月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

<修行上の質問 実践編>

   (1)、(2)、  (3)姿勢  (4)   (5)痛みの観察、病気の時に

(6)(7)  (8)サマーディの周辺   (9)初心の方へ

修行上の質問 --実践編--(1)


<坐禅と歩行>

Aさん:今は坐禅よりも歩行の方が楽しく、感覚も良く取れるので歩行瞑想ばかりやっています。でも、どうもバランスが悪い感じがしてこれじゃいけないと思っています。

アドバイス:
  一つだけにのめり込むのはやはりバランスが崩れていく方向になりますから、ヴィパッサナーには向きません。たとえ苦手であってもそちらもやるのがよろしいのです。
  また苦手な方もやっていくと、当然、「感覚を感じないものをどうしてやらなければならないの・・・」と言うようなイライラや思考が多く出てきますから、心を随観するのにはとても適っていると言えます。
  ただ、これにも順番があって、もし修行が出来るか出来ないかという瀬戸際にあるような人の場合には、話が別です。
  たとえば、全くやる気を失ったり何か障害が起きて修行がひどく困難になったりしたとします。しかし、それでも先ずは「毎日できるようになる」のが最優先されますから、そのような時には、たとえ好きな方だけでも毎日するようにしてください。それから、だんだんバランス良くしていくように努力すれば良いでしょう。
  もしそんなことはなく、安定的に毎日できているのであれば、センセーションがはっきり分かるからと言って得意な方だけを面白くやっていても、その先を越えて進んでいくのは大変です。それに、心の随観はとても大事な修行ですから、やはり苦手な方もやったほうが良いのです。

Bさん:坐る瞑想はつらくて10分か15分くらいでやめてしまいますけれど、長くすればするほど良いのでしょうか。

アドバイス:
  もしサティが厳しく明確に入っているなら長くやるべきです。しかし初心者の方ですと、多くの場合は妄想だらけになったり全然サティが入らないとかで、それほど良い状態を長く続けることは先ず出来ないでしょう。
  サティが甘くなっているにもかかわらず、決めた時間だけダラダラと長くやるのはかえって良くありません。そのような状態では、たとえ足を組み替えないで1時間出来たとしても、その達成の度合いはヴィパッサナー瞑想の上からは意味がありません。我慢比べではありませんから。その時は歩きの瞑想や立つ瞑想に切り替えて、サティを賦活させてから再び坐ります。あくまでも瞑想の内容、クオリティが大切なのです。

<精進過剰>
Cさん:とても疲れます。集中が途切れたり不快感を覚えたりということはないのですが、脳が疲れる、あるいはエネルギーがものすごく費やされる感じです。いずれ合宿にも参加したいのですが、これでは寝てしまうのではないかと思いました。どこかに欠陥があるのでしょうか。

アドバイス:
  精進過剰ですね。終わったあとでとても疲れるというのは、自分の限界を越えて頑張りすぎた人の特徴です。人にはそれぞれキャパシティがありますから、その中でちょっと背伸びする程度の精進が望ましいのです。それ以上に過剰な精進をすれば、倒れてしまうほど疲れるのは当然です。
  40キロ以上走るマラソンで、初めから100mダッシュのような走り方をすれば体が保つ訳はありません。疲れのひどさは精進の過剰を物語っていますから、セーブしてやらなければなりません。
  また、この修行はサティという今までやったことのない回路を脳に組み込もうとしているのです。どんな人でも、やりつけない仕事、馴れない作業は特に疲れるものです。ここはやはり時間をかけて練習しながら徐々に脳に回路を作っていくべきであって、それを一気呵成に成し遂げようとするのは、かなり無理をしているというか焦っている状態になっていると言えます。そして、そのために精進過剰となって疲れてしまう、そういう展開だと思いますので、エネルギーの使い方を工夫してみてください。

<日常生活で>
Dさん:日常生活の中では、歩行瞑想や坐禅瞑想と違って、サティがかなりいい加減になってしまいます。

アドバイス:
  日常生活を送りながら全ての現象に対して何もかも同じように気づくのは困難です。ですが、やはり仏教の教えを通じて「貪瞋痴は善くありません」「徹底的に煩悩をなくしましょう」と繰り返し言われていると、不善心が出た時にはだんだん気づくようになっていくのは事実です。そしてそれは、不善心を無くしていこうという決心をどれだけ真剣に受け入れているかによっています。なぜなら、この決心が徹底してくると、その意識がいちばん上位で働くようになって、貪瞋痴が出た時には思わずハッと気づくようになるのです。こういったレポートは数え切れないほどあります。
  そして、この気づきのセンサーをさらに敏感に働かせるためには、たとえ粗いものであっても、日常生活でもできるだけサティを入れるように努めていきましょう。

Eさん:日常生活でのサティの入れ方で、たとえば通勤は車で40分ぐらいですが、その時にはハンドルを「握っている」とか、信号を「見ている」とか、そういうようなことを心掛けています。そのようなやり方はどうでしょうか。

アドバイス:
  車の運転中に限らず、外にいるときは中心対象を定めないで、印象の強いものにラベリングするという姿勢でいてください。「見た」「連想」「変だと思った」「音」・・・というように。
  私たちにはちゃんと生体防衛が働いていて、命を守るために自動的に大事な情報を優位に処理するようになっています。それにもかかわらず、もし車を運転している最中にお腹の感覚に意識を集中してしまったら、その集中が良ければ良いほど当然前方不注意になってしまいますから、むしろとても危険です。ですから、車の運転が一番典型ですが、中心対象は「無し」ということです。
  一方、危険回避のために、大事な情報には自動的に優位に注意を注いでいるということからすれば、運転している時の「見た」「聞いた」には必ず意味があるということです。そしてそのことをちゃんと「確認」「確認」「確認」とやっているということは、今、現在の大事なことに気づいている、マインドフルな状態と言えます。
  反対に、自動車で事故が起きる一瞬前には、必ず頭の中で別のことを考えているはずです。妄想しながら運転していて、その妄想にとらわれてブレーキの踏み方が遅れたりするのです。
  大事な情報に注意を向けるというのは、私たちは当然無自覚にやっていますから、そのあたりをマインドフルになるのは間違いなく良いことです。ですから、中心対象なしで、六門のどれでも良いので、はっきりと印象の強いものを確認するという態勢で運転しましょう。

<50対50の法則>
Fさん:歩行の時にインテンションを取るのを試みてみました。そうしたら、インテンションと感覚がちぐはぐになってしまい、結果的に動かそうという意識は邪魔だったという印象です。

アドバイス:
  やはりセンセーションをしっかり感じるのが先決です。ただ全面的にストップではなく、インテンションが現象として明確に経験された時にはサティを入れるべきです。5050の法則が基本ですから、足の感覚よりも心の現象が明確に起きていればそれにサティを入れます。その場合、それがインテンションであれば、それにサティを入れてもかまいません。
  ただ、そうでもないのに、足の動作の一つひとつに強引に命令意識を感じようとすると、あまりにも煩瑣な作業となり、ヘトヘトに疲れてしまうはずです。厳密に、インテンション→センセーション→インテンション→センセーション→と本気で捉えようとすれば到底できません。もしきちんとやらずに、形式的にやっていたのではもっと悪いです。ですから、突発的に何かの命令意識を感じた時にのみサティを入れればよろしいのです。そのうち修行が進んでくると、ハンドバッグに手を伸ばそうか、何か飲もうか、その瞬間に明確にインテンションを感じることができるようになるでしょう。

Gさん:5050の法則で判断に迷う時はどうしたら良いでしょうか。

アドバイス:
  基本的には、「迷ったら中心対象」ということです。もし心が中心対象の外に圧倒的に奪われていたら迷うということはないでしょう。ところが、迷うというのは概ねどちらとも言えないぐらいということですから、そういう時は中心対象で良いのです。
  50 50というのを提示しているのはあくまで目安ですから、それに執らわれて心が混乱するのは避けましょう。

<瞬間定>
Hさん:腹部の感覚を中心対象にしていた時、耳から入る遠方の音にもするどく感じてサティが入るようになりました。そうすると、あれほどまでに感じていた腹部感覚が弱まった気がします。

アドバイス:
  非常に集中が良い状態になっていくと、理論上では知覚は全て鋭くなります。心が明晰になれば一瞬一瞬の集中も良い状態になる訳ですから、見ること聞くこと味わうこと、全てが鮮明に経験されます。
  中心対象に心を戻すのはサマーディを高めるためというのが一つの理由ですから、サマーディが十分に高まれば、中心対象は外しても構いません。その時は、瞬間定(khaika-samādhi:カニカサマーディ)という方向で、何に対しても鮮明で明晰な知覚認識が起きてきます。その場合、興味があるところには当然集中が良くなります。もしその興味が音の聞こえ方や光の見え方というのであれば、自動的にそちらに集中が良くなりますから、反対に腹部に対して興味は索然となり不鮮明になります。

<「今これから」が大事>
Iさん:嫌なことがあった時、その原因はすべて過去の自分が作った不善業にあると、矛先を自身に向けてしまうと、落ち込んでしまうことがありなます。どう心を切り替えたらよいでしょうか。(『月刊サティ』2002/2、改訂再録)

アドバイス:
  仏教では、常に、心が汚れないことを第一に考えます。貪・瞋・痴の有無を基準にして、心を煩悩で汚さないことが至上命令なのです。過去に、汚れていたかどうか、ではなく、今、自分の心に煩悩が含まれているか否かです。
  常に「今これから・・・」に目を向けるべきです。間違った愚かしい反応をしないために、未来をよくするために、過去の原因を見るのです。気に食わない不快現象がなぜ起きたか。物事はすべて因果関係で成り立っているし、どのような現象も結局、自分が蒔いた種を自分が刈り取る仕組みで起きているのだと納得がいけば、怒りや嫌悪感の反応を起こさずに、あるがままに受容できるでしょう。これが幸せを作る技術です。
  いかなる理由があろうとも、今、暗い、ネガティブな心になれば、その心が原因となって未来にネガティブな事象が起きてくる可能性があります。ですから、落ち込んでいる暇はありません。落ち込むのも、後悔するのも、不善心所であって、自分の未来を悪くしてしまう、と発想転換してください。
  今、ネガティブな悪い出来事に巻き込まれているのは、過去の自分の不善行為が原因だったと納得できるのですか?
  それなら、同じ構造で今、ポジティブな、明るい善心所モードになれば、必ず未来は明るい素晴らしいものになっていくのです。ああ、自分はダメだな・・・と落ち込むのではなく、あの頃は仏教のダンマも知らず愚かだったが、今は違う。もう同じ過ちは繰り返さない。これからは未来が好くなるように、明るく、正しく、きれいに生きていく、と決意するのです。
  何よりも私は今、五戒を守っているのだ。もう悪はしないと固く決意しているし、日々クーサラ(善行)を心がけているのだ。因果法則上、そんな私に悪いことが起きるはずはない。過ぎ去ったことなど、どうでもよいのです。この因果法則を学習するために、二度と同じあやまちを繰り返さないために、一瞬、過去に目を向けただけです。
  常に前を向いて、一歩一歩清浄道を歩んでいくのが仏教です。(文責:編集部)

