月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

戒を守る(1)

  戒を受け入れて守っていくことは、決して仏教の前座ではなく、解脱が完成した状態の表現といっても良いほど重要です。ダンマトークでも度々強調しておりますが、今回は特にそれに関連する内容でまとめましたので、ぜひご修行に役立てて欲しいと思います。

 Aさん:なぜ戒を守らなくてはいけないのですか。

アドバイス:
  戒がなければブッダの教えにはならないからです。
  まず、仏教ではいついかなる時でも煩悩は容認されないということです。貪り、怒り、無明の心に対して、どんなやり方であっても抑止をかけて離れること、これがなければ仏教にはならないのです。
  たとえ煩悩がどれほど強くても、それを乗り越えそこから離れたものになろうと頑張ること、煩悩でムラムラしているのを抑えられること、これが汚染された心が清らかに、最清浄になっていく道、解脱への道です。そして、ここが重要なのですが、戒を守らないというのでは煩悩を容認するのと同じ、つまりブッダの教えを受け入れていないということになります。仮に煩悩をそのままにしてサティの技術だけを学んだとしても、倫理的な価値の判断基軸を持たなければ、邪念(micchā-sati:ミッチャー・サティ)になっていくでしょう。
  この点で、ブッダが言われることは完全に首尾一貫しています。解脱が完成していくように、心を最清浄の状態に成長させていくための戒・定・慧のシステム、これを崩したら仏教にはならないのです。 

Bさん:ヴィパッサナー瞑想と五戒との関連について教えてください。

アドバイス:
  在家の人々が守るべき五つの戒があります。殺さない(=生命を傷つけない)、盗まない(=与えられていないものを盗らない)、不倫や間違った性関係をもたない、嘘をつかない、お酒や麻薬などで理性を失う状態を避けるという五戒です。これらを前提としての瞑想であって、そうしない限り苦しみをなくす瞑想にはならないということです。この戒を軽視しながら、私は幸せになりたい、苦のない人生を歩みたい、と望んでも無理ですよ、というのが仏教の結論です。
  特にヴィパッサナー瞑想では、思考を止めてただ気づくという、いわば判断停止の状態になります。もし煩悩を平然と肯定する価値観の人が一瞬一瞬、何の判断もしなければ当然、これまでのクセで反応するでしょう。それでは何をするかわからない、たいへん困ったことになります。不善業を犯して、未来の自分に苦を与えることになりかねないのです。
  それに対して、五戒をしっかり受け入れ、「悪を避け善をなす」という価値観がしっかり潜在意識に入った人はどうでしょう。何も「判断しない」状態を続けても、自動的に悪を避け善をなすので問題は起きません。したがって、ヴィパッサナー瞑想を正しく実践するためには、戒を受け入れることが大前提なのです。戒を守る意志が明確だからこそ、苦しいことも楽しいことも、成功しても失敗しても、善い考えが浮かんでも悪い考えが浮かんでも、ただありのままにその事実に気づいていくだけで、清浄道の瞑想として成り立つのです。
  倫理的な厳しさが、原始仏教の最大の特徴と言ってもよいかもしれません。
  悪を避けて善をなすので、人生の苦しみから解放されていくのです。悪を避けるとは、人に苦しみを与えないことに集約されていきます。善をなすとは、人に幸いを与えることであり、慈しみの心の発露と言えるでしょう。こうして倫理性は、慈悲に昇華し、最清浄の心の究極にまで昇りつめていくのです。
  この戒の守り方が成長していく流れを、「劣戒」「中戒」「清戒」と言います。
  「劣戒」とは、因果論の構造を理解した上で、自分が幸せになりたいために戒を守ろうとする発想です。五戒を守れば、殺されないだろうし、盗まれないだろうし、欺かれたり裏切られたりしなくなるだろうというふうに、自分に利益やメリットがあるので守ろうということです。
  「中戒」は、自己中心的な考え方から一皮剥けて、人のため世の中のためを思って戒を守ろうとする発想です。誰もが殺さないし盗まないとなれば、当然社会が良くなるでしょう。人のためになり社会のためになるから、戒を守ろうということです。
  「清戒」とは、自分の利益や社会のためではなく、悟りを開くために、心の清浄道を完成するために、戒を守ることの重要さを心得て修行に励むことです。
  「殺さない」という戒は、怒りの根絶につながるのです。「盗まない」という戒は、欲の心や貪る心を滅尽させていく修行にバージョンアップしていくでしょう。同じように、「欺かない」という戒は、真実性を限りなく追求していく精神、物事の真実の状態を見究めて、無常の真理や諸法の無我性を検証する修行を完成させていくのです。
  戒という倫理は、カルマ論的な幸せをもたらす基盤であり、慈悲の心を育む修行の現場ともなり、無常・苦・無我の真理を体得していく営みにもなっていく。つまり、戒は仏教の奥義であるということなのです。
  ともあれ、瞑想修行を志すかぎり、生命を傷つけたり殺したりすれば、後味が悪く、心に引っかかりができ、自責の念に苛まれて修行にすんなり入れません。盗むのも嘘をつくのも不倫をするのも、同じです。心に何らかの忸怩たる思いが生じては修行にならないのです。たとえ自分の利益を失うような場面に遭遇しても、私は殺さなかった、盗まなかった、嘘をつかなかったと胸を張って生きている状態であれば、やましい心が起きようはずはないのですから。

