月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~


修行上の質問 理論編 (1)
               
(2)・・・ウペッカーの育て方


修行上の質問 --理論編--(1)

<仏教的選択の基準>
Aさん:善悪の判断のつかない時にはどのように選択していけば良いのでしょうか。先生は何を基軸として判断されているのでしょうか。

アドバイス:
  仏教の基軸は悪を避けて善を為すということです。しかし、その判断が分からない、明らかな善とも言えずまた悪とも言えない、そういう難しい時にでもやはり意志決定をしながら生きていくしかないのが私たちです。決めなければならないのです。
  私の場合は、自己中心性の度合いを観察します。具体的に言えば、「自分のためというエゴモードがどのくらい入っているか」とか、「今やろうとしていることは自分のためになると思っているけれど、結果として人のためにも世のためにもなる度合いはどのくらいか」、あるいは、「これをしたら後味が悪くなるという可能性は無いのか」など、いくつかのポイントを検討してみます。
  その場合、すべての判断に通じているのは、「私は今こうしたいのでこのことをやろうと思っています。これが正しい道であるならばそのように叶えてください。正しくないのであれば叶えないでください」「これが本当に自分の聖なる修行の完成や真理の道に合致しているなら叶えてください。でもそうでないのなら叶えないでください」という祈り、これは定番です。
  たとえば、何かを手に入れようとする時には、それがすぐに必要かどうか、必要だとすればそのうちどれが目的に合うか等々一応熟慮して、いくつかの判断基準によって正しいと思って決めています。しかし本当のところすぐには分かりません。だからもし間違っていることが分かったらいつでも撤回するという姿勢でいること、そのためにこの祈りを入れるのです。こういった姿勢でいれば、判断を誤らせるエゴという夾雑物はやはり入りづらいです。そうすると、結果として良い方向に向かったということがあとになって分かる。そういうものです。

<モーハ〔 moha:痴、迷い、迷妄〕の意味について>
Bさん:モーハにはどのような意味がありますか。

アドバイス:
  モーハというのは「対象の本質を見誤る」というメンタル・ファクター(心の要素と働き)です。つまり、ロープを蛇、蛇をロープと思ってしまうように、対象を見誤ることです。対象をあるがままに観ないで違うものと観てしまう時、その人の心に立ち現れている要素、因子をモーハと呼びます。
  なぜモーハが起こるかというと、私たちがものごとを判断する元となっている情報は、すでにエゴというレンズを通ってきているからです。そのレンズを通って蓄積されてきた情報群、つまり先入観という名の妄想によって判断するために、あるがままにものが観えない、モーハが起きるのです。しかし良くも悪くも、私たちは先入観を抜きにして生きるようにはなっていません。

Bさん:モーハというのが貪瞋痴の痴のことであれば、痴がベースになって貪瞋があると考えて良いのですか。

アドバイス:
  はい、そういうことです。
  貪瞋痴は同列に並んでいるのではなく、痴の上に貪も瞋も乗っています。痴がなければ、貪瞋はありません。なぜなら、モーハがなければありのままに観えているということですから。
  たとえば、叩かれて痛みを感じたとします。誰が叩いたか。憎い相手が叩いたのか、それともかわいい孫が叩いたのか。怒りが出るか出ないか。その違いは、これまで蓄積してきた何らかの情報をもとにこの痛みを解釈することから生まれます。その時、本当にあるがままに存在しているのは「痛み」だけです。
  純粋な「痛み」という現象を先入観、つまり妄想に沿って解釈する、取り違える。そのようにモーハが起きているために快不快の判断がなされ、結果として貪りや怒りが出てくるということです。したがって、モーハの働いていない貪や瞋はあり得ないという話です。
  そこで、ヴィパッサナーの修行現場では、このモーハを無くしていくための大切な訓練をやっていきます。それがなぜ肝要かと言えば、概念化を止め思考を止め、観たもの聞いたものをあるがままに確認していくことは、まさしくモーハのない状態で一瞬一瞬の眼耳鼻舌身意の対象を観ていこうということですから、それがうまく出来れば煩悩の出るはずがないからです。その時は、あらゆることがあるがままの認知で終わっている状態になっています。ただし、それですべて完成というわけではありませんけれども。

