月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

修行上の質問 --理論編--(1)

<仏教的選択の基準>
Aさん:善悪の判断のつかない時にはどのように選択していけば良いのでしょうか。先生は何を基軸として判断されているのでしょうか。

アドバイス:
  仏教の基軸は悪を避けて善を為すということです。しかし、その判断が分からない、明らかな善とも言えずまた悪とも言えない、そういう難しい時にでもやはり意志決定をしながら生きていくしかないのが私たちです。決めなければならないのです。
  私の場合は、自己中心性の度合いを観察します。具体的に言えば、「自分のためというエゴモードがどのくらい入っているか」とか、「今やろうとしていることは自分のためになると思っているけれど、結果として人のためにも世のためにもなる度合いはどのくらいか」、あるいは、「これをしたら後味が悪くなるという可能性は無いのか」など、いくつかのポイントを検討してみます。
  その場合、すべての判断に通じているのは、「私は今こうしたいのでこのことをやろうと思っています。これが正しい道であるならばそのように叶えてください。正しくないのであれば叶えないでください」「これが本当に自分の聖なる修行の完成や真理の道に合致しているなら叶えてください。でもそうでないのなら叶えないでください」という祈り、これは定番です。
  たとえば、何かを手に入れようとする時には、それがすぐに必要かどうか、必要だとすればそのうちどれが目的に合うか等々一応熟慮して、いくつかの判断基準によって正しいと思って決めています。しかし本当のところすぐには分かりません。だからもし間違っていることが分かったらいつでも撤回するという姿勢でいること、そのためにこの祈りを入れるのです。こういった姿勢でいれば、判断を誤らせるエゴという夾雑物はやはり入りづらいです。そうすると、結果として良い方向に向かったということがあとになって分かる。そういうものです。

<モーハ〔 moha:痴、迷い、迷妄〕の意味について>
Bさん:モーハにはどのような意味がありますか。

アドバイス:
  モーハというのは「対象の本質を見誤る」というメンタル・ファクター(心の要素と働き)です。つまり、ロープを蛇、蛇をロープと思ってしまうように、対象を見誤ることです。対象をあるがままに観ないで違うものと観てしまう時、その人の心に立ち現れている要素、因子をモーハと呼びます。
  なぜモーハが起こるかというと、私たちがものごとを判断する元となっている情報は、すでにエゴというレンズを通ってきているからです。そのレンズを通って蓄積されてきた情報群、つまり先入観という名の妄想によって判断するために、あるがままにものが観えない、モーハが起きるのです。しかし良くも悪くも、私たちは先入観を抜きにして生きるようにはなっていません。

Bさん:モーハというのが貪瞋痴の痴のことであれば、痴がベースになって貪瞋があると考えて良いのですか。

アドバイス:
  はい、そういうことです。
  貪瞋痴は同列に並んでいるのではなく、痴の上に貪も瞋も乗っています。痴がなければ、貪瞋はありません。なぜなら、モーハがなければありのままに観えているということですから。
  たとえば、叩かれて痛みを感じたとします。誰が叩いたか。憎い相手が叩いたのか、それともかわいい孫が叩いたのか。怒りが出るか出ないか。その違いは、これまで蓄積してきた何らかの情報をもとにこの痛みを解釈することから生まれます。その時、本当にあるがままに存在しているのは「痛み」だけです。
  純粋な「痛み」という現象を先入観、つまり妄想に沿って解釈する、取り違える。そのようにモーハが起きているために快不快の判断がなされ、結果として貪りや怒りが出てくるということです。したがって、モーハの働いていない貪や瞋はあり得ないという話です。
  そこで、ヴィパッサナーの修行現場では、このモーハを無くしていくための大切な訓練をやっていきます。それがなぜ肝要かと言えば、概念化を止め思考を止め、観たもの聞いたものをあるがままに確認していくことは、まさしくモーハのない状態で一瞬一瞬の眼耳鼻舌身意の対象を観ていこうということですから、それがうまく出来れば煩悩の出るはずがないからです。その時は、あらゆることがあるがままの認知で終わっている状態になっています。ただし、それですべて完成というわけではありませんけれども。

<修行よりダンマの方が好き>
  Cさん:ダンマトークをよく聞き本も読んでいるので、思考はその方向に向いているのですが、修行はあまりしていません。

アドバイス:
  ダンマトークを聞いたり読んだりして感動すると、意識が高揚して非常にテンションが高くなります。そういう時は体調と関係なく精進のエネルギーが出やすいので、意識が高揚した時に取りあえず10分間瞑想を実践するようにしましょう。
  心が本当に変わるためには実際に修行しないとダメです。苦の構造を知的に理解しても、瞬間的な心の反応は変わらないでしょう。変わらなければ、悪しき反応を繰り返し不善業を作り続けてしまうのです。
  実際に心を変えるのは、瞑想の修行です。そのためにやる気をいかに高めるかが日々の課題になります。
  例えば、私は以前テクニックとしてこういうやり方をしていました。
  ダンマトーク、仏典、何度も読んだ本を適当にぱっと開きます。ダンマパダは短いから読みやすいのですが、長い文章でも傍線を引いておいたところを読みます。その時の心境で読むのでそれなりに感銘を受け、「ああ、そうだなあ」と意識が高揚し、その勢いで良い修行ができました。
  なんとなく思考や妄想が多い状態になっていると、次元の高い瞑想的な意識には少し欠けているように感じる時もあります。そのような時には修行への最初の接続がもう一つという感じで、盛り上がってくるまでに時間がかかります。それに対して、ダンマトーク等に感動している状態だとすぐに修行に入れますし、修行の内容も良いのです。たとえば、せっかく修行しようという気持を起こした時に、「でも、とりあえず食事してから」としてしまうと、食事の後になると「もう少し休んでから・・・」というように、意欲が減退してしまうことはないでしょうか。
  意識の状態は常に生き物のように動いています。いろいろ工夫しながらやってください。

