう。
  睡眠時間については、何時間寝なければという考えを持っている方も多いと思います。ですが、自分の思いどおりの時間寝られたとしても、もしネガティブな妄想が多く、不善心所モードに陥ることが多ければ、とても疲れるということです。当然仕事の効率も悪いし、いくら寝ても疲れが残っている感じですっきりしないでしょう。逆に、頭の中が常に整理されて妄想もなく、一つひとつの動作や仕事に気づきがあって集中できるなら、基本的に睡眠の質がよいので、短い睡眠でも疲れは取れてしまいます。
  そういう意味で、ヴィパッサナー瞑想をすると頭の使い方の効率がとても良くなるはずです。結果、心がスッキリし、生活がシンプルになってますます良い循環になっていきます。
  ネガティブな妄想が頭に充満している状態こそ、悪いホルモンが分泌され、悪疲れする元凶だと心得てください。「疲れた、疲れた」と言いたくなるのは、物理的に体が疲れているのではなく、不善心所だったことの証しです。不善心所モードになれば、芋づる式に嫌な記憶が連想され、そのたびごとに心が曇り体も反応し、暗くなり重くなり鬱陶しくなって疲れていくのです。
  ですから、これは皆さん全員に申し上げたいのですが、毎日10分以上の瞑想がいかに重要かということです。調子の悪い時ほど頑張ってください。今日はやりたくないという時でも、内容はどれだけ悪くてもやった方が良いのです。妄想を離れよう、心をきれいにしようという意志を持つだけでも意味があるのです。そうすると必ず心がきれいになる方向が出てきますし、苦のない人生に向かって歩みを廻らすことができます。

Dさん:今まで私は身体の調子がすぐに悪くなったり、すぐキーンと頭が痛くなるような緊張状態がありました。先生のお話から、何か理想型みたいなのに囚われて、これじゃだめだという自分を否定する気持ちがいつも働いていて、それが私の身体を緊張させてしまうことに気づきました。
  今までは、主人がイヤなことを言うから私がストレスで身体を壊すのだといつも人のせいにしていたのですが、そうではなくて、私は自分で自分を緊張させるものを発していたのだなあ、と気が付きました。

アドバイス:
  いいですね。非常に良い話です。それは、来し方ですね。いわば幼児期から、ずっとそういう反応をするように条件付けられた原因があるので、そういう心の動き方になっているのでしょう。いわばそれが自分の人生だったわけです。
  もしそのために自分の身体を痛めるようなことになるのだったら、その反応パターンは良いパターンではありませんから、修正した方がよろしいでしょう。実に多くの人が、原因を自分以外の誰かのせいにしたがるものです。家族が無神経だからだ、上司や同僚が悪い性格なので、私が苦しむ。といった具合に人のせいにすると、自分の心の問題を見なくてすむし、プライドが守られます。でも、真実から目を背けている限り、問題が解決することはありません。
  しかるに、ヴィパッサナー瞑想のセオリー通り、ありのままに自分の心を観ていけば、真相が明らかになっていきます。原因が判明し、それを修正していけば、どんな問題も必ず乗り超えられていくでしょう。とても素晴らしいレポートです。良い発見をなされたし、ヴィパッサナー瞑想の鑑とも言うべきものです。頑張ってください。

Eさん:一般論としてですが、ヴィパッサナーを続けていけば思考の転換はおのずと起きてくるものでしょうか。

アドバイス:
  起きてきます。ただし、ヴィパッサナー瞑想をちゃんとやっていけば、です。つまり、サティやサマーディ狙いの瞑想だけに特化するのではなく、いつもお話ししているように、慈悲の瞑想や懺悔の瞑想を始めとして、悪を避け善をなす、戒を受け入れる、善行を心がける、といった総合的システムとして実践していくならば、ということです。それが、ブッダのヴィパッサナー瞑想本来のやり方なのです。
  サティの瞑想と慈悲の瞑想だけは好きなのでやっていくが、それ以外のものはやりたくないというような、部分的なやり方では完璧とは言えません。もちろん、サティと慈悲の瞑想の二つだけでも、気づく心と慈悲の心が育っていきますので大きな効果が得られるでしょう。
  しかしそうは言っても、元々煩悩に汚染された心で生まれてきた私たちは、明確な倫理の基軸を持たない限り、人生の現場ではいとも簡単に濁流に呑み込まれてしまうものです。いかなる情況に置かれても、正しい判断ができるかどうか。正しく考え、正しい道を揺るぎなく選ぶことができるか。サティが入らなくても、たとえ反射的に反応しても、悪を避け善を選ぶことができるだろうか、と問われれば、難しいのです。まちがった考え方を長年に渡って心に組み込んできた人が、汚染されていた心をきれいにするためには、それなりの覚悟が必要です。腐った思考と発想のパターンを根底から組み換えるには総力戦なのです。
  そのためには、ブッダが説いた「戒→定→慧」の流れに従い、仏教全体を総合的システムとして実践していくことが不可欠です。そういうやり方をしていけば思考の転換は自ずと起き、苦は必ず癒せます。

Eさん:五戒というところから始めることになると、瞑想だけに限らず生活全般にわたるということですね。

アドバイス:
  仰る通りです。「自分の生き方の基本軸にブッダの教えを選ぼうじゃないか」という感じでやっていくと、それだけで激変します。生活全部が変わり、生き方も変わっていきます。もちろん心も変わって発想、価値観も変わるので、過去の受け止め方も変わり、受容できなかったものが受容できるようなるということです。(文責:編集部)