修行上の質問 --実践編--(2)

〇欲と怒りのモグラ叩き
Aさん: 瞑想をやっていくと怒りが減る替わりに欲が出てきて、しばらくするとまた怒りの種になるようなことが浮かんできて苦しくなるという悪循環です。欲と怒りのモグラ叩きのようです。

アドバイス:
  怒りには、こちらの思い通りにいかない状態に対する嫌悪という要素がありますから、ある意味では欲望系ということになります。こちらがウペッカー(upekhā:捨、平静さ)の心境で、まったく何も期待していない、狙っていない状態になっていれば、何が起きても怒りは出ずらいと言えるでしょう。しかし、こうあってほしい、これだけはまっぴらゴメンだというのが明確であればあるほど、それを妨げることが起きれば嫌悪や怒りは出やすいのです。
  そのあたりはいわばセットになっているようなもので、結局自己中心性の如何ということになります。基本的に、心の中では快・不快があらかじめ明確に決まっていて、心地よいもので周りを固めたい、不快なものは全部遠ざけたいというのが人情ですから。この度合いが明確であるほど嫌悪が出やすいし、嫌悪があまり意識されない場合には欲望系の方が目立ってきます。
  ただ、人間の脳の構造からは、欲望系よりも怒り系に対してはるかに敏感に反応すると言われます。確かに快感を求める欲望も強烈ですが、何よりも大事なのは自己防衛の方ですから、一瞬にして危険なものや不快なものを避ける、つまり嫌悪の瞬間起動の方が優位になるのです。

  しかし、瞑想をきちんとやっている限り、怒りにしても欲にしても全体的にみれば弱まってきているはずです。また瞑想が進んでいくことで、今まで大ざっぱにしか感じられなかった細かなところにまで目が行き届いていくようになります。そうすると、全体として煩悩は減少していても、細部にはまだまだ残っている不善心に気がつくようになってくるので、いつまで経っても自分の心の汚染がなくならないという印象を受けることがあるわけです。ですから、単純に欲が引っ込めば怒り、怒りが引っ込めば欲が出るというような、出所が違うだけで絶対値が変わらないということではないと思いますが、どうでしょうか。

Aさん:確かに怒りの絶対値というのは減っているような気はします。そこは良かったなと思いますが、怒らなくなった代わりに食べたいとか、どこか遊びに行きたいとか、単純なのですが、そういう反動のようなものが出てきます。

アドバイス:
  それは脳が刺激を求めていることを示しているのかもしれませんね。
  怒りはたしかに「苦」ではありますが、怒り型の人にとってはその興奮状態自体が強い刺激となっているということがあります。例えば格闘技などはかなり荒っぽい世界ですが、殴られながらも殴り返す快感でワクワクするような興奮と充実感があるなどと言う人もいるようです。そのような怒り系からくる強烈な刺激が無くなってしまうと物足りないというか、血が沸き立つような別の刺激に向かうというのはよくある話です。
  瞑想との関連で言えば、瞑想が深まって妄想がことごとく静まり、サマーディを体験するようなことが起きてくると、もっと深めたいとか禅定に浸り切りたいというモチベーションが一気に高まってくるのです。そしてサマーディの素晴らしさを味わってしまうと、もう戻りようがないみたいなことになります。
  ところが、戒を守り瞑想もしっかりできて、煩悩も基本的に出なくなってきていても、まだサマーディ体験や瞑想の素晴らしさが体験されていない場合には、高いモチベーションを維持し続けるのはなかなか厳しいかもしれません。自宅で10分か20分程度の瞑想しかできなければ、ディープなサマーディに入るのは至難の業ですから、やはり合宿などで指導を受けながらもっと徹底的に瞑想に打ち込める環境が求められるでしょう。
  サマーディが起きた時には、集中の度合いはかなり深いレベルに達しているわけで、その素晴らしさを体験することが何よりも一番です。瞑想の深い世界を垣間見てしまうと、その対極のこの世的な欲望や怒りの煩悩世界が鬱陶しいものに感じられ、厭わしくなってくるものです。瞑想が進むと素晴らしい世界が拓けてくることをぜひ検証してください。

〇悪い反応パターンが出る
Bさん:ヴィパッサナー瞑想によって自分の悪い反応パターン(悪い癖)に気づきました。それを善の方向に組み替えていきたいのですが、時々その癖が心に浮上してきて気になって仕方がなくなり、嫌だなと思っているうちにどんどん深みに入ってしまいます。

アドバイス:
  心の反応パターンを組み替える前に、まずそのパターンのままでは良くない、ダメなのだということを知的に理解し、完全に納得了解してください。知的理解のレベルで曖昧さが残るようでは、必ず迷いが出てくるし、強力に組み込まれていた昔の悪い癖が蒸し返され、いつのまにか元の状態に戻ってしまいます。
  例えば、いくら怒りは善くないと言われても、「正義の怒りもあるのではないか・・」「こんな理不尽なことに対しては、怒りの声を上げるべきだ」などといった気持ちがあれば、心は本気で怒りをなくそうとは思っていないわけですから、やはりイザとなれば昔のまま、心は変わらないという結果になってしまいます。
  最近のことより遠い昔になればなるほど、繰り返された回数も膨大なものになり、幼少期に組み込まれた反応系のパターンは非常に強固で、それを変えていくのは並み大抵のことではありません。しかし、その反応パターンが良くないと心底理解できれば、必ずそれを変えていこうと決意が生まれてきます。そしてその意志(cetan?:チェータナー)によって新しいカルマが作られ、心はだんだんと変わっていき、やがて新しい反応パターンが揺るぎなく確立されていきます。
  人の心というものは、ゆるやかに変わっていく方が本物です。悪い反応パターンが消えていく過程では、それを気にして意識すればするほど、廃用性萎縮で消滅しかかっていた脳回路にもう一度電気信号を通すようなものです。嫌がればますます執われてツカんで手放せなくなりがちです。そうして古い回路に電気信号を通していれば、やがてその回路が復活して昔の悪い癖が戻ってきてしまうかもしれません。
  ですからそんな時は「誤作動」とラベリングしてサッと目を転じ、無視した方がよいのです。そのために迷いなく納得了解していなければならないのです。腑に落ちていなければ、モタついて切り換えることができなくなるからです。考察が完了していれば、あとは練習するだけです。必ず新しい回路が定着すると信じて、善いものを強化することだけを考えましょう。昔の癖が顔を出すのは自然なことですから、嫌悪したり詮索したり気にしたりしないで、新しい反応パターンのことだけを意識するのが良いと思います。
  ついでに申し上げると、原始仏教は信仰や感情にアピールするのではなく、何事も正しく理解し心底から納得する智慧の教えなのです。確証の得られないものを信仰するような教えではありません。ダンマについて学び、自分で検証して正しく理解をしていけば、自然に悪を避けて善をなす方向に進路が決まるはずです。そういう科学的とも言うべき道筋を取らずに、信仰とその実践を求めるというのはおよそ原始仏教にはそぐわないのです。ここが仏教の清潔な部分であり、また、本当の自己変革というものは、自分で検証し理解した智慧に基づくことの裏づけなのです。


〇思考と気づきについて
Cさん:思考に対してこれまで言葉だけで「思考」とラベリングしていましたが、先ほどの集中瞑想では「どういう内容だったか」「思考だったのか、それとも感情だったのか」という心が生まれ、その判断の入った「思考」とラベリングしました。
  また、思考というものがものすごいスピードでザァーザァー流れているらしいという感じが一瞬浮かびました。ザァーという感じになって、それにサティをした方が良いのかどうか迷いました。

アドバイス:
  今まで漠然と大雑把に捉えていたことが、より詳細に、分析的に捉えられたわけですね。考察ではなく、経験的に観えてきたというレポートはヴィパッサナーとして良いと思います。ものごとの実情や実体がより正確に検証されることによって、妄想や概念が作り出している世界に振り回されなくなる技法ですから。
  また、心が非常に高速に転回していることが垣間見えたのは、瞬間的に定力が高まっていたことの証しと言えるでしょう。情報として聞いていたかも知れませんが、心というものは本当にものすごいスピードでいつでも高速転回している事実を、自分の経験で確認できてきたのも結構ですね。
  それをさらに強化するためには、ただ分かっているだけの状態よりも、はっきりラベリングしてその瞬間の体験を心に焼き付けた方がよいでしょう。サティを入れれば、心に強く残るのです。
  このように、ダンマの知識として理解していたことを、実際に自分の身と心に起きている現象として目の当たりにしながら確証を深めていくのがヴィパッサナー瞑想です。事象の本質をありのままに、実証的に捉えていくことが、妄想で作り上げた世界に執着して生まれてくる苦しみを乗り超えていく道に通じています。とてもヴィパッサナー的なレポートで結構でした。頑張ってやりましょう。



〇心身ともにきつい
Dさん:最近心身ともにかなり良くない状態が続いています。自分では、感謝の気持ちが足りなかったり、周囲の人やものに愛情を感じていないからではないかと思うのですが。

アドバイス:
 そうですね。もし現状をあなたの仰るように受け止めているのであれば、これから必ず良くなっていくと思われます。
  なぜなら、この世で問題が発生する時は必ずといってよいほど利己的になっていて、我執が強い状態に陥っているはずですから。エゴ的になればなるほど「オレは正しい。なぜもっと自分に感謝しないのだ。自分はもっと評価され、愛されるべきだ・・」といった具合に、嫌われ者に特有の態度を取りがちなのです。
  しかるにあなたは、現状が思わしくないのは、周囲に対する自分の感謝の気持ちが不足し、愛情が足りないからだと捉えています。もし心底からそのように思われているのであれば、どのようなトラブルも解決に導いていくであろう、極めて仏教的な態度に切り換わっている印象を受けます。
  今までは失礼ながらその反対の自己中心的な態度だったので、心身ともに悪い展開になってきていたのではないでしょうか。それをどのように正していくべきか、すでにご自分で気づかれているというレポートに聞こえます。であれば、これから必ず良くなっていくのではないか、と私には思われます。



