月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

修行上の質問  実践編(5)    ―痛みの観察・病気の時に-

○痛みの観察

Aさん:痛みが出てきた時、どう対処すればよいのでしょうか。

アドバイス:
  痛みに限らず、苦受を伴う嫌なことは反射的に避けたいという反応が起きるものです。痛みを感じた瞬間、まず「痛み」とサティが入らないと、自動的に痛みを消したい、逃れたい、という反応に巻き込まれていくでしょう。
  痛みが生じたことと、その痛みにどう反応するかは2つのことです。通常は電光石火の速さで生体防衛や自己保存の本能的反応が起動してしまうのですが、ヴィパッサナー瞑想者としては、現象とその現象に対する反応を仕分けたいのです。何事も現状を正確に把握しなければ、正しい対策や反応ができません。

   反応する前に、我が身に何が起きたのか、その現実をよく観るのです。
  「痛い! 痛みに襲われた」といちど思い込むと、対象そのものの現場から離れて、概念的に捉えた痛みに反応していくのが普通です。頭の中にまとめられた痛みと、本当の痛みのありのままの実状は食い違っている場合がほとんどです。事実として本当に起きている現象を正確に知覚するには、サティという技法とその習練が必要なのです。落ち着いてよく観れば「痛みはあるが、ジタバタするほどではない」などの認識も出てきます。
  痛みに限らず何事も、嫌がって消したい、逃れたい、と反応し始めると、その現象が嫌だと感じる度合いは増すものです。ヴィパッサナー瞑想の根本精神からしても、まず起きたことは起きたこととして、ありのままに受容する瞬間が不可欠です。とにかく起きてしまったのだから、まず最初に現状をそのまま受け止める瞬間がないと、ベストの対応も浮かばない道理です。いったん起きた現象をしっかり受け止めると、改めて覚悟する必要があるでしょう。
  どのようにその覚悟が定められるか考えてみましょう。
  何よりも仏教の基盤である因果論の理解を深めていくことが大事です。
  どのようなものごとも偶然デタラメに起きているのではありません。どんな現象にも生起してくるだけの原因があり、無常に変滅する過程を経て必ず消えていくものです。どれほど長く降り続けても、これまでに止まなかった雨はないのです。生じたものは必ず滅していく原則を腹中にしっかり納めた上で、今、我が身に起きた現象の意味と生起してきた原因を理解する方向で受け止めるのです。
  苦受を受けているということは、これまでに人間や生き物に苦受を与えてきたからです。たとえ軽くても人をブッたりしたことはありませんか。蚊を叩き潰したことが一度もない、あるいはゴキブリを一匹も殺さなかった人がいるでしょうか。仏教は輪廻転生ですから、過去世に遡っても、生命を傷つけたことが一度もない人などいないのです。身体レベルで苦受を与えれば、自分の身体レベルで苦受を受ける現象に遭遇してしまうのは避けられません。
  今、足の痛みという現象が発生したのだから、それは必然の結果であり、苦を受けることによって、原因エネルギーが現象化して消えていくのだ・・、不善業の負債返しができてありがたい、ともし受け止めることができれば、痛みに対する嫌悪感はかなり減少するはずです。

  嫌なことであっても、全て受け容れる覚悟が定まると、苦しみそのものが半減するものです。この基本精神が徹底すると、まず起きたことをありのままに受け止める瞬間が入るようになり、観察の瞑想がやりやすくなるでしょう。これが苦受に対する最も適切な対応であって、そうすることで自然に、ひとりでに痛みが消えていく可能性が大きいのです。
  痛みはあるが、心は落ち着いて平静でいられる・・。この状態を作っていくのがサティの瞑想の目指しているところです。痛みは人生苦の象徴でもあり、たとえ苦しい人生であっても、平然として静かな心でいられたら素晴らしいことです。その意味では、特に足に不具合がないのであれば、椅子を使うよりは足を組んで坐った方がよろしいでしょう。痛みの観察がしやすいからです。
  このように痛みを対象化して観察していくと、痛みだけでなく、万物が無常に変化していくことが悟られていくでしょう。その認識が徹底すれば、妄想の再生産が執着や渇愛を持続させていることにも気づくことができ、結果として生き方まで変わっていくでしょう。あるがままに観察する瞑想が、心を変えていくし、成長させていく構造です。