ヴィパッサナー瞑想と心の変化(2)

Aさん:自分が大切にしているものやきれいにしているものを他人に汚されたりするとどうしても怒りが出る時があります。サティでその場は収まっても同じことがあればまた堂々巡りです。そんなにきれいにしなくてもと頭では分かっていても、脅迫的なものでどうしても治まらないところがあって、そういう性格を自分でも治していきたいと思っています。

アドバイス:
  サティを入れて妄想を止めそれ以上エスカレートさせないというのは大事なのですが、それだけでは完全には治せませんから、反応系の修行をする必要があります。それは結局発想の転換にもっていくことです。
まず第一に視点をちょっと変えてみます。
  
大切にしているものを汚されたら嫌だという人はけっこういるでしょう。あるいは、汚れは気にしないけれど音に対しては敏感だというように、これまでの人生の積み重ねによって人それぞれにそのこだわり方や心の癖に違いがあります。
  また、ひと口で汚されるのが嫌だと言っても、誰が汚したのかということでまた違ってきます。他人に汚されたらすぐに怒るような人でも、子供や孫、あるいはペットだったらどうでしょうか。
  私の場合を例にあげてみましょう。私はけっこうきれい好きの方で、もし自分が一人でコーヒーをうっかりこぼしたりすると、「やっちゃたか!」とか「あーあ、汚したか!」とか、わりとそういう反応が起きるタイプでした。
  ところが、瞑想合宿の時に気づいたのですが、そういった汚れが全然違って見えるのです。喫茶コーナーというのがあって、コーヒーの粉やらなにやらでけっこう汚れた跡を見ても、「10日間みんなここでサティを入れながら喫茶の瞑想に頑張っていたのだな・・。まさにツワモノどもが夢のあとだ」と言うような気持ちが湧いてきました。
 私には子供はいませんが、合宿という状況では父親の立場なのですね。また生徒さんにとっては、私のインストラクションしかありませんから子供とも言えますし。そうすると、合宿が終わったあとのコーヒーのシミやら何やらがかえって可愛く見えてきました。汚れたと言えば言えるのですが、汚されたという感覚はまったくなくて、むしろ「こうしてみんな頑張ってくれたんだなあ・・」というような気持ちしか起きないのです。
 それは自分でもちょっと意外でした。そのシミがみんなが修行した証し、成長した証しに見えるという経験をしてから、汚れに対しては発想が変わりました。子供が柱に傷をつけたり落書きしたりは、まさに子供が元気いっぱい遊んだ証しです。そしてその傷跡は育っていった夢のあとみたいなものと思ってはどうでしょうか。
  「一水四見」という言葉があります。天人は水を水晶の床と思い、人間は水と見、餓鬼にとっては血膿であり、魚は棲みかとしている。つまり対象は一つでも見方によって認識が変わるという喩えです。視点が変われば同じものが全然違って見えるということですね。ここのところのプログラムの書き換えができれば、まさに一瞬にして終了するくらいの話です。
  第二は、それにこだわるようになった原因を遡って探していくというやり方があります。すべての習慣的な心癖にはそれが作られてきた歴史があるわけですから、それを探究してみます。もしかすると、汚れに対して決定的に嫌うことになった幼い頃の体験があるかも知れません。汚したことでこっぴどく叱られたり虐められたりして子供心に大きな傷痕を残したというような、決定的に汚れを忌避する原因があれば、それが無意識のうちに現在に影響を及ぼしていることが考えられます。もしそういうことがあったと分かったなら、原点に遡って徹底的に理解して受け容れ、その上で手放してしまう、そうすれば終わりになります。
  最後は、視点の違いをも越えるような、根本からの発想の見直しです。
  生きるというのは汚れること、逆に無菌状態は異常だということを理解しましょう。たとえば、花粉症などは日本と比べてより自然に近い暮らしをしているような所では起きません。なぜなら、ひと言で言えば人間も動物ですから。つまり、本来雑菌に囲まれて免疫を働かせながら生きていくように設計されているということです。病気の治療のために求められているわけでもないのに、無菌の状態や限度を超えて何でもかんでも抗菌製品を好むというのはむしろ異常です。雑菌に対する免疫が、その本来の仕事がなくなったために今度は花粉にまで反応するようになってしまったということです。もちろん、わざわざ汚い環境にする必要はないですし、病気その他で免疫力が低下している時や、災害の後などで伝染病の蔓延が憂慮される場合には、それ相応の対応が必要なことは言うまでもありません。
 私の学生時代に銭湯へ行っていた時のことです。遅い時間に行くともう湯船はけっこう汚れています。でも入らなくてはならないので「よしそれなら」と思って発想を変えました。
 「純粋培養の世界にばかり生きていたのでは、生命力が弱ってしまう。みんな一日働いて流した汗をきれいにするために汚れていったお湯ではないか。ここにはみんなの垢が浮いているかもしれないけど、それがまさに雑草のように強く生きていく生命力の象徴なのだ」と。そう発想したらまったく嫌ではなくなりました。
  自分なりの発想の転換をいろいろ試みてください。そうすればきっと新しい発見があって考え方の幅も広がり、人生への理解も深くなることでしょう。