〇ツイてない時は・・・
Eさん:最近、間が悪い、ついてないことばかり起きるのです。災難は往復びんたでやって来ると聞いたことがありますが、本当なのでしようか。(『月刊サティ』2001/12再録)

アドバイス:
  善業も悪業も、原因エネルギーのみで結果が出るのではなく、現象化をうながす補助原因とも言うべきものが働いています。それを「縁」と呼びます。
  善も悪も、物事にはすべて勢いというものがあります。したがって不善業が現象化し始めると、潜在していた同類の原因エネルギーが芋づる式に出てくる傾向になります。
  その辺の消息を「往復びんた」と称しているのではないでしょうか。言い得て妙ですね。悪い往復びんたがあるなら、善いことの3連発や笑いの5連発、幸福と幸せのピストン運動もあるでしょう。縁に触れた善いカルマのポイントがまとめて支払われるからです。現象世界というのは、そんなものです。仏教的には、苦楽にこだわらず、善・不善を超越して全現象にウペッカ()の心になれたら最高ですが、それは悟りと一緒なのでなかなか難かしいでしょう。
  災難の往復びんたが始まってしまったら、現象の流れ自体を変えてしまえばよいのです。どうすればよいかと言うと、徹底的にクーサラ(善行)をやりまくるのです。バス停に空き缶の吸殻入れを設置したり、他の人の犬のうんちも拾って上げたり、どんな些細なことでもかまいません。思いつく限りのあらゆるクーサラをやり始めると、そうした一連の善行為が縁となって蓄積してきた過去の善業の蓋が開いて、善いカルマの玉手箱になるでしょう。そうすると、とても流れの良い円滑現象が展開し始めます。人生の流れが変わるのです。
  凶事が続くと心も反応して暗くなりがちです。それではただ情況に流されていくことになりますので、ハッキリ、意図的に善い流れを創出していくことを考えるべきでしょう。
  ポイントは、絶対に暗くならないこと。つまり不善心所にならないことです。しかしそうは言っても、体調が悪いときなどに何もしないで手をこまねいていると、自然に気が暗転しがちです。そこで上述したクーサラ作戦なのです。心を変化させる最強の手段は、行為の実行、アクションを起こすことです。
  もちろん慈悲の瞑想にも心を変える力があります。しかし不善心のエネルギーが強大なときには負けてしまうこともあります。しかし行為のエネルギーはそれを吹き飛ばしてしまう力があるのです。だからクーサラ行為に没頭してしまえば、心は必ず変化すると心得ましょう。



○瞑想の安定化
Fさん:2回目の参加です。前回教えてもらったように毎日自宅で歩く瞑想と坐る瞑想を10分ぐらいずっとやっています。また、時間がある時には少し長くやるのですが、坐る瞑想の時に、最初は良くても後半20分か30分するともうサティが入らなくなって、意識がどっか飛んでいって全然出来ないような状態になってしまいます。それに対して何かアドバイスがあればお願いいたします。

アドバイス:
  少し長くやると、前半は安定していても後半になるとそうではなくなるということであれば、持続力に問題があるのかもしれません。極度に集中しないと良い状態が保てないとすれば、長時間の維持は難しくなります。
  もし自然発生的に良い状態が訪れてきたのであれば、尻上がりに良くなっていくものです。また楽しくなってきて、専門用語で「ピーティ」という喜びが出てきます。勝手にうまくいっているとしたらすごく楽しいし、面白いというふうになって、時間も忘れて心地よくやっていけるものです。
  しかるに、強引な荒業でねじ伏せるように良い状態を出現させていたとすると、過度の努力は精進過剰でヘトヘトになってくるのが常ですから、後半は崩れるでしょう。もし無理な努力によって辛うじて良い状態が保たれているのだとすると、果たして前半も本当はどうなのかなあという疑いも生じますが、どうですか?


Fさん:歩く瞑想の方は30分でも1時間でも集中できますし楽しいなあと思いますが、坐る瞑想に関してはそうかもしれません。

アドバイス:
  なるほど。そういうことであれば、やはり坐りの瞑想自体に問題がありそうですね。基本的に坐りの瞑想の方が難易度が高いのですが、やり方が完璧に体得されていれば、歩く瞑想が好調だった後の坐りの瞑想も最後まで良くなっていてもおかしくないのですが。
  歩きの瞑想はいくら長くやっても飽きも来ないし乱れないとすれば、多分セオリー通りに出来ているように思われます。ところが坐りの瞑想の後半で必ず失速するとなると、かなり無理をして前半の瞑想に取り組んでいて、後半になると持たなくなっているのかもしれません。もしやり方が正確に体得されていれば、あまり無駄なエネルギーを使うことはありませんから、淡々とサティを入れていくことができるものです。となると、やはり坐りの瞑想に不正確な要素があると考えられます。
  瞑想会の初心者講習を一度受けただけで完璧に覚えられるということは普通はないですね。よほどセンスのある人でも、たった1回ですべてをマスターするというのは至難の業です。うまく身に付いていないやり方で瞑想を続けるのは苦しいことなので、後半で乱れる原因になり得ます。
  もう一つ考えられるのは、やり方は迷いなく分かっていたとしても、坐る瞑想は歩く瞑想よりも中心対象の感覚自体が微弱なので、こちらから努力して集中しないと感じづらい一面があります。感覚を取る知覚力がそれほど鋭くなくても、足の感覚はまあ感じられるものです。しかし、そもそも微弱な腹部感覚ではそうはいきません。集中があまり良くない状態であれば、相当無理をすることになりますので、後半に疲れてしまうのは当然です。これはやり方の正確さの問題というより、集中力を研ぎ澄ます問題とも言えます。
  理論上は、歩きの瞑想がうまくいっていれば、坐りの瞑想も中心対象が足からお腹に変わるだけで基本構造は同じなので、歩きの瞑想の正確さが増せば増すほど坐る瞑想も良くできるようになります。ともあれ、今日の瞑想会の最後に、超スローの歩きの瞑想をやりますから、坐りの瞑想を完璧に近づけるためにも、歩きの瞑想をさらに正確に、厳密にやるように努めてください。ブレないで、一点に正確に注意を注ぐことができれば、歩きでも坐りでも集中は高まるものです。
  さらに言えば、瞑想の前に毎回テキストを読み返して、終了後にさらにチェックするようにしていくと良い結果につながります。いずれにしても注意深く、何度もおさらいしながら厳密さをもってやっていって欲しいです。特に坐りの瞑想では甘くなりがちで、フラフラと妄想に巻き込まれたり、トロンと眠気に誘われたりしがちですから。頑張りましょう。(文責:編集部)

修行上の質問  実践編(3)―姿勢―

Aさん:瞑想で歩いたり坐ったりしていると、そのうち背中が丸くなって姿勢が悪くなってくるのが感じられるのですが、そうならないようにするにはどうしたらいいでしょうか。

アドバイス:
  一般に、歩く瞑想よりも座る瞑想中に姿勢が崩れて背中が丸くなるケースが多いです。
  いずれの場合も「姿勢保持」に意識がまったく払われなくなった時に起きる現象と言えるでしょう。
  良い姿勢で瞑想ができている場合、自覚するしないにかかわらず「姿勢保持」に注意が払われているからです。

  「姿勢保持」がまったく意識されなくなると自然に背中が丸くなって姿勢が崩れていくことになります。
  対策は、瞑想を開始する前に「絶対に姿勢を崩さないぞ」としっかり自分に言い聞かせるように決意することです。
   姿勢に限らず、「しっかり意識する」「注意を注ぐ」と決意すれば多くの場合そうなるものです。
  人の心というものは、しっかり命令されると必ずそうしようと頑張るものだし、何事も決意次第でそのようになっていくものです。
  「決意」は「アディッターナ」という十波羅蜜の一つに挙げられるほど重要かつ強力なものなので、しっかり決意すれば「姿勢保持」は必ずクリアーできるのではないでしょうか。
  もう一つ、普段から姿勢が良くないことも原因の一つとして考えられるかもしれません。例えば腰痛などもそうですが、前屈みになりすぎていると腰などの関節が痛くなってくることがあって、それを予防するためには、その反対の動作をすればいいという考えです。
  一つの方法としてヨーガやストレッチをすることで効果が出ると思われます。ヨーガには前屈のポーズも反りのポーズもありますが、自然に背中が丸くなるということは前屈み傾向になっているということですから、反りのポーズをやると是正というか矯正されるでしょう。
  例えば、腹這いになって、手のひらを床につけて上半身を支えながら起こしていくというコブラのポーズがあります。私の場合、腹這いになって、その姿勢のままタブレットを打ったりすると自然にヨ-ガのコブラのポーズをしているのと同じになります。
  猫背になりがちな人なのだから反対の姿勢を取るようにつとめるという考え方なのですが、コブラのポーズよりも強力なのは弓のポーズでしょう。それは、腹這いになった状態から上半身を起こして天井を見上げるようにしながら、自分の足首を取って弓なりに反り返っていく姿勢です。このようなポーズはヨ-ガの本にも詳しく紹介されていますので参考にしてください。姿勢の良くない人も、こうした訓練をすることで改善することができます。
  しかしある年齢になってしまうと、元に戻せなくなります。私の母親も晩年は少し猫背になっていたので、私は直してあげようと思って一所懸命にいろいろと試みたのですが、80歳後半にもなるとそれは逆効果なのだそうです。 医者にも、すでに骨がかたまってしまっているから無理に戻さないでくださいと言われました。
  でも、若いうちは可塑性があり体も柔軟ですので、生活習慣でどうにでもなるのです。
  特に現代人は、パソコンの前に長時間坐り、スマホを見たりするなどの生活習慣で前屈みになっている方が少なくありません。普段から直す努力をした方が良いのですが、猫背だから真っ直ぐ背筋を立てるということでは直せないのですね。前傾を直すには反対側に反り返る姿勢を取るようにしないとだめなのです。それが、コブラのポーズや弓のポーズの姿勢です。
  特に難しいポーズではないし、普段から心掛けると戻せますのでやってみてください。
   瞑想というものは心の営みと考えられていますが、姿勢もことのほか大事なのです。私が今でもヨーガを続けているのは、姿勢が良くなるだけではなく、血液の循環が良くなって体が整えられるからです。まず姿勢を整え体を調えると、自ずから心も整い、瞑想の状態も良くなるという心身一如の法則が働いているからです。仏教ではヨーガのように体の調整について言及していませんが、どちらも経験してきた私の瞑想理論からは体調は瞑想に直結する重要ファクターです。
  食事に配慮するのも、同じ理由です。私が食事に細心の注意を払うよう強調するのは、食事の内容と分量が体調を整え瞑想のクオリティーを上げるのに大きな影響を及ぼすからからです。
  良い瞑想をするのに最も即効性があるのは、適性な食事と体調を万全に調えることだと長年の経験から学びました。
  皆さんも、検証なさってください。

