月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

生き方をめぐって(1)(2)

 

<生き方をめぐって(1)>

 Aさん:
  私は失敗ばかりしてきました。ヴィパッサナー瞑想に若い頃に出会っていたら、どんなに苦が少ない穏やかな人生を送れただろうと思うと悔やまれてなりません。

アドバイス:
  瞑想修行はいつから始められても遅くはありません。過去に失敗経験を重ねてくれば当然人生の痛みが身に沁みていることでしょう。その痛みがあるからこそ真剣に修行に取り組もうという姿勢にもなるのです。
  もし心があまり汚染されていない人生の早い時期にヴィパッサナー瞑想と出会っていたら、余計な失敗をすることもなかっただろうし、どんなに良い人生になっていただろう・・と悔やまれるのもわかります。しかし、もし順風満帆、何の問題もなく穏やかな人生を過ごしてくれば、おそらく瞑想に出会うこともなければ、出会っても軽くつまみ食いをして真剣に修行に取り組もうとすることもなかったのではないでしょうか。
  嫌なことがなければ、人生につまずかなければ、痛い思いを何度もして傷つき苦しまなくては、真剣に自分と向き合い、内省モードになって自己変革をしなければならないとか、人生の流れを変えたいとか、瞑想に取り組んでみようとか、思わないものです。
  人生が楽しければ、夢のように遊び暮らして歳を取ってしまうものです。人生に打ちのめされ、挫折し、苦に遭遇して始めて、もうこんな愚かなことは繰り返したくない、もうやめよう、やめたいという気持ちが瞑想修行の原動力となるのです。
  何事によらず出会いというものは偶然のように見えても、実は退っ引きのならない必然の力によるものです。人生の辛酸をなめ尽くして瞑想に出会うのも、7歳で出家して比丘となり瞑想に出会うのも、各人各様の因縁と宿業の結果であり、必然の流れで出会うべき時に出会っているものです。たとえ何歳であっても、ヴィパッサナー瞑想に出会った時がその人にとっての必然でありベストのタイミングなのです。
  長年瞑想のインストラクターをしてきた経験から言えば、これほど才能に個人差が激しいものはないと痛感させられてきました。仏教には輪廻転生という考え方があり、生命は生まれかわり死にかわりを繰り返しているとされています。瞑想が最初から上手にできる人は前世で相当な修行をしてきたのだろうし、凡庸な才能の人は怠けていたのだろう、とでも考えないと説明がつきません。血の滲むような命がけの修行をしても悟れない人もいれば、7歳であっさり究極の悟りの境地に達してしまう人もいるのです。
  誰もが、出会うべきものに絶妙のタイミングで出会い、なすべきことをやり、来世につないでいくのだと仏教は考えます。たとえ何歳であっても、出会った時が最高だったのだと受け止めましょう。一所懸命修行をして、心を浄らかにしていけば、人生の苦しみから確実に解放されていくことは確かなことです。多くの老若男女の方々の苦しい人生が、瞑想によって乗り超えられていく姿をつぶさに見てきたことが、私の仕事の原動力になってきました。たとえ何歳からでも、瞑想は真剣に修行するに値するものであることを、私は知っています。

Bさん:
  私は、自分が進むべき道をみつけたように感じても、それは本当に自分の意志で選んだものなのか、親の影響を受けて無理に選ばされたようなものなのか、曖昧な感じがつきまといます。また優柔不断のところがあって、自分が今何をしたいのかよくわからなくなることもあります。後で後悔しないように、自分の本心を知るにはどうしたらいいのでしょうか。

