月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~



          <慈悲の瞑想 第1回第2回第3回>
 

慈悲の瞑想 1

<慈悲の瞑想のやりかた>
Aさん:慈悲の瞑想はいつどのようなかたちでするのが良いでしょうか。またそのポイントはどこにありますか。

アドバイス:
  慈悲の瞑想は集中して実感を込めてするのが理想です。それも涙が出るくらいに心から。これがポイントです。これはサマタ瞑想のやり方と同じと言えます。
  まず定番通りにやりまして、その後に誰か特定の人の名前を主語にして、「〇〇さんが幸せでありますように」「〇〇さんの悩み苦しみがなくなりますように」とやってもよろしいですし、「私と親しい人々が・・・」というようにしてもかまいません。
  また、慈悲の瞑想は普段の生活の中にもぜひ取り入れて欲しいと思います。私の場合には、バスに乗った時、電車に乗った時には必ずすぐにやるようにしています。例えば、「このバスに乗っているすべての人が幸せでありますように。悩み苦しみがなくなりますように。願う事がかなえられますように・・・」というふうにです。このように心の中で唱えるには一分もかかりません。
  どなたにでも中途半端な時間というのはけっこうあるはずです。電車が来るのを待っている間とか列に並んでいる時、サティが入らない時などには慈悲の瞑想だけでもやると良いのです。何もしなければ、ただもの思いをしたりイライラしたり、煩悩的な反応に流されていることが多いのではないでしょうか。
  ただ、そのような時の慈悲の瞑想は、やはり実感は込めにくいでしょう。たとえ言葉だけになってもかまいません。慈悲の意味を持つ言葉が頭のなかを通っていくだけでも一瞬にして心は変わるものです。善なる言葉が意識されればそのように心の反応は始まります。逆にネガティブで不善なる言葉が通過すればそのようになっていきます。結局、心は言葉によって大きな影響を受けるということです。
  この慈悲の瞑想というのはどなたにとっても取り入れやすく、また、やればやるほど心は確実にきれいになっていきます。ですから、瞑想会などでは修行の一環として行なっていますが、やれる時にはいつでも慈悲の瞑想を心がけてください。

<慈悲の瞑想のはたらき>

Bさん:何年もお付き合いのある人なのにある時なぜかすごくぶっきらぼうで、「何だこいつ」と思ったんです。それで、次に会う前に一所懸命慈悲の瞑想をしたら全然違っていました。

 アドバイス:
  相手が不機嫌だったり苛ついている時、その場で心の中で慈悲の瞑想をするとガラッと奇跡のように変わるという報告は本当に多いです。これは誰がやっても同じ結果が出ます。家族に対しても職場の人に対しても同様で、日常的にいろいろな場面で実践できます。
  もちろんなかには、とことん論議を尽くした上で互いに痛みを伴いながらも改めていくべきというケースもあるでしょう。しかし、そこまで行かずに、ただちょっとした感情的なこと、表面的なことでもつれていることもけっこう多いのではないでしょうか。そのような時には、慈悲の瞑想でこちらのモードを変換してしまう方が、かえって速く問題の解消に向かうことができます。ぜひ続けてやってください。

Cさん:仲が良かった友人が突然疎遠になった時、自分ではまったく理由が分からず先生から慈悲の瞑想を勧められて毎日やっていました。そうしたら、あるきっかけから彼女が急に「何か顔つき変わったねー」「あんた変わったよなあー」という言葉をかけてきて、その時それまで満載していた<嫌ってる>オーラが消えていきました。今は、前と同じではありませんが、いい距離感を保ちながら友だち付き合いは復活できています。そんな言葉も嬉しくて、やっぱり変わるもんなんだなあって思いました。

アドバイス:
  そうですか、良い話ですね。怒りは壊すエネルギーですが、慈悲の瞑想をする人からは調和させる、和合させる、まとめるというエネルギーが出ています。バラバラのものをくっつけてまとめていくことを慈悲と呼ぶこともありますので、実にそのままの話ですね。
  一度壊れてしまったものは、普通はなかなか元には戻らないことが多いのですが、こちらからそういう調和的なまとめるエネルギーを出していると、結果的にはやはり仲直り出来るようなムードになってくるのです。
  また慈悲の瞑想を普段やっている方は、やはり和やかで穏やかな優しい波動が必ず出ていますので、やはり雰囲気が変わるんですね。逆に、常に怒りを抱えている人はやはりそういうオーラをメラメラ出していますから、当然ながら人は近づき難くなります。そういう相関関係はハッキリしています。
  一人で小さなお店を開いている30代の女性にこのあいだ聞いたことですが、マンションの下にゴミ集積所があって、そこをもう14年くらいずっとゴミの後片付けを続けている年配の女性がいるそうです。それもいい加減ではなく、ものすごく丁寧にやるのだそうです。それで、「なんかいいオバチャンだな」と思って、「お疲れ様」とか「いつもありがとうございます」とか、よく挨拶していたそうです。
  そうしたら、先日ちょっと立ち話をした時に、その方から「いつもあなたがお出かけになる時、心の中でどうぞご無事でお帰りください。あなただけは無事に帰ってきて欲しいですって祈ってたんです」みたいに言われてちょっと感動しました、そんな話でした。
  家族でも、「行ってらっしゃい、気をつけてね」という言葉は言いますけれど、決まり文句みたいなもので、なかなかそこまでの気持ちは入らないというのが普通でしょう。ところが、そのゴミ集積所をただ掃除している方に、無事にお帰りになってくださいと心から毎日祈っていましたみたいに言われたということで、私も「すごいね!その話は」と感動して聞きました。
  でもその先にも話があって、その30代の女性の方はお客さんが来ると、ちょっとイヤなお客でも、また、買っても買わなくても、必ずお店を出て行く時に「本当にありがとうございました。どうぞご無事でお帰りください」みたいなことをルールとして心に決めて祈っていたというのです。
  この場合、同じような出力をしたからそのような結果を得たという解釈が妥当かなとは思ったのですが、ただ、ことさら縁の深い訳でもない人との間にこのような心温まる関係が生まれたということを考えると、やはり常々慈悲の瞑想を熱心にやっている方だったので、根本はそこだと思われます。
  この世界は基本的に同じものが響き合う世界ですから、トラブルがあって壊れた関係になればお互いに喧嘩の波動になって壊れてしまいますし、逆に慈悲の瞑想は和合させる素晴らしい効果があるということです。
  「優しいオーラが出てる」って言われたんですね。何よりじゃないですか。最高ですよ。頑張ってやってくさい。