<修行よりダンマの方が好き>
  Cさん:ダンマトークをよく聞き本も読んでいるので、思考はその方向に向いているのですが、修行はあまりしていません。

アドバイス:
  ダンマトークを聞いたり読んだりして感動すると、意識が高揚して非常にテンションが高くなります。そういう時は体調と関係なく精進のエネルギーが出やすいので、意識が高揚した時に取りあえず10分間瞑想を実践するようにしましょう。
  心が本当に変わるためには実際に修行しないとダメです。苦の構造を知的に理解しても、瞬間的な心の反応は変わらないでしょう。変わらなければ、悪しき反応を繰り返し不善業を作り続けてしまうのです。
  実際に心を変えるのは、瞑想の修行です。そのためにやる気をいかに高めるかが日々の課題になります。
  例えば、私は以前テクニックとしてこういうやり方をしていました。
  ダンマトーク、仏典、何度も読んだ本を適当にぱっと開きます。ダンマパダは短いから読みやすいのですが、長い文章でも傍線を引いておいたところを読みます。その時の心境で読むのでそれなりに感銘を受け、「ああ、そうだなあ」と意識が高揚し、その勢いで良い修行ができました。
  なんとなく思考や妄想が多い状態になっていると、次元の高い瞑想的な意識には少し欠けているように感じる時もあります。そのような時には修行への最初の接続がもう一つという感じで、盛り上がってくるまでに時間がかかります。それに対して、ダンマトーク等に感動している状態だとすぐに修行に入れますし、修行の内容も良いのです。たとえば、せっかく修行しようという気持を起こした時に、「でも、とりあえず食事してから」としてしまうと、食事の後になると「もう少し休んでから・・・」というように、意欲が減退してしまうことはないでしょうか。
  意識の状態は常に生き物のように動いています。いろいろ工夫しながらやってください。

<理論を学ぶこと>
Dさん:理論を学んでも本当に理解したかどうか定かではないにもかかわらず、瞑想しているとこれはそういう理論通りの状況であると思い込んでいる自分がいます。また実際に理論を正しく理解しているかどうか、その辺はどう判断すれば良いのでしょうか。

アドバイス:
  単なる思い込みではなく、仏教を理論的に理解する、思考の世界で正しく理解するということは、疑いを浮かべないようにするには必要なことです。ただ、それだけではありません。
  たとえば、「情報が六門に接したところに感情が浮かぶから『私がいる』という錯覚が生じる。しかしそれは妄想にすぎないということに気づこう」と理論を学んでも、そういうことを体験として実感し、心の奥底から理解できるのはどういう時でしょうか。頭では分かっているつもりでも、日常生活ではとりあえずそこのところは脇へ置いて生きているのが現実ではないでしょうか。行動に結びつくような徹底した理解というのはなかなか難しいと言えるでしょう。加減乗除の理論なら、学んだものはいつでも買い物やら何やらで使いますから否応なく実感を重ねますが、「私がいる」というのが妄想だというのを心の底から理解するのに適する機会はそうそう訪れません。
  ここでの問題は「疑」のことです。ヴィチキチャー(vicikiccā:疑い)は、こんなヴィパッサナーをやっていて本当に効果があるのだろうかとか、原始仏教より他の方が良いのではないかと、いろいろな疑いが出て来ることを言います。
  『削減経』に次のようにあります。
  「<他の者たちは疑いのある者になるかもしれない。しかしわれわれは、ここに疑いを超越する者になろうと削減を行なうべきです」(注)
  疑があれば心は必ず揺らぎます。決着がついて判断が確定しない限り心は定まりません。真実の姿、本物を分からない無知が疑の原因です。そこで、盲信するのではなく、ヴィパッサナー瞑想によって正しく検証したものに信を定めて疑を晴らすことです。信が定まって迷いや疑いが晴れた状態になると、心はきれいに集中してサマーディの完成に向かうことができます。ぜひ頑張って欲しいです。
  注:片山一良訳『パーリ仏典 中部 根本五十経篇』Ⅰ(大蔵出版、 1997