アドバイス:
  まず、自分の本来の意志による決定なのか人の影響を受けたものかという問題ですが、それは繰り返し再現性があるかどうかが一つの目安になります。
  例えば、欲しいものがあったとして、それが本当に譲れないものであればどうしても欲求は強くなり、渇愛状態がブレずに長く続くでしょう。しかし、ブームや流行、テレビのCM、噂や口コミなどに欲望が刺激された程度であれば、欲求は一過性であまり長続きしません。後者は作られたニセの欲望ですから、すぐに飛びつくと後で後悔することが多いものです。購入後に一度開けただけで興ざめしたように何の情熱も感じられなくなり後悔したことなど、誰にでも経験があるのではないでしょうか。
  いずれにせよ、欲望がうごめいた時には、それは本当に自分に必要なものかどうかを見定めなくてはなりません。
  基本的に、本心から欲求されたことや、本当に必要なものが望まれた時には迷いがないものです。パッと決断できます。結論を出しながら言い訳を考えていたり、頭でいろいろ考えてしまう時には、エゴの働きが関与していることが多いものです。エゴの猿知恵を排除して自分の内奥から導きだされた真実の声を聞くためには、何といっても瞑想が一番です。
  私が自分の本心を正確に知るためにやっている方法を紹介しましょう。
  まず懸案のものが必要か必要でないか、あるいは自分の進むべき道はAかBか、どちらの場合も徹底的に検討しシュミレーションしてみます。もちろん思考モードです。
  次に、自分にとって本当に必要か必要でないか、あるいは選ぶべきはAかBか、と自分自身に問いかけをした上で瞑想に入ります。瞑想が浅ければ正解は得られません。「浅い」という意味は、いつまでも雑念がチラチラしていて静まらないという状態です。「妄想」「雑念」というラベリングが延々と繰り返されている間は、エゴの干渉が続いていると見てよいでしょう。その時は仕切り直しです。
  思考モードが止まって心がシーンと鎮まった状態が到来してくれば、エゴは姿を消しているはずです。すると不思議に、瞑想を始める前に問いかけておいた答えがスーッと浮上する瞬間が訪れるものです。それに従うと、だいたいは正解です。確信に満ちた回答が、自分の心の底から浮かび上がってくるのです。昔から私は、大事な意志決定をする時には必ずそうしています。これを「内奥(ないおう)の声を聞く」と呼んでいました。
  本当に重要なことは複数回やってみて、やはり同じ回答が得られることを確認します。そうなれば、たとえ茨の道であっても前へ進むしかないし、その選択に迷いが生じることはありません。たとえ結果的に痛い目にあっても、それが正解なのです。学ぶべきことがあるから苦しい経験をするのであって、それは必ず次の段階にステップアップしていくことに通じています。心の奥底からどうしてもやりたいことはやるしかないし、それが自分にとって真実の道なのです。
  最も大事な判断基準は、その答えの内容が五戒に反しないかどうかです。五戒に抵触するものはどんなに心惹かれても遠ざけて、乗ってはいけないし選んではいけません。原始仏教の要である戒に反する選択肢はあり得ないと心得ましょう。ダンマに悖(もと)る道を行けば、必ずドゥッカ()に遭遇します。これは絶対的基準です。
  職業選択は人生の一大事です。ポイントは、心からやりたいこと、好きなこと、そしてダンマに基づくことです。ダンマに基づく仕事は、世のため人のためになるものであり、八正道の「正命」に合致するものです。天職と呼べる本当にやりたい仕事に出会えた人は幸せです。若いうちは自分のことが把握しきれないし、出会った仕事の意義や本質、魅力なども最初はわからないものです。それゆえに、瞑想によって「自分の内奥の声を聞く」ことが重要なのです。思考を止めて心の奥底から響いてくる声に従えば、エゴの猿知恵を排除した正しい選択ができるでしょう。
  二番目は優柔不断ということですね。
  なかなか意志決定できないというのは、頭の中であれこれ考えて堂々めぐりをしている状態になっているわけです。いつも同じパターンの思考が出てきて、少し考えてこうしようと思ってもまた違う考えが浮かんで結局わからなくなってしまうということの繰り返しです。この虚しい空回りを止め、優柔不断を克服するためには、頭の中を可視化する作業が大変重要になります。
  自分は何が好きなのか、どんなことをやりたいのか、が判然としないのであれば、まず頭の中のものを全部紙の上に吐き出すのです。ブレインストーミングの要領で、瞬間的に思い浮かぶものを書き止めていきます。ポイントは、考えてアイデアを出すのではなく、矢継ぎ早に思い浮かんだものを列挙していくことです。好きなこと、やりたいことなら何でもOK、テーマから外れていてもいなくても、突飛なこと、くだらないこと、あまり関係ないことなど、ツジツマ合わせもブレーキもかけずに、瞬間的に思い浮かんだことはすべて書き止めるのです。
  何も浮かばなくなり出尽くしたと感じたら、バラバラに殴り書きされている項目を内容的に関連のあるもの同士にまとめていきます。やりたい仕事系、娯楽系、食べ物系、欲しい物系、行ってみたい旅行系、楽しかった思い出系等々、まとめられる共通点を見つけてグループ化するのです。
  次に、グループ全体を眺めてそれに優先順位を付けていきます。最もやりたいこと、2番目にやりたいこと、3番目に魅力的なもの・・というように一つひとつ吟味していくのです。この分類作業と優先順位づけの作業だけでも相当自分の内面を客観視できます。
  これが終わったら、今度は自分の嫌いなものを書き出します。これだけはやりたくない仕事、大嫌いな物、耐えられない状態、許せない事柄・・等々を、思い浮かぶまま矢継ぎ早にランダムに羅列していきます。出尽くしたら、いちばん嫌いなもの、2番目に嫌いなもの、3番目に嫌いなものというふうに、これにも順位を付けていきます。この二つの作業をするだけで、自分の本音が整理されかなり明らかになるはずです。
  これら一連の作業のポイントは二つあります。一つは紙の上に書き出すことによって、頭の中でモヤモヤしていた欲望や欲求などの混沌状態を可視化(見える化)されるということ。そして二つ目は、思考で考えてはいけないということです。思い付いた瞬間に書き出すことに徹していくと、エゴの判断や干渉を遠ざけることが可能なのです。エゴは巧妙に言い訳をしたり、本音を抑圧したり、雑多な情報で混乱したり、私たちを迷わせる元凶です。思考プロセスの中で君臨するエゴの働きを封印するのは、サティの瞑想であり、思考モードを離れる作業です。自分の本音を浮き彫りにし、自己理解を正確にする技法として、ブレインストーミングのやり方を試してみてください。
  項目列挙と分類だけでも効果的ですが、さらに深めるには「文章化」することをお勧めします。
  「よくわからないことがあったら、そのことについて一冊の本を書け」という諺がヨーロッパにはあるそうです。独りで考える思考には、論理の飛躍があったり、曖昧なのにわかったつもりになったり、自己中心的になっていたり・・正確さや緻密さに欠けるきらいがあります。私的なメモではなく、第三者に理解してもらえるような文章に起こしてみると、とたんに思考は厳密になります。
  私自身もそのことを何度も検証してきました。すでに把握していることをスラスラ書いていくのではなく、何か閃くものがあった時に「これは何だろう」「もっとしっかり考えてみよう」とそれを文章に表わしていくと、途中で自分の思ってもいないような展開になったり、新たなアイデアが直観されたり、書き終わった時には、いつの間にか抱えていた問題の答えが明確になっていたということが少なくありません。頭であれこれ考えている時には、大事な要点を飛ばしていたり、強引な結論に結びつけようとしていたり、同じループをグルグルしていたり、要するに雑なのです。しかし、紙の上に書いた一行は、次の一行を正確に要求してきますので、必然的に論旨が明確になっていきます。正確な思考にならざるを得ないのです。
  まずカードに書き出し、優先順位を付けて分類し、文章化してまとめる。
  これが、サティの瞑想とは異なったアプローチの自己客観視の方法になります。
  さらに深めていくには「対話」という技法があります。自分のこだわっている問題が絞り込まれ、一応の結論が出たら、今度は自分と同じかもっと智慧のある人と対話するのです。自分の発想と他人の発想はまったく違いますから、対話することで、独りでは思いも寄らないまったく新しい視点や発想が得られる可能性が高くなります。相手から素晴らしい情報が得られることは勿論ですが、自分で話しているうちに、何だこういうことだったのかと明瞭になってくることが多々あるものです。理解してもらおうと、正確に伝える力が曖昧で混沌としていたものを明確化することに通じているのです。
  自分のエゴワールドに、他者の視点が導入されるのは感動的です。目からウロコが落ち、ものの見方が変わり、新たな視座が獲得されることもあるでしょう。自分を客観的に知る上で有効なばかりではなく、人間として幅を広げ、ステップアップする機会にもなります。
  以上申し上げたようなやり方で心の中を整理していくと、混沌としていたものが明確になり、自分のやるべきことや進むべき方向がはっきり視えてくるでしょう。揺るぎない意志決定ができるようになるのです。
  ここで改めて強調しておきたいことは、考え方と生き方の基軸として、五戒を厳守することです。いかなる場合でも、悪を避け善をなし、五戒を守っていく基本的な決意にブレることがなければ、樹海の中で方向をはっきりと指し示すコンパスを得たような具合になるでしょう。人生の迷いがなくなるのです。場当たり的に流されて生きてきた人が、いったん五戒を遵守しようと決めたとたんに、生きる上での指針が定まり即断即決ができるようになるのです。自信に満ちた真実の生き方が貫けることは、人生を最高に輝かせてくれることでしょう。