Dさん:最近は焦りや怒りに対してはかなりサティが入るようになってきました。ところが、慈悲の瞑想をしてもひとりよがりで慈悲の心がなくなってくる時は、決まってそのあと仕事上の問題が起きてきます。

アドバイス:
  
慈悲の瞑想は基本的には上書き効果ですから、心のベクトルがどうであろうと上書きしていくことで煩悩による現象を抑える効果があります。
  ですが、パソコンの世界とは違って、心の場合は上書きが効くものと効かないものとがあります。あまり根深くない問題はこれで怒りなどを減少させることが出来ますが、しっかり原因があって何度も再生産されるようなものは、慈悲の瞑想やサティによって一時的には抑えられたとしてもまた浮上してくるのです。
  やはり上書きというのは一時的に目を逸らしている対症療法的なものであって、その下にある情報は完全に消えているわけではありません。慈悲の瞑想は驚くほどの効果はありますけれども、心の奥底の根深い問題まで解消させるというわけにはいかないのです。
  そのような場合には、慈悲の瞑想一本槍ではやはり根本的な解決には至りませんから、自分の心の正体を観ていく覚悟をして、きちんと心を随観する必要があります。自分で因果関係がきちんと理解でき、心の底から得心がいけばそこでようやく終了に向かって踏み出せるのです。

<慈悲の瞑想と自己肯定感>
Eさん:慈悲の瞑想で、「自分が幸せでありますように」という「自分の幸せ」というのが言葉だけで実感が伴いません。「自分の幸せ」の本当の中身を知らないからこうして仏教を習っていると思うと、その時は一時的に実感が生まれますが長続きしません。自分のことは興味が無いと言うような感覚です。それでも良いのでしょうか。

アドバイス:
  
仏教には「自ら浄められてから他を浄めよ」という明確な方向性があります。どんなにきれいごとを言っても、人は自分が一番可愛いのです。それが生命のありのままの姿です。自分が真から幸せでないにもかかわらず、100パーセント心から他人の幸せを祈ることは、聖者でない限り出来ません。もし「私は自分のことは全く顧みず100パーセント他人の幸せだけを祈っています」と言う人がいたら、その人はどこか勘違いしているに違いありません。順番として「私が幸せであれ」が最初なのです。
  では、自分の幸せ感はどこから生まれてくるかと言うと、それは自己肯定感から生まれてきます。エゴから生まれる慢による自己満足とは違う、あるがままの自己を受け容れる肯定感です。
  そうすると、「自分の幸せ」を実感するためには、自己肯定感を持ちましょうということになります。もし、ある人が自己肯定感が乏しいと感じているのであれば、その人は自分を受け容れるより自己を否定する感覚が勝っているからそうなのだと言えます。
  一般的に言って、自己を否定する感覚の因ってくるところは親子関係に求められます。例えば、親が褒め上手で良い意味での自尊感情を持てるような育て方をしていれば良いのですが、いつもお前はダメだみたいな叱り方をしたり、励ますにしてもネガティブな側面ばかりに焦点を当てたりすることもあります。
  例えば、何らかの理由で親が学力ばかりに執らわれて、テストで頑張って90点を取ったのに、100点に届かなかったことを叱責されたら、自尊感情、自己肯定感を持てなくなるだけでなく、心の奥では反発する感情も積もっていくでしょう。 自己肯定感が乏しいケースで、親子関係が過去も素晴らしかったし今も素晴らしいとい うことは恐らくありません。つまり、原因があって結果が生じる、いま自己肯定感を持てないのは過去にそのようにプログラミングされたから、それに最も深くかかわっているのが親子関係なのです。
  顧みて私たちは父や母のことを心から尊敬してきたでしょうか。親子関係に問題は無かったでしょうか。今は大人になったわけですし、表面的にはうまくいっているように見えても、心に無意識の傷としてそれが治らないまま残っていることも多いのです。(Eさんへのアドバイス:は次号に続きます) (文責:編集部 )


慈悲の瞑想 2

Aさん:
  5、6年前ですが、会社の上司ととにかく全くウマが合わずダメでした。あるとき心随観の瞑想中にいきなり「殺意」という言葉が出て、しかもそのとき腰の痛みも消えてしまい2度びっくりしました。それまでの「怒り」とか「憎しみ」というラベリングでは全く何も変わらず、どうにもならなかったので本当に驚きました。

  それから主に慈悲の瞑想を続けて5年になりますが、この1年くらいはもうほとんどその人のことが気にならなくなり、先日「嫌いな人々が・・・」の慈悲の瞑想では、もうその中にその人がいない感じになりました。根っこのところはまだ分からないですが、このごろは接触する機会も少なくなって非常に感謝しております。

アドバイス:
  「怨憎会苦」と言いまして、怨みや憎しみを感じてしまう嫌な人にどうしても出会ってしまうのは、仏教で言う「四苦八苦」の六番目に当たります。そういう因縁がある場合には絶対に別れられない、人事異動でも一緒に転属してしまうという風です。