 Eさん:心所とかメンタル・ファクターとかよく言われますが、その意味を教えてください。

アドバイス:
  心所というのはパーリ語のチェータシカ(cetasika)の訳語です。
  心というのは永遠不滅に変わらないものではなく、そこに怒りという要素が入ると怒りの心になりますし、嫉妬という要素が入るとその瞬間は嫉妬の心になっています。その要素とそれによる心の働きをメンタル・ファクター、心所と言います。
  たとえば、透明な水に赤い色素を入れれば赤い水になり、青い色素を入れれば青い水になります。水が心だとすると、青い色素、赤い色素はそれを色づける、それが心所という訳です。
  つまり、どの要素が入るかで心は変化していく、そのような考え方を原始仏教ではしています。ただ心は水と違ってその瞬間その瞬間で変化します。ちょっと前に怒っていたその人がたちまち慈悲の瞑想を始めたり、そしたらすぐに退屈したり、一瞬一瞬無常に変化しているのです。

Eさん:無常に変化していると言うのは分かります。では、怒りとか高慢とか感情みたいなものを心所と言うのですか。

アドバイス:
  感情はもちろんそうですが、それだけではありません。たとえば、散漫な心とか集中する心は感情とは違います。原始仏教ではそれらを52個と数え、それが様々な組み合わせで心の中に入っている、そういう理解です。

Fさん:ヴィパッサナー瞑想では、思考を止めて、いかなる知識も概念も掴んではならないとお聞きしますが、たとえば、本を読む時もサティを入れて、紙に書かれたことを「正しいと思うな」ということなのでしようか。(『月刊サティ』2011/10再録)

 アドバイス:
  そういうことではありません。知識のインプットは悪いことではないし、正しい知識は智慧の初期段階と言って良いでしょう。ただし、仏教では、知識情報は修行を正しい方向へ導くためのものです。お釈迦さまの教えは、心を浄らかにしドゥッカ(苦)の人生から解脱しなさい、という一点に集約されるのです。知的な議論や学問のためではなく、解脱のために「怠ることなく、修行を完成しなさい」という最後の言葉を残されました。
  阿羅漢は死後存在するか否か、等々の正解を知っていても知らなくても、怒りに苦しみ、高慢や嫉妬や愛欲に苦しむのです。その苦しみから解脱するための実践法が仏教です。
  そして修行現揚では、たとえ崇高な考えごとでも、思考が沈黙しない限り悟りに必要なパンニャー(paññā:智慧)は閃かないのです。(文責:編集部)

修行上の質問 --理論編--(2) 
  <ウペッカーの育て方>


Aさん:ウペッカーは聖なる無関心と訳されたりしているとのことですが、それと単なる無関心とはどのような違いがあるのでしょうか。また、なぜそのような心が大切なのでしょうか。

アドバイス:
  「聖なる無関心」と「単なる無関心」の違いは、一言でいうとエゴの有無ですね。エゴの強い人は基本的に利己的ですから、自分の利害に関係ある事柄には敏感に反応しますが、利益にならないことや不利益を被りそうなことには無関心を決めつけるのが普通です。自分さえ良ければ他人のことはどうでもよい、という無関心です。
  一方、ウペッカーが「聖なる無関心」と呼ばれるのは、我執やエゴイスティックな片寄りがないので、全ての対象に無差別平等なスタンスが取れるからです。利己的な振る舞いも、敵か味方かという発想もないので、対立するどちらか一方に加担したりしません。公平で公正な無我の立場を取るので、一見すると無関心のようにも見えるということです。眼前の全ての対象への優しさや慈悲のあるのがウペッカーで、可愛いのは自分だけという冷淡さが単なる無関心とも言えます。
  自己保存の欲動に支配され弱肉強食の苦の世界を展開させている凡夫衆生が理想とすべき「無我」や「慈悲」を体現するものがウペッカーであるならば、ヴィパッサナー瞑想や仏教の実践で最も大切なのはウペッカーの心ではないでしょうか。