Bさん:
  自分の意志決定は、親の意志決定ではないかと思うことがあるのですが。

アドバイス:
  基本的に子どもは親のコピーですから、親の影響をまったく受けていないということは考えられません。本当に自分がやりたいのか、あるいは親の言動を近くで見ていて自分も同じことをしたくなったのか、あるいは親がそうするように強制したのか。つまり、自分はあまりやりたくないのに親の強い期待のもとに渋々従っているという感じなのかということですね。そのあたりは微妙だと私は考えています。だからこそ「自分の内奥の声を聞く」ことが必要になってくるのです。
  しかし、よく考えてみると、親の影響を受けていること自体は、一概に「悪いことだ」と断定することはできないのではないでしょうか。生きているということは何かの影響を常に受け続けているということですし、その影響はやはり最も身近にいる親からのものが一番大きかったというだけのことですから。基本的に親の影響を受けない子どもなんて存在しないのです。
  もし親のことをネガティブに捉えているなら、反面教師という形で影響を受ければ良いとも言えるでしょう。反面教師というのは、悪いお手本として「こうはなりたくない」という決意のことですが、それもある意味では親の反作用という強い影響を受けているということになるわけです。
  私の大学時代の先輩でものすごくハンサムな人がいました。水も滴る美男子とはこういう人のことを言うのかと思うほど整った容貌をしていました。その人はとてもモテるだろうと思われるのですが、絶対に女遊びはしない身持ちの良い人でした。なぜそのようになったかというと、その人のお父さんは地方の名士でお金持ちの方だったのですが、お金と名誉にあかして女遊びが派手だったらしいのです。それがあまりにひどくて、自分の母親がどれだけ泣かされてきたのかを傍で見てきたために、自分は絶対に父親のようにはならないと固く決意したというのです。
  そんなふうに、家族に迷惑をかけた父親を反面教師として立派に生きている人もいれば、親父もやっていたのだからオレもやると言って奥さんを泣かせまくっている人もいます。
  どちらの人も、親から影響を受けていることには変わりがないわけです。ですから、親の悪い影響を受けたので自分の人生は滅茶苦茶になったという言い訳はあり得ません。
  いずれにしても、人は、親か師匠か尊敬する人か誰かの影響を受けながら自我形成をしていくものです。そして、自我を確立して大人になったら、自我という名のエゴは実体のない虚妄なものと知り、最終的には「無我」を悟ってゆくのが仏教の道です。
  万物万象、あらゆる存在がつながり合い、結び結ばれ、諸法は相互に関連し合い無我であると、存在の真相を洞察して我執やエゴの息の根を止めていくのが、ヴィパッサナー瞑想の方向性です。そして、エゴを手放した人は、どのような環境にいようとも、いかなる苦しみも寄せつけない、苦の超克という究極のタスクをやり遂げた存在となって輝きながら残余の生涯を全うしていくのです。



