月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

修行上の質問  実践編(3)―姿勢―

Aさん:瞑想で歩いたり坐ったりしていると、そのうち背中が丸くなって姿勢が悪くなってくるのが感じられるのですが、そうならないようにするにはどうしたらいいでしょうか。

アドバイス:
  一般に、歩く瞑想よりも座る瞑想中に姿勢が崩れて背中が丸くなるケースが多いです。
  いずれの場合も「姿勢保持」に意識がまったく払われなくなった時に起きる現象と言えるでしょう。
  良い姿勢で瞑想ができている場合、自覚するしないにかかわらず「姿勢保持」に注意が払われているからです。

  「姿勢保持」がまったく意識されなくなると自然に背中が丸くなって姿勢が崩れていくことになります。
  対策は、瞑想を開始する前に「絶対に姿勢を崩さないぞ」としっかり自分に言い聞かせるように決意することです。
   姿勢に限らず、「しっかり意識する」「注意を注ぐ」と決意すれば多くの場合そうなるものです。
  人の心というものは、しっかり命令されると必ずそうしようと頑張るものだし、何事も決意次第でそのようになっていくものです。
  「決意」は「アディッターナ」という十波羅蜜の一つに挙げられるほど重要かつ強力なものなので、しっかり決意すれば「姿勢保持」は必ずクリアーできるのではないでしょうか。
  もう一つ、普段から姿勢が良くないことも原因の一つとして考えられるかもしれません。例えば腰痛などもそうですが、前屈みになりすぎていると腰などの関節が痛くなってくることがあって、それを予防するためには、その反対の動作をすればいいという考えです。
  一つの方法としてヨーガやストレッチをすることで効果が出ると思われます。ヨーガには前屈のポーズも反りのポーズもありますが、自然に背中が丸くなるということは前屈み傾向になっているということですから、反りのポーズをやると是正というか矯正されるでしょう。
  例えば、腹這いになって、手のひらを床につけて上半身を支えながら起こしていくというコブラのポーズがあります。私の場合、腹這いになって、その姿勢のままタブレットを打ったりすると自然にヨ-ガのコブラのポーズをしているのと同じになります。
  猫背になりがちな人なのだから反対の姿勢を取るようにつとめるという考え方なのですが、コブラのポーズよりも強力なのは弓のポーズでしょう。それは、腹這いになった状態から上半身を起こして天井を見上げるようにしながら、自分の足首を取って弓なりに反り返っていく姿勢です。このようなポーズはヨ-ガの本にも詳しく紹介されていますので参考にしてください。姿勢の良くない人も、こうした訓練をすることで改善することができます。
  しかしある年齢になってしまうと、元に戻せなくなります。私の母親も晩年は少し猫背になっていたので、私は直してあげようと思って一所懸命にいろいろと試みたのですが、80歳後半にもなるとそれは逆効果なのだそうです。 医者にも、すでに骨がかたまってしまっているから無理に戻さないでくださいと言われました。
  でも、若いうちは可塑性があり体も柔軟ですので、生活習慣でどうにでもなるのです。
  特に現代人は、パソコンの前に長時間坐り、スマホを見たりするなどの生活習慣で前屈みになっている方が少なくありません。普段から直す努力をした方が良いのですが、猫背だから真っ直ぐ背筋を立てるということでは直せないのですね。前傾を直すには反対側に反り返る姿勢を取るようにしないとだめなのです。それが、コブラのポーズや弓のポーズの姿勢です。
  特に難しいポーズではないし、普段から心掛けると戻せますのでやってみてください。
   瞑想というものは心の営みと考えられていますが、姿勢もことのほか大事なのです。私が今でもヨーガを続けているのは、姿勢が良くなるだけではなく、血液の循環が良くなって体が整えられるからです。まず姿勢を整え体を調えると、自ずから心も整い、瞑想の状態も良くなるという心身一如の法則が働いているからです。仏教ではヨーガのように体の調整について言及していませんが、どちらも経験してきた私の瞑想理論からは体調は瞑想に直結する重要ファクターです。
  食事に配慮するのも、同じ理由です。私が食事に細心の注意を払うよう強調するのは、食事の内容と分量が体調を整え瞑想のクオリティーを上げるのに大きな影響を及ぼすからからです。
  良い瞑想をするのに最も即効性があるのは、適性な食事と体調を万全に調えることだと長年の経験から学びました。
  皆さんも、検証なさってください。