Bさん:スポーツをしていて腰を痛めました。脊椎分離症です。背筋延ばして長時間坐っているのが苦手ですが、そう言う人でもこの瞑想法は可能なのでしょうか。

アドバイス:
  可能です。
  どんなハンディのある人でも、あるがままの自分の状態を客観視していくのがヴィパッサナー瞑想だからです。
  良い状態を良い状態、悪い状態を悪い状態と、ありのままに正しく客観視できれば、両者に優劣はなく、どちらも良い瞑想ができていると考えてよいのです。
  ですから、もし足が悪ければオーソドックスな座禅は無理なので、椅子に坐ることも許されます。以前に長期合宿に何度も入られた人で、腰が痛くてまともに坐禅ができない方がいました。瞑想はとてもよくできるのですが、どうしても腰が立てられない状態で、それ以外にやりようが無いのでもっぱら寝禅をしていました。

  寝禅というのは、仰臥して寝た状態で瞑想するので通常の座禅より難しいのです。仰向けに寝た状態だと、よほど精神をしっかり保っていないとトローンと眠くなったり、意識が散漫になったりしがちです。その方はよく気をつけて寝禅の姿勢もしっかり保っていましたから、たとえ仰臥の姿勢でも身が整えば心が整い、良い瞑想ができていました。
  足を組んで背筋を伸ばすのが座る瞑想の理想ではありますが、身体的なハンディがあるのならその条件の中で一瞬一瞬のありのままを客観視していく他ないし、それでその人の最高の瞑想ができるのです。要は、気づきの瞑想ができればよいわけで、気づくのは外界の対象ではなく、自分の心と体の現象です。身体能力の優れた人もハンディのある人も誰も煩悩があり、自ら人生を苦しくしているのですから、その自分のあるがままの状態に気づいて、煩悩を手放し、心を浄らかにし、ドゥッカ()を乗り超えていく瞑想なのです。変則的であっても、与えられた自分の条件の中でマインドフルに気づいて観察の瞑想が徹底すれば良いと考えましょう。
  もちろん医学的に治療して治るべきものなら、そのような対応をしていく方がよいのは言うまでもありません。また、カルマという点から言えば、身体に損傷や疾病などの不都合が起きていてそれが苦を与えている状態ですから、それは過去のいずれかの時点で殺生系の不善業があった結果と仏教では考えています。
  対応策としては、命を守り助けるようなことを積極的にやっていくとよいとされています。身体に起きている問題ですから、善行のボランティアなどを積極的になさって、傷ついたり病んだり老病死で苦しむ方を無償の行為で介護したり助けたりすると良いでしょう。これは人間に限らず、犬や猫など生き物全般の命を積極的に助けることによっても、殺生が多かった不善業を相殺するカウンターパンチになると考えられています。
  私もタイの魚市場で魚や貝類、カニなどを購入し、海や川に放って命を助ける「ライフダーナ」をしたものです。命を奪い傷つけたなら、命を救い守りいたわることによって、殺生する瞬間に放たれた不善業が相殺され、自分の身体にも良い結果が現れやすいと原始仏教は考えています。医療に従事する方々を支援するのも良いことです。命を傷つけない、殺さない。その逆にどんな小さな命も守り、大切にする。そのように心がけている人は、五戒を守っているだけではなく、命を慈しむ慈悲の心を養うことにも通じていて、瞑想する心の基盤を整えていることにもなります。

Cさん:私は時々ベッドの中で寝禅の状態でやっています。そうすると、案外お腹は感じることは感じるのです。


アドバイス:
  坐禅の時以上に寝た状態の方が、膨らみ・縮みが分かるという人は結構いらっしゃいます。しかし長時間続くかどうかは疑問です。やはり先ほど述べたように、仰向けに寝た状態だと一点に集中をかける求心的な意識状態を作りづらい傾向があります。したがって寝禅では中心対象を定めずに、例えば背中と布団の「接触感」「妄想」「音」というふうに六門から入ってくる情報に万遍なく気づいていくやり方のほうが良いでしょう。
  夜、床に着く時に寝禅を試みるのはお勧めです。その時の意識状態にもよりますが、布団に入って最も強く感じた感覚や、音、雑念に気づいいていれば瞑想になりますが、何もしなければ普通にフワフワ妄想しながら眠気が来るのを待っているだけになるでしょう。サティ入れている限りは中心対象に集中しようがしまいが心は成長するのです。たとえ布団の中であろうとも、毎日続けていればそれだけサティが身についてくるし、必ず心は成長していきます。何もしなければ、何も変わらないのです。
  「30分にたった1個しかサティが入らなくても心は成長する」と、いろいろなお坊さんに私も言われました。29分妄想や眠気だらけで、そして残りの1分の内、本当にちゃんとしたサティは1個ぐらいしか入っていなくても、その1個で心は成長する。1個サティが入れば再生が1回減らせると言っていたお坊さんがいるくらいです。
  これは経典の言葉にもはっきり証拠があります。指をパチンとはじく1個のサティほど価値ある善はない。どんな布施よりも、五戒を守ることよりも、慈悲の瞑想よりも、サティの方が価値が高いと明言している経典があります。たとえ30分に1回しかサティが入らなくても価値のあることだと信じて、布団の中でも続けていけば心は成長していくでしょう。そこまでサティに信頼を定められる人は、必ず他の時間帯にもやるものです。
  それはそれとして、やはり修行を進めていくためには、きちんと時間を取って歩行や坐禅をやった方がよろしいことはよろしいのです。なぜかと言えば、たった10分間でも、純粋な瞑想のために時間が割ける体制というのは、かなり生活を改善する感じになるからです。例えば暴飲暴食をしたり不摂生をしていたら、たった10分間の瞑想でもやろうという風にはなりにくいのです。最悪の状態で瞑想しても、まったく瞑想にならないか、やっていても何の面白みも手応えも感じられないでしょう。それでは続く訳もなく、たとえ10分でも、それなりに摂生して意識が冴えた状態に整えなければなりません。そうしないと、束の間の瞑想もできなくなっていきます。そのような意味で、きちっと10分間の瞑想をすることは生活全体を改善して行く結果につながるということです。
  本日のような一日瞑想会であっても、もし昼食を食べ過ぎれば必ず眠気が来ることが次第に分かってきますし、きちんと腹六分目という感じで摂生して来られれば良い瞑想ができることも検証できるでしょう。こうした経験を重ねていけば、瞑想をするために心も体もきれいに整えようという気持ちが必然的に起こってきます。たとえ10分でも瞑想に最適の心身状態をセッティングして、結果的に生活全体が改善されていくという方向が出てくるはずです。
  瞑想内容がそれほどうまくいってると感じられなくても、毎日10分間以上の瞑想を日課とすることは意義深いという意味はそういうことなのです。
  付け加えれば、歩行瞑想は感覚が取りやすいので、坐る瞑想の中心対象が感じづらい時は、歩行瞑想だけで終わってしまってもかまいません。頑張って続けてください。

Dさん:結跏趺坐や半跏趺坐という姿勢でないと乗り越えられない壁みたいなものはあるのでしょうか。


アドバイス:
  ないと考えてよいでしょう。多くの方が歩きの瞑想の最中に悟っていますし、あるいは食事のサティの最中に預流果になったという人の話も多く聞いています。
  ただ、本当に体調、環境など条件を整えた状態で瞑想してみれば分かりますが、歩きの瞑想の時と坐りの瞑想ではやはり質が違います。歩きの瞑想はダイナミックに体が動いていますからセンセーションも取りやすいのは確かです。しかし坐禅ではきちんと座が決まって心も体も鎮まり、うまく集中できると歩く瞑想より深くなった印象を受け、より精妙な瞑想の拡がりが感じられるといった一般的な傾向はあります。
  どなたにも得手不得手があるし、過去世の修行履歴の影響もあると言われます。ですから、自分に与えられた条件でそれなりに最善を尽くしていけば、それで良いのです。がむしゃらに頑張り過ぎれば続かなくなるし、ちょっと背伸びする程度にがんばって、マイペースで継続を心がけるのがよいでしょう。自分の人生のかたち、与えられている条件というのは過去の宿業の結果であって、その条件の中でなすべきを成しながら、悟る者は悟るしかなくて、宿業が命じている環境や状況から逃げ出して何者かになろうとする努力はヴィパッサナー的ではありません。
(文責:編集部)


修行上の質問  実践編(4)

Aさん:悩みを抱えている時には、とにかくその悩み自体を見たくなくて感覚に集中しやすかったのですが、あまり悩みごとがないと体がむずむずしてきて、感覚に集中してラベリングすることがとても苦しく感じられます。

アドバイス:
  一般的にどなたでも、瞑想をやってみよう、修行をしよう、と思うのは、苦(dukkha:ドゥッカ)に遭遇したときが多いのです。
  苦がなければ、誰でも楽しいことや好きなことにエネルギーを費やしたいのですから、ことさら瞑想をしようなどとは思わないでしょう。嫌なことや困ったことがあれば、なんとか逃れよう乗り超えたいと模索するので瞑想に縁ができたり、以前から興味があったので瞑想を試してみようと思うものです。
  しかし順風満帆がいつまでも続く訳もなく、順調に幸せに生きていても、有為転変は人の世の常、何が起きるかは予測不能、望まない状態に転落してしまうのはよくあることです。面白半分の余裕でパチンコやギャンブルをやってみたら大当たりしてあぶく銭を得たばかりに、ハマッた挙げ句の依存症で身を滅ぼしてしまうなどということも少なくありません。
  人の心は、日々生起する現象にどうしても振り回されるものです。凶事に対しても慶事に対しても本気でのめり込み反応すれば、悪しき展開になることが多いのですから、常に冷静沈着な対応で一喜一憂せず、良い方にも悪い方にも傾かずものごとを公平に、平等に、淡々と見るウペッカー(upekhā:捨)の心を養っていくことができたら素晴らしいですね。
  どうやって、それを・・?となれば、もちろん何もせずに棚からボタ餅という訳にはいきません。何が起きてもキャーキャー興奮せず、執着心も起きない心を育てる最強の技法である瞑想を毎日行なっていくことです。
  サティという技法自体が、ウッペカー()の心を養う構造になっているのです。何が見えても、聞こえても、感じても・・、ただそのように認知して見送っていく訓練です。無執着の心を一瞬一瞬養っている現場と言ってよいでしょう。ウペッカーを軸として常に目覚めていること、現れては消えていく苦楽の現象を淡々と、ありのままに気づきながら自覚的に生きていくこと・・。
  これがいちばん問題を起こさず苦を発生させない秘訣です。私たちの生活のどんな場面でも、この基本精神が根本にあれば間違いなく人生のクオリティが良くなります。悪い方向へ向かうことはなくなっていくのですから、ネガティブな出来事に巻き込まれてから慌てて瞑想するのではなく、悩みごとがない時であっても、毎日瞑想をしっかりやっていきましょう。