<生き方をめぐって(2)>

◎不安感が消えない
Aさん:
  私は漠然とした不安感を持っています。この瞑想を始めてから2年間でだいぶ薄まりましたがまだ残っています。
  私には完璧主義のところがあって、自分自身に対しても会社の同僚に対しても高い水準を求めてしまいます。そして、これまでは貪りというと物欲のこととばかり考えていましたが、完璧主義から高水準を求めることも貪りなのかもしれないと思うようになりました。もしそうなら、常に上を求めすぎる心の傾向が原因で、漠然とした不安感を手放せなかったのかなと思い当たりました。

アドバイス:
  今のお話は、サティの瞑想修行中に洞察されたものではありませんね。ということは、考察や内省などが深まって、心の反応系や生き方系に新たな認識が出てきたことだと思われます。知的な認識だけでは不完全ですが、心が総体的に変わっていく一環として重要なものです。
  常に不安感があるということですが、それは愛着障害などの特徴でもあり、自己肯定感が乏しく、不安があるからこそ完全主義者になりがちなのです。幼い時期に親からの愛情を十分にもらってありのままに受け入れられてきた人は、何をしていても、どのような状態でも、自分の存在そのものをネガティブに捉えることはないので完全主義にはならない傾向があります。
  ところが愛着障害があって自尊感情に不安要素があると、悪い子では愛してもらえないのではないか、と考えるようになりがちです。100点を取り完全なら愛してもらえるが、そうでないとダメだ。完璧に愛されるためには完全でなければならない。自分で自分に対して駆け引きを行ない、常に漠然とした不安感に怯えるようなメンタリティになることがよくあります。

Aさん:
  私の中にある不安感というのは愛着障害の名残りという可能性が高いのでしょうか。

アドバイス:
  その可能性は高いように思われますが、いかがでしょうか。愛着障害は、生後12年くらいの母子関係に起因すると言われています。その頃に、母親から丸ごと受け容れられ、存在の絶対肯定をしてもらった安心感が植え付けられているかどうかなのです。
  自分はただ存在していてOKなのだという感覚があると、安定型になります。ところが、母親が病気だったり、仕事の関係でスキンシップが十分にされなかったり、兄弟姉妹との関係で相対的な不公平感を持つなど、何らかの事情によって愛着障害が発生すると、心は不安定になり、健全な自尊感情が育まれなくなります。そうなると、基本的に不安を抱えるようになります。
  不安になると、もっとがんばって完璧にならないと愛してもらえないのではないかと子供ながらに思うようになり、さらには、自分が愛してもらえないのは不完全だからだという発想になるのです。ここが不安感の一番の原点になっている場合が多いように思われます。

Aさん:
  完璧主義になると、どうしても求める心が強くなって、貪瞋痴の貪もひどくなるということですか。

アドバイス:
  完璧主義の傾向が一度始まってしまえば、それは癖になりますので、人間関係に関しては絶対的な絆を作りたいという方向に傾くでしょう。そうすると相手にとっては重くなってくるのですね。人間関係を長続きさせるコツは、あまり近づき過ぎず、濃密にならない腹六分目くらいに抑えておいた方がうまくいくと多くの人が言っています。「君子の交わりは、淡として水の如し」ですね。