Bさん:幼い時に体験した心の傷などはどのように解決していくのでしょうか。

アドバイス:
  もしトラウマと呼ばれるような心理的な傷を負っていたなら、きちんと理解して納得することが必要です。難しいことではありますが、それを乗り超えないと終りにできないでしょう。
  例えば、幼児の時に虐待された記憶があれば、どうしても親に対して良い感情は持てません。親の顔が浮かんだら「怒り」、また浮かんだら「恨み」とサティを入れればサッと離れられて、取りあえずは問題から遠ざかることができますが、少し時間が経つとまた出てきます。残念ながらサティの働きだけではこの構造は組み替えられません。何度でも蒸し返されてずっと続いていってしまいます。
  そこで、どうしてこのようなことになったのかを徹底して観ていくのです。例えば、親に虐待されるというのは、過去世からの因果関係があってのことに違いありません。そのようなネガティブな関係になってしまった因縁の流れを想像し、それに納得がいけば発想が変わるでしょう。「過ぎてしまったことだし、仕方がないことだ。私は私が受けたのと同じ苦しみを絶対に人には与えない。これからはただ前を向いて、未来を良くしていこう」とポジティブな反応が生じるものです。親の顔が浮かぶと必ず怒りや嫌悪が込み上がる反応パターンが変化し、組み替わったということになります。
  自分のネガティブな経験は、このようにまったく違う意味づけで受け入れることができない限り傷は傷のまま残り続けます。否定する心を一掃するのがポイントです。
  ただし、この作業はサティの瞑想とは別件の修行としてやらなければなりません。私はこれを反応系の修行と呼んでいて、人格を完成させる「戒」の修行の一環と考えています。在家の瞑想者にとって、これはサティの瞑想と車の両輪のように並行してなされるものと心得ておきましょう。



Cさん:ヴィパッサナー瞑想を通じてトラウマの克服が出来たらと思っています。サティだけでは難しいとのお話ですが、では具体的にはどういった過程を踏んでそうなるのでしょうか。また、そのポイントはどこにあるのでしょうか。

アドバイス:
  トラウマやコンプレックスという言葉は大まかな概念で、心に受けた傷の大きさ、深さによってその程度は千差万別です。自覚されているケースでは比較的傷が浅いのですが、重症の場合には、抑圧が深くなり本人の自覚にのぼらないというのが特徴です。 トラウマは精神医学で扱われるべきものですが、瞑想との関連でみると、①過去に問題があったことを自覚し、②ものの見方を変え、事実をありのままに受け容れることによって克服されていくケースがあります。これは心の清浄道に直結するもので、自我意識やエゴ感覚を弱め無くしていくことが重要なポイントです。「無我」の修行と言うこともできます。
  詳しく見ていきましょう。
  先ず、自覚されていないトラウマに苦しんでいるとします。このとき本人はなぜ人生がこんな苦しみの連続なのか分かっていません。トラウマ(心的外傷)の自覚を妨げているのは何かと言うと、エゴが自分を守るために、いわば自我の防衛反応としてトラウマなどどこにも無いように見せかけているのです。エゴが隠蔽しているので、エゴモードが強力である限りトラウマは浮上してきません。その結果、見事にトラウマの存在が見えなくなり自覚できなくなるのです。
  意識するのを拒んでいる張本人はエゴですから、エゴを弱め無くしていくことが取り組むべきタスクです。
  では具体的にどうすればよいのでしょうか。
  エゴを無くしていくことは、自己中心的なものの見方を無くしていくことであり、それは取りも直さず公平に、客観的にものごとを観ていく訓練に他なりません。これを私たちはすでにヴィパッサナー瞑想のサティの訓練として実践してきているのです。
  初心者は歩く瞑想や座る瞑想など身随観から始めますが、次に一瞬の心の状態とその変化プロセスを観ていく心随観に着手します。サティがうまくいくと、当然エゴ感覚が弱まってきますので、エゴが抑圧していたものの蓋が一瞬外れるということが起きてきます。強烈に抑え込まれていたトラウマが浮上する瞬間があって、それは物語の全貌がゆっくり姿を見せるといったものではなく、フラッシュバックのように原風景や最重要な出来事が一瞬浮かび上がるような具合です。もしその瞬間にサティを入れて、心に焼き付けることができたらどうでしょうか。抑圧されていたものが意識化される瞬間です。

  これは、どんな事実もありのままに観ていくサティの瞑想の真骨頂と言ってよいでしょう。一瞬一瞬のサティによって思考が止められると、思考モードから作られるエゴ感覚も弱められ一時的に消えます。すると、抑圧の蓋が外れてトラウマの所在に気づくことができるのです。隠されていたものが露わになり、無自覚だったものが自覚化され意識化されると、それだけで癒えてしまうこともかなりあります。
  「隠蔽」が主因だった場合には、正体が暴露されるだけで劇的に症状が消えていきます。しかし、苦しみの原因が自覚されただけでは克服できないケースも少なくありません。何が問題なのか分かったら、それに適切な解答や処置を与えなければ症状が続いてしまうケースです。トラウマによって個々別々の対応が必要ですが、すべてに共通しているのは「受容」することができるか否かです。

