月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

  怒りを乗り越える(1)

Aさん:怒りについて、私の場合、自分自身のなりたい姿というのがあって、そうなりたいと心では思うのですが、なかなか思う通りには出来ません。そうすると、そういう自分に対して怒りが出てきたりします。やはりそこの考え方を変えるしかないのでしょうか。

アドバイス:
  たとえ思い通りにならなくても怒らない人もたくさんいますから、たしかにそれは考え方の問題と言えるでしょう。
  あらゆるものごとには原因があって、その原因のエネルギーが事象というものを成立させ、展開させ、結局それなりの結果が現れてくるということです。因果論の世界ですから、思い通りにしたいならそのような結果が現れるようにあらゆる原因を組み込んでいったなら、もちろんそのようになっていくでしょう。しかしそんなふうにすることもなく、因果関係を無視しておいて、こちらのエゴによってああしたいこうしたいと思っても、それは実現するわけがありません。
  すべてが因果関係で生滅していることが理解され、その因果を正しく読み解いていくなら、思い通りにしようという発想自体が変わってくるはずです。

Bさん:誰かと肩がぶつかって思わず不快を感じた時など、気づきによってスッと手放してしまうのは生きていく上でとても役に立つと思っています。でも、現実での家庭生活や仕事上の課題、またトラブルなどの場合には、たとえ非常に不快な内容であっても、やはりそれらについて考えざるを得ないし取り組まざるを得ません。そのような時には、どうしても怒りを抑えられない状態になってしまうことがあります。
  たとえどんなに不条理な問題が降りかかったとしても、そこから逃げずに、怒りを抑制しながら冷静に乗り越えて解決していくためにはどうしたらいいでしょうか。

アドバイス:
  半分はサティによって出来ます。サティは基本的にどのような場面でも有効に機能します。しかしサティだけすればあとは何もしなくていいということではありません。
  あとの半分は反応系の心です。自分がどういう反応パターンを持っているか、その反応系の心を全体的に組み替えていく作業に取り組まなければ、根本的な解決に向かうのは難しいでしょう。「怒り」という反応のカードを切らないように、いろいろなことをやって心を変えていくということを幅広く総合的に実践していく必要があります。
  例えば、カルマ論的な視点を徹底して養います。自分の置かれた状況にはそれに応じた原因があるのだということ、もし嫌な目に遭っているとすれば、それは人に嫌な思いをさせてきたからで、今は逆に嫌な思いをさせられているのだと観ていきます。そういうふうに発想の転換をすれば受け止め方が変わってきます。
  また、心の上書き効果が絶大な慈悲の瞑想を実践します。殴ってやりたいくらいにイライラさせられた時にも、「幸せでありますように、悩み苦しみがなくなりますように」と、取りあえず無言で唱えてください。多くの人が「文言を繰り返しているうちに、ある瞬間、急に怒りが吹き飛びました」とか、「驚きました。相手の態度が変わりました」という経験をしています。家族と喧嘩を繰り返しているような時でも、心の中で相手に慈悲の言葉を唱えたらその場でガラリとムードが変わってしまったというような報告例は膨大にあります。
  慈悲の瞑想によって自分の心も変わりますが、同時に相手にも念のエネルギーが届いてしまうような感じです。これはとても素晴らしいことです。ぜひ試してみてください。

Cさん:怒りが起きた時、サティを入れて「怒り」とラベリングすると、消える時もありますが、消えたと思い込んでいるだけのような時もあります。

アドバイス:
  ドラマチックにドーンとそれこそ一瞬にして怒りが消えたという感動の体験も多々ありますが、いつでもうまくいくとは限りません。怒るだけの理由や原因があれば、「怒り」「怒り」とラベリングしても焼け石に水のように、怒りがなかなか消えないという状態はけっこうあります。やはり本心では面白くなくて「こちらは悪くない。どう考えても向こうが間違っている」という意識を片隅に残したままでは、言葉だけ「怒り」「怒り」とラベリングしてもうまくいかないのです。
  しかしそうではありますが、とりあえず「怒り」「怒り」とラベリングが出せているだけでも、怒りに呑み込まれているわけではない証拠になります。純度の高い本物のサティになってはいませんが、なんとか怒りを対象化しよう、客観化しようと頑張っているのですから、良い修行になっています。本当にうまくいくと劇的なこともあり得るというだけで、怒りに巻き込まれてうまくいかないことも多いのです。
  ですから、サティを入れればいつでも必ずうまくいくものと期待しすぎるのは良くありません。怒りが消えれば「消えた」と、消えなければ「消えないんだ」とさらにサティを入れて淡々としていられるようだと素晴らしいのですが・・。

Cさん:うまくいかないとか、うまくいっているとか考えるのが良くないのでしょうか。

アドバイス:
  そのように考えること自体が良くないと言うわけではありません。現実にうまくいっているとかいっていないという心が起きてしまっているのですから、そこで「判断している」「評価している」とその状態にあるがままにサティを入れれば良いのです。判断したという事実があったのですから「判断した」とサティが入れば、それはすでに客観的な心になっています。そうすると、パタッとお終いになったりするものです。
  ところが、考えが浮かんだ事実と格闘してしまうと駄目なのです。「考えてはいけない」「判断してはいけない」と即座に否定し、熱く反応していることにサティが入らなければ、ヴィパッサナーから脱線してしまいます。
  繰り返しますが、ヴィパッサナー瞑想では、本当に何が起きてもいいのです。無差別平等にすべての対象はただ対象化していきなさいと。起きたことは起きたこと、あるがままに確認して掴まないという仏教の基本的な理解があれば正しい反応が出来るでしょう。瞑想の現場と同じように、そうやって人生を生きていけばいいのです。