Aさん:
  完全主義のそういう傾向は、貪瞋痴でいうと貪に当たるのですか。

アドバイス:
  そうですね。より完全なものへとエスカレートしていくところなどは、貪りの要素が入っていると感じます。80点で合格点に達しているのに、いや、ダメだ、なぜ100点取れないのだ・・となっていくところで貪りの心所が入っていませんか。
  ただ、その引き金を引いているのは、自分は生きていて良いし、存在していて大丈夫なんだ、という基本的な安心感の欠落ではないかということです。それが何らかの原因で十分に得られないと、いつでも不安感が通奏低音のように鳴り響いている状態になります。
  愛着障害があると、不安感を他の何かで補わなくてはならないと感じてしまい、人生全般に影響を及ぼす傾向がありますね。人間関係でも仕事の達成感でも、いつでも完全を求めて頑張り抜いてヘトヘトになりがちです。そんな自分を変えようと自覚的にならないと、どんな傾向も自然にエスカレートしがちです。
  完璧主義の人に対しては、不完全性を受け入れなさいというインストラクションもあります。ジグゾーパズルの完成まであと一つ残したところでやめておくというように。しかし、基本的に不安感がある人にとっては、なかなかそれができないのです。ですから、不安感を徹底的になくす方向に振り切るしかない。満を持して自分の問題の根っこに正面から向き合い、ありのままに受容するために、内観で発想の転換をしたり、認知を変えることによって乗り超えるのです。
  歳を取ってもこうした傾向が手放せないのは、幼少期の問題が尾を引いているからです。 愛着障害の問題を解決していくのは一生かけてやる仕事といえるほど大変なことですが、死ぬまでの間に乗り超えることができれば、成功した人生だと言えるのではないでしょうか。

◎夢に向かって
Bさん:
  自分の夢ややりたいことに向かって、実現可能な範囲で努力するというのは、悪い意味での欲にはならないのでしょうか。

アドバイス:
  やるべきことをやり、見るべきほどのものを視なければ、無執着の心にはなれません。
  私利私欲に突き動かされ、エゴイスティックな欲望の充足をほしいままにすれば破綻するのは明白です。そうした苦の原因になる欲望と、夢の実現のための努力は、近似した紛らわしい状態です。果たして正しい精進なのか、不善なる欲のエネルギーがほとばしっている状態なのか、見極めなければなりません。
  ポイントは2つあるように思われます。
  ①今やろうとしていること、やりつつあることが煩悩の欲望なのか、それともやるべきタスクであり正しい夢を成就させる努力なのか、を見極めることです。
  ②正しい精進のエネルギーなのか、貪りの要素が混入した執着のエネルギーなのか、を明確にする。
  まず①ですが、これは目的論と言ってよいでしょう。あなたの言う「悪い意味での欲」になるか否かは、やろうとしていることがエゴイスティックな私利私欲なのかで決まります。言い換えれば、他人に苦しみを与える要素が含まれているか否かです。自分の夢がかなうことによって、誰かが陰で泣いていないか、苦しんでいないかを問わなければなりません。もしそうであれば、悪い欲でしょう。そのまま実行していけば、夢がかなった時点で一時的な幸福感や達成感が得られるかもしれませんが、最終的には不幸になり、苦渋を舐めるでしょう。
  この世界を貫いているのは因果法則ですから、他人を苦しめる行為や意図は必ず自分自身に返ってくるのです。苦しみの原因になる行為が不善業を作ると理解しなければなりません。それに努力すればするほど、実現すればするほど、誰かが苦しみ、最後は自分自身が苦しむことになるのであれば、不善なる行為であり、直ちに止めるべきでしょう。
  ②は、自分のやろうとしていることが誰にも苦しみを与えないし、五戒にも抵触しない、正しい目的の善なる行為であれば、努力しエネルギーを傾注することに間違いはありません。
  目的にも意図にも問題はなく、他人に対しても社会に対しても自分に対しても苦を与えるものではないなら、一所懸命がんばるべきだし、その夢がかなうことによって、自分も他人も多くの人も幸福になっていくでしょう。
  しかし例えば、多くの人の苦しみを取り除く医療の世界でも、醜い出世争いがあり、医療に従事することが劣等感の代償行為に過ぎなかったり、名誉や権力志向の本意が隠されていることもよくあります。結果的に病気から救われる人がいて、福利がもたらされている善行為なのですが、不純な心が不純な執着のエネルギーをほとばしらせていることになっていないか。そうであれば、悪い意味での欲になっていくでしょう。
  結局、どんな分野であれ、きれいな心で意志決定し、いつでも心が汚れていないかチェックしながら、よく気をつけて生きていなければ、いつの間にか道を踏み外し、最初は正しかったことが不善なる薄汚れたものになりかねない危うさがあるということです。
  揺るぎない悟りの境地にでも達していない限り、今は浄らかな心もいつ不純な心や煩悩に汚染された心になってしまうかわからないのです。
  その意味で、自分の心を信じてはいけないと戒めるべきかもしれません。
  多くの人が、正しい道をきれいに歩んで成功したのに、いつの間にか傲慢になったり、それまで存在しなかった欲望や煩悩にやられて転落していきます。ブッダが「修行僧よ、汚れが消え失せない限りは、油断するな」と言い、「よく気をつけておれ」と繰り返し説かれた所以でしょう。