Bさん:自分勝手な思い込みから好き嫌いの感情が生まれて、それによって自分も苦しむことになるというのは良く理解できるのですが、だからといって容易にウペッカーの心を実現できるかというとなかなか難しいように感じられます。ウペッカーの心を養っていくためのよい方法がありましたらご紹介ください。

アドバイス:
  仰るとおり、不正確な対象認知や間違った思い込みから感情的な反応をして苦を招くのは愚かしいことです。だからサティの瞑想をして妄想を排除し、脳内をクリーンな状態にする必要があるということですね。
  しかし、眼前の対象を正確に認識しても、こちらの心の反応パターンが煩悩に汚染されていたりエゴイスティックだったりすると、悪い反応をしてしまうので、最終的に他人も自分も苦しめることになります。サティの瞑想と並行して、反応系の心の修行をしなければならない所以です。欲望や怒り、間違った考えへの固執、妬みや高慢など不善心を引き算していく修行は当然ですが、同時にウペッカーに特化したトレーニングも必修課目です。
  どうしたら良いのでしょうか。


①視座の転換
  まず、視座の転換から始めましょう。
  自己中心的な視座から一方的に物事を見ていると、人は利己的になりエゴイスティックな行動をしてしまいます。だから視座を意識的に転換する練習をするのです。
  目の前の出来事や案件を自分の立場から受け止めた自然な反応が、今、自分の心に起きている訳です。そのことに気づいてサティを入れ、ラベリングすることによって自分自身が対象化されます。これは基本的な瞑想として毎日おやりになっていると思います。それに加えて、意識的に相手の脳内に入って相手の立場から事態を眺め、受け止め、相手サイドの心の内を想像してみるのです。相手には相手の言い分があり、理解の仕方も求めていることも、こだわっていることも、こちらとは違うのです。自分の視座をいったん離れてみると、見えなかったものが見えてくるでしょう。
  これが視座の転換です。


②サティが最初の視座の転換
  「このヤロー、ふざけやがって!」 と感情的になっていてはできる仕事ではありません。あ、自分は怒りに駆られている・・とクールダウンして冷静にならなければ、相手の立場から観るなどという発想がそもそも浮かびません。一貫して冷静沈着なら結構ですが、そうでなければまず、カッとなった自分を対象化するサティの瞑想が優先されるのです。その瞬間の自分を自己客観視するのも、視座の転換なのです。これができないのに、相手の立場から全てを眺め直すなどという高度な仕事はできないでしょう。できないから練習し、修行するのです。

③本番前の練習
  問題が発生したホットな現場にいながら、普段やったことのない試みを実行するのは難しいでしょうから、落ち着いた日常意識モードの時に練習した方がよいかもしれません。岡目八目というように、自分以外の他人のことはよく見えるものです。最初は、自分とは関係ない第三者の問題を使って練習するとよいかもしれません。例えば、自分とは何の利害関係もない他人の夫婦喧嘩を、夫の立場からと妻の立場からそれぞれの言い分に耳を傾けてみる時など、公平な視点から判断できるのではないでしょうか。お互いに自分の視点からしか物事を見ないで言い争っているのが夫婦喧嘩です。まず妻のの立場から事態を理解し、次に夫の言い分に耳を傾けます。将棋を指している途中で、盤面をクルリとまわして相手の陣営から眺めるような感じです。
  もちろん思考実験で、直接関わってはいけません。犬も食わない他人の夫婦喧嘩などに首を突っ込むのは愚の骨頂ですから、テレビやインターネット、あるいは人生相談を読んだりしている時など、飽くまでも第三者のスタンスで練習するのです。ポイントは、ものごとを見る視座を自分の側からも、相手の側からも、両者を俯瞰する上空からも、とさまざまな角度から眺め、見直す練習です。脳内シミュレーションが難しい人は、ロールプレイングのように実際に芝居や寸劇を演じてみるやり方もあります。