Bさん:瞑想中に痛みなどの不快な感覚を感じた時、それに引きずられないための正しいサティの方法を教えてください。

アドバイス:
  まず、痛みが中心対象より強く感じられたら「痛み」とラベリングします。そのサティが完璧であれば、痛みはそれっきりになりすぐに中心対象に戻れるでしょう。しかしそんなことは滅多にありません。サティを入れても痛みは一向に治まらないものです。そこで、お腹の中心対象は捨てて痛みの観察に入るわけです。
  すでに説明しましたように、自分の体に何が起きているのか、どんな痛みなのか観察すると腹をくくります。ポイントは、痛みを詳細に分析的に観察することです。痛い部分と痛くない部分を仕分け、最も痛いのはどこか、痛みの質は? ズキンズキンなのかジンジンなのかピリピリなのか? 強弱は? 周期性は? 最強の痛みのポイントは固定しているのか、微妙に移動しているのか?
  このように分析的に観ていくと、嫌悪感や不安感などの心の反応が起きづらいのです。細部にいたるまで詳細に観ていくと、痛みがあるがままの状態で正確に意識される可能性が高まります。大雑把に捉えて「痛み」とラベリングを繰り返していると妄想が出やすくなり、その妄想に巻き込まれて感情的になりがちなのです。
  心が落ち着いていないと、また痛みの観察に徹する覚悟が甘いと、「痛み」と言葉だけ言っているような感じになります。そうなると、サティの対象化作用や客観視が機能していないので、ラベリングが空回り状態になり嫌悪や心配の反応に巻き込まれていくでしょう。そうなった場合には、優勢の法則からも当然、その反応している心の現象を観ます。「(痛みを)嫌悪している」「イライラしている」「心配している」と心の状態にサティを入れ、心随観に移行していきます。
  しかし、心随観は痛みの観察以上に難しいものです。ラベリングはできても実際に対象化して見送るのは容易ではありません。痛みもネガティブな心の状態もその現象を消すことに心がいってしまうと、対症療法的に足を組み替えてみようとか考えるようになります。
  何であれ、現象に執われ執着した状態になればサティは上手くいかず、ラベリングは虚しく空回りになるものです。そうなってしまったら、それも必然の展開でそうなったのですから、次の心が「ラベリングが空回り」「サティが機能していない状態」とサティを入れて対象化するのです。
  このあたりがヴィパッサナー瞑想の真骨頂です。ラベリングの言葉だけが虚しく空回りしてサティは機能していない状態に陥っても、次の心がその状態を対象化できれば、その瞬間にヴィパッサナー瞑想が正しく進行し始めるのです。
  冬の合宿に参加した人が食堂を出て、坐る瞑想を始めた時のことです。妄想だらけになり、「サティが入っていない」とラベリングしました。すると足が冷たかったので「(足が)冷たい」とラベリングし、「(背筋が)寒い」とサティを入れました。寒さや冷たさにこれといった反応もなく、自然にお腹の感覚が感じられたので「膨らみ・縮み」とサティを入れ、そのまま普通の修行に戻れました。
  これはなかなか見事なレポートでした。サティが上手く入らない状態なのに、特別ジタバタ反応することもなく、そのままありのままにラベリングできたところに無執着の勝因がありました。たとえネガティブな現象や状態に陥っても、それに執われず、淡々と観ていくことができればヴィパッサナー瞑想は上手くいくのです。簡単そうで難しいのが、この「とらわれない」なのです。執われていないので、上空から俯瞰するようにメタ認知が機能し、「淡々とあるがままに」観る瞑想ができるのです。
  この「何が起きても執われない」基本精神の確立のために、ダンマの学びを援用することが推奨されます。どんな現象も必然の力で起きてきたのだからいかんともしがたく、受け容れるしかないと腹をくくるためには、仏教の因果論に得心がいくことが大事です。また、どんな現象もすべて終わりがあり、必ず変滅していくのだからジタバタすることはない。執拗に身体に起こる苦受も永遠には続かず、捨て置けばひとりでに終息する・・と腹落ちするには「無常論」の理解が重要です。必死で反応する心が妄想を再生産して、新たな苦受を招く種を蒔かない限りは、永遠に続くものは何もないのです。