B
さん:いろいろな問題がなかなか解決できないこともあって、毎日の生活に常に虚しさを感じています。ちょうどわびしさや寂しさがバックに流れているような状態です。


アドバイス:
  たとえ漠然とした虚しさであっても、それには必ず起きてくる原因があります。虚しさというのはやはり一つの現象ですから、その現象を徹底的に細かな要素に分解してみましょう。そしてよく観察するのです。そうすると次第にそうなった自分の心に関係する原因が分かってきます。
  原因が判明してきたら、その元になっている心のありかたを修正していきます。分析論の手法が原始仏教の基本的なやり方です。漠然とした曖昧模糊の状態は、訳の分からない無明の状態に似ていますが、その情況や対象を構成している要素や要因に仕分けられていくプロセスで、問題がほどけてきて、解決の方向が閃いてくることも少なくありません。
  たとえ結果的に修正できなかったり、修正したのにその効果が現れなかったりすることもありますが、しかしそうして頑張って努力するプロセスから多くのことが学べるものです。「起きたことには必然の力が働いているのだから、これは自分の過去のカルマによる結果であると受け容れていこう」という心境がもたらされる可能性もあるでしょう。
  一般的に言えば、虚しさというのは物質的なものであれ精神的なものであれ、価値のあるものを喪った喪失感や、達成感の欠如から来ているものです。
  もし何かを喪ったという喪失感から来ているのであれば、それが自分の人生に果たしていた役割や意味を客観的に分析し、考察し、ありのままに受け止め、納得できる理解に落とし込んでいく方向でしょう。喪ってしまったものはもうどうしようもないのですが、その悲しみや虚しさが完全に消失するまでには時の助けを得なくてはならない場合が多いですね。もしそうであっても、知的に納得し諒解していれば、情緒的に終わりにできる時間が短くなる可能性は高いように思われます。
  また、達成感の欠如が原因だった場合には、プライドや承認欲求が背景に絡んでいることもよくあります。自分の努力が適切に評価されなかった事実が起きてしまったのはいかんともしがたく、結局受け容れるしかない・・。こうした時に人は虚しさや悲しみを覚えます。人は誰でも自分を認めてもらいたいのですが、必ずしもそうはなりません。なぜそうならなかったのか、事の次第と因縁の流れが明瞭に視えている人は、ネガティブな事態を受け容れる能力が高いものですが、見えなければ、理不尽な印象が醸し出され、怒り系の心に分類される悲しみや虚しさにつながるでしょう。
  評価してくれるべき人が評価してくれなかったら、誰か他の人に認めてもらい評価してもらえれば、心の補償になるでしょう。自分にとって最も信頼できて価値を置いている人が評価してくれれば、わだかまっていたものが解放されていく可能性は高いように思われます。
  もしそのネガティブな経験をプラス思考に切り換えられるなら、積極的な対応の仕方もあります。自分が適切に評価されないで虚しさを感じた経験をしたのだから、その淋しさや辛さがどんなものか熟知している状態です。そうであるが故に、自分は絶対にそのような思いを人に与えないと決心するのです。特に自分が他を評価する立場にいるのであれば、ぜひそうなさっていただきたいですね。カルマの法則から言えば、「評価すれば評価される」ことになります。そもそも正当に評価されなかった事態は、過去のどこかで自分が他人を正当に評価しなかった結果ということですから、それを修正するためには真逆の働きかけを積極的に行なうことで転換していけばよいのです。
  以上のいずれも難しい場合には、自分で自分を褒めてあげ評価するとよいでしょう。自己満足のように思われようと、自分の気持ちを持ち直すことができれば精神衛生的な効果は十分にあったわけです。過去のことは過去のこととして近未来の目標を定め、それが達成できたら「よくやった!」と自分で自分を褒めるのです。目標はあまり高くしないで、少し頑張ればできるようなものがよいでしょう。例えば、1日10分の瞑想をまず1カ月続けてみる。それができたら3カ月、6カ月、1年と延ばしていくのはいかがですか?()

   たとえネガティブなことであっても、必然の力で我が身に起きたことには必ず意味があり、学ぶべきことがあるのだと心得ておけば、情緒的に打ちのめされたりいつまでも引きずったりせずに、発想の転換がしやすくなるでしょう。

Cさん:今まで何をやっても良い結果が得られない人生でした。あまりにも運のない自分の人生を振り返ると、悪霊かなにかが憑いていて自分の往く先々でことごとく妨害しているかのように思えてなりません。今は何もやる気がなく、情緒不安定にもなり毎日胸が焼けそうなほど自分の運命に怒り狂っています。そんな見えざる手に妨害され続けてきた人間にも、この瞑想は救いの手を伸ばしてくれるのでしょうか。

アドバイス:
   仏教の立場からはこの世は徹頭徹尾因果応報なのです。自分が蒔いた種は自分が刈り取るほかありません。どんな人も誰でも、善い種も悪い種も蒔いてきています。したがって、わが身の不幸・運の悪さは、すべて自分がその原因を作ってきた結果なのだと理解しなければならないのです。これは一見残酷なようですが、きわめて公平であって、逆に言えば、だからこそ確かな希望を未来に託すこともできるのです。
  これまでことごとく不本意な現象に遭遇してきたのであれば、その原因は、過去世を含めて過去のどこかで他人を妨害したり邪魔をしたことがあったのではないかと考え、これからは反対のことをしていけば必ず良くなっていくのだと発想を転換させるのです。
  妨害の反対は、人を助けることです。人の幸いのためにエネルギーを放てば、今度は自分が人から助けられるし、万事がスムーズに展開する「円滑現象」が多くなる道理です。あるいは、一見すると不都合に見えた現象が、あとで振り返るとかえって幸いしたというようなことも頻繁に見られるようになります。
  ヴィパッサナー瞑想は、貪り、怒り、嫉妬、高慢、物惜しみなど、不善心で汚れた心に気づいて見送っていくことによって心をきれいにしていく営みです。これからは悪い心のエネルギーをいっさい放たなければ、未来は確実に良くなっていくし救いがあるのです。


Dさん:カヌーで川下りをしたとき滝壺に落ちて危うく溺れそうになりました。滝壺の中には縦型の渦があり、体を丸めると出られないという知識があったので、体を伸ばしてその渦の外に足が出て助かりました。

アドバイス:
  情報の力ですね。素晴らしい。
  極限情況になると、脳はそのとき本当に必要なタスクのみに一瞬で没頭し、危機的情況脱出するのに最適な対応を電光石火の速さで提示しようとします。途方もない智恵が閃き出るポイントは2つです。良い情報やデータが記憶されていること、もう一つは脳内環境が最適化されたクリーンな状態であることです。滝壺に呑まれた瞬間のあなたの脳内では、野生動物のような直感が働いたのでしょう。
  極限情況でパニックに陥り混乱する人もいるし、普段の雑念状態がブッ飛んで最適な智恵が閃く人もいます。その差はが何に由来するのか確たることはわかりませんが、目の前の現象に食いつきのめり込んでしまえばパニックになるでしょう。私たちは、優れたと経験知と良いデータを脳内に定着するために学び、脳内環境の整理と冷静沈着を瞑想修行によって養っていると言えるでしょう。
  あなたの話を伺って思い浮かんだことがあります。
  三浦雄一郎が標高4000m、マイナス60度Cの極限情況で紅茶を飲もうとしていた時のことです。突然の強風が襲いかかり、カップの紅茶が突風に飛ばされて自分の腕にかかってしまったのです。一瞬にして火傷をしたように熱くなり、そのまま冷凍の魚のように凍傷が始まり、瞬間冷凍されていったのです。
  このままでは腕を失う・・どうしよう!という文字通り焦眉の急に、三浦雄一郎は雪原を全力疾走し始めたのです。体温を上昇させれば融けるかもしれない・・という一縷の望みを抱いて、猛ダッシュして汗をかきながら必死で走ったのです。結果は上首尾でした。迷っていたら片腕はなかっただろう、と言っておりましたが、一瞬の英知が閃いて、瞬間冷凍され始めた腕を自分で解凍したというのです。
  凄い話ですね。極限情況や非常事態では、生き残るという唯ひとつの目的のために、脳が強制的に最適化されるのかもしれません。それは、余計な妄想や雑念が一掃され、智慧の閃く瞬間に酷似しており、私たちは日々の瞑想修行によって、それを常態化させようとしているのです。
  ヴィパッサナー瞑想の基本は、考えごとにならないようサティを入れ続けるという単純な作業ですが、それだけで大きな効果があります。瞑想合宿などで凄い体験をしたりサマーディ状態に入ったわけでもなく、ひたすら妄想を止め続けただけなのに、帰宅後、驚くほどの効果があったと報告される方が多いです。例えば、翌日から驚くほど仕事効率が良くなっていたり、感情的な反応が無努力で抑えられたり、必要な情報になぜかスーッとアクセスできてしまうような不思議さ、等々です。
  円滑現象と言われるこうした流れの良さは、ネガティブな妄想にハマって不善心所モードの時にはまず起こりません。朝から晩まで瞑想に専念する合宿のような劇的効果はなくても、日々の瞑想修行は、確実に智慧の発現する脳構造に変えていってくれるでしょう。
  私が1日最低10分は必ず瞑想しましょうと言うので、実際に10分しかやってない方が多いのですが、本当はそれでは充分とは言えません。実はもっとやって欲しいのです。合宿ではダンマトークとインタビュー以外は、朝から晩まで思考を止めてサティ以外にはやりません。通常の修行時間とは比較にならないので、効果が絶大になるのは当然です。
  心が整ってくれば、これまでに体験してきた全ての経験や知識が情報として自在に活用できる可能性があります。本物の智恵の出る準備が整えられるのですが、智恵のクオリティは、ダンマについてよく勉強している人とそうでない人に違いがあるのも致し方ありません。個人差はありますが、自分の持っているものが全て、いかんなく発揮できる状態が、その人にとっては最高であり、充実した人生につながっていくでしょう。よく学び、瞑想することですね。


Eさん:随観についてお伺いいたします。身体の随観と心の随観は何となく分かるのですが、受の随観がよく理解できないので、詳しくご説明して頂けたらと思うのですが。

アドバイス:
  受というのは感受、つまり感じることですから、例えば「かゆい」とか「痛い」などが当てはまります。これらは身体の姿勢や動きの様子を観ているのでもなければ、イライラしたり喜怒哀楽といった心の状態でもありません。「感じた」経験ですね。
  瞑想の現場で概ね多く出てくるのは痛みでしょう。あまり強烈でなくても、痛みというものは意識に触れてくるので無視はできません。一過性のものであれば単発のサティを入れるだけですが、繰り返し続くものであれば当然その痛みが消えるまでは中心対象にしてサティを入れ続けることになります。より強いものを強引に無視してお腹の微弱な感覚を感じようとするのは理に合いません。目安はフィフティ・フィフティの法則です。より強い現象、より多くの注意が注がれ意識に触れたものがサティの対象になります。もし組んでいる足が痛くなったら、それがその瞬間経験されている現実ですから、その痛みを徹底して観ていきます。それが受の随観をしている状態ですね。


Eさん:それは身の随観とはまた違うのですか?