④母親の眼差し
  私が昔よくやった方法を一つ紹介しましょうか。
  例えばムカつくほど嫌な人に出会ってしまった場合、そんな相手の立場から眺めてみるシミュレーションにも抵抗を感じてやりたくない時があります。そんな時、この人にも母親がいただろう。その母親ならこの人をどのように見るのだろうか・・と想像してみるのです。ムカつく相手の脳内になど入りたくないと感じても、その母親の心の中になら入れるかもしれません。世間から嫌われ者になっているどうしようないクズ男でも、それでも、母親にとってはやはり可愛い我が子であり、見捨てられないのです。その母の目線で眺めれば必ず美点が見えているだろうし、好ましい肯定的なイメージが脳内に保存されているはずです。良い点しか見ようとしない母親の眼差しではあるが、その母はいったい何を見ているのだろうか・・。
  そんな風に想像をめぐらしてみると、お乳を飲み終わってぐっすり眠っている赤ちゃんの頃や、クリスマスの夜に家族と笑いながらケーキを食べたりしている情景が浮かんできたりします。いつの間にかその母と一緒に、相手の肯定的な良い面を見ようと、優しい気持ちが芽生えていたりするのです。
  まあ、私が個人的にやっていた方法なので、普遍性があるかどうかわかりません。感情的になっていると、実際に視座を転換するのは簡単ではありません。だから何か工夫をして視座を変え、気持ちを変え、印象を変えないと、自己中心的に片寄った状態を是正できないのです。ウペッカーというのは公平なニュートラルな視座を確立することですから、具体的な修行現場では自己中心性をいかに弱めていくかの仕事になるでしょう。


⑤情報の力
  いずれの場合も、大事なのは情報の力です。視座が換わると認識が一変するのは、今まで見えなかったものが見えたり、誤解が正されたりするからです。つまり新たな情報が得られた結果なのです。ガチガチに固まってしまった考えや情報に縛られている人を「固定観念にとらわれている人」と言います。新しい情報は見ようとも聞こうともしないで、自分の脳内情報だけに固執している「聞く耳を持たない」状態です。判断の根拠となる情報が変わらなければ、結論も反応も何も変わりません。嫌な人のまったく違った一面を垣間見たときに、つまり新たな情報が得られた瞬間、ネガティブな印象が肯定的なものに塗り替えられる可能性があります。
  例えば、嫌悪すべき相手がなぜ、どのような経緯でそこまで性格が悪くなっていったか、哀れで気の毒な過去の履歴の一端が知られれば心を打たれるし、こちらの受け止め方も変わる可能性があります。
  情報が乏しく、しかもネガティブな情報だけだったら、好きになることも受け容れることもできません。嫌な相手について良い情報が得られれば得られるほど、嫌う心は減少します。さまざまな情報が詳細に知られれば知られるほど、客観的な見方や多角的な見方ができるようになります。
  不確かな伝聞ではなく、事実に基づく正確な情報が多いほど正しい認識となり、ウペッカーの心が確立してくる可能性が増すでしょう。これを「情報の力」と、私は呼んでいます。


⑥因果を知る
  原始仏教の特徴の一つは、分析論です。曖昧模糊とした混沌状態は訳の分からない無明と言っていいでしょう。しかし、その状態を構成している要素や要因が分析され理解されると、よく分からなかったものが文字通り「分けられ」「分かる」状態になり、智慧の光で明るみに出された状態になります。ヴィパッサナー瞑想の現場では「択法(分析的な見方)」が機能している状態です。
  非常にネガティブな事態や人物を否定せずにはいられない時でも、つまり怒りに駆られている時でも、さらに言えばエゴの立場からしか物が見えなくなっている時でも、その発生した事態や人物がなぜ、どのような理由や原因からそうなっていったのか、背景や必然の力で展開していったかの詳細が理解されれば、受容する力が増します。つまりエゴの視座からしか捉えられなかったものが、別の角度から受け止め直されるようになったということです。自己中心的な視座がウペッカーの視座に近づいたと言ってもよいでしょう。
  結論も現状も何も変わらないけれども、事の詳細と因果の展開が理解されるとウペッカーが強まるのです。なるほど・・そういうことだったのか・・と全てが判明し了解されると、なぜか事実は何も変わらないのに、不思議に受け容れることができたりするのです。これを「情報の力」に分類することもできますが、私は「因果を知る」ことの重要性として強調したいのです。