Cさん:完全に戒を守っていこうという決心がなかなかつきません。

アドバイス:
  五戒を今すぐ完璧に守れるかどうかは、やはりその人の持つ煩悩エネルギーの強さによって違ってきます。出家の方々もウポーサタという布薩の日に集まって、日々犯してしまった罪や破戒を懺悔し合っています。
  もし煩悩に負け「守れなければそれで仕方がない」ということになれば、それに応じた苦い結果を味わうことになるのを覚悟しなければなりません。「私は死んでも戒を守るだろう」と強い決心をすれば、結果的に人に苦を与えず、悪い業を作ることがないので、それにふさわしい人生が展開してきます。人生苦から解放されていくのです。幸福度が何倍にも上がることでしょう。ですから、まず戒を守って自分の心を清らかにしていこう、貪瞋痴を離れていこうという決意です。それがなければ次には進めません。
  ただ長年の経験上、五番目の不飲酒戒を厳しく言うと「瞑想か酒か、どちらを取るか」ということになって、結局「私は酒を取ります」と瞑想をやめてしまう人がけっこういるのです。しかし、酔うことがどれ程ばかばかしい愚かな行為であるかは、瞑想をやっていけばすぐに分かるはずです。酒を飲めば、瞑想ができません。瞑想が深まれば、次第に酒を飲みたくなくなるものです。
  私たちはたとえ素面でいてもありのままにものが観えないのに、酔っぱらったら完全な盲目状態になり、ドブに落ちるだろうし、悪い業を作りかねないのです。ですから、多少時間はかかっても、最終的には飲まない方向で頑張っていかなくてはなりません。
  それから、戒を守るというのは一時的に「その時だけ守る」というのではダメです。「今日は二日酔いなので飲みません」「昨日は嘘をつかなかったけど、今夜は言っちゃうかも」「もう歳で体が言うことを聞かないので不倫はしません」というのでは「戒を守っている」ということにはなりません。「どんな時でも」「永久に」守るのが戒です。「午前中」だけではダメです。戒を受け入れるということは、二度と殺しません、二度と盗みません、二度と嘘をつきません、二度と不倫しません、と一貫していなくてはならないのです。
  しかし、戒を破れば罰があるという訳でもありません。戒を破っても、懺悔をしてもう一度決意を新たに「頑張ります」とやるだけです。罰はないのですが、戒を破り、不善業を作った結果、必ず苦受を受けることになるので、カルマに罰せられていると言えるでしょう。
  戒を破りたければ、どうぞ破ってください。そして苦しい人生に耐えていきましょう。人は誰でもいつでも、どんな経験をしている瞬間も、自分が蒔いた種を刈り取っているだけと仏教は考えます。戒を破って不幸になるのも、徳を積んで幸せになるのも自由なのです。

