月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

修行上の質問 --実践編--(1)


<坐禅と歩行>

Aさん:今は坐禅よりも歩行の方が楽しく、感覚も良く取れるので歩行瞑想ばかりやっています。でも、どうもバランスが悪い感じがしてこれじゃいけないと思っています。

アドバイス:
  一つだけにのめり込むのはやはりバランスが崩れていく方向になりますから、ヴィパッサナーには向きません。たとえ苦手であってもそちらもやるのがよろしいのです。
  また苦手な方もやっていくと、当然、「感覚を感じないものをどうしてやらなければならないの・・・」と言うようなイライラや思考が多く出てきますから、心を随観するのにはとても適っていると言えます。
  ただ、これにも順番があって、もし修行が出来るか出来ないかという瀬戸際にあるような人の場合には、話が別です。
  たとえば、全くやる気を失ったり何か障害が起きて修行がひどく困難になったりしたとします。しかし、それでも先ずは「毎日できるようになる」のが最優先されますから、そのような時には、たとえ好きな方だけでも毎日するようにしてください。それから、だんだんバランス良くしていくように努力すれば良いでしょう。
  もしそんなことはなく、安定的に毎日できているのであれば、センセーションがはっきり分かるからと言って得意な方だけを面白くやっていても、その先を越えて進んでいくのは大変です。それに、心の随観はとても大事な修行ですから、やはり苦手な方もやったほうが良いのです。

Bさん:坐る瞑想はつらくて10分か15分くらいでやめてしまいますけれど、長くすればするほど良いのでしょうか。

アドバイス:
  もしサティが厳しく明確に入っているなら長くやるべきです。しかし初心者の方ですと、多くの場合は妄想だらけになったり全然サティが入らないとかで、それほど良い状態を長く続けることは先ず出来ないでしょう。
  サティが甘くなっているにもかかわらず、決めた時間だけダラダラと長くやるのはかえって良くありません。そのような状態では、たとえ足を組み替えないで1時間出来たとしても、その達成の度合いはヴィパッサナー瞑想の上からは意味がありません。我慢比べではありませんから。その時は歩きの瞑想や立つ瞑想に切り替えて、サティを賦活させてから再び坐ります。あくまでも瞑想の内容、クオリティが大切なのです。

<精進過剰>
Cさん:とても疲れます。集中が途切れたり不快感を覚えたりということはないのですが、脳が疲れる、あるいはエネルギーがものすごく費やされる感じです。いずれ合宿にも参加したいのですが、これでは寝てしまうのではないかと思いました。どこかに欠陥があるのでしょうか。

アドバイス:
  精進過剰ですね。終わったあとでとても疲れるというのは、自分の限界を越えて頑張りすぎた人の特徴です。人にはそれぞれキャパシティがありますから、その中でちょっと背伸びする程度の精進が望ましいのです。それ以上に過剰な精進をすれば、倒れてしまうほど疲れるのは当然です。
  40キロ以上走るマラソンで、初めから100mダッシュのような走り方をすれば体が保つ訳はありません。疲れのひどさは精進の過剰を物語っていますから、セーブしてやらなければなりません。
  また、この修行はサティという今までやったことのない回路を脳に組み込もうとしているのです。どんな人でも、やりつけない仕事、馴れない作業は特に疲れるものです。ここはやはり時間をかけて練習しながら徐々に脳に回路を作っていくべきであって、それを一気呵成に成し遂げようとするのは、かなり無理をしているというか焦っている状態になっていると言えます。そして、そのために精進過剰となって疲れてしまう、そういう展開だと思いますので、エネルギーの使い方を工夫してみてください。

<日常生活で>
Dさん:日常生活の中では、歩行瞑想や坐禅瞑想と違って、サティがかなりいい加減になってしまいます。

アドバイス:
  日常生活を送りながら全ての現象に対して何もかも同じように気づくのは困難です。ですが、やはり仏教の教えを通じて「貪瞋痴は善くありません」「徹底的に煩悩をなくしましょう」と繰り返し言われていると、不善心が出た時にはだんだん気づくようになっていくのは事実です。そしてそれは、不善心を無くしていこうという決心をどれだけ真剣に受け入れているかによっています。なぜなら、この決心が徹底してくると、その意識がいちばん上位で働くようになって、貪瞋痴が出た時には思わずハッと気づくようになるのです。こういったレポートは数え切れないほどあります。
  そして、この気づきのセンサーをさらに敏感に働かせるためには、たとえ粗いものであっても、日常生活でもできるだけサティを入れるように努めていきましょう。

Eさん:日常生活でのサティの入れ方で、たとえば通勤は車で40分ぐらいですが、その時にはハンドルを「握っている」とか、信号を「見ている」とか、そういうようなことを心掛けています。そのようなやり方はどうでしょうか。

アドバイス:
  車の運転中に限らず、外にいるときは中心対象を定めないで、印象の強いものにラベリングするという姿勢でいてください。「見た」「連想」「変だと思った」「音」・・・というように。
  私たちにはちゃんと生体防衛が働いていて、命を守るために自動的に大事な情報を優位に処理するようになっています。それにもかかわらず、もし車を運転している最中にお腹の感覚に意識を集中してしまったら、その集中が良ければ良いほど当然前方不注意になってしまいますから、むしろとても危険です。ですから、車の運転が一番典型ですが、中心対象は「無し」ということです。
  一方、危険回避のために、大事な情報には自動的に優位に注意を注いでいるということからすれば、運転している時の「見た」「聞いた」には必ず意味があるということです。そしてそのことをちゃんと「確認」「確認」「確認」とやっているということは、今、現在の大事なことに気づいている、マインドフルな状態と言えます。
  反対に、自動車で事故が起きる一瞬前には、必ず頭の中で別のことを考えているはずです。妄想しながら運転していて、その妄想にとらわれてブレーキの踏み方が遅れたりするのです。
  大事な情報に注意を向けるというのは、私たちは当然無自覚にやっていますから、そのあたりをマインドフルになるのは間違いなく良いことです。ですから、中心対象なしで、六門のどれでも良いので、はっきりと印象の強いものを確認するという態勢で運転しましょう。