<理論を学ぶこと>
Dさん:理論を学んでも本当に理解したかどうか定かではないにもかかわらず、瞑想しているとこれはそういう理論通りの状況であると思い込んでいる自分がいます。また実際に理論を正しく理解しているかどうか、その辺はどう判断すれば良いのでしょうか。

アドバイス:
  単なる思い込みではなく、仏教を理論的に理解する、思考の世界で正しく理解するということは、疑いを浮かべないようにするには必要なことです。ただ、それだけではありません。
  たとえば、「情報が六門に接したところに感情が浮かぶから『私がいる』という錯覚が生じる。しかしそれは妄想にすぎないということに気づこう」と理論を学んでも、そういうことを体験として実感し、心の奥底から理解できるのはどういう時でしょうか。頭では分かっているつもりでも、日常生活ではとりあえずそこのところは脇へ置いて生きているのが現実ではないでしょうか。行動に結びつくような徹底した理解というのはなかなか難しいと言えるでしょう。加減乗除の理論なら、学んだものはいつでも買い物やら何やらで使いますから否応なく実感を重ねますが、「私がいる」というのが妄想だというのを心の底から理解するのに適する機会はそうそう訪れません。
  ここでの問題は「疑」のことです。ヴィチキチャー(vicikiccā:疑い)は、こんなヴィパッサナーをやっていて本当に効果があるのだろうかとか、原始仏教より他の方が良いのではないかと、いろいろな疑いが出て来ることを言います。
  『削減経』に次のようにあります。
  「<他の者たちは疑いのある者になるかもしれない。しかしわれわれは、ここに疑いを超越する者になろうと削減を行なうべきです」(注)
  疑があれば心は必ず揺らぎます。決着がついて判断が確定しない限り心は定まりません。真実の姿、本物を分からない無知が疑の原因です。そこで、盲信するのではなく、ヴィパッサナー瞑想によって正しく検証したものに信を定めて疑を晴らすことです。信が定まって迷いや疑いが晴れた状態になると、心はきれいに集中してサマーディの完成に向かうことができます。ぜひ頑張って欲しいです。
  注:片山一良訳『パーリ仏典 中部 根本五十経篇』Ⅰ(大蔵出版、 1997

 Eさん:心所とかメンタル・ファクターとかよく言われますが、その意味を教えてください。

アドバイス:
  心所というのはパーリ語のチェータシカ(cetasika)の訳語です。
  心というのは永遠不滅に変わらないものではなく、そこに怒りという要素が入ると怒りの心になりますし、嫉妬という要素が入るとその瞬間は嫉妬の心になっています。その要素とそれによる心の働きをメンタル・ファクター、心所と言います。
  たとえば、透明な水に赤い色素を入れれば赤い水になり、青い色素を入れれば青い水になります。水が心だとすると、青い色素、赤い色素はそれを色づける、それが心所という訳です。
  つまり、どの要素が入るかで心は変化していく、そのような考え方を原始仏教ではしています。ただ心は水と違ってその瞬間その瞬間で変化します。ちょっと前に怒っていたその人がたちまち慈悲の瞑想を始めたり、そしたらすぐに退屈したり、一瞬一瞬無常に変化しているのです。

Eさん:無常に変化していると言うのは分かります。では、怒りとか高慢とか感情みたいなものを心所と言うのですか。

アドバイス:
  感情はもちろんそうですが、それだけではありません。たとえば、散漫な心とか集中する心は感情とは違います。原始仏教ではそれらを52個と数え、それが様々な組み合わせで心の中に入っている、そういう理解です。

Fさん:ヴィパッサナー瞑想では、思考を止めて、いかなる知識も概念も掴んではならないとお聞きしますが、たとえば、本を読む時もサティを入れて、紙に書かれたことを「正しいと思うな」ということなのでしようか。(『月刊サティ』2011/10再録)

 アドバイス:
  そういうことではありません。知識のインプットは悪いことではないし、正しい知識は智慧の初期段階と言って良いでしょう。ただし、仏教では、知識情報は修行を正しい方向へ導くためのものです。お釈迦さまの教えは、心を浄らかにしドゥッカ(苦)の人生から解脱しなさい、という一点に集約されるのです。知的な議論や学問のためではなく、解脱のために「怠ることなく、修行を完成しなさい」という最後の言葉を残されました。
  阿羅漢は死後存在するか否か、等々の正解を知っていても知らなくても、怒りに苦しみ、高慢や嫉妬や愛欲に苦しむのです。その苦しみから解脱するための実践法が仏教です。
  そして修行現揚では、たとえ崇高な考えごとでも、思考が沈黙しない限り悟りに必要なパンニャー(paññā:智慧)は閃かないのです。(文責:編集部)

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