  私も長年にわたってこの訓練をしてきました。そのせいで、人の話でも報道される事件やニュースでも、何か事態が発生した時には何故に、どうして、どうのような経緯で、そうなったのかという問いが反射的に浮かんできます。のみならず、分析し解析するのが大好きで、その答えも即座に浮かんでくることが多くなってきました。こうして因果関係が読み解けるようになると、表面的な現象だけを見て好きとか嫌いとかいう感情的な反応は起きなくなってきます。もし感情的な反応が起きたとしても、すぐになぜその反応が起きたのかが解るようになってきました。

⑦修行の熟成
  私の場合は、長年修行しながら、どんなことも心底から納得了解して腹に落とし込まないと気が済まないので、ものごとを分析し因果を詳らかにしようとしていただけかもしれません。ウペッカーの心はヴィパッサナー瞑想の奥義とも言うべきものであり、技術的習練だけで得られるものではないと思います。さまざまな知識や経験の積み重ねによって作り上げられていく全人格的なものです。インスタントに身に付けられるものではないと心得ておいたほうがよいでしょう。ウペッカーの心が完成するのは、ほぼ悟りと同じと言っても過言ではありません。遠大な計画で心の清浄道を歩みながら体得されていくものです。
  熱心に瞑想修行全般に取り組んできたのですが、自己中心的な見方がどうしても変えられないと悩んでいた方がいました。ものの見方を変えなければならないのは分かっていたし、知的にはよく理解できるのですが、いくら修行してもどうしても自分の視座に執われてしまい、絶望しかかっていたそうです。しかし、それでも諦めずに、瞑想もダンマの学びも続けていました。するとある時、初めて俯瞰的な見方ができたと感動する体験をしました。自分が考えてきたことや行なってきたことの全体が明瞭に見渡せる感覚を体験したのです。それまで頭でしか理解できなかったことが、全身の体験で「わかった!」という状態になり、完全に視座が変えられたという印象になりました。この体験以来、家族や難しい人間関係が一変するという不思議なことが起き、自分の認知や認識が変わったのは本物かなと思えたそうです。
  これは、視座の転換が起きてエゴ感覚が弱まると、自ずからウペッカーが機能して他者のエゴ感覚にショックを与えるのではないか。その結果、人間関係が好転するという不思議現象に繋がったのではないか、と解釈したくなります。ブレずに、諦めずに、歩むべき道を歩み抜いていけば、努力が報われる日が必ず来ると教えてくれているように思われます。


⑧偉大なフンコロガシ
  スカラベという、俗にフンコロガシと呼ばれる昆虫がいます。アフリカのサバンナで王者のごとくタテガミを風になびかせているライオンと比べると、他人のウンチを転がして丸めたりしている情けない奴と思われるかもしれません。しかしいかにも蔑視されそうなこの虫がどれだけ重要な生態系の一端を担っているかは、情報の力がなければわからないでしょう。もしスカラベがいなかったらアフリカの草原は大型草食哺乳類の糞だらけになってしまいます。エチオピアの牧畜民もケニアのマサイ族も、フンコロガシのお陰様で家畜と共生する生活が成り立っているとも言えるのです。
  それまで存在していなかった羊や牛などの家畜を人為的に移植したオーストラリアなどでは、家畜の糞が処理できずにやむなく糞虫を持ち込まなければならなかったほどです。フンコロガシはただ糞の始末をしてくれるだけではなく、哺乳類の糞に含まれる植物の種子分散にも大きな役割を果たしています。フンコロガシによって地中に埋められ発芽率が上昇するのです。フンコロガシがいなかったら、アフリカの草原が砂漠化し、エサのなくなったヌーやシマウマやガゼルなどの草食獣が死に絶え、それを食糧としていたライオンもチータもハイエナも餓死してしまうかもしれません。こうした驚くべき情報に接すると、フンコロガシが偉大な存在に見えてこないでしょうか。ライオンとフンコロガシは、どちらがより重要な立派な生物なのでしょうか・・・? いかがですか? もし両者の存在が等価に見えてきたなら、情報の力によって視座が換わり、ウペッカーがちょっと養われてきたのです。