アドバイス:
  アビダルマでは「共一切心所」と言いますが、どんな心の現象にも共通で働いているメンタルファクターがあります。受はその一つとして、あらゆる心に必ず伴って役割を果たしていると考えられています。どんな意識も知覚も経験も、何も感じられなかったら認識のしようがないのです。歩いたり坐ったり、日頃のどんな動きにも「受」が働いているので、知覚できるし経験されている訳です。
  しかし、そうした基本的な機能としての「受」とは異なり、強烈な快感や苦痛が感じられる経験は特筆すべきものであり、その「受」を別立てのカテゴリーとして随観していくのが「受随観」です。通常は、身体レベルでの快感や苦痛やかゆみなどを随観していくことになります。心の現象として強く感じる経験もありますが、多くの場合、強烈に感じた瞬間、喜怒哀楽系の情動の経験になりますので、そちらにサティを入れるのは「心随観」のカテゴリーに分類されます。
  こうした分類は一応理解しておくだけで特にこだわる必要はありません。瞑想の修行現場では、常に優勢の法則が重視されます。受け身に構えて、一瞬一瞬、意識に強く触れたものには必ずサティを入れて客観視する原則です。強く意識されたのには訳があり、中心対象であれ中心外であれ、そちらにより多くの注意を注いだのは自分なのです。自分の心がなぜかその現象に強く反応したのですから、それを徹底的に観察していけば、あるがままの自己客観視ができるように設計されているのがヴィパッサナー瞑想です。

   一瞬一瞬の自分の実情がありのままに知られれば、問題点を修正していくことも優れた点を成長させていくことも、次の仕事が明確化され心の清浄道は進んでいきます。
  「受随観」が淡々と続くこともありますが、たいていは快感や苦痛を強く感じた直後に貪る心や嫌悪する心などが生起するので、「心随観」に移行していくことも多々あります。その心の状態にサティを入れれば消滅していくでしょうから、そしたらまた「受随観」に戻り、さらに「膨らみ・縮み」が強く感じられたらの中心対象の「身随観」に戻ればよいのです。

  いついかなる時にも、何が起きても必ずサティを入れ、優勢の法則に従っていけば、自然展開で「身受心法」のオーソドックスな四念住の修行が進行していきます。

  「比丘たちよ、この道は諸々の生けるものが浄まり、愁いと悲しみを乗り超え、苦しみと憂いが消え、正理を得、涅槃を視るための一道である。それは四つの念住である・・」(大念住経)
(文責:編集部)

修行上の質問  実践編(5)    ―痛みの観察・病気の時に-

○痛みの観察

Aさん:痛みが出てきた時、どう対処すればよいのでしょうか。

アドバイス:
  痛みに限らず、苦受を伴う嫌なことは反射的に避けたいという反応が起きるものです。痛みを感じた瞬間、まず「痛み」とサティが入らないと、自動的に痛みを消したい、逃れたい、という反応に巻き込まれていくでしょう。
  痛みが生じたことと、その痛みにどう反応するかは2つのことです。通常は電光石火の速さで生体防衛や自己保存の本能的反応が起動してしまうのですが、ヴィパッサナー瞑想者としては、現象とその現象に対する反応を仕分けたいのです。何事も現状を正確に把握しなければ、正しい対策や反応ができません。

   反応する前に、我が身に何が起きたのか、その現実をよく観るのです。
  「痛い! 痛みに襲われた」といちど思い込むと、対象そのものの現場から離れて、概念的に捉えた痛みに反応していくのが普通です。頭の中にまとめられた痛みと、本当の痛みのありのままの実状は食い違っている場合がほとんどです。事実として本当に起きている現象を正確に知覚するには、サティという技法とその習練が必要なのです。落ち着いてよく観れば「痛みはあるが、ジタバタするほどではない」などの認識も出てきます。
  痛みに限らず何事も、嫌がって消したい、逃れたい、と反応し始めると、その現象が嫌だと感じる度合いは増すものです。ヴィパッサナー瞑想の根本精神からしても、まず起きたことは起きたこととして、ありのままに受容する瞬間が不可欠です。とにかく起きてしまったのだから、まず最初に現状をそのまま受け止める瞬間がないと、ベストの対応も浮かばない道理です。いったん起きた現象をしっかり受け止めると、改めて覚悟する必要があるでしょう。
  どのようにその覚悟が定められるか考えてみましょう。
  何よりも仏教の基盤である因果論の理解を深めていくことが大事です。
  どのようなものごとも偶然デタラメに起きているのではありません。どんな現象にも生起してくるだけの原因があり、無常に変滅する過程を経て必ず消えていくものです。どれほど長く降り続けても、これまでに止まなかった雨はないのです。生じたものは必ず滅していく原則を腹中にしっかり納めた上で、今、我が身に起きた現象の意味と生起してきた原因を理解する方向で受け止めるのです。
  苦受を受けているということは、これまでに人間や生き物に苦受を与えてきたからです。たとえ軽くても人をブッたりしたことはありませんか。蚊を叩き潰したことが一度もない、あるいはゴキブリを一匹も殺さなかった人がいるでしょうか。仏教は輪廻転生ですから、過去世に遡っても、生命を傷つけたことが一度もない人などいないのです。身体レベルで苦受を与えれば、自分の身体レベルで苦受を受ける現象に遭遇してしまうのは避けられません。
  今、足の痛みという現象が発生したのだから、それは必然の結果であり、苦を受けることによって、原因エネルギーが現象化して消えていくのだ・・、不善業の負債返しができてありがたい、ともし受け止めることができれば、痛みに対する嫌悪感はかなり減少するはずです。

  嫌なことであっても、全て受け容れる覚悟が定まると、苦しみそのものが半減するものです。この基本精神が徹底すると、まず起きたことをありのままに受け止める瞬間が入るようになり、観察の瞑想がやりやすくなるでしょう。これが苦受に対する最も適切な対応であって、そうすることで自然に、ひとりでに痛みが消えていく可能性が大きいのです。
  痛みはあるが、心は落ち着いて平静でいられる・・。この状態を作っていくのがサティの瞑想の目指しているところです。痛みは人生苦の象徴でもあり、たとえ苦しい人生であっても、平然として静かな心でいられたら素晴らしいことです。その意味では、特に足に不具合がないのであれば、椅子を使うよりは足を組んで坐った方がよろしいでしょう。痛みの観察がしやすいからです。
  このように痛みを対象化して観察していくと、痛みだけでなく、万物が無常に変化していくことが悟られていくでしょう。その認識が徹底すれば、妄想の再生産が執着や渇愛を持続させていることにも気づくことができ、結果として生き方まで変わっていくでしょう。あるがままに観察する瞑想が、心を変えていくし、成長させていく構造です。


Bさん:瞑想中に痛みなどの不快な感覚を感じた時、それに引きずられないための正しいサティの方法を教えてください。

アドバイス:
  まず、痛みが中心対象より強く感じられたら「痛み」とラベリングします。そのサティが完璧であれば、痛みはそれっきりになりすぐに中心対象に戻れるでしょう。しかしそんなことは滅多にありません。サティを入れても痛みは一向に治まらないものです。そこで、お腹の中心対象は捨てて痛みの観察に入るわけです。
  すでに説明しましたように、自分の体に何が起きているのか、どんな痛みなのか観察すると腹をくくります。ポイントは、痛みを詳細に分析的に観察することです。痛い部分と痛くない部分を仕分け、最も痛いのはどこか、痛みの質は? ズキンズキンなのかジンジンなのかピリピリなのか? 強弱は? 周期性は? 最強の痛みのポイントは固定しているのか、微妙に移動しているのか?
  このように分析的に観ていくと、嫌悪感や不安感などの心の反応が起きづらいのです。細部にいたるまで詳細に観ていくと、痛みがあるがままの状態で正確に意識される可能性が高まります。大雑把に捉えて「痛み」とラベリングを繰り返していると妄想が出やすくなり、その妄想に巻き込まれて感情的になりがちなのです。
  心が落ち着いていないと、また痛みの観察に徹する覚悟が甘いと、「痛み」と言葉だけ言っているような感じになります。そうなると、サティの対象化作用や客観視が機能していないので、ラベリングが空回り状態になり嫌悪や心配の反応に巻き込まれていくでしょう。そうなった場合には、優勢の法則からも当然、その反応している心の現象を観ます。「(痛みを)嫌悪している」「イライラしている」「心配している」と心の状態にサティを入れ、心随観に移行していきます。
  しかし、心随観は痛みの観察以上に難しいものです。ラベリングはできても実際に対象化して見送るのは容易ではありません。痛みもネガティブな心の状態もその現象を消すことに心がいってしまうと、対症療法的に足を組み替えてみようとか考えるようになります。
  何であれ、現象に執われ執着した状態になればサティは上手くいかず、ラベリングは虚しく空回りになるものです。そうなってしまったら、それも必然の展開でそうなったのですから、次の心が「ラベリングが空回り」「サティが機能していない状態」とサティを入れて対象化するのです。
  このあたりがヴィパッサナー瞑想の真骨頂です。ラベリングの言葉だけが虚しく空回りしてサティは機能していない状態に陥っても、次の心がその状態を対象化できれば、その瞬間にヴィパッサナー瞑想が正しく進行し始めるのです。
  冬の合宿に参加した人が食堂を出て、坐る瞑想を始めた時のことです。妄想だらけになり、「サティが入っていない」とラベリングしました。すると足が冷たかったので「(足が)冷たい」とラベリングし、「(背筋が)寒い」とサティを入れました。寒さや冷たさにこれといった反応もなく、自然にお腹の感覚が感じられたので「膨らみ・縮み」とサティを入れ、そのまま普通の修行に戻れました。
  これはなかなか見事なレポートでした。サティが上手く入らない状態なのに、特別ジタバタ反応することもなく、そのままありのままにラベリングできたところに無執着の勝因がありました。たとえネガティブな現象や状態に陥っても、それに執われず、淡々と観ていくことができればヴィパッサナー瞑想は上手くいくのです。簡単そうで難しいのが、この「とらわれない」なのです。執われていないので、上空から俯瞰するようにメタ認知が機能し、「淡々とあるがままに」観る瞑想ができるのです。
  この「何が起きても執われない」基本精神の確立のために、ダンマの学びを援用することが推奨されます。どんな現象も必然の力で起きてきたのだからいかんともしがたく、受け容れるしかないと腹をくくるためには、仏教の因果論に得心がいくことが大事です。また、どんな現象もすべて終わりがあり、必ず変滅していくのだからジタバタすることはない。執拗に身体に起こる苦受も永遠には続かず、捨て置けばひとりでに終息する・・と腹落ちするには「無常論」の理解が重要です。必死で反応する心が妄想を再生産して、新たな苦受を招く種を蒔かない限りは、永遠に続くものは何もないのです。