   ところが、嫌いだった人が嫌いでなくなる。こちらにそういう変化が起きた時にはその因縁が解けたようなものです。そうすると今度は本当に会わなくなってしまうという現象が起きます。犬猿の仲だった人とやっと仲良くなれたら遠方に転勤するとか、本当にそういうことは多いですね。
  こちらが嫌だ嫌だと思っている間はどうしても別れられなかったのが、むしろ「この人と一緒にいたいな・・」といった気持ちになると、逆に引き離されるケースはたいへん多いです。そのような事例は枚挙に暇がありませんから、何か法則性のある構造が存在するのではないかと考えても不思議ではありません。


Aさん:
  こちらの気持ちが変わっていくから向こうもそれを受けるということでしょうか。


アドバイス:
  そうですね。いわゆるテレパシーというのもありますし、「量子もつれ」という素粒子レベルでの不思議な現象もあります。2つの量子の間で相互影響が生じる特別の状態になると、一方の量子に与えられた刺激と同じ影響が他方の量子にも現れるという、非常に興味深い「量子もつれ」の研究もあるのです。
  慈悲の瞑想をやると相手も慈悲の心になり、こちらが怒りモードになると相手も怒りモードになったりと言うことです。このような現象は、やがてそう遠くない将来に科学的な証明がなされるのではないかと期待されます。いずれにしても経験的に私たちに分かっているのは、こちらが怒りや憎しみを持っていれば以心伝心で必ず相手にも伝わってしまうということです。そうであれば、たとえ相手が敵意や怒りを持っていたとしても、こちらが心から慈悲のバイブレーションを放てば、それが圧倒して必ず相手に伝わるだろう。こちらにその気持ちさえあれば、慈悲の心で怒りに打ち勝つことができるのではないかということです。そう信じて、これからも頑張ってやりましょう。とても良いレポートでした。


Bさん:
  世の中には悲惨なことがたくさんあって、そんな情報が入るたびに心が痛みます。でもやはり身近なところから始めたほうが良いのでしょうか。


アドバイス:
  仰るとおり、自分の足元からです。苦しんでいる人を助けてあげたい、世界平和を実現させたい、というのは美しい理念ですが、まだ自分の中にいろいろな不善心が残っているかぎり、それを放置していきなり壮大な世界平和や、全人類の苦しみをなくすという方向に走るのはいかがなものでしょうか。私たちはまず自分の中のネガティブなものから乗り越えていくべきです。
  親や兄弟と折り合いが悪く、常にトラブっていながら家を出ることもせず、問題解決の方向になんら展開しないまま同じ屋根の下で暮らしている方が、アフリカの飢餓難民の人たちにお布施しなければ・・とか言ったりしていました。「なんで世界から飢餓がなくならないんでしょうか」「戦争がなくならないのはどうしてでしょうか・・」と、本当に憂えていました。たしかにそれは崇高で尊い精神ですけれども、アフリカの戦争や飢餓を憂える前に、あなたが兄弟や親と争うことから先ず治めて和解していきましょう、と。やはりどうしてもそういうアドバイスにならざるを得ませんでした。
  親や兄弟と争っている状態を直視したくないので、地球の反対側の飢餓とか戦争の問題にあえて心を向けているのではないか。大事なものをすり替えて、逃避しているのではないか、という風に私には思えました。自分のいちばん身近なところの赦しと救済から始めることを強調しておきたいですね。


Cさん:
  完璧な慈悲の瞑想というのはなぜ難しいのでしょうか。


アドバイス:
  完璧な慈悲の瞑想が難しいのは、エゴの問題を乗り超えるのが難しいからです。自己中心的な我執の立場から慈悲の瞑想をすると、いつの間にか慈悲というより欲の瞑想に近いものになってしまうものです。
  例えば、夫が妻に対して、妻が夫に対して、あるいは親が子に対して、子が親に対して慈悲の瞑想をするのはごく自然なことであり、誰もが行なっているでしょう。しかし慈悲の瞑想の修行としては、これは本当はとても難しく、むしろ後まわしにすべきものと論書には説かれているのです。なぜなら、純粋な慈愛の念を発信する修行なのに、エゴ感覚の強い、愛執の深いものになってしまいがちだからです。家族というのはとても大切なものですが、一方では強烈な渇愛や執着にとらわれてしまう関係とも言うことができるでしょう。

  慈悲の瞑想の構成因子である「慈悲喜捨」と最も似て非なるものは愛執であり、これが慈悲の瞑想を難しくしている最大の原因です。人は自分の一番大事な人には優しくしてあげたい、深く愛したいと思うのが自然です。皆さんもそのような溺愛に陥りがちな対象をお持ちではないでしょうか。愛し合っている夫婦や親子というのは強い愛情で結ばれているがゆえに、愛情が強烈な執着に変わり、失われることを怖れ、脅かす者には怒りを覚え、醜い嫉妬も独占欲も攻撃性も何でもありの、およそ慈悲とはほど遠い渇愛にエスカレートして苦の原因になり変わっていくこともあるのです。
  このように、愛というものは貪りの要素が多分に含まれている傾向があります。貪りというのは慈悲の対極にあります。愛情から貪りを抜かないと慈悲にはなりませんので、やはり慈悲の心を養うことはものすごく困難な仕事だということが言えるのです。
  ところで、原始仏教には、ブッダがラーフラに向かって説法している経典があります。そこには「「ラ-フラよ、慈しみの瞑想を修習しなさい。なぜなら慈しみの心が成長することによって、悪意、反感、敵意、憎悪、恨みが心から追放され、取り除かれるからである。