○病気の時に

Cさん:糖尿病のため、修行をやりたい気持ちはあるけれども、坐る瞑想では眠くてやる気がなくなりやれない状態です。どうしたら良いでしょうか。

アドバイス:
  糖尿病ではだるさや倦怠感が大変辛いものだと伺ってます。瞑想は体調に強く左右されますから、ご病気であれば高いレベルの瞑想修行はできないし、そのように望めば苦しくなります。
  ただ病気で苦しんでいる時はことのほかネガティブな妄想が多発しますので、実際の病気以上にその妄想で苦しみが倍増されるものです。この心理的に増幅されてしまう苦しみは瞑想で無くすことができますので、ヴィパッサナー瞑想で苦しみを最小限にしていただきたいですね。苦しい時こそ瞑想が必要だし、効果があります。
  では、眠気が強く力が出ない時には、どのように瞑想をすればよいかです。まず眠くてやる気がなくなるのは、不善心所などの問題ではなく血糖値や生理的なレベルの問題なのですから、ご自分を責めたりダメ出しをしたりしないことです。セオリーどおり、眠気や倦怠感、やる気の喪失状態をあるがままに、優しく見守るようにサティを入れていきます。
  具体的には、中心対象を定める必要はないと心得ましょう。散乱して崩れてしまう心を一点に絞り込むには相当なエネルギーが必要です。普段でも容易ではないのですから、病気の時にはとてもそんな気力もエネルギーもありません。だから中心対象を定めず、受け身に徹しきって、一瞬一瞬意識に強く触れたものをランダムにサティを入れ続けることだけ心がければよいのです。
  「(だるい)と思った」→「音」→「連想」→「音」→「音」→「妄想」→「だるさ」→「考えた」→「眠気」→「思考」→「思考」→「音」→「思考」→・・と、何がどう変わろうが続こうが気にせず、六門のどこに打ち込まれたボールでも淡々と打ち返していくだけで良いのです。
  これを「六門開放型のサティ」と言います。眼耳鼻舌身意のどの門に入った情報も順不同に、意識に強く触れたものにただ気づきさえすればよいのです。これは難しそうですが、そんなことはありません。意識が朦朧となる寸前でも、断食中のヘロヘロ状態でも、病状が相当悪化した最悪の時でも、入れようと思えばサティは延々と入り続けるものです。エネルギーがないので妄想に深く入り込む気力もないのです。全てがうっとうしく、投げやりな気持ちに陥っている時は、ウペッカーの捨の心にけっこう近いのです。見るのも、聞くのも、考えるのも、全てにヤル気がなく、うんざりで、眠りこけることすらできない。それ故に、ただ「見た」「聞いた」「感じた」「考えた」・・とその経験に気づきを伴わせるだけの営みは驚くほど続けてやれるものなのです。
  体力がありエネルギーがあるから、見ることにも聞くことにも考えることにも巻き込まれのめり込むのです。エネルギーがない時は、妄想に巻き込まれていくことすらうっとうしいのですから、六門確認だけはやろうと思えばできるのです。
  ぜひ試してください。これは私だけではなく、少なからず検証されています。私もミャンマーの森林僧院で食中毒にやられ、水のような下痢が一日に7回も続き、意識朦朧で死ぬほど苦しかった時にこの六門サティがきれいに続いていくことに感動したものです。良い瞑想をしてやろうなどという欲が皆無なので、逆に限りなくウペッカー()の心がきれいなサティを持続させたのでしょう。
  エネルギーがあり余っていて不善心所ゆえにヤル気が出ない。やりたくない。怠けたい。ずるけたい。眠くてしようがない・・こういう時が最悪ですね。ネガティブな妄想を強烈にやれるのはかなり体力がある時です。
  自身の無力さを痛感した時に心から謙虚になれるし、三宝や天に全てをゆだね、与えられたものを受けきって、なすべきことをやらせていただこう・・という心境になれるものです。病気の時はそうした境地の近くに来ていると考えることもできます。どんな最悪の時でもサティの瞑想はできると信じて、ただ淡々と気づいていくことを心がけてください。