⑨弱肉強食の世界
  もう一つアフリカの話をしましょうか。野生動物の中では、私はチータなどは好きな方です。自分も痩せていますから。()
  そのチータのお母さんは狩りをする時には全力疾走するので、獲物を捕らえてもその後かなりの時間、息を整えて体温を下げないと獲物が食べられないほど消耗してしまいます。その戦利品を虎視眈々と狙うハイエナやライオンに横取りされることも多いので、もし狩りに失敗して何日も獲物が取れないと、何頭かの子供たち共々餓死寸前の状態にもなります。そんな時にガゼルの狩りに成功する映像を見ると、思わず「ああ、よかった・・。ハイエナよ、今は来るな!」という気持ちが起きてしまいます。そこで、いつの間にか感情移入して、チータを応援しながらテレビを見ていたと気づくわけです。
  こうしたドキュメンタリーでは、どちらかというとネコ科の大型肉食獣を主役にする企画が多いようです。しかし時にはガゼルのような草食動物を主役にしたものもあります。そうした番組はさすがに突っ込みが深く、種の異なる草食動物がどれだけ知恵を使って相互に助け合いながら肉食獣を見張り、追跡をかわしたりしているか、興味がかき立てられるように作られています。
  そうすると、無意識のうちにガゼルを応援するような感じになり、チータに追いかけられているような場面では、つい「ガゼル頑張れ!つかまるな!」と心の中で叫んでいたりするわけです。()
  昨日の番組では狩るチータを応援し、今日は狩られるガゼルを応援しているのです。映像に引き込まれて夢中で見ていると、いつの間にか主観的な眼差しになり、露わになったエゴ感覚が一方のガゼルやチータに投影されてしまうということです。
  どうすれば良いのでしょうか。最後の力を振り絞って狩りをするチータの母親も幼い子供達もなんとか生き残ってほしいし、これから人生が始まっていくガゼルの若者にも敵の牙から逃れてほしい・・。ウペッカーの視座で眺めると、弱肉強食の非情な論理に貫かれた怖ろしい生命の世界が展開しているのです。

  誰かが笑えば誰かが泣かなければならない存在の世界を前にして、なんとか自分も勝ち組に入ろうと弱者を食い物にしながらカルマを悪くしていく人たちもいるでしょう。こんな一切皆苦の構造を持つ世界から完全に撤退しようと、解脱を目指し瞑想修行に命を懸ける人たちもいるでしょう。いかんともしがたい苦界を前に、「生きとし生けるものすべてが幸せでありますように」と、絶対にかなうはずのない絶望的な慈悲の瞑想を捧げながら黙って見ているしかない人たちもいるでしょう。
  解脱する覚悟も定まらないし、弱者を蹴落としながら不善業を重ねていくこともできないし、どうして良いのかわからないまま何もしない人たちもいるし、絶対に不可能な慈悲の瞑想を渾身の力で捧げる人たちもいます。この世は、出力されたエネルギーが何かの仕事をして何らかの結果をもたらす世界です。慈しみのバイブレーションを強く発信する人と、そうでない人がまったく同じ結果になるだろうとは考えづらいのです。

  こんな妄想が浮かびます。慈悲の瞑想をしながらチータとガゼルのバトルを黙って眺めていると、ぎりぎりセーフでガゼルが逃げのびることができたとします。精魂尽き果てたチータの母親は打ちひしがれて子供達の待つ叢に帰っていきます。すると、アカシアの大木を通り過ぎようとした時、なんと木陰に豹の獲物だったヌーの子供が落ちていたのです。なぜか豹も見当たらなかったので、急いでヌーを運んでチータの親子は辛うじて命を長らえることができました・・・。慈悲の瞑想をする人には、そんな稀有な命の場面を目撃するかもしれません。苦の世界に存在している限り、完全に絶望的であっても、それでも「生きとし生けるものが幸せでありますように」と優しさと慈しみの波動を放つのがブッダの瞑想をする者のやるべきことです。