  またラ-フラよ、憫れみの瞑想、悲(Karuna)の瞑想を修習しなさい。なぜなら憫れみの心、悲の心が成長することによって、残酷さや冷酷さ、人を傷つけたい心などが追放され、取り除かれるからである…」と説かれています。
  怒りというのは、対象を否定する、壊す、打ち消すという破壊的なエネルギーです。それに対して、慈悲というのは対象をまとめる、和合させる、くっつけるという調和的なエネルギーです。やはり慈悲のエネルギーと怒りのエネルギーは正反対なのですね。
  このように、怒りは慈悲の心を妨害する要因ですが、貪りもまた怒りと同じくらい危険なのです。貪りとは、好ましい対象に執着する強烈なエネルギーで、なめるように可愛がるという言葉があるとおりです。しかしそのように愛する対象への激しい執着を抱えていると、その対象を失った時には身の置き所がないくらいに苦悩することになります。
  心変わりについても同じことが言えます。心から愛している人に裏切られた時には可愛さ余って憎さ百倍になってしまいます。夫婦や親子の絆がこじれたあげく、「殺してやる!」とまで憎しみ合うことも無くはないのです。愛と憎しみとはまさに表裏一体の関係にあるということです。
  怒りは慈悲の正反対であることは誰でも普通に理解できるでしょうが、貪りである愛執の方は案外盲点になっているようです。愛執も一応は優しさを見せますので、一見すると慈悲と見分けがつかないのです。しかし、本質的には、その二つはまったく相反する要素です。
  こんなことがありました。
  自分では夫に対して慈悲の瞑想をやっているつもりでしたが、よく観てみると夫に自分の思い通りにしてほしいという要求めいたものが入っていたというのです。例えば「子どもをもっと可愛がってくれますように」「家事を手伝ってくれますように」というように、夫に対する文句の箇条書きをやっている感じで、慈悲の瞑想をしているのか欲の瞑想をしているのか訳がわからなくなったというようなことでした。
  清浄道論でも「夫婦を対象にした慈悲の瞑想は、貪りの要素が入るので避けなさい」と記されています。夫が妻に対し、妻が夫に対しての慈悲の瞑想は、愛執と貪りが最も起きやすいので、慈悲の心を育てる練習には相応しくないと戒めているのです。誰かに対して強烈に慈悲の瞑想をやってあげたくなったら、貪愛が混入しているかもしれませんね。
  でも、こうした話をしたところ、欲がそれほど強くないタイプの人なので、慈悲の瞑想をやっても問題なさそうな女性が、「じゃあ、私は今度から夫に対して慈悲の瞑想をするのをやめようかしら」と言い出しました。
  私から見ると、欲が強いタイプなのでやらない方がいいだろうという人がやりたがり、その逆の人は自粛するというのが面白いと感じます。
  とにかく、こうした理由で、慈悲の瞑想をするには貪りと怒りを引き算しなければなりません。これはすなわち、貪・瞋・痴のすべてを抜きなさいということです。痴は貪にも瞋にもセットで入っていますから、要するに慈悲の瞑想を完璧にするためには悟れということと同じなのです。これが、慈悲の瞑想の難しさが半端ではない理由です。
  謙虚な愛情や見返りを求めない愛情には、傲慢さはありません。逆に傲慢な優しさほど慈悲からほど遠いものはないのです。傲慢を抜けということはエゴを抜けということでもあります。エゴを無くせというのは悟れということと同じですから、ここまで突き詰めていくと、慈悲の瞑想が完璧にできる人なんて誰もいなくなってしまうのではないでしょうか。
  つまり、慈悲の瞑想ができるということは、仏教の奥義を極めるということと同じなのです。怒りや貪りをなくして謙虚になって、しかもエゴも無くしていくわけですから、それは煩悩を全部引き算するということですね。
  でも、慢をなくせと言われても、慢は不還果になっても残ると言われていますので、慢がゼロにならないと純粋な慈悲の瞑想ができないとしたら、不還果の聖者でさえ慈悲の瞑想の純度は100%ではないということになります。
  そんな話を聞いたら、もう気が遠くなって、私には到底できませんということになってしまいますね。ですから慈悲の瞑想には、限りなく慈悲と呼べないレベルから限りなく阿羅漢に近いようなレベルまでものすごい段階があるグラデーションなのです。
  心の清浄道というのは、果てしない頂上に向かって斜面を登っていくような感じです。登り始めて麓付近にいる人はその辺から、何合目かに達している人はそこからさらに上を目指して登頂を続け、互いにレベルアップを心掛けていけば良いのです。


Dさん:
  そのような中でも、なるべくピュアな慈悲の心を育てるためにはどんなことを理解しておくべきでしょうか。


アドバイス:
  タイで修行していた時の話です。

   お坊さんたちが蛇に咬まれることを心配して、「蛇が出るから気をつけなさい」とか「懐中電灯持っているか」とうるさいほど言ってくれたのです。それを聞きながら、この寺では蛇の被害が相当あったのかなと思いました。
  でも、私は大丈夫だと言って申し出を丁重に断っていました。その時の私は、毎日慈悲の瞑想をやっていたので、攻撃する邪悪な蛇とは波動が合わないだろうという自信がありました。本当にその時は、一日中瞑想をしていて、朝晩必ず集中して慈悲の瞑想をやっていました。
  「タイ王国のすべての人々が幸せでありますように。この僧院のすべての人々、鳥も獣も虫も魚も爬虫類も両生類も、あらゆる生きとし生けるものが幸せでありますように・・・」と、丁寧にイメージを浮かべ文言を唱え、心から慈悲のバイブレーションを放って一体感を味わいながら慈悲の瞑想をやりまくっていたのです。もちろん蛇に対してもやりました。イメージの中ですからマンガの中のようなかわいいヘビになってしまうわけですけど、それでも真剣にやっていたわけです。