  そもそもトラウマとは、受け容れることなど到底できない、最悪の出来事に見舞われてしまった過去をもてあまし、強烈な心の生傷になっている状態です。心の傷に正面から向き合うことに耐えられないので抑圧されてしまうのですが、本心はそれに執らわれ続けているので、訳の分からなくなった苦しみに混乱しているのです。
  嫌う心、怒る心、否定する心がある限り、苦しみが根本治療されることはありません。しかしいくら打ち消し、どう抗ってみても、起きてしまった事実を変えることはできません。事実は変わらない。ネガティブに受け止める認知も変わらない。となれば、苦しみも終わらないのです。
  治るためには、起きたことは起きたこととして、心を変え、認知を変えて、受容できるかどうかの問題になるということです。絶対に許せない、受け容れられないと頑張っている限り、心の生傷が乾くことはなく、悲しみも怒りも続くでしょう。トラウマの根底にあるのは、受け容れることができない精神に帰着します。苦しみの渦中にいる方はここをまず押さえておきましょう。
  これを別の角度から観てみましょう。
  今日までトラウマとして残ってきたということは、これまでのご自身の生き方や、ものごとの受け止め方では駄目だったということです。つまり、過酷な言い方ですが、ものの見方が自己中心的と言うか、自分の視座やエゴの立場からの発想を転換する試みがなかったからでしょう。そうであれば、何らかの発想の転換がない限り、これまで通り苦しい人生が続いていくことになります。つまり、被害者であるエゴの立場から怒り否定し恨み続ける発想のまま、問題が解決し無傷の状態に癒やされていくことは困難というより不可能なのです。

  ネガティブな事実が変わらないのであれば、幸福になるためには、心を変え、経験の意味を変えるしかないでしょう。同じ経験、同じ事実であっても、従来の発想を転換し、これまでとまったく異なる受け止め方をして、新たな解釈で経験の意味を大転換させるのです。自分が経験してきたこと、起きた事実は事実として承認し、それを受け容れたうえで、自分は自分の人生を完成させていくのだと発想を転換していく・・。こうしたプロセスを経ることで、過去と訣別し、癒やされる可能性が生まれてきます。
  とは言うものの、そういう発想の転換を自分一人で行うにはやはり難しいものがあります。そこに第三者の視点から客観的な助言があれば、やはり大きな手助けとなるに違いありません。合宿などでは、私がインストラクターとしてその発想の転換を促します。例えば「あなたの考え方はとてもよく分かるし当然のことですが、でも仏教では、それはこう考えられていますね」「こういう視点もあるのではないですか」などというような双方向のやりとりがなされて、それを本人が理解し、考察し、納得した場合に最終的に発想が転換されていきます。
  強い自我を持つ方にとっては、外側の力を借りるという気持ちになることができただけで、エゴがかなり手放されているかもしれません。素直に人の助けを求めることができるのは素晴らしいことです。もちろん、これは依存心の強い人には当てはまりませんが・・。実体のないエゴにしがみついて、自分一人の力で生きていく・・と息まくのは非仏教的な発想なのです。あらゆるものが相互に関連し合って変化していくのが真相であり、それを仏教では「諸法無我」と呼んでいます。

  また、心の転換をうながす技法の一つに、瞑想とは違いますが「内観」があります。これもエゴの編集した世界を逆転させる強力な力を持っています。これはトラウマそのものに向き合うのではなく、自分が親や家族などから傷つけられたり苦しまされた百倍も千倍も愛されてきた事実に圧倒されることによって、ちっぽけなトラウマなどブッ飛んで霞んでしまうというやり方です。ただこれも、誰でもやりさえすればうまくいく保証はありません。断じてエゴを手放すものか、と自己中心的な視座を崩さずに内観をしても成功しないのです。認知の根本が変わらないからです。実体のないエゴに固執している限り、人生は苦しくなるということです。
  いずれにしても、「これは世の流れに逆らうものである」とブッダが言明されているように、仏教では「煩悩をなくせ」「心を清らかにしろ」と本能の命令や世間の生き方とは真逆の価値観を突きつけてくるわけです。心の中に革命を起こすような話ですから、もし仏教を全体的に受け入れることができれば、反応系の心が組み替わり、発想や生き方が変わるのは当然なのです。そうした別次元の地平に立ったとき、トラウマは完全に乗り越えられているでしょう。


Cさん:そのような指導は、合宿に参加することでしか受けられないのでしょうか。

アドバイス:
  やはり難しいでしょうね。現状では、個人的にアポイントを取って話をする余裕はありませんので、合宿にご参加いただき、問題に向き合っていただくことになるでしょう。1Day合宿でも個室での面接の時間が用意されていますので、検討してください。


Dさん:過去の問題もありますが、現在非常に難しいけれども解決しなければならない問題があります。それが実務に絡んでいてたいへん辛く、そんな時に怒りや投げやりの気持ちが生まれるのを少しでも無くしたいと思っています。

アドバイス:
  過去のことばかりではなく、現在進行形で起きていることも、問題を解決していく基本構造は変わりません。エゴの立場に固執すれば、捨てられないものばかりだし、変更できるものなど何もないと言いたくなるものです。しかし「ダメなものはダメだ」「許せないものは許せない」と抱えている問題や相手側を一切受け容れることができなければ、苦が無くなることはありません。世界中どこでも異なった考えや立場の違いからエゴとエゴが激突し合い、相手側や対象を否定し、ままならない苦しみに直面しているのではないですか。受け入れられないものを受け容れる発想の転換がなければ、これまで通り苦しい現状は変わりません。
  ところが仏教の根本的な考え方ははるかに超越的で、構造が雄大で最終的にはあらゆることを受容できる思想があり、その思想に基づく実践システムが見事に確立しています。単なる瞑想の技術だけの世界ではなく、今までの判断基軸とは違った価値観が入ってくるので、今まで許せなかったことが許せるようになるのです。その意識革命が起きたとき、苦しみがなくなっていることに気づくのではないでしょうか。(文責:編集部) 


ヴィパッサナー瞑想と心の変化(3)

Aさん:この瞑想をする目的を教えてください。

アドバイス:

  ヴィパッサナー瞑想をする目的は、人生の苦しみを無くすためであり、苦を無くすために心を浄らかにしていくことが目的と定義できるでしょう。
  この瞑想はもともと、悟りをひらいて解脱することを目的として始まっています。お金のことや男女関係や親子関係など、この世の苦しみは無数にありますが、どんなに苦しみを乗り超えても、最後に生存そのものの苦しみに直面します。生きて、存在を続けることには根本的な苦しみがあるのです。必ず不具合が生じて病むことがあるし、元気でいても老いていくし、愛する人たちと別れて死んでいかなければならないのです。その究極のドゥッカ()を完全に乗り超えようと出家して、修行に全てを懸けた人たちのために説かれた教えが最初期の仏教であり、その方法論がヴィパッサナー瞑想だったのです。

  在家の煩悩生活を続けている私たちにとっては遠くかけ離れた雲の上の存在のように思われますが、驚くべきことに、そうしたプロの出家者の瞑想も私たち凡夫の瞑想も、実践すべき技法も教えもまったく同じなのです。立ち位置のレベルが違うだけで、同じ一つのゴールに向かってのグラデーションなのです。

  悟りを求めるレベルの高い人も、この世の幸福を求めている普通の人も、心の汚染である煩悩を引き算していくことに変わりはないのです。苦しみの根本原因である執着や渇愛を手放していくことが心の清浄道であり、自身の欲望や嫌悪や高慢に気づいて引き算していく度に幸福度が上がっていくし、その究極が出家修行者のゴールである苦の絶滅状態だという訳です。

  ごく稀れに悟りの完成を求めて出家する人もいますが、総じて、苦しい人生をなんとかしたいという目的で瞑想を始められる方が多いですね。苦しい人生を打開するためにいろいろな方法を試してみたが、相手を変えることも外側の情況を変えることは無理だということがわかってきて、結局、自分の心を変えるしかないと覚り瞑想に出会っている方が大半です。
  もちろん人生苦を乗り超えるモチベーションとは異なり、集中力を高めたいとか能力開発に活用したいという目的で着手する方もいます。その方々のためには、ヴィパッサナー瞑想の一部門である集中型のサマタ瞑想が適しています。しかし集中力を高めようとすると、その集中を妨げている妨害要因を引き算していかなければならないということにも気づかざる得なくなります。妨害要因の多くは過去のトラウマや劣等感やネガティブな体験だったりするので、能力開発のための瞑想を徹底させようとすると結局、サマタ瞑想だけでは追いつかず、やはり心の清浄道であるヴィパッサナー瞑想に取り組まなければならないと理解していく人たちも多いです。

  過去を手放すために懺悔の瞑想をするのも効果的です。嫉妬や高慢や怒りなど煩悩という心の汚染が集中力を阻み、人生を苦しくしている元凶になっていることも理解すべきでしょうね。だからまず自分の心の汚染に気づくためにサティの瞑想をして、心の反応パターンを書き換えていくために五戒を守り、善行をして、ヴィパッサナー瞑想というシステムを総合的に実践していくことが、下世話な人生苦からの解放に始まり、解脱という究極の苦の超克に通じているのです。

  他にもさまざまな説明の仕方がありますが、以上が原始仏教の瞑想の目的と言ってもよいでしょう。



B
さん:高慢を治す修行にはどのようなものが相応しいですか。

アドバイス:
  まず「慢」について説明しますと、「高慢」は他人を見下し自分は偉い、優れていると思ってしまう不善心であり立派な煩悩の一つです。高慢の反対に自分は人よりも劣っていると感じてしまう「卑下慢」というのもあります。あいつと自分はドッコイドッコイで優劣なしと見るのは「同等慢」です。いずれも比べることがポイントで、自分と他人を比較してしまう煩悩です。

  「慢」の煩悩は悟りの第三段階「不還果」になっても残存すると言われるるほど根深い煩悩です。この煩悩はエゴや我執の強い人に多い傾向ですが、いずれも相対的なものです。劣等感の強い人や自信のない人は卑下慢に苦しみますが、比べる人が変われば一瞬にして高慢にも同等慢にもなります。
  自分に自信のない人の「慢」が強くなりがちなのは、他人との比較で自分の能力や立ち位置を量ろうとしてしまうからです。優れた能力や財力や地位や出自や社会的ステータスの高い人を過度に評価して敬ったり、憧れたり、卑屈になったり、嫉妬しがちです。反対に自分より劣った人や程度の低い人には威張るし、見くだすし、傲慢になります。

  自信がないのも、劣等感が強いのも、本来の能力とは関係がありません。どれほど高い能力を持った優秀な人でも、さらに優れた人と比べれば劣等感を刺激されるに決まっています。無能な人でも、もっとダメな人と比べれば優越感と高慢が出るのです。

  「俺が、ワタシが・・」と自我意識の強い人は、他人のエゴや自我にも敏感なのでどうしても自他の比較をやりがちです。劣等感と優越感は表裏の関係なので、慢の強い人は一番にチェックすべきポイントです。自分に自信を持っている人や自己肯定感の強い独立独歩の人は、他人と比較して自分の価値や優劣を決める必要が少ないので「慢」の煩悩が激化する傾向が少ないようです。自信がないから人と比べてしまうのか、人と比べてばかりいるから劣等感と優越感のジェットコースターになるのか微妙です。幼い頃から、人と比べられてばかりいれば当然、比較するのが上手くなり慢の傾向が強化されます。できないのを指摘され、兄弟姉妹と比べられ、励まされ、駆り立てられてきたような環境があれば気の毒です。人の目を気にして反射的に比べてしまうだろうし、ダメ出しをされてくれば当然、自己肯定感が育まれず劣等感になります。