Bさん:スポーツをしていて腰を痛めました。脊椎分離症です。背筋延ばして長時間坐っているのが苦手ですが、そう言う人でもこの瞑想法は可能なのでしょうか。

アドバイス:
  可能です。
  どんなハンディのある人でも、あるがままの自分の状態を客観視していくのがヴィパッサナー瞑想だからです。
  良い状態を良い状態、悪い状態を悪い状態と、ありのままに正しく客観視できれば、両者に優劣はなく、どちらも良い瞑想ができていると考えてよいのです。
  ですから、もし足が悪ければオーソドックスな座禅は無理なので、椅子に坐ることも許されます。以前に長期合宿に何度も入られた人で、腰が痛くてまともに坐禅ができない方がいました。瞑想はとてもよくできるのですが、どうしても腰が立てられない状態で、それ以外にやりようが無いのでもっぱら寝禅をしていました。

  寝禅というのは、仰臥して寝た状態で瞑想するので通常の座禅より難しいのです。仰向けに寝た状態だと、よほど精神をしっかり保っていないとトローンと眠くなったり、意識が散漫になったりしがちです。その方はよく気をつけて寝禅の姿勢もしっかり保っていましたから、たとえ仰臥の姿勢でも身が整えば心が整い、良い瞑想ができていました。
  足を組んで背筋を伸ばすのが座る瞑想の理想ではありますが、身体的なハンディがあるのならその条件の中で一瞬一瞬のありのままを客観視していく他ないし、それでその人の最高の瞑想ができるのです。要は、気づきの瞑想ができればよいわけで、気づくのは外界の対象ではなく、自分の心と体の現象です。身体能力の優れた人もハンディのある人も誰も煩悩があり、自ら人生を苦しくしているのですから、その自分のあるがままの状態に気づいて、煩悩を手放し、心を浄らかにし、ドゥッカ()を乗り超えていく瞑想なのです。変則的であっても、与えられた自分の条件の中でマインドフルに気づいて観察の瞑想が徹底すれば良いと考えましょう。
  もちろん医学的に治療して治るべきものなら、そのような対応をしていく方がよいのは言うまでもありません。また、カルマという点から言えば、身体に損傷や疾病などの不都合が起きていてそれが苦を与えている状態ですから、それは過去のいずれかの時点で殺生系の不善業があった結果と仏教では考えています。
  対応策としては、命を守り助けるようなことを積極的にやっていくとよいとされています。身体に起きている問題ですから、善行のボランティアなどを積極的になさって、傷ついたり病んだり老病死で苦しむ方を無償の行為で介護したり助けたりすると良いでしょう。これは人間に限らず、犬や猫など生き物全般の命を積極的に助けることによっても、殺生が多かった不善業を相殺するカウンターパンチになると考えられています。
  私もタイの魚市場で魚や貝類、カニなどを購入し、海や川に放って命を助ける「ライフダーナ」をしたものです。命を奪い傷つけたなら、命を救い守りいたわることによって、殺生する瞬間に放たれた不善業が相殺され、自分の身体にも良い結果が現れやすいと原始仏教は考えています。医療に従事する方々を支援するのも良いことです。命を傷つけない、殺さない。その逆にどんな小さな命も守り、大切にする。そのように心がけている人は、五戒を守っているだけではなく、命を慈しむ慈悲の心を養うことにも通じていて、瞑想する心の基盤を整えていることにもなります。