  そこまで徹底してやっていると、歩いていて蛇に襲われるという発想が出てこなくなるものです。この世のさまざまな煩いから解放され、僧院で瞑想だけに徹していれば、自ずから慈悲の瞑想はピュアになっていくでしょう。環境設定というか、慈悲の心になりきっていく条件に恵まれているということです。
  ここから言えることは、この世的なものにドップリ浸かれば浸かるほど渇愛や執着の煩悩が刺激されるし、寺の聖域のような特殊な条件では世俗のしがらみから誰もが解放される傾向にあるということです。 「聖人は俗務に従わず」と言ったのは莊子ですが、慈悲の心を育てるには、われわれも心がける方向性を示しているのではないでしょうか。瞑想もそうですが、崇高なものやこの世を超越した世界に想いが馳せるだけでも、あまりにもこの世的な俗世にまみれ切って押し流されていたことに警鐘を鳴らしてくれるかもしれません。
  もう一つ、身内に対してよりも通りすがりの赤の他人に対しての方が、純粋な優しさや慈悲の心に近いものが自然に発信できるということも考えてみるべきことでしょう。
  慈悲の瞑想の最重要ファクターである「捨(ウッペカー)」の心は、自分から離れた遠い存在に対しての方がきれいに働くということがあります。
  家族や身内に対しては、どうしても生々しい執着やエゴ感覚が働いてしまうのです。例えば、お母さんにとっては赤ちゃんは自分の命の象徴のような一番可愛いい存在でしょう。その赤ちゃんが熱を出して死にそうになったら、それこそ自分も死ぬほどの苦を感じるでしょう。激烈すぎる愛情は「捨(ウッペカー)」の心から遠ざかります。
  ある若いお母さんが、子どもを守るためなら人を殺すことだってできるかもしれないと感じて慄然としたと言っておりました。「惜しみなく愛は奪う」とも言います。濃密な激しい愛が慈悲の世界から遠く離れていくのは、やはり「捨(ウッペカー)」の要素が弱くなるからでしょう。
  純粋な優しさの流れは、むしろ血の繋がっていない人との間に起こる方が可能性として高いかも知れません。私が学生時代、地下鉄の階段を上がって外に出ると土砂降りの雨でした。呆然と突っ立っていたら、60代くらいの男性の方が「入りなさい」と傘を差し出してくれたことがあります。この方は私にとっては赤の他人だったのですが、すごく純粋な優しさを感じました。
  何をしゃべっていいのか分からず、ほとんど無言で歩きながら傘に入れていただきました。何か、とても純粋な父性のような、(どの子に対しても)完全に平等で、公平で、静かな温かさを感じて、心が洗われたような感動を覚えました。純粋な、無償の愛を与えられた心地よさでした。「ありがとうございました」と礼を述べ、そのまま別れましたが、あれは慈悲の波動に包まれることがどれほど素晴らしい感覚かを暗示してくれました。
  これが女の人でそれも若い人だったりしたら何か違った印象になっていて、素直に優しさを受け取れないというところがあったかもしれません。あの時の男の方の優しさは今思い出しても本当にピュアだと感じさせるものがありました。もう40年以上前の話ですが、いまだにあの方の顔をはっきり憶えています。
  最後に、諸法無我を見極めることが苦楽を超えて「捨(ウッペカー)」の心に通じるもう一つの道ではないかと申し上げたい。ありとあらゆるものが相関関係の中で成り立っていることを観ていけば、親子関係がうまくいっている場合もそうではない場合も、すべては父母、祖父母、曾祖父母と続く一連の関係性の中に現れた現象にすぎないことに気づけるはずです。どんな些細な一瞬も、無量無数の諸力が働いて成立していることに気づければ、一つの対象だけやひとりの個人だけにのめり込む愛や憎しみは妄想の所産ではないか・・。ありのままに現象の本質を観じきっていけば、自ずからあらゆるものが相関関係の網目の中に織り上げられているがゆえに、平等に、公平に臨むべきではないか・・という「捨(ウッペカー)」の精神が垣間見えてくるかもしれません。

(文責:編集部)

慈悲の瞑想 3


A
さん:
  自分と合わない上司がいます。明日も顔を合わせるかと思うと、憂鬱です。なんとか慈悲の瞑想をと思うのですが、どのように実行すればよろしいのでしょうか。

アドバイス:
  慈悲の瞑想は、怒りの心を無くして、慈しみの心を育てていく瞑想です。慈悲の正反対である怒りモードで生きていると、ムカついたりイラついたり憂鬱になったり、人生が苦しなるばかりです。怒りを手放し、優しい心になれば、相手も周囲の人も喜ぶし、自分の幸福度も上がっていきます。
  慈悲の瞑想を真剣に行なうと、現実の対人関係が好転したり環境が調和的に整ったりする嬉しい報告も膨大にあります。慈悲のバイブレーションを発信すると、素粒子レベルで「量子もつれ」のような現象が起きるようなのです。トラブルがなんとなく解消したり、刺々しい喧嘩波動が和やかな雰囲気に一変したり、こちらの慈悲の心が相手や周囲に伝染するかのように、優しさが波紋のように拡がって伝播するのです。そのメカニズムを科学的に説明するのは難しいのですが、現象世界に変化が生じるので、カルマ論や因果論のレベルで説明できるのかもしれません。これまでに膨大な検証事例があり、経験則として「よろず揉めごと解消効果」が共有されてきました。