  慢の強い人には、そうなるだけの歴史があったはずです。根本的な原因に気づいて、自覚して、練習して心のプログラムを変更していかなければなりません。具体的には、心随観の瞑想で劣等感や比べる心の由来を直視して受容していくことが根本的解決に繋がるでしょう。自分の弱さやコンプレックスを自覚し、それを個性と見て引き受けていく覚悟が定まると自信につながるものです。

  宗教的なもので乗り超えようとする人も少なくありません。神や仏など絶対的な存在に帰依したり信仰することによって、世俗的なエゴ感覚は弱められます。我が身に起きる一切の事柄を、神や仏から与えられたものとして受け容れる感覚が、凡夫と凡夫がさしたる根拠のない比較をして優劣を競い合う愚かさを超越する一つの方法になり得ます。どんな詰まらない仕事でも、「神に召される」感覚や天が与えてくれたものと受け止める感覚があれば、バカにされたり見くだされたりしても動じないでしょう。比べる心を乗り超える有力な道です。

  問題点があるとすれば、神仏などの超越的存在にひれ伏すのも、融合し一体となり神人合一を目指すのも、その究極はエゴ感覚が肥大していった最終形のウルトラ・スーパー・エゴと一つになっていく方向なので、宗教戦争のような最悪の展開もあり得ることでしょう。自分の神を否定された怒りは、基本的に自分のプライドや自尊感情を傷つけられたのと同じです。世界史をひもとけば宗教が原因となった戦争は無数にあり、その本質はエゴとエゴの激突だと思われます。

  原始仏教の方法は、徹底した因果論の理解によって自分に与えられた一切を引き受けていく方向です。その瞑想を教えている私としてはこれをお勧めしますが、押し売りする気もありません。縁のある人がやれば良いのです。

  高慢の煩悩を弱めるのに簡単ですぐにできる代表的なものは、下座行です。トイレ掃除やごみ拾いや下足番など一般に軽視されている下座行が、優越感に浸って人を見くだしがちな人にはとても良い修行になります。謙虚に人を立て、自分は下座に就く修行は人格の向上にも直結します。

  慢は、人間以外の動物にも本質的な根深い煩悩ですから、簡単に乗り超えられると思わないほうがよいでしょう。いつの日か必ず慢を無くすと決意して、ブレずに実行していけば徐々に弱められていきます。完全に根絶やしにした聖者が過去に存在した事実は、われわれの手本となるし励まされます。



C
さん:悪いことが浮かんで来た場合はサティで早く消したくなり、良いことが浮かんだ場合は見送れない自分に気づきます。また、仕事中に浮かぶ妄想も、「欲しい」「こんなことしたくない」「早く帰りたい」等々ネガティブ系で、半年瞑想しているのにとがっかりしました。そのような自己嫌悪が高じて背中が重くなり、上手く手放せず未熟さを痛感しています。

アドバイス:
  これまで無自覚だったのが、自分の心の内を見ると不善心所のラッシュだということに気づき愕然したことは大飛躍であり、落ち込む必要はまったくありません。
  プライドの高さと落ち込む度合は相関していて、落ち込んだことを「こんなんではだめだ」と否定したくなるのです。しかしそうではなく、「こんなものなんだ」と認めて、そこから1ミリでもきれいにしていこうという決意につなげていけばよいのです。

  具体的な対策としては、好き嫌いの感覚や価値観が自分好みに固まっていると反応もこれまでと変わりませんので、その反応パターンを変える修行やトレーニングが必要です。

  ちょっと厳しいので皆やりたがらないのですが、嫌なものを敢えてやってみる修行です。高慢な人が心を変えるためには、軽蔑すべき下座行に敢えてチャレンジするように、嫌いなものが嫌いでなくなるためにはその練習が必要なのです。

  「欲しい」ものに対しては「どう考えれば、それが欲しくなくなるのか」「それがなくても楽しくやるにはどうしたらよいか」と発想の転換を試みるのです。そのためには、なぜ欲しがっているのだろう。本当に必要なものだろうか。何か嫌なことやモヤモヤしたものの不快さや詰まらなさを紛らわすための代償行為なのだろうか。いったいどの部分や側面に対して欲しい、手に入れたい、と反応しているのかを分析することも必要になってくるかもしれません。

  「こんなことやりたくない」と思うことに対しては「それを喜んでやるには、どう考えればよいのだろうか」という課題を自らに課すのです。そのやりたくないことを自ら進んでやった場合の結果はどうなるだろうか。周囲の者の反応はどう変わるだろうか。やりたくないのは、なぜなのだろうか。それを嫌がらないでやっている人は何を考え、どう感じているのだろうか。

  一人で考えてもらちが明かず行き詰まったら、検索したり関連本を読んだり、人に訊いてみることです。智慧のある人や、立派な人格の人に訊くのがよいのは言うまでもありません。自分の発想で変わらないことは外側の力や他者の智慧を活用するのです。ものごとの見方や感じ方や反応の仕方は癖になっているので、意識的に変える努力をしないとひとりでに変わることはまずありません。あるとしたら、環境が変わり、つき合う人の流れが変わったり、変わるだけの要因があるからです。それを自然発生的に生じてくるのを待っていると歳を取ってしまうので、修行としてこちらからトライするのです。