Dさん:特にお酒の戒について教えてください。

アドバイス:
  お酒が一滴も飲めない人もちゃんと生きているわけですから、お酒がなくても、生活する上で困ることは何もありません。
  お酒や麻薬を摂取するのは理性を意識的に麻痺させる営みであって、そこには惛沈睡眠がつきものです。これまでさまざまな瞑想者にお会いしてきましたが、半端ではなく惛沈睡眠にやられている方がけっこういました。
  10日間合宿などでも朝から晩まで、坐っている時はほとんど居眠り状態で、歩きの瞑想しかできないという人もいます。話を聞いてみると、やはりかつてお酒に溺れ、泥酔していた時期がある。本当にこれは多いです。明晰さを限りなく求めていく瞑想なのに、意識が濁るとわかっていてお酒が止められないというのはいかがなものかと思います。
  先ほども言いましたが、私はお酒の戒に関しては、比較的ゆるやかに、守りづらい人にはゆっくり時間をかけて、とりあえず何年かけても良いという言い方をしています。そうでないと、瞑想なんかやらなくてイイや、と飲みに行ってしまうからです。しかし、瞑想が進めば、あるいは瞑想がきちんとできるようになれば、その状態は酒に酔うよりもはるかに素晴らしいということを経験するでしょう。そうなれば、本当にお酒を飲むことのバカらしさが心底分かりますから、必ずお酒と縁を切って五戒を守るようになるのです。
  ただ、真剣に修行を目指すのであれば、不飲酒戒を守りましょうと厳しく申し上げておきたいです。「酒は飲んではならない、飲ませてもならない」とブッダは明確に説いています。人生のあらゆる苦しみを乗り超えるシステムを提示したお方だからです。ヴィパッサナー瞑想は、ものごとを正確に、ありのままに視る技法です。ものごと正しく認知し、正しく反応していけば、どのような苦しみも必ず終わりにできるのです。
  「戒の守り方が厳密になればなるほど、瞑想は進むよ」と、私は多くのサヤドウやアチャンから言われました。厳密に戒を守る精神が、瞑想を進ませることを皆さんも検証してください。瞑想が進んだ時の素晴らしさは、飲酒の100倍も1000倍も良いと納得がいくでしょう。

Eさん:日常で起きやすいことだと思いますが、言いづらいことや言いたくないことを訊かれたり、あるいは自分ではそう思っていないのに相槌を求められたりした時、嘘をつかない応答の仕方があるでしょうか。

アドバイス:
  沈黙するか、あるいは智慧を使って話をうまく逸らすようにするのが良いと思われます。例えば、何か答えにくいことを訊かれたら、「あなたは?」と逆に訊き返すとかするわけです。
  「偽る」のが善くないのだ、ということです。ありのままの真実を観ようと頑張って修行しているわけですから、事実でないことを言うのはヴィパッサナー的ではありません。具体的に言いにくい場合は、大ざっぱな言い方をするのも智慧です。さまざまな場面に遭遇すると思いますが、嘘にならないようによく気をつけて言葉を発しましょう。今、言いいつつあることに、これから言おうとしていることに、マインドフルによく気をつけていくのがサティの瞑想です。嘘の戒を守る決意が明確で、一瞬一瞬の自分の心によく気をつけていれば、必ず適切な対応ができるようになります。

Fさん:心の中でのことは問われないのでしょうか。

アドバイス:
  戒律というものは、言動の規制です。言わなければ、行為に現わさなければ、何を考えていても戒を破ったことにはなりません。心の中にまで踏み込まないのです。
  しかし、心の中で強く思ったことは、あるいは何度も繰り返し思っていることは、「意業」というカルマを作っていきます。業の核心部は、チェータナー(cetanā)という意志であり「意業」なのです。ですから、心の中の想念生活というものは、戒には触れなくても業を形成し、人生を左右すると言ってよいでしょう。
  最初は言動レベルから心を浄らかにしていくのが順番ですが、想念や思考の世界を浄らかにしていかないと、人生の苦しみはなくならないということになります。もちろん悟りに近づくこともできません。
  戒の修行は、八正道の「正思」の修行に繋がっていくということもできます。心の中でも殺さない、盗まない、不倫をしない、自分をダマさない、ごまかさないというのは潔いことです。凛々しいことです。心の清浄道はレベルアップしていると言ってよいでしょう。その結果、人生苦が減少していくし、幸福度も上がるでしょう。何よりも、浄らかな想いで生きていれば、心が静かになります。心が落ち着いていて静かであれば、ものごとが正しく捉えられ、智慧が生じてくるものです。
  悪いことをしてしまいそうになった時、戒を守ろうとする決意があなたを救ってくれるでしょう。そこからさらに一歩を進めて、今やりつつあることは自分を傷つけないか、相手を傷つけることではないか、と問うのです。そして、今やろうとしていることは自分を傷つけることにならないだろうか、相手を傷つけることにならないか、と問うのです。さらに今、思っていることは考えていることは、自分を傷つけていないか、相手を傷つけることにはならないかと問いなさい、とブッダは説かれています。
  心の清浄道を完成させるための瞑想であり、戒の修行はその第一章なのです。戒を守ろうと常によく気をつけていれば、そして話す瞬間にも、行為の一瞬一瞬にもよく気づいていれば、それは「戒の瞑想」と言ってもよいでしょう。
  こうして、心を限りなく淨らかにしていく道が、ヴィパッサナー瞑想なのです。(文責:編集部) 


前ページへ
『月刊サティ!』トップへ
 ヴィパッサナー瞑想協会(グリーンヒルWeb会)トップページへ