*2つの効果
  慈悲の瞑想の効果は2つあると理解してください。1つ目は、自分の心が怒りから解放され、慈悲モードに変わること。最悪の相手や環境でも、こちらの心に怒りや嫌悪がなければただの状態です。他の人は嫌悪を感じても、自分は嫌でなくむしろ好きであれば、苦はどこにもないのです。例えば、クサヤを焼けばものすごく臭いので、たいていの人は嫌がります。ところがクサヤが大好きな人には、あの臭いがすると唾液がコクンと鳴るほどワクワクするのです。
  クサヤの臭いはただの臭いであって、嫌うのも好むのも個人の問題です。否定的に認知した人と肯定的に認知した人で、苦楽が分かれるのです。「認知が変われば、世界が変わる」とはこういうことです。好ましくない対象でも、それを否定し嫌う心がなければ、あるいは優しい慈しみの心で受け容れることができれば、ドゥッカ()はないのです。環境を変えるのではなく、自分の心を変えることによって苦しみを乗り超えるのが、瞑想の本義と言ってよいでしょう。慈悲の瞑想が苦しみを解き放つ所以です。
  2つ目は、慈悲の瞑想には現実に変化をもたらす力があるということです。強い意志が「行(サンカーラ)」を動かし「現象生起力」を発揮させていくと考えられます。慈悲の瞑想に集中すると、優しい心のエネルギーが強烈な慈悲のパワーとなって人の心を動かし、不協和音でグチャグチャの状態が不思議に整って調和した状態に変わるのです。これが「よろず揉めごと解消効果」です。
  自分の心を変える1つ目も、環境を整える2つ目も、ポイントはいかに集中して慈しみのエネルギーを発信するかです。情動脳が強く働いてウルウルするくらい真剣におやりになると効果が絶大です。

*心を込め、いつでも、どこでも
  さて、具体的なやり方ですが、前夜にきちんと瞑想して、心を整えてから行なうのがよいでしょう。上司の名前を入れて、○○さんが幸せでありますように、○○さんの悩み苦しみがなくなりますように、と気持ちを込めてやります。苦手な人に対する慈悲の瞑想は難しいのですが、それ故に、怒りを超克する良い修行になります。通勤電車の中や会社に向かって歩きながら慈悲の瞑想を唱えるのも有効です。自室で集中するようにはいきませんが、軽く唱えるだけでも累積していくので効果があります。
  もし仕事中に上司から叱責を受けたり睨みつけられたりした時には、その場で慈悲の瞑想をやってしまうのがよいでしょう。叱責や説教というのはなかなか話が終わりにならなくて、同じことの繰り返しが多いものです。内容をしっかり理解した後は、拝聴しておりますという態度で相づちを打ちながら、慈悲の瞑想をガンガンやっていきます。すると、「まあ、お前だけが悪いわけではないけれど・・・」などということになって収まっていくものです。
  発信する慈愛の念が強力であれば、相手の態度が一変するような不思議なことも起きるでしょう。「念力か何かで操作しているような気がした」などとレポートする方もいます。緊迫した場面では必死になるので、鮮やかな効果につながるのかもしれません。慈悲の瞑想をしている間は、こちらに反感も怒りも怯えもネガティブな反応がないのですから、良い印象を与えているはずです。また、ミラーニューロンという鏡のような神経細胞が働いて、相手の表情や反応が瞬時に伝染することも知られています。こちらの慈悲の波動に、合わせ鏡のように感応しているという解釈もあり得ます。
  親や子供、奥さん、旦那さんなど、家族の機嫌が悪いと感じた時にも慈悲の瞑想はとても素敵な処方箋です。慈悲の瞑想が身についてくると、嫌いな人がだんだん見当たらなくなってきたと多くの方が言います。嫌いな人がいなくなるということは、人生の苦しみからもの凄く解放されているということです。

Bさん:
  慈悲の瞑想の卓効を実感しています。職場への怒りの苦情で問題が起きている時、私の管轄ではなかったのですが、慈悲の瞑想をすると穏やかに円満解決するということが起きてきました。慈悲の瞑想を検証することが楽しみになり、大きなトラブルに発展する前に自分を呼んでくれるよう依頼したら、逆にトラブルが減少してきました。

アドバイス:
*果てしなく繋がり合う宇宙網目
  素晴らしいですね。慈悲の瞑想も、そのような実体験で検証を重ねるほど確信が揺るぎないものとなり、ますます集中して力強い瞑想になっていくでしょう。
  慈悲の瞑想をする時に、当事者だけに限定しない方がよいと心得てください。脇役の人、周辺の人、その友人や家族だって影響を及ぼすのですから、関係者一同に満遍なく慈愛の念を放射すべきです。あらゆるものが相互に関連し合って繋がり合っているのですから、その全体の調和を祈らずして局部的な平和や幸福状態はあり得ないからです。

Cさん:
  緊急のときは必ず慈悲の瞑想をやるようにしていますが、それ以外には、いつ、どんなタイミングでやればよろしいのでしょうか。

アドバイス:
*人と会う前の心の儀式
  営業職や接客、臨床系など人と接する仕事に従事される方は勤務中にかなりやれるでしょう。例えば、瞑想会に来られたお医者さんによくお勧めしているのは、診察がおひとり終わって次の患者さんが座られるまでのわずかな時間に、相手の名前を主語にして慈悲の瞑想をやりながら待つようにしてください。慈悲の瞑想をした場合としなかった場合の統計を取ってください、と提言すると、ほぼ例外なく、驚くほど効果があったと報告されます。患者さんとの関係が不思議に打ち解けて和やかになると言います。
  これから営業をかける前に、相手の名前を入れて慈悲の瞑想をするとはっきり有意差が出たという報告もあります。こちらから調和的な優しい波動が出ているのを無意識に感じるのだと思います。何もしなければ、なんとなくイライラしていたり、その日の嫌なことを思い出していたり、無自覚な軽い怒りモードになっているものです。軽く慈悲の瞑想をしただけでも、少なくともその怒り系のオーラが変わるのではないでしょうか。試してみてください。 