○病気の時に

Cさん:糖尿病のため、修行をやりたい気持ちはあるけれども、坐る瞑想では眠くてやる気がなくなりやれない状態です。どうしたら良いでしょうか。

アドバイス:
  糖尿病ではだるさや倦怠感が大変辛いものだと伺ってます。瞑想は体調に強く左右されますから、ご病気であれば高いレベルの瞑想修行はできないし、そのように望めば苦しくなります。
  ただ病気で苦しんでいる時はことのほかネガティブな妄想が多発しますので、実際の病気以上にその妄想で苦しみが倍増されるものです。この心理的に増幅されてしまう苦しみは瞑想で無くすことができますので、ヴィパッサナー瞑想で苦しみを最小限にしていただきたいですね。苦しい時こそ瞑想が必要だし、効果があります。
  では、眠気が強く力が出ない時には、どのように瞑想をすればよいかです。まず眠くてやる気がなくなるのは、不善心所などの問題ではなく血糖値や生理的なレベルの問題なのですから、ご自分を責めたりダメ出しをしたりしないことです。セオリーどおり、眠気や倦怠感、やる気の喪失状態をあるがままに、優しく見守るようにサティを入れていきます。
  具体的には、中心対象を定める必要はないと心得ましょう。散乱して崩れてしまう心を一点に絞り込むには相当なエネルギーが必要です。普段でも容易ではないのですから、病気の時にはとてもそんな気力もエネルギーもありません。だから中心対象を定めず、受け身に徹しきって、一瞬一瞬意識に強く触れたものをランダムにサティを入れ続けることだけ心がければよいのです。
  「(だるい)と思った」→「音」→「連想」→「音」→「音」→「妄想」→「だるさ」→「考えた」→「眠気」→「思考」→「思考」→「音」→「思考」→・・と、何がどう変わろうが続こうが気にせず、六門のどこに打ち込まれたボールでも淡々と打ち返していくだけで良いのです。
  これを「六門開放型のサティ」と言います。眼耳鼻舌身意のどの門に入った情報も順不同に、意識に強く触れたものにただ気づきさえすればよいのです。これは難しそうですが、そんなことはありません。意識が朦朧となる寸前でも、断食中のヘロヘロ状態でも、病状が相当悪化した最悪の時でも、入れようと思えばサティは延々と入り続けるものです。エネルギーがないので妄想に深く入り込む気力もないのです。全てがうっとうしく、投げやりな気持ちに陥っている時は、ウペッカーの捨の心にけっこう近いのです。見るのも、聞くのも、考えるのも、全てにヤル気がなく、うんざりで、眠りこけることすらできない。それ故に、ただ「見た」「聞いた」「感じた」「考えた」・・とその経験に気づきを伴わせるだけの営みは驚くほど続けてやれるものなのです。
  体力がありエネルギーがあるから、見ることにも聞くことにも考えることにも巻き込まれのめり込むのです。エネルギーがない時は、妄想に巻き込まれていくことすらうっとうしいのですから、六門確認だけはやろうと思えばできるのです。
  ぜひ試してください。これは私だけではなく、少なからず検証されています。私もミャンマーの森林僧院で食中毒にやられ、水のような下痢が一日に7回も続き、意識朦朧で死ぬほど苦しかった時にこの六門サティがきれいに続いていくことに感動したものです。良い瞑想をしてやろうなどという欲が皆無なので、逆に限りなくウペッカー()の心がきれいなサティを持続させたのでしょう。
  エネルギーがあり余っていて不善心所ゆえにヤル気が出ない。やりたくない。怠けたい。ずるけたい。眠くてしようがない・・こういう時が最悪ですね。ネガティブな妄想を強烈にやれるのはかなり体力がある時です。
  自身の無力さを痛感した時に心から謙虚になれるし、三宝や天に全てをゆだね、与えられたものを受けきって、なすべきことをやらせていただこう・・という心境になれるものです。病気の時はそうした境地の近くに来ていると考えることもできます。どんな最悪の時でもサティの瞑想はできると信じて、ただ淡々と気づいていくことを心がけてください。


Dさん:家内が糖尿病の初期です。何とか説得して食事制限をさせたり、瞑想をしないかと思っているのですが。

アドバイス:ご自身がご病気で何とか前向きにがんばろうとしているのであれば、開けてくる道もありますが、他人にそれを期待することは難しいのではないでしょうか。病気の方でも健康な方でも、ご本人がその気になっていない時にやらせようとして上手くいったケースはありませんね。瞑想に限らず、学校の勉強でもスポーツでも何でも、本人が自らヤル気にならないかぎり期待しても説得しても強制しても良い結果にならないでしょう。
  心から尊敬し耳を傾けて聞きたいと思っている方に言われればチャレンジするかもしれませんが、家族に言われると反発したくなったり、日頃の不満やストレスから「あなたに言われたくない」と心を閉ざすことも少なくありません。
  そういう場合にはご自分で説得しようとせず、糖尿病やその対処法について分かりやすく書かれている本を選び出して、さりげなく置いておくのがよいのではないでしょうか。素人が説明するより説得力があります。本人が読む気になって、このままではしようがないから何かしなければ・・と情報を求める気持ちにならないと心に沁みていかないでしょう。
  無理に従わせようとしても、実りのない言い合になったりするとますます後味の悪いものになります。結局、人は自分自身で納得了解したことでなければ、何も変わらないし、動かないし、これまで信じてきたものや生き方に従っていきます。
  そうなると、やれることは限られてきます。それは、何も言わず、ただ心の底から妻が良くなっていきますようにと祈り、願い、慈悲の瞑想をしっかりやらせていただくことです。敢えて言葉にせず、沈黙の慈悲の方が以心伝心、テレパシーのように心に沁みるものです。いかんともしがたい時には、「待つ」ということも大事です。待っている時にできるのは祈りと慈悲の瞑想です。その心のエネルギーというものは、百万言を費やすよりも強く響くこともあるのです。


Eさん:精神的に鬱の状態で、体調にも山や谷があって良くないときは瞑想も嫌になったりします。少し進歩したのは、今までは「瞑想をやらなければいけない」ということが先に立っていたのが、まず「嫌っていることを素直に認める」のが大切だということを知ったことです。これまで出口がない状態と思っていたのが「そんなことないよ」という自分が少し生まれて、気持ちの面で少しだけ楽になりました。

アドバイス:
  それは素晴らしいですね。仰っていることがとてもヴィパッサナー瞑想的です。ダメな時にだからやらなければいけないと反応するのはごく自然なことで、それが世間の常識かもしれません。しかし、ダメな時にまずダメな状態だと、その現状をあるがままに認めて受け容れることがヴィパッサナー瞑想の核心部です。あなたの仰ることには、ネガティブなものをありのままに認めて、優しく受け容れてあげている感じがします。そこが素晴らしいと思います。
  昔、かしまし娘というお笑いの三人姉妹がいて、その長女の方がヒロポン中毒になりました。ヒロポンというのは戦後間もなく大流行した覚醒剤で、眠らなくてもいくらでも元気にがんばれるし、強力な快感や陶酔感に多くの人が依存症になりました。かしまし娘の長女も廃人同然のところまできたある日、次女が訪ねてきました。
  「姉ちゃん大変なんやろ生活、これウチからの餞別」と手渡された中にはヒロポンと一通の手紙が入っていました。

  「これお餞別です。ヒロポンだけは止めてほしいと思っているのに変やねぇ。ボロボロになったお姉ちゃんの姿を見たくないのに・・・こんなの渡すなんて変やね。せやけど、やっぱり止めて欲しいねん。いつかまた昔のお姉ちゃんに会える事を信じて・・」
  これを見て長女は号泣し、もう絶対にこれでやめなきゃと決意、ついに薬物との縁が切れたのでした。
  今あなたのレポートを聞いてこの逸話を思い出したのですが、私が心を打たれたのは、次女の優しさと受け容れる力でした。覚醒剤中毒の姉に覚醒剤を渡すなんて常識ではあり得ないでしょう。でも、廃人になるまで止められなくなっている姉の現実を現実として受け容れてあげている優しさがヒシヒシと伝わってくるのです。ボロボロになっていく姉に薬物を渡すのは変だが、でも喉から手が出るほど欲しがっている姉のどうしようもない現実を受け容れて、取りあえず手渡している切なさに胸を打たれました。
  そしてどうしようもない自分をそれでも見捨てずに受け容れてくれている次女の優しさに感動したことが、薬物依存を断ち切れた原動力になっているように思われます。
  ネガティブな現状を否定するのは誰でも言えるしやってしまいます。でも断ち切れず繰り返してしまうどうしようもなさ。それをそのまま優しく受け止めてくれる人の存在が、最後の切り札になっているんでしょうね。
  ここに、私はヴィパッサナー瞑想の極意があると感じます。どんなネガティブな現状であってもありのままに受け容れて、正確に、その通りに認識することができた瞬間、何かが決定的に変わっていく力が生まれてくるのではないでしょうか。
  あなたがこれまで自己否定してきたご自身をありのままに受け容れて観てあげられるようになったのは素晴らしいと思います。
  他人に対するのと同じように、自分のことも優しく受け容れてあげるべきだからこそ、慈悲の瞑想は「私が幸せでありますように」の一行から始まるのです。