Cさん:私は時々ベッドの中で寝禅の状態でやっています。そうすると、案外お腹は感じることは感じるのです。


アドバイス:
  坐禅の時以上に寝た状態の方が、膨らみ・縮みが分かるという人は結構いらっしゃいます。しかし長時間続くかどうかは疑問です。やはり先ほど述べたように、仰向けに寝た状態だと一点に集中をかける求心的な意識状態を作りづらい傾向があります。したがって寝禅では中心対象を定めずに、例えば背中と布団の「接触感」「妄想」「音」というふうに六門から入ってくる情報に万遍なく気づいていくやり方のほうが良いでしょう。
  夜、床に着く時に寝禅を試みるのはお勧めです。その時の意識状態にもよりますが、布団に入って最も強く感じた感覚や、音、雑念に気づいいていれば瞑想になりますが、何もしなければ普通にフワフワ妄想しながら眠気が来るのを待っているだけになるでしょう。サティ入れている限りは中心対象に集中しようがしまいが心は成長するのです。たとえ布団の中であろうとも、毎日続けていればそれだけサティが身についてくるし、必ず心は成長していきます。何もしなければ、何も変わらないのです。
  「30分にたった1個しかサティが入らなくても心は成長する」と、いろいろなお坊さんに私も言われました。29分妄想や眠気だらけで、そして残りの1分の内、本当にちゃんとしたサティは1個ぐらいしか入っていなくても、その1個で心は成長する。1個サティが入れば再生が1回減らせると言っていたお坊さんがいるくらいです。
  これは経典の言葉にもはっきり証拠があります。指をパチンとはじく1個のサティほど価値ある善はない。どんな布施よりも、五戒を守ることよりも、慈悲の瞑想よりも、サティの方が価値が高いと明言している経典があります。たとえ30分に1回しかサティが入らなくても価値のあることだと信じて、布団の中でも続けていけば心は成長していくでしょう。そこまでサティに信頼を定められる人は、必ず他の時間帯にもやるものです。
  それはそれとして、やはり修行を進めていくためには、きちんと時間を取って歩行や坐禅をやった方がよろしいことはよろしいのです。なぜかと言えば、たった10分間でも、純粋な瞑想のために時間が割ける体制というのは、かなり生活を改善する感じになるからです。例えば暴飲暴食をしたり不摂生をしていたら、たった10分間の瞑想でもやろうという風にはなりにくいのです。最悪の状態で瞑想しても、まったく瞑想にならないか、やっていても何の面白みも手応えも感じられないでしょう。それでは続く訳もなく、たとえ10分でも、それなりに摂生して意識が冴えた状態に整えなければなりません。そうしないと、束の間の瞑想もできなくなっていきます。そのような意味で、きちっと10分間の瞑想をすることは生活全体を改善して行く結果につながるということです。
  本日のような一日瞑想会であっても、もし昼食を食べ過ぎれば必ず眠気が来ることが次第に分かってきますし、きちんと腹六分目という感じで摂生して来られれば良い瞑想ができることも検証できるでしょう。こうした経験を重ねていけば、瞑想をするために心も体もきれいに整えようという気持ちが必然的に起こってきます。たとえ10分でも瞑想に最適の心身状態をセッティングして、結果的に生活全体が改善されていくという方向が出てくるはずです。
  瞑想内容がそれほどうまくいってると感じられなくても、毎日10分間以上の瞑想を日課とすることは意義深いという意味はそういうことなのです。
  付け加えれば、歩行瞑想は感覚が取りやすいので、坐る瞑想の中心対象が感じづらい時は、歩行瞑想だけで終わってしまってもかまいません。頑張って続けてください。

Dさん:結跏趺坐や半跏趺坐という姿勢でないと乗り越えられない壁みたいなものはあるのでしょうか。


アドバイス:
  ないと考えてよいでしょう。多くの方が歩きの瞑想の最中に悟っていますし、あるいは食事のサティの最中に預流果になったという人の話も多く聞いています。
  ただ、本当に体調、環境など条件を整えた状態で瞑想してみれば分かりますが、歩きの瞑想の時と坐りの瞑想ではやはり質が違います。歩きの瞑想はダイナミックに体が動いていますからセンセーションも取りやすいのは確かです。しかし坐禅ではきちんと座が決まって心も体も鎮まり、うまく集中できると歩く瞑想より深くなった印象を受け、より精妙な瞑想の拡がりが感じられるといった一般的な傾向はあります。
  どなたにも得手不得手があるし、過去世の修行履歴の影響もあると言われます。ですから、自分に与えられた条件でそれなりに最善を尽くしていけば、それで良いのです。がむしゃらに頑張り過ぎれば続かなくなるし、ちょっと背伸びする程度にがんばって、マイペースで継続を心がけるのがよいでしょう。自分の人生のかたち、与えられている条件というのは過去の宿業の結果であって、その条件の中でなすべきを成しながら、悟る者は悟るしかなくて、宿業が命じている環境や状況から逃げ出して何者かになろうとする努力はヴィパッサナー的ではありません。
(文責:編集部)

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