Dさん:家内が糖尿病の初期です。何とか説得して食事制限をさせたり、瞑想をしないかと思っているのですが。

アドバイス:ご自身がご病気で何とか前向きにがんばろうとしているのであれば、開けてくる道もありますが、他人にそれを期待することは難しいのではないでしょうか。病気の方でも健康な方でも、ご本人がその気になっていない時にやらせようとして上手くいったケースはありませんね。瞑想に限らず、学校の勉強でもスポーツでも何でも、本人が自らヤル気にならないかぎり期待しても説得しても強制しても良い結果にならないでしょう。
  心から尊敬し耳を傾けて聞きたいと思っている方に言われればチャレンジするかもしれませんが、家族に言われると反発したくなったり、日頃の不満やストレスから「あなたに言われたくない」と心を閉ざすことも少なくありません。
  そういう場合にはご自分で説得しようとせず、糖尿病やその対処法について分かりやすく書かれている本を選び出して、さりげなく置いておくのがよいのではないでしょうか。素人が説明するより説得力があります。本人が読む気になって、このままではしようがないから何かしなければ・・と情報を求める気持ちにならないと心に沁みていかないでしょう。
  無理に従わせようとしても、実りのない言い合になったりするとますます後味の悪いものになります。結局、人は自分自身で納得了解したことでなければ、何も変わらないし、動かないし、これまで信じてきたものや生き方に従っていきます。
  そうなると、やれることは限られてきます。それは、何も言わず、ただ心の底から妻が良くなっていきますようにと祈り、願い、慈悲の瞑想をしっかりやらせていただくことです。敢えて言葉にせず、沈黙の慈悲の方が以心伝心、テレパシーのように心に沁みるものです。いかんともしがたい時には、「待つ」ということも大事です。待っている時にできるのは祈りと慈悲の瞑想です。その心のエネルギーというものは、百万言を費やすよりも強く響くこともあるのです。


Eさん:精神的に鬱の状態で、体調にも山や谷があって良くないときは瞑想も嫌になったりします。少し進歩したのは、今までは「瞑想をやらなければいけない」ということが先に立っていたのが、まず「嫌っていることを素直に認める」のが大切だということを知ったことです。これまで出口がない状態と思っていたのが「そんなことないよ」という自分が少し生まれて、気持ちの面で少しだけ楽になりました。

アドバイス:
  それは素晴らしいですね。仰っていることがとてもヴィパッサナー瞑想的です。ダメな時にだからやらなければいけないと反応するのはごく自然なことで、それが世間の常識かもしれません。しかし、ダメな時にまずダメな状態だと、その現状をあるがままに認めて受け容れることがヴィパッサナー瞑想の核心部です。あなたの仰ることには、ネガティブなものをありのままに認めて、優しく受け容れてあげている感じがします。そこが素晴らしいと思います。
  昔、かしまし娘というお笑いの三人姉妹がいて、その長女の方がヒロポン中毒になりました。ヒロポンというのは戦後間もなく大流行した覚醒剤で、眠らなくてもいくらでも元気にがんばれるし、強力な快感や陶酔感に多くの人が依存症になりました。かしまし娘の長女も廃人同然のところまできたある日、次女が訪ねてきました。
  「姉ちゃん大変なんやろ生活、これウチからの餞別」と手渡された中にはヒロポンと一通の手紙が入っていました。