*心と響き合う外界
  「小人閑居して不善をなす」と言います。ボーッと生きていると、人の心は、薄っすら不善心所モードになりがちなのです。だから、ちょっとした隙間の時間に一日何度でも慈悲の瞑想をしてください。特にお勧めなのは、何となく流れが悪くなってきたら、仕事の手を休め、あるいは路上に立ち止まり、プラットホームで電車を待ちながら、不善心所になっていなかったか?と自分に問いかけながら、慈悲の瞑想を30秒でも1分でもやってみます。
  「流れが悪い」というのは、例えば、横断歩道を渡る直前に信号が赤に変わったり、ホームに着いたら電車のドアが閉まって発車したとか、取引先に電話したら、先ほど外回りに出て今日はそのまま帰宅する・・と言われたり、間が悪いことが続いたら、それは偶然ではなく、自分の心の中に不善心がなかったか? エゴ的になり過ぎていなかったか? 宇宙全体の流れにそぐわない不協和音があったのではないかと考えて、それを調整するために慈悲の瞑想をするという発想です。
  昔、私はこれを頻繁にやっていました。心というものは、台所の換気扇のようにいつの間にかベトベトに汚れてきているのに気づかないものです。自分に反省すべきことはないか、非がなかったか、落ち度がなかったか・・。もしあれば直ちに改めます・・と、天に祈るような感覚で慈悲の瞑想を一度やるのです。効果てきめんでした。そのとたんに流れが変わって驚かされました。これを私は「円滑現象」と呼んでいました。自己中心的になり、外界との調和が破れていれば、円滑現象の流れから外れていくし、反省し、慈悲の瞑想をして心を整えれば、たちまち宇宙的な調和の相の下に、円滑現象の流れに乗れるものです。これも嘘かまことか検証してみてください。
  プラットホームで23分電車を待つ隙間時間にも、乗車したら乗客全員、運転手、今日一日利用する全ての人に、サッと慈悲の瞑想をする習慣の人もいます。慈悲の瞑想が頭に浮かんだ瞬間、エゴ的な硬い波動になっていたことに気づき、優しい気持ちがカムバックしてくるものです。
  慈悲の瞑想というのは、調和の瞑想です。破壊するエネルギーである怒りの正反対です。まとめていく、結びつけていく、整えていく、調和のエネルギーです。そのバイブレーションを発するということは、自分と自分を取り巻く人や環境と調和していくことです。その心の儀式が慈悲の瞑想でもあるということです。

Dさん:
  ある方を全面的に嫌いというわけではなく、ある部分が嫌いという時にはどうすれば良いですか。

アドバイス:
*諸法無我の見方

  それはとても仏教的な見方ですね。
  人間を一人の個人としてまとめて見てしまうと、それは我論というかエゴ妄想なのです。欧米系の人は<自己同一性(アイデンティティ)>という言葉が好きですが、これもエゴ妄想の最たるものです。法としての存在というのは、直接知覚で捉えられたものであり、概念でまとめられたものは実在ではないのです。「自分探し」も妄想でしかありません。
  人間は矛盾の塊であり、煩悩丸出しの本能の脳とそれに逆らう理性の脳が相反する命令を発して葛藤を起こしているのが実情です。激怒した瞬間も、優しかった瞬間も、愚かな時も、智慧が閃く一瞬も、どの瞬間も本当なのです。どんなに愛する家族であっても、嫌な面も大好きな面も混在しているし、どれも本当のその人です。あるがままに人を観れば、誰もそうなのです。
  仏教は、悪を避け善をなし、慈悲の心を養いながら人格を完成させていく道です。良い面は成長させ、嫌な面は赦して受け容れてあげる方向を目指しています。あなたも、そのように人から赦され受け容れてもらってきたし、嫌いなものが嫌いでなくなるために慈悲の瞑想をしながら、心の清浄道を歩んでいるのではないですか。
  ある部分が嫌いなら、その部分に特化して慈悲の瞑想をやってあげましょう。そして、なぜその部分が嫌いなのかも追究していくと、同じものが自分の中に見出せるかもしれません。それを受け容れ、乗り超えていくのが修行です。 

Eさん:
  「嫌いな人」や「私を嫌っている人」への慈悲の瞑想というのがけっこうやりにくいのですが。
  「嫌いな人」で具体的な顔を浮かべるとどうしても嫌悪が先に立ちますし、また、自分が誰かに嫌われているとも思いたくないのですが。

アドバイス:
  仰るとおりですね。嫌いな人の顔が浮かべば誰でも気分が悪くなるし、自分が人に嫌われているなんて考えたくもありません。私たちには怒りの煩悩がありエゴもあるから、当然の反応です。ところが仏教は、こうした生命に本質的に備わったものを減らしなさい、無くしていきなさい、という教えなのです。怒りもエゴも野放しにされて肥大すればするほど、人生は苦しくなるからです。物凄くエゴが強くて怒ってばかりいる人と、怒らないし我を張らない人では、どちらが嫌われ者になるでしょうか。怒りを減らしエゴを弱める努力をした方が、人生の苦しみは少なくなると仏教は考えているのです。