<50対50の法則>
Fさん:歩行の時にインテンションを取るのを試みてみました。そうしたら、インテンションと感覚がちぐはぐになってしまい、結果的に動かそうという意識は邪魔だったという印象です。

アドバイス:
  やはりセンセーションをしっかり感じるのが先決です。ただ全面的にストップではなく、インテンションが現象として明確に経験された時にはサティを入れるべきです。5050の法則が基本ですから、足の感覚よりも心の現象が明確に起きていればそれにサティを入れます。その場合、それがインテンションであれば、それにサティを入れてもかまいません。
  ただ、そうでもないのに、足の動作の一つひとつに強引に命令意識を感じようとすると、あまりにも煩瑣な作業となり、ヘトヘトに疲れてしまうはずです。厳密に、インテンション→センセーション→インテンション→センセーション→と本気で捉えようとすれば到底できません。もしきちんとやらずに、形式的にやっていたのではもっと悪いです。ですから、突発的に何かの命令意識を感じた時にのみサティを入れればよろしいのです。そのうち修行が進んでくると、ハンドバッグに手を伸ばそうか、何か飲もうか、その瞬間に明確にインテンションを感じることができるようになるでしょう。

Gさん:5050の法則で判断に迷う時はどうしたら良いでしょうか。

アドバイス:
  基本的には、「迷ったら中心対象」ということです。もし心が中心対象の外に圧倒的に奪われていたら迷うということはないでしょう。ところが、迷うというのは概ねどちらとも言えないぐらいということですから、そういう時は中心対象で良いのです。
  50 50というのを提示しているのはあくまで目安ですから、それに執らわれて心が混乱するのは避けましょう。

<瞬間定>
Hさん:腹部の感覚を中心対象にしていた時、耳から入る遠方の音にもするどく感じてサティが入るようになりました。そうすると、あれほどまでに感じていた腹部感覚が弱まった気がします。

アドバイス:
  非常に集中が良い状態になっていくと、理論上では知覚は全て鋭くなります。心が明晰になれば一瞬一瞬の集中も良い状態になる訳ですから、見ること聞くこと味わうこと、全てが鮮明に経験されます。
  中心対象に心を戻すのはサマーディを高めるためというのが一つの理由ですから、サマーディが十分に高まれば、中心対象は外しても構いません。その時は、瞬間定(khaika-samādhi:カニカサマーディ)という方向で、何に対しても鮮明で明晰な知覚認識が起きてきます。その場合、興味があるところには当然集中が良くなります。もしその興味が音の聞こえ方や光の見え方というのであれば、自動的にそちらに集中が良くなりますから、反対に腹部に対して興味は索然となり不鮮明になります。

<「今これから」が大事>
Iさん:嫌なことがあった時、その原因はすべて過去の自分が作った不善業にあると、矛先を自身に向けてしまうと、落ち込んでしまうことがありなます。どう心を切り替えたらよいでしょうか。(『月刊サティ』2002/2、改訂再録)

アドバイス:
  仏教では、常に、心が汚れないことを第一に考えます。貪・瞋・痴の有無を基準にして、心を煩悩で汚さないことが至上命令なのです。過去に、汚れていたかどうか、ではなく、今、自分の心に煩悩が含まれているか否かです。
  常に「今これから・・・」に目を向けるべきです。間違った愚かしい反応をしないために、未来をよくするために、過去の原因を見るのです。気に食わない不快現象がなぜ起きたか。物事はすべて因果関係で成り立っているし、どのような現象も結局、自分が蒔いた種を自分が刈り取る仕組みで起きているのだと納得がいけば、怒りや嫌悪感の反応を起こさずに、あるがままに受容できるでしょう。これが幸せを作る技術です。
  いかなる理由があろうとも、今、暗い、ネガティブな心になれば、その心が原因となって未来にネガティブな事象が起きてくる可能性があります。ですから、落ち込んでいる暇はありません。落ち込むのも、後悔するのも、不善心所であって、自分の未来を悪くしてしまう、と発想転換してください。
  今、ネガティブな悪い出来事に巻き込まれているのは、過去の自分の不善行為が原因だったと納得できるのですか?
  それなら、同じ構造で今、ポジティブな、明るい善心所モードになれば、必ず未来は明るい素晴らしいものになっていくのです。ああ、自分はダメだな・・・と落ち込むのではなく、あの頃は仏教のダンマも知らず愚かだったが、今は違う。もう同じ過ちは繰り返さない。これからは未来が好くなるように、明るく、正しく、きれいに生きていく、と決意するのです。
  何よりも私は今、五戒を守っているのだ。もう悪はしないと固く決意しているし、日々クーサラ(善行)を心がけているのだ。因果法則上、そんな私に悪いことが起きるはずはない。過ぎ去ったことなど、どうでもよいのです。この因果法則を学習するために、二度と同じあやまちを繰り返さないために、一瞬、過去に目を向けただけです。
  常に前を向いて、一歩一歩清浄道を歩んでいくのが仏教です。(文責:編集部)

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