Dさん:とてもうるさい人がいて、困っています。(注)

アドバイス:
  偶然ではないと思います。「うるさい」は怒りです。怒りの初期状態として心に嫌うという反応が出ているのです。現象の完全受容が出来た時には、対象を嫌うとか貪るとかいう反応はありません。「これは自然の営みなのだ」「なんか知らないが鳥は鳥で勝手に楽しく生きている」というような認識になります。そうなると、「うるさい」という状態にはなりません。
  現象を受け容れると、うるささは変わらなくても心は静かになります。逆に、現象というのは不思議なもので、嫌だと思っているとかえって続くのです。「もういいです。私、この現象と一生付き合わせていただきます」といった気持ちになると、なぜかそのうちに現象自体がなくなる方向に行くものです。
  それはいわば、嫌だと思って掴んで対抗している間は、自分に業のエネルギーがあってそれが続いているような感じなのです。「受け入れた。もういいです」という時にはそのエネルギーが消えたようなことであって、現象自体もなぜか不思議な暗合ですが終わっていく、これは、かなり高い確率で言えると思います。
  このことは、好ましくないことに対する反応系の対処法として頭に入っているとよろしいと思います。「嫌だと思っている間は無くならないけれど、受け容れることが出来ればこの現象自体が無くなる可能性がけっこうあるんだ」と、そう思えば、受け容れる心のハードルも低くなるでしょう。

注:20147月号収録の「アドバイス」をさらに詳しく再録しました。

Eさん:お年寄りの方と普段お話をするのはまったく苦ではないのですが、それが仕事となると、従業員が何百人も控えていると思うせいか、例えば、70歳ぐらいの目上の方と会議をする時にも、どうしても譲れない部分はきつい言い方になってしまいます。感情を抑えられないというか、普段とまったく違ってしまいます。うまく感情を抑えながら言える方法はないでしょうか。

アドバイス:
  あります。ヴィパッサナーです。サティを頑張って、とにかくマインドフルに気づき、自覚的であろうとすることです。Eさんはまだこの瞑想を始めたばかりなので、状況がちょっと熱くなればすぐに巻き込まれてなかなか機能しないかも知れませんが、そこはだんだん上達していきます。
  「結果良ければすべてよし」ということもありますし、立場上、言うべきことは言わなければならないことも多々あるでしょう。その時は、大きな声ではっきりと、そしてきっぱりと言っていいけれども、心の怒りをゼロにすることです。怒りをゼロにしてはっきりと言いたいことは申し上げるのです。
  怒鳴り声に怒りを入れた大きな声と、大きい声ではあるけれども怒りがゼロの場合は、相手への届き方に明確に差が出ます。結果的には喧嘩の波動にはなりません。こちらが怒りの波動を出せば、必ず以心伝心で怒りのやりとりになってしまいます。
  まるでカメレオンが2匹いるかのように、お互いの色に影響され合っているのが私たちの関係です。ですから、怒りを出せば相手も怒ります。それはみんな経験上知っているではありませんか。そうすると、結果的には仕事の効率も悪くなります。
  また怒りを含んでいる場合には、仮にこちらの意見が通っても恨まれたりして逆に悪い念を送られる、それだけでも嫌なものです。怒りを発すると損をするし、自分のカルマも悪くなります。落ち着いて、言うべきことはきっぱりと明確に、しかも冷静に、怒りはゼロで言うように努めてください。できることなら慈悲の瞑想をやってからそうすると、さらに良い結果が出るでしょう。

Fさん:叱るのと怒るのとの違いは端的に言って何でしょうか。

アドバイス:
  例えば部下に命令している時の大きな声、あるいはミスを指摘したりする時の叱責、いろいろな情況がありますが、同じ大声でも、怒りの心があって感情的になっているのと、冷静に指導的な指示を大きな声で伝えているのとは明確に違います。職場によっては、優しい猫なで声のような言い方では全然通じない世界もあるのです。
  これははっきりと目標として体得すべきことです。まして上司と部下の関係だったらなおさらです。もし感情的になっていれば、それは確実に相手に分かります。何を言っていようが、感情的になって怒鳴っていたら腹の中ではバカだと思われています。ところが、冷静に怒りを含まず、「それはあるべきことでない」という指摘をたとえ大声でしても、それは怒られたのではなく、自分のことを思って叱ってくれたのだと人はちゃんと分かるし、同じミスを繰り返さないようになるのです。

Gさん:会社でまったく給料に反映されない仕事をやらされることがよくあります。ム力ムカして不善心所が押さえ切れなくなり、サティどころではなくなります。(『月刊サティ』2002/12再録)

アドバイス:
  反応系の心が本当に納得しない限り、サティは一時しのぎに過ぎす、同じことが何度も蒸し返されてしまうことがあるものです。そのときには発想を転換して、こう考えましょう。
  やる必要のない仕事を無償でやってあげているのだから、それは布施のエネルギーとして宇宙銀行に貯蓄されるだろう、と考えるのです。徳のない人には徳が積めない法則なので、いかにクーサラ(善行)をやればよいのか皆、苦労するものです。ところが、こちらから探さなくても「いい話」がひとりでに舞い込んできて、宇宙銀行の自分名義の波羅蜜口座に布施のエネルギーを貯めることができているのです。
  慶賀すべきことではないでしようか。残業をして相応の手当てをもらえば、それでエネルギーの収支が合うのでお終いです。もらわなければ、出力したエネルギーに対してまだ何も受け取っていない状態ですから、いつの日か必ず相応するものを受け取ることができるのです。
  文句を言いながらではなく、きれいな心でやらせて頂くのです。「この世で善いことをしたならば、安心しておれ。それの果報があるのだから、安心しておれ」というブッダの言葉を思い出してください。(文責:編集部)

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