D
さん:ヴィパッサナー瞑想をやっていて、ものすごくヘビーな悩みを抱えていることが自覚され、つくづく瞑想どころではない人生を送っているんだなという感じで恐くなりました。でも、それが現実ですから、逃げずにサティを入れて凝視し続けていると、今度は自分の醜悪なものがいろいろ見えてきます。その醜悪な自分が不愉快になって非常に嫌悪を感じます。それを自己受容してみようとしても、これがまたやっかいです。そのときには取りあえず慈悲の瞑想が救いになっているのでやたらにしていますが、ヴィパッサナーからは逃げてしまう感じです。もう少し前に進むために、あとは何ができるかなと思っています。

アドバイス:

  瞑想者としては、今が正念場ですね。ヴィパッサナー瞑想の本質は「あるがままの受容」です。価値判断を超越して、あるものは在る、ないものは無い、と現状を正確に承認しなければ次の仕事に着手できません。
  お話伺うと、あなたの修行はとても進んでいるのですよ。誰もが反射的に目を背けがちな、自分自身の暗部というか、ネガティブな醜い側面を直視する仕事ができたレポートですから。最重要の、事実をありのままに承認する貴重な仕事ができただけでお手柄なのです。

  承認はできたものの、醜い自分の姿に耐えがたいからと慈悲の瞑想に救いを求めるのは、この場合根本的な解決にはなりません。

  第一関門は突破したのですから、受容の第二段階へ突入すべきです。心底から事実を認め、絶対にそれを乗り超えると決意し、実際的な修行を試みる順番です。「醜い状態や現状」で固まってしまうと、突破できません。そのような状態や性向がどのような流れで形成されていったかを、もっと正確に視るのです。全ては因果の所産なのですから、どんな性格や心の反応パターンでもそれが作られていった歴史があります。怒りっぽいのも、傲慢なのも、嫉妬深いのも、賞賛すべき好ましい傾向も・・全て必然の力に促されて形成されていったのです。

  ネガティブな傾向があるとしたら、幼少期から苦しい情況や難しい人間関係にさらされていたはずです。現状の直視でストップしてしまえば、不快な情緒的反応の域を乗り超えるのが難しいのです。その状態を構成しているファクターに分解して、なぜその状態になっていったかの由来や原因やいかんともしがたかった事の展開を読み解いていくプロセスで、どのように受け止め、これから何をどうすべきか、が見えてくるものです。「わからない」というのは「分けられない」からであり、要素や要因に仕分けることができれば、必ず解決の糸口が見えてくるものです。もちろん、自分一人では手に余るようでしたら、カウンセラーやセラピストなどその道の専門家がいますから、善知識の導きに任せることも必要でしょう。
  要因を分析する方法は、万人向けではないかもしれませんが、「ネガティブな事象の完全受容」には必要不可欠な一つの段階です。トラウマや情緒的な解放がなされていなければ、知的な納得だけでは限界があるのでその仕事もやらなければならないでしょう。他者からの共感や癒しが大きな助けになる場合が多いです。どんなに難しい問題であっても、そのように展開していった流れがあったのだから、それを解き放っていくこともできるのです。

  何事も、円滑に展開し、良き結果に繋げていくには無量無数の力が働いてのことです。良き流れにあずかるためには衆善奉行です。あらゆる善行を心がけてカルマを整え、波羅蜜を貯えなければ上手くいかないでしょう。善行を心がけてください。

  慈悲の瞑想は、苦しい現状から目を背ける作用をすることもありますが、苦しくて、切なくて、耐えがたく感じた時には、遠慮せずに堂々と慈悲の瞑想に救いを見出して結構です。ネガティブな傾向が刷り込まれていかざるを得なかった、憐れな、気の毒な幼い自分を優しく抱きしめるように自分に対する慈悲の瞑想をしてあげることも大事です。

  もう一つ、ネガティブな自分を完全に受容するのを妨げているのは、プライドだと思います。良い意味での自尊感情を守るために必要なプライドもありますが、くだらないエゴ妄想や「慢」の煩悩に根差したプライドは結局自分自身に苦を与えてくるので手放していかなければなりません。これも大きな仕事ですが、すべて関連し合った複雑系ですから、ここから突破口が開けることもあるでしょう。病気になった期間の2倍かかって治療は完了するなどと言われるように、長い時間をかけて形成されたものを変容させるには、さらに長い時間が必要です。長期戦と心得て、死ぬまでに解くべき因縁が解ければ成功した人生と言えるでしょう。

  何よりも大事なのは、揺るぎない決意です。事物も人の心も存在する全ての事象は無常の法則に貫かれています。変わらないものは何もないのです。断固として、ブレずに心の清浄道を歩み抜く覚悟を定めれば、いつの日か必ずそうなっていきます。人は自分のなりたい者になれるのです。がんばってください。



Eさん:内観によって過去から解放されましたが、自己否定的に捉えてしまう心のクセが残存しています。

アドバイス:
  内観で過去から解放されたとのこと、良かったですね。内観のポイントは、自我形成に最も大きな影響を及ぼした親や家族などいわゆる「重要な他者」との関係性を総点検して自分史全体を省みることです。過去を想起するチェックポイントが決められており、自己中心的な視座から編集された記憶の体系を突き崩して、自分自身を対象化する「視座の転換」の仕事に直結していることでしょう。