  どうやってやればよいのでしょうか。

*視座を換える内観
  嫌いなものが嫌いでなくなるには、ものごとの見方、視座が変わらなければなりません。これまでの自己中心的な視座に固執している限り、嫌らしい人は嫌らしいまま、嫌悪感でムカムカするのは変えようがないのです。では、「視座の転換」を練習するには、どうしたらよいでしょうか。イチ押しは、「内観」の技法を応用してみることです。
  内観のチェックポイントは、相手から①お世話になったこと、②お返しをしたこと、③相手に迷惑をかけたこと、の3つです。あなたが嫌いな人から何か助けてもらったことはありませんか。誰だって最初から敵対関係になってやろうとは思っていないし、好意的に振舞ってくれていた頃には、お世話になったことがあるはずです。その時どんな気持ちでしてくれていたかを想像してください。自分をかばうような発言をしてくれたことがあったとか、笑顔で気持ちよく挨拶をしてくれたなど些細なことでも構いません。お蔵入りになっていた良い記憶を積極的に想起して、悪い印象を良い印象に組み換える練習が①「お世話になったこと」です。

*自分がかけた迷惑 
  誰かが嫌いになるのは、その人から何か嫌なことをされたからでしょう。その黒い記憶を何度も脳内再生していると、事態は悪くなる一方で、赦すことも好きになることもできません。だから、敢えて自分がかけられた迷惑は一切思い出してはならないと禁じるのです。そして自分が相手にかけた迷惑だけを徹底的に思い出していくのです。これが難しいのは、相手の立場になって視点を置き換えないと、自分がかけた迷惑に気づけないからです。人に嫌われていることに気がつかない人は、特にこの③を練習するとよいでしょう。

*書いてみる
  日記を書く時にひと工夫するのもよいでしょう。ページの中央にその日の事実だけを書き、左側に自分の感想や解釈を記し、右側に相手の立場や自分と反対の立場からの意見を書いてみるのも、視座の転換の良い練習です。どんな物事も人により立場により認知が変わることを、その日経験し見聞した出来事を通して訓練するのです。
  その日一番よかった出来事と最悪の出来事を書くのも間接的な練習になるでしょう。人物も出来事も複雑な要素や要因から成り立っています。それを分析し仕分けて見る訓練をすれば、どんな嫌な相手からも良い面を洗い出してフォーカスすることができるようになるでしょう。

*腹をくくる
  自己中心的な視座に固執している限り、嫌いな人は永遠に嫌いなまま、慈悲の瞑想ができる日は到来しません。相手の立場からものごとを見直す練習をしない限り、自己チューを乗り超えることもできないでしょう。そして相手の良い面に注目する方針を定めないと、嫌いなものが嫌いでなくなり、慈しみが発露してくることもないのです。
  怒りの心を乗り超える決意、嫌な相手を受け容れる覚悟、必ず嫌いな人への慈悲の瞑想ができるようになると決定してブレないことです。この世は業の世界であり、揺るぎない決意(アディッターナ)が事象を動かし未来を変えていくのです。その業の世界から解脱していくのが仏教の本義ですが、その修行に入るには、この世でやるべきことをやり、見るべきものは見た、と感じなければならないということです。

*段階的にチャレンジ
  もし嫌いな人への慈悲の瞑想をしているうちに腹が立ってきて、怒りの心がかえって強くなるようでしたら中止した方がよいでしょう。「生きとし生けるもの」で止めます。どんな訓練も、最初は易しい課題から解いていくものです。嫌いな人に対する慈悲の瞑想は、「嫌い係数」が2か3くらいの少し嫌だなと感じる人から始めるのが順番です。それがクリアできたら度数を4、5、と上げていき、最強の宿敵にチャレンジするのは最後にします。

*懺悔の瞑想
  嫌いな人への慈悲の瞑想は、怒りを超克する修行でありエゴを乗り超えていく修行でもあり、仏教の奥義に通じています。「オレが、俺が」の我の強い人や傲慢な人は、何事も自分が正しいと固執する傾向が強いので、相手を非難する発想しか浮かばず、怒りを手放すことができません。
  こうなると、怒りのカルマを限界まで累積した果てに、ドゥッカ()に激しく叩かれる日が来るのを待つしかありません。人生があまりにも苦しく、人の心も環境もエゴの思いどおりにならないと打ちのめさた挙句、初めて自分の心を変えるしかないと覚ります。最後はドゥッカ()の力を使わないと、自己変革の真の決意はできないのです。こうして四聖諦の第一命題(苦の真理)にぶち当たり、ここから仏教の修行がスタートするのです。苦しみから解脱したい、悟りたい、と心の底から願い求める発菩提心です。
  エゴと怒りに凝り固まっていた人が最初に着手するのは、懺悔の瞑想ということになります。無限の過去から今に至るまでの思い違い心得ちがいを懺悔し、これまで自分が傷つけ苦しめてきた無数の生きとし生けるものにお詫び申し上げる修行です。心底からエゴが白旗を掲げて、己の非を認め、ひれ伏して謝り、悔悟の涙に暮れるのです。
  内観も、こうした懺悔の瞑想に由来するものです。ポイントは、我執を手放すことです。私が正しい!という誤った見方を捨てる修行です。「無知・無明ゆえに愚行を重ねてきました。愚かな私を、赦してください・・」と心底から頭を下げて謝り、「これからは仏教のダンマに基づき、きれいに正しく生きていきます」と誓うのです。
  内観の修行から帰った直後の人たちは、なぜ、口をそろえて「慈悲の瞑想がやりやすくなった」と言うのでしょう。懺悔の瞑想ができると視座が一変し、エゴイスチックな自己中心性が限りなく弱められるからです。己の非を素直に認めて謝ることができる人は、他者の立場に立ってものごとを眺めることができるし、他者の痛みに心から共感できるのです。
  懺悔の瞑想は、一切皆苦の真理をかいま見た人が仏教の修行に着手する出発点です。傲慢の鼻をへし折られ、己の愚かさを痛感し、エゴが引き算され、共感能力が深まり、他者の悲しみに心が震え、慈悲の瞑想へと昇華していくものです。慈悲の心は、懺悔から始まると言ってもよいでしょう。

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