◎ネガティブな発想に悩まされる
Cさん:
  何でも良くない方へ考える癖があります。何か良いことが起こってもそれを素直に受け取れず、ネガティブに考えるだけでなく、瞑想中のラベリングでも「恐怖」というような言葉が浮かんできます。

アドバイス:
  人の思考パターンや発想の基本傾向は長年の繰り返しによって組み込まれたものです。あなたの場合にも、ネガティブな思考回路が形成された原因があるのでしょう。一般論的には、幼少期にネガティブな考え方が刷り込まれていくことが多いようです。両親がネガティブな考え方をする傾向にあれば、子供は自然にその影響を受けます。褒めるのが下手な親もいます。95点を取ってきても、なぜ100点取れないのだ、と叱責するように励まそうとするタイプの親も珍しくありません。「世の中甘いものじゃないぞ」とか「どうせ上手くいく訳がない」とダメ出しばかりする親もいます。
  そうしたネガティブ思考形成の歴史があれば、意識的にそれを組み替えていこうと決意し、努力し、やり遂げていかないと変わるのは大変です。
  どのようなケースであれ、いちばんの切り札は、安全基地になってくれる人に出会うことです。絶対に裏切らない信頼できる人、プラス思考で必ず激励してくれる人、見守り寄り添ってくれる伴走者を見つけることができれば、自己変革は成功していくでしょう。良き友、師友(カラヤナミッタ)に出会うことができるように心から祈るべきです。切に願うことは必ず遂げられるし、真剣に祈ればやがて成就するものです。
  幼少期から何十年も繰り返されてパターン化したネガティブ思考を乗り超えるには相当なコストがかかりますが、そんなに根が深くない「思い癖」なら、正しく理解して、発想の転換を心がければ遠からず変わっていけるのではないでしょうか。
  この世のものごとはすべて崩れて無くなり、失われていくからこそ、今この瞬間を最高に輝いて生きようと考える人もいます。今この瞬間の状態と同じものは二度とないのだから、一瞬一瞬の今を充実して生きるという発想ですね。
  一方、苦労してやっと幸せになれたのに、失われ崩れ去っていくことを心配する人もいます。試験に合格したり、昇進したり、結婚が決まったり、幸せの絶頂のはずなのに、鬱的な傾向に陥る人がかなりいるようです。幸せな状態におびえてしまう。プレッシャーに押し潰されそうになる。夢がかなうまでは幸せに向かって努力するだけだったのに、その夢が具現化するやこの幸せが失われたらどうしよう、いつか必ず無くなる日が来るにちがいない、とせっかく手にした幸せが壊れていくことに不安になる・・。そんなネガティブ妄想をしていれば、最後は「恐怖」というラベリングになるのもわかります。
  しかし、われわれは仏教の瞑想をしているのですから、発想の転換をしましょう。この世を貫いているのは無常の法則であることを思い出しましょう。やっと手に入れたものかもしれませんが、失われたら失われたで、壊れたら壊れたで、いいじゃないですか。形あるものは壊れるのが現象の世界です。壊れて、失われて、茨の道に放り出されたら、またそこから歩み始めればいいのです。復興した時には、前よりもはるかに良くなっているものです。そうなるために壊れたと考えるのです。
  発想の転換をすれば、ある意味どんな状態も楽しめるものです。主人公が愛する恋人と楽しそうに過ごす場面ばかりが延々と続いていく映画を想像してみてください。敵対する人も、妨害する人も、嫉妬する人も皆無で、嫌なことは何ひとつ起こらず、すべてが順風満帆、何もかもがうまく行って、いつまでも笑いが止まらず、それでザ・エンドの字幕が出る。・・そんな映画観てられますか?「ウワー、どうしよう、大変だ!」と手に汗握って、ハラハラしながら乗り越えていくストーリーがあるからこそ楽しめるのでしょう。昔、登場人物が全員美男美女だった北欧の映画がありましたが、途中で観るのを止めました。()
  スポーツにしても同じことが言えます。圧倒的な強さで、ハラハラ、ドキドキの場面が一つもなく、はじめから終わりまでワンサイドゲームという試合は馬鹿らしくて観戦していられないのではないですか。
  このことから言えることは、一見不幸なネガティブ現象も発想を変えれば、同じ現象のままで意味は逆転するということです。それが認知を変えるということであり、それが徹底されれば、どんなことも与えられたものだけで満足でき、起きた通りで楽しめるという心境になれるのです。しょせん私たちの人生は自分の作ってきたカルマに応じたことしか起きませんからね。

Cさん:
  今先生がおっしゃったことは、仏教を勉強していると頭ではわかってくるのです。でも、実際の現場では、なかなか理解通りにはいかないものだということが痛感されることが多々あります。