  なぜ内観はヴィパッサナー瞑想の一部門であり、反応系の心の修行として真っ先に取り組むべきだと強調するかは、まさにこの修行構造にあるのです。多くの方が、親や家族から受けたネガティブな仕打ちに対して憤りを抱えながら人生をやっています。これは、自分の受けてきた恩愛は当たり前で一顧だにせず、嫌な記憶を繰り返し脳内再生しながら怒りと恨みをくすぶらせて生きてきた証しのようなものです。自分は愛されてこなかった・・と怒り続けている人が少なくありませんが、誰からも愛されずに生き残ることはできないのです。「慢」の煩悩は大人にも子供にも動物にも共通の普遍的なものですから、兄弟姉妹と比べ友達の親と比べ、相対的に自分が受け取った愛情の分量は少なかったと怒っている状態です。典型的な自己チューの発想です。たとえ虐待した親であっても、愛情をくれた瞬間がゼロだったのか。ご飯を食べさせ、服を着せてくれなかったのか・・と問うのが内観です。

  こうして過去に怒りを持ちながら生きてきた人が内観の修行に入ると、自分の掛けられた迷惑は一切思い出すことが禁じられ、自分のかけた迷惑だけを思い出さなければならなくなる訳です。ここに「自己チュー」から「自己客観視」への視座の転換が強制的に要求されてしまう内観の真骨頂があるのです。

  その内観によって過去から解放されたとしたら、あなたが過去に対する怒りを手放すことができたのだと推測できます。今まで恨んでいた親や家族に感謝できるようになり、怒りが感謝に変わっていった構造そのものに、自己中心的な視座から自己客観視の視座への大転換が起きたのだと思われます。素晴らしいことです。

  しかし、怒りを手放し、親も自分も過去の全てを受け容れ、赦すことができたことと、ネガティブな思考パターンや思い癖が変化することは違います。関係はもちろんありますが、怒りがなくなれば、自動的にポジティブ思考や明るいキャラクターに変わるとは限りません。物事の否定的な側面に真っ先に注意を向けてしまうタイプと、肯定的な明るい面を見てしまうタイプは、生まれた時からの脳の使い方や注意の向け方の問題であり、その反射的な注意の向け方と発想パターンを変えるためには、別途に異なった修行やトレーニングを行なわなければなりません。

  ネガティブ思考が悪で、ポジティブ思考が善だということではありません。スポーツで互角の戦いをしている時に、6対4あるいは7対3で不利だと感じている人もいれば、その逆に自分が有利で勝っていると思うおめでたい人もいる訳です。純粋な自己客観視は至難の業ですから、どうしてもエゴが編集した認知に偏ることは避けられません。「自己否定的に捉えてしまう心のクセ」が一掃された結果、もし自己愛の強い自分大好人間になって傲慢でホラばかり吹いているナルシストになってしまったらとんでもないですね。自己肯定感が無条件で良いと言い切ることはできないでしょう。人として基本的な自尊感情が欠けているのは問題ですから、その場合は正当なプライドが持てるように心を整えなければなりません。自己肯定も自己否定もバランスが大事です。

  もし不当に自己否定感覚が強いのであれば、やはり修正すべきでしょうから、それなりのトレーニングや心構えが必要になります。例えば「褒める練習」などというものもあります。自分の家族、友人、同僚、顧客、その日出会った行きずりの人、動物も、テレビ番組も、社会的な出来事も、車の運転中にふと見かけた看板も・・あらゆる対象の良い点を3つ見つけるゲームです。褒めさえすれば何でもOKですから、やり方はいろいろです。何を見ても、誰に会っても、必ず対象の美点や良い点、ポジティブな側面に目を向ける練習です。

  あるタレントの女の子が子供の時から毎日家族で「褒めっこ遊び」というのをお母さんにやらされてきた、と語っていました。素晴らしい条件づけです。しかし明るくても暗くても、これは自分の個性でありキャラなんや、と受け容れて生きていっても問題ないでしょう。もし五戒を守り善行をして仏教の価値観を軸に生きていければ、陰も陽も、ポジティブもネガティブも、人間としてまったく問題ないし、必ず幸せな人生に展開していくでしょう。何十年も繰り返してきたパターンを組み換えるのは尋常ならざる努力やエネルギーを必要とします。それはある意味では自分でなくなる努力をしているかのようにもなりかねません。幸福な人生の展開も不幸な人生の流れも、カルマの問題であり、悪を避けて善をなしていけば陰のタイプも陽のタイプも正しく生きて幸せになれます。

  技術的には、思考パターンを組み換えるための発想の転換や注意の注ぎ方を修行として取り組めば必ず変わっていくでしょう。しかしどんなトレーニングや修行よりも最も効果的なのは、明るいポジティブ思考の権化のような人といつも一緒にいることです。話しながら、遊びながら、出かけながら、生活しながら、ポジティブ思考のタイプがどのように物事に反応し、発想し、楽しみ、人を評価し、自分の未来を考えているか・・具体的な現場に即して学ぶのです。練習も大事、お手本も大事です。幸せな人と一緒にいると周囲の人もいつの間にか幸せになるという統計を取っている人もいるようです。

   善き人と、肯定的な人と、心の浄らかな人と、共に歩むならば、必ずその人のようになっていくのです。人は自分の側にいる人のようになっていく・・ということをブッダも繰り返し強調しています。

  では、どうしたら明るい善き人に出会えるか。・・祈るとよいでしょう。そのような人に必ず自分は出会うであろうと日々祈っていたら、本当にそうなり法友に出会えました!と感動のレポートをしてきた方がとても多いのです。繰り返し、強く思っていることは具現化してくる。これは現象世界の法則であり、仏教用語で言えば「業」であり「カルマ」ということになります。がんばりましょう。
(文責:編集部) 


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