  「これお餞別です。ヒロポンだけは止めてほしいと思っているのに変やねぇ。ボロボロになったお姉ちゃんの姿を見たくないのに・・・こんなの渡すなんて変やね。せやけど、やっぱり止めて欲しいねん。いつかまた昔のお姉ちゃんに会える事を信じて・・」
  これを見て長女は号泣し、もう絶対にこれでやめなきゃと決意、ついに薬物との縁が切れたのでした。
  今あなたのレポートを聞いてこの逸話を思い出したのですが、私が心を打たれたのは、次女の優しさと受け容れる力でした。覚醒剤中毒の姉に覚醒剤を渡すなんて常識ではあり得ないでしょう。でも、廃人になるまで止められなくなっている姉の現実を現実として受け容れてあげている優しさがヒシヒシと伝わってくるのです。ボロボロになっていく姉に薬物を渡すのは変だが、でも喉から手が出るほど欲しがっている姉のどうしようもない現実を受け容れて、取りあえず手渡している切なさに胸を打たれました。
  そしてどうしようもない自分をそれでも見捨てずに受け容れてくれている次女の優しさに感動したことが、薬物依存を断ち切れた原動力になっているように思われます。
  ネガティブな現状を否定するのは誰でも言えるしやってしまいます。でも断ち切れず繰り返してしまうどうしようもなさ。それをそのまま優しく受け止めてくれる人の存在が、最後の切り札になっているんでしょうね。
  ここに、私はヴィパッサナー瞑想の極意があると感じます。どんなネガティブな現状であってもありのままに受け容れて、正確に、その通りに認識することができた瞬間、何かが決定的に変わっていく力が生まれてくるのではないでしょうか。
  あなたがこれまで自己否定してきたご自身をありのままに受け容れて観てあげられるようになったのは素晴らしいと思います。
  他人に対するのと同じように、自分のことも優しく受け容れてあげるべきだからこそ、慈悲の瞑想は「私が幸せでありますように」の一行から始まるのです。


<さらなるアドバイス:>
  病気であれば、もちろん医者に行くべきは行ってきちんと治さなければなりません。ただ、心から来る要因が大きい場合には、サティによってその問題に向き合うことによって体調が整えられる場合もたいへん多いのです。
  体が弱くて、体調が悪くなるとすぐに心配や不安になったり恐怖感を持ったりするような方が合宿に参加したことがあります。
  合宿中にも、この方は左の心臓が圧迫される姿勢で寝ていたので、ウワー、苦しい!という感じで悪夢にうなされ、夜中の3時半ころ目が覚めると朝まで寝られない・・。そんなことを繰り返していました。何日目かに同じことがあった時、この方は「(あ、苦しい)と思った」とサティが入りました。「心臓がドキドキしている」とサティが入り、「(どうしようか・・)と思った」→「(これでは今日修行がやれるのかしら)と思った」→「(ああ、怖い夢を見てうなされていたのだ)と思った」とラベリングが続き、蒲団が重すぎて暑いから「暑い」、蒲団を足でけ飛ばしながらその足の動作にサティを入れ「のけたい」とラベリングしたのです。
  これは、そのとき経験していることがそのまま確認されている状態です。事実が認知されているだけで、心配や恐れや恐怖がなく、そのままスーッと朝まで眠れて何も問題なかったということでした。
  合宿が終わって家に帰りました。この方はかなり厳しいご主人に押さえつけられていて、「早くしろ」とか何とか朝に言われると、もうそれだけでドキマギしてしまうようなことを長年繰り返してきたそうです。
  ところが、経験している事実だけにサティが入るようになり、今やるべきことに集中するので、ワーッとパニックになることがなくなってきたのです。これが多くの頻度で起こって来るようになりました。
  3日間ほど風邪をひいたのだそうです。これまでは3日も寝込んでいたらかなり妄想して心配になるのですが、この時はサティが淡々と入ったそうです。「右を下にして横たわっている」→「左の鼻が詰まっている」→「スポンと抜けて、右に移った」→「耳が少しボワーンとしていたのがスポンと抜けた」→「寝返りを打つ」という風に、ただサティを入れながら寝ていたら、心は乱れないし恐れがなかったということです。
  素晴らしいですね。
  余計な妄想をしないで、今、目の前の事実だけに向き合うことができれば、怖れるものなどなくなる道理です。
  このレポートだけでは、果たしてこの方の反応系の心が完全に書き換えられたのか、サティの威力で顔を出さなくなった状態なのか、まだわかりません。しかしサティの威力を力強く検証するレポートです。心の清浄道を完成させていくためには、遠大な計画でサティの瞑想を深め、ダンマを学び、反応系の心の浄化を徹底していくことが大事です。たとえ完成ははるか遠い日であっても、一歩づつ近づくたびに人生の苦しみが薄らぎやわらいでいくのです。これからもしっかり修行をしていきましょう。

(文責:編集部)

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