アドバイス:
  知的に理解されるのと、深層意識が完全に受け容れているのとは違いますね。深いレベルの心でいまだに執着していることは、土壇場で現れやすいですね。何かにこだわってそれをつかめば、そうでなくなるのが恐くなります。
  間違った考えや思い込みがいつまでも執着の手を放させないのですから、さまざまな角度から心に言い聞かせ、納得させ諒解させていくのが大事です。この現象世界で起こるべくして起きてくることは、ネガティブなこともポジティブなことも全部カルマなのですから、避けられないのです。それが因果論の理(ことわり)というものです。
  私がいつも、起きてしまったことは仕方がない。あるいは起きたことは全て正しいと言うのは、結局そういうことだからなのです。因果論を徹底的に腹に落とし込んでいけば、起きたことは受け入れるしかないと諦観というか、達観されるでしょう。自分のカルマに逆らっていくらジタバタしても、どうにもならないのがカルマというものです。業によって起きたことからは、逃げ切れないのです。それゆえに、ネガティブなものをポジティブなものへと、こちらの認知を変えるしかないということです。
  私も昔は完璧主義で、自分は完全でなければならないと思い込んでいましたから、当然心配症の傾向がありました。自分で自分の人生を苦しくしていたのですが、今は、起きたことはそれでいいと即座に認知を変えられる自信もあります。
  どのようなことでも、視座を変え、別の角度から観れば肯定することができるものです。肯定し、受け容れることができれば、不安や心配は起きてこないのですね。なぜそんなことが即座にできるようになったかと言うと、瞑想をするようになってから、人生のさまざまな場面で認知を転換させる練習を膨大にやらされたからです。ものすごく嫌なことが起きたり巻き込まれた時に、いったいどう考えたらこんなこと受け容れられるのだ・・と理解不能なわけです。それも当然で、いわゆる思考モードでいるときには、基本的にエゴモードですから、視座の転換ができないのです。そこでやむなく瞑想をする。瞑想をすれば思考が止められていきますから、エゴの視座からは思いもよらない一瞬の閃きが生じたりするのです。
  「なるほど! そういうことか!・・そう眺めれば自分が悪いと思えるし、受け容れることができそうだ」と固執していた考え方やものの見方が瞑想の閃きで打開できたことが多々あります。こうした練習問題を数多く解いたことで、今、人に視座の転換をうながすようなアドバイスをやらせていただいたりしているのです。
  まあ、この瞑想に出会って心配症はなくなりましたね。修行の成果だと自分では思っています。自分の人生は悪くなりようがない。たとえ悪くなったように見えても、認知を変えれば受け容れることができるし、当初はネガティブだった出来事が最終的には大きな飛躍につながっていくし、必要不可欠なことだったと心から思える日が到来するものです。まさに、「瞑想のフシギな力」ですね。
  ということで、まず思考モードで結構ですから、意識的にものの見方を変え視座の転換を試みる練習をします。上手くいかなかったら、智慧ある人とその件について論議してみる。すると自分には思いもつかない視点を提示してくれたりします。それを参考に、同じ事柄をまったく異なった視点から眺める練習をします。そういう問題をたくさん解いていくうちに、外界の力や他人のアドバイスなしに、自分ひとりでできるようになるでしょう。どういう風にかと言えば、瞑想することによってです。瞑想をして思考を止めることです。思考が止まれば、エゴモードとは異なる見方や発想が閃いてくるようになります。がんばってください。