⑩サマーディの力
  ここまで申し上げてきたのは、反応系の心の修行の一環である発想の転換によるウペッカーの心の育て方です。知識やイメージや情報が飛び交う思考モードでのトレーニングです。「戒→定→慧」の「戒」の修行に分類され、その意味では瞑想修行の前座と言うこともできます。
  最後に、瞑想を深めることがウペッカーを養うことだという話をしましょう。一点集中型のサマタ瞑想も純粋観察のヴィパッサナー瞑想も、本格的な瞑想が始まったら、思考モードを離れてナンボの世界ですから、雑念に巻き込まれず妄想を止めなければなりません。サマタ瞑想では一点に集中することによって、ヴィパッサナー瞑想では去来する妄想にサティを入れて見送ることによって、最初の関門であるサマーディを深めていく方向に修行を進めていきます。
  足元にまつわりつく子犬のように、払っても払っても飛来してくるうるさい蝿のように、止めどなく浮かんでくる妄想を鎮静化するのはなかなか大変です。瞑想の初期段階では思考モードに悩まされるのですが、定力が高まりサマーディ感覚が深まってくると、急に妄想が遠のき、深海から水面間近に浮上したような感覚が訪れます。妄想を追い払う努力が不要になるのです。集中がよくなり、中心対象が安定し、体感も意識の透明度も静かに気持ちよく澄み切ってくる感覚です。さまざまな光や色など「ニミッタ()」というヴィジョンが見えてくることもしばしばです。
  このくらいでは、まだサマーディが確立したとは言えませんが、サマーディに近づいた近行定ぐらいになっているかもしれません。しかしこの程度のサマーディ感覚の初期状態でも、瞑想が安定してくると、この世のことはどうでもよい・・という感覚が心にも体にも全身的に拡がってくるものです。人生のさまざまな苦しみや悩みごとが、他人事のように達観して感じられてくるのです。粘りつく水の抵抗をかき分けながら泳いでいた飛魚が、水面に浮上し空中をしばし滑空するように、禅定感が深まると、思考レベルでも体感レベルでもウペッカーの感覚が強く、深く、強化されていくのを感じるでしょう。
  思考モードでどれだけ発想の転換を練習しても、この定力がもたらすウペッカーの感覚は圧倒的に強烈で全身的なものです。これを繰り返し繰り返し味わい尽くしていくことが、ウペッカーの確立には必須アイテムになると言ってよいでしょう。思想の入れ替えや発想の転換など脆いものです。魅力的な新たな思想に遭遇すれば、それまでの考えなどあっさりブッ飛んで乗り換えてしまうものです。
  瞑想者は、瞑想の修行によってウペッカーを養い深めなければなりません。これは強烈なもので、心を根底から変えていくのに大きな役割を果たしますが、完全ではありません。賞味期限があるのです。サマーディという特殊な変性意識状態によって支えられている感覚ですから、禅定から出て日常意識モードに戻れば、高まったウペッカーの感覚も消えていくでしょう。エゴ感覚の束縛から解放されたかと思ったのも束の間のことで、元の木阿弥という印象に誰もが失望します。
  仕方がありません。サマーディには限界があるのです。サマーディに入定しただけで、煩悩から完全に解脱できるなら、ブッダは「戒→定→慧」の三学を説きませんでした。「定」だけでOKとしなかったのは、サマーディの力に支えられた洞察の智慧の一瞬が必要不可欠だからです。輪廻の流れに最後のトドメを刺すのは涅槃の一瞬であり、そのとき確立されたウペッカーは不動のものとなり、これがウペッカーの修行のゴールであり、瞑想修行の完成です。

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