◎こだわりを捨てるには
Dさん:
  自分の生き方などの信念もこだわりの一つなのでしょうか。

アドバイス:
  「こだわり」という言葉は本来ネガティブな意味で使われます。「ささいなことを必要以上に気にする」とか「いつまでも過ぎ去ったことにこだわる」などの用法が本来だったのですが、昨今では「香りにトコトンこだわった一品」などと肯定的なニュアンスで使うケースもあるようです。
  あなたのご質問のされ方は、言葉の本来の意味に即しているように思われます。正しいことを貫き通す、揺るぎない信念を持つのは良いことなのに、エゴイスティックな執着になっていないか。信念が悪い意味での「こだわり」になることもあるのだろうかというご質問と理解してお答えします。
  例えば、仏教の五戒を守り抜くと世間一般の常識的な方々と軋轢が生じないだろうか。自分は仏教の提示する倫理を貫き通すのが正しいと思っているが、皆とも仲良くやりたいし、仏教の正義を貫こうとするのは、悪い意味での「こだわり」になっていないだろうか・・。こうしたお悩みは多くの方が感じられているようです。
  世間の多数派から浮いてしまっても、正しい生き方を貫くのは大事だと考えます。どうでしょうか。「みんなと仲良く一緒にやっていきたいので、みんなが赤信号を渡るなら自分も一緒に渡るし、戦争をやるなら一緒に戦う。とにかく仲良くやりたいのだ」という人がいたら、ちょっと変じゃないですか。
  この世を貫く理法に反すれば、確実に苦がもたらされるのです。殺せば殺されるし、奪えば奪われるし、欺けばあざむかれます。みんなが地獄に行くなら、ひとり浮いてしまうのは嫌だから、一緒に地獄へ行きますか。あなた達は間違っている、と説教するのは大きなお世話だと取られるなら沈黙すればよいでしょう。しかし、自分の生き方に信念を持っているなら、黙って独りそれを貫くのが正しいのではないでしょうか。
  それを悪い意味での「こだわり」と解釈するのは正しくないと思います。自分の信念の内容を精査して公正なものであるならば、それを貫くのは悪い意味での「こだわり」とは違います。智慧があり、美学があります。信念を曲げるべきではないでしょう。
  人と争わず、柔軟に妥協点を見出して、和をもって貴しとなすが、道理にもとることは断じてやらないという信念は貫くべきです。それを「こだわり」とネガティブに評価することはありません。
  ご質問は、別の意味に理解することもできます。
  今まで信念を持って生きてきたのだが、どうにも苦しくなってきて、どこか間違っているのではないか、変にこだわっているのではないか。信念ではなく、ただの執着ではないか・・・。
  信念は、執着と紙一重のところがあります。 
  一つの目安は、自分が拠りどころとしているものが法(ダンマ)に照らし合わせて逸脱していないか否かです。自分のたんなる欲望にしか過ぎないものに向かって頑張っている場合には、煩悩の執着やその根拠になっているエゴ感覚に特有の、あまりよくない感じがどこかにあるものです。別表現をすれば、万人にとって善となる理法を貫こうとしている瞬間には、正しいことを実行している吹っ切れた爽やかさや、天に向かって恥じるところのない堂々とした矜持のような感覚があるはずです。
  エゴイスティックなものや煩悩系の不善心所には、重く、暗く、硬く、濁った印象が伴うからです。
  その反対に、善心所には透明で、柔軟で、軽やかで、爽やかな印象があります。
  どうやら自分が拠りどころとしてきたものは「信念」ではなく、たんなる「こだわり」に過ぎないということであれば、全力で頑張ってみて、それでもどうにもならない時には潔く諦めるしかありません。諦めるというのは、発想の転換をするしかない情況に追い込まれるということです。
  私も若い頃に、それまでの過去に復讐するような不善心所バリバリのこだわりで生きていた時代がありました。当然のことながら、すべてが破綻し暗礁に乗り上げてしまい、苦が極まったところで、自分の敗北を認め、やるだけのことはやり尽くした、もういい、もう十分だ、とどこか吹っ切れたものを感じながら、その生き方に終止符を打ちました。こだわりを手放し、諦観というものを学び、以来、修行者として今日に繫がる新たな生き方が始まりました。
  妄執がドゥッカ()の原因であることを骨身に沁みて叩き込まれたように思いました。諦めるということを学び、瞑想者として歳をとるに従って、執着を手放すことに長けてきたので、今ではストレスもほとんど感じないし、何が起こってもそれでいいと受け容れることもできていると思っています。
  その根拠は、因果論が徹底的にわかっているからでしょうね。こうして仏教の因果論を教えている立場なので当然といえば当然ですが、人生というのは、自分が組み込んだカルマ通りのことしか起きないことは熟知しています。このことは検証し尽くしました。
  そうすると、受け入れる能力もついてきて、「自分も過去には人を傷つけ、悪いことをやってきたのだから、こんなネガティブなことが起きるのも致し方ない。因果の帰結として、受け容れるしかない」という発想が速やかになされるようになります。
  受け容れる能力というのは、数多くの引き出しを持っていて、いかなる場合にも発想の転換ができる能力と言えるでしょう。ものの見方や発想の転換が柔軟に、自在にできないと、こだわりが強い、頑固者ということになります。多くの場合、エゴ感覚や我執の強いタイプの人ほど、自分の考え方ややり方、好き嫌い、生き方全般にこだわり、それに比例して苦しさを感じるという構造なのです。
  もし自分の夢や目標にこだわっているのであれば、実際にその夢を叶えた人の幸福度の追跡調査も大事ですね。ある方が、どうしても夢を叶えられず、そのことに未だにこだわっていて何とかして手放そうとしていました。そこでどうしたかというと、自分が実現できなかった夢をすでに叶えた人達の話を聞いたそうです。そうすると、案外幸福度は低いという場合が少なくないことがわかったということでした。そこから自分の執着している夢を手放す方向が見えてきたということでした。
  たとえ長年の人生の夢を叶えたとしても、それによって幸福度が上がらなかったら、何のための人生か、本当にそれで良かったのかという疑問が出てきますよね。
  夢を実現している途上では、鼻の先にぶら下がっているニンジンが、この世のものとは思えぬ限りなく甘美なものにイメージされてしまうものです。妄想は甘く、現実は苦く、がブッ飛んで「何がなんでも!」と強烈なこだわりとなって私たちを駆り立てていくのです。これが渇愛の構造であり、それに全力でのめり込んでいって、果たして本当に幸せになれるのかという疑問です。
  そうした妄執と、法としてのあるがままの事実を仕分けていく瞑想が、人生苦を根本から乗り超え、この世の幸福と、さらにはその果てにある究極の解放である解脱をなし遂げていくであろうということです。
(文責:編集部)


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