<さらなるアドバイス:>
  病気であれば、もちろん医者に行くべきは行ってきちんと治さなければなりません。ただ、心から来る要因が大きい場合には、サティによってその問題に向き合うことによって体調が整えられる場合もたいへん多いのです。
  体が弱くて、体調が悪くなるとすぐに心配や不安になったり恐怖感を持ったりするような方が合宿に参加したことがあります。
  合宿中にも、この方は左の心臓が圧迫される姿勢で寝ていたので、ウワー、苦しい!という感じで悪夢にうなされ、夜中の3時半ころ目が覚めると朝まで寝られない・・。そんなことを繰り返していました。何日目かに同じことがあった時、この方は「(あ、苦しい)と思った」とサティが入りました。「心臓がドキドキしている」とサティが入り、「(どうしようか・・)と思った」→「(これでは今日修行がやれるのかしら)と思った」→「(ああ、怖い夢を見てうなされていたのだ)と思った」とラベリングが続き、蒲団が重すぎて暑いから「暑い」、蒲団を足でけ飛ばしながらその足の動作にサティを入れ「のけたい」とラベリングしたのです。
  これは、そのとき経験していることがそのまま確認されている状態です。事実が認知されているだけで、心配や恐れや恐怖がなく、そのままスーッと朝まで眠れて何も問題なかったということでした。
  合宿が終わって家に帰りました。この方はかなり厳しいご主人に押さえつけられていて、「早くしろ」とか何とか朝に言われると、もうそれだけでドキマギしてしまうようなことを長年繰り返してきたそうです。
  ところが、経験している事実だけにサティが入るようになり、今やるべきことに集中するので、ワーッとパニックになることがなくなってきたのです。これが多くの頻度で起こって来るようになりました。
  3日間ほど風邪をひいたのだそうです。これまでは3日も寝込んでいたらかなり妄想して心配になるのですが、この時はサティが淡々と入ったそうです。「右を下にして横たわっている」→「左の鼻が詰まっている」→「スポンと抜けて、右に移った」→「耳が少しボワーンとしていたのがスポンと抜けた」→「寝返りを打つ」という風に、ただサティを入れながら寝ていたら、心は乱れないし恐れがなかったということです。
  素晴らしいですね。
  余計な妄想をしないで、今、目の前の事実だけに向き合うことができれば、怖れるものなどなくなる道理です。
  このレポートだけでは、果たしてこの方の反応系の心が完全に書き換えられたのか、サティの威力で顔を出さなくなった状態なのか、まだわかりません。しかしサティの威力を力強く検証するレポートです。心の清浄道を完成させていくためには、遠大な計画でサティの瞑想を深め、ダンマを学び、反応系の心の浄化を徹底していくことが大事です。たとえ完成ははるか遠い日であっても、一歩づつ近づくたびに人生の苦しみが薄らぎやわらいでいくのです。これからもしっかり修行をしていきましょう。

(文責:編集部)


修行上の質問  実践編(6)

Aさん:坐る瞑想での膨らみ縮みですが、膨らみの感じを最後までしっかり感じてからラベリングすると、縮みの感じがすでに始まっているような具合になり、どうもうまくいきません。どうタイミングを取ったらよいのでしょうか。

アドバイス:
  歩く瞑想では、一足一足の動作を最後まで見切って、余韻を感じてからラベリングするタイミングがよいと教えられていますよね。この方がセンセーションの知覚に没頭できるので妄想が出現する余地がなくなり集中もよくなります。
  しかし、このやり方をそのまま座る瞑想に適用すると問題が生じてきます。呼吸のタイミングと腹部の動きは連動しているので、膨らみや縮みの動きをピークに達するまで観て、さらに余韻まで感じようとすると息が苦しくなってしまうのです。
  深く長い呼吸に慣れている方は、余韻まで充分に感じてラベリングしても問題ないでしょう。しかしそうでない方は、膨らみや縮みがピークに達する手前でラベリングするしかありません。頂上に達する少し手前の8合目か9合目までの感覚を「膨らみ」とラベリングすることになります。
  膨らみ終わって縮みに切り換わるタイミングを意識的にちょっと早めれば、膨らみのピークをしっかり感じて縮みに移行できるでしょう。
  縮みの場合も同様です。凹んでいく感覚がボトムに達する手前の8合目か9合目で「縮み」とラベリングするか、余裕を残して凹みを完成させれば膨らみへの切り換えがスムーズにやれるでしょう。

Bさん:妄想が過去形か未来形か区分する時に一瞬迷ってしまい、タイムラグが生じてしまいます。それと関連して、ラベリングは瞬時に行わないといけないのですか。かなりたってから気づいて言語化してもいいのでしょうか。

アドバイス:
  まずラベリングの上達法は、サティの瞑想現場よりも常日頃から言葉を正確に使うことです。良い本を読んで素晴らしい言葉の使い方を真似たり、ボキャブラリーを増やすことを心がけます。
  また、出てきた妄想をカテゴリーに分類する練習をしておくのもよいでしょう。とっさの修行現場では、それまでに培った能力が問われます。同じ言葉を現在形や過去形、名詞形でどう使われるかを正確に整理しておくことも役立ちます。誤解や錯覚や曖昧さを排除し、正確な対象認知や認識確定にかかわってくるので、ラベリングを上達させてくれます。
  ヴィパッサナーは現在の瞬間をあるがままに観ていく瞑想なので、過ぎ去ったことは対象外です。1秒か2秒後なら、敢えてラベリングして印象を深めておく方が良い場合もありますが、原則として過ぎ去ったことは潔く省略する覚悟を定めておかないと、今の瞬間が捉えられなくなります。完全主義の人ほど律儀に巻き戻してラベリングしたくなる傾向があります。
  正確なラベリングを貼ろうとすると、言葉選びに一瞬迷ったりタイムラグが生じるのも当然です。不完全であっても、とっさに浮かんだラベリングで良いと考えましょう。エエト、エエット・・と言葉選びをしている間に、次々と新たな思考が浮かぶし音も耳に入るし、アッという間に現在が過去に変わってしまうのです。正確にラベリングできたとしても、回想や思い出と同じ過去形の出来事になっていたのでは意味がありません。
  ですから、たとえ的はずれのズッコケたラベリングしか貼れなかったとしても、それは、もうそうだったのだから仕方がありません。すぐに切り換えて次の瞬間に集中すべきです。「ラベリングが不正確」とサティを入れ、全然サティが入っていなくても「サティが入っていない!」とその状態にサティが入れば瞑想としてはOKだということです。
  例えば、歩きの瞑想がうまくできていなかったとします。瞑想として悪い状態ですが、「(これじゃダメだ)と思った」「迷っている」などのラベリングができたら、ダメな状態に気づいて対象化ができているということです。直前が最悪の状態でも、次の瞬間それを対象化し客観視できたので素晴らしい瞑想になるのです。よろけて転んでしまっても「よろめいた」「転んだ」「痛み」「(恥ずかしい)と思った」とサティが入れば、まともに歩きの瞑想ができている人と同じです。むしろ淡々と瞑想ができている時よりもはるかに難しい、パニックを起こしかねない最悪の事態にサティが入る方が高度な瞑想かもしれません。ここがこの瞑想の凄いところなのです。本当はペケなのに、ペケだと気づいたらマルになるのです。
  瞑想もお稽古ごとやスポーツと同じですから、一度1Day合宿に参加してマンツーマンの指導を受けてください。1Day合宿が終わるまでに、やり方の基本だけは完璧に教えるつもりでいますから。正確なやり方をマスターできれば、これは必ず効果が検証できる瞑想です。結果が出れば、瞑想することが楽しくなります。瞑想のモチベーションを上げるコツは、良い瞑想をすることです。もっとやりたいという気持ちが高まりますので頑張って続けてください。

Cさん:サティの瞑想は、自己客観視の瞑想でもあるということですが、何かに気づいている自分を観ている自分、その自分を観ている自分・・・というようにどんどん後退していくとキリがなくなります。どこでそれを切ればいいのか、またどこからどこまでが妄想で、どこからが自己客観視の領域なのかわからなくなるのですが・・。

アドバイス:
 「何かに気づいている自分を観ている自分、その自分を観ている自分・・」という表現に、サティの甘さが感じられます。ごめんなさい。いきなりダメ出しをして。
  現在の一瞬一瞬にサティを入れるとは、眼耳鼻舌身意の六門から情報が入った瞬間、厳密にその現象だけに気づいてラベリングすることです。例えば、ドン!と物音がしたので「音」とサティを入れますね。これは音が聞こえた状態に気づいているわけです。この刹那に、音を聞いたのは自分だという千分の1秒の思考が入ると「私が音を聞いた」という印象になります。ここで経験の主体であるエゴが妄想として登場してくるのです。
  しかし通常そんな微細な一瞬に気づける瞑想者は多くはないでしょう。音を聞いたのは確かだが、「聞いたのは自分だ」という印象は漠然としているはずなので、それにサティが入らなくても気にしないで結構です。しかし次に「観察している自分がいる・・」という感じが現れたら、これは「(ドン!という)音を聞いている自分」を対象にした思考が浮かんだということです。これが、あなたのおっしゃる「何かに気づいている自分を観ている自分」という意味です。
  この時あなたが瞑想者としてやるべきことは、例えば「(音に気づいているのは自分だ)と思った」とか「(ドン!という音に気づいている自分を観ている自分という)妄想」とラベリングすることです。このサティが入らないまま、さらに「音に気づいている自分を観ている自分」を観ている自分・・という考えごとが続いていた情況ではないかと思われます。
  ヴィパッサナー瞑想というものは、何かの現象を経験した瞬間、それに気づいた一瞬の心のことです。それを千分の1秒か万分の1秒後の思考が「経験したのは私だ」となんとなく考えてしまい、その考えたことに無自覚なので「自我感」や「経験の主体者」が幻のように現れ、「自分を観ている自分」「その自分を観ているもう一人の自分」とどこまでも後退していく印象になるのです。
  これはサティが甘いからで、「どこからどこまでが妄想で、どこからが自己客観視の領域なのかわからなくなるのですが・・」とあなたのおっしゃる通りになってしまいます。厳密に説明するとこういうことなのですが、おわかりいただけたでしょうか。
  ポイントは、どんな短い思考にも気づいていくことです。今すぐわからなくても、だんだん明瞭になってくるでしょう。妄想と自己客観視の違いはラベリングの有無が一応の目安なので、取りあえず、気づけたことをきちんとラベリングするようにしてください。「ちゃんと瞑想ができているか迷っている」とか「(このやり方では不安だ)と思った」というラベリングでも、客観視できていた証拠になるでしょう。完璧なサティではなくても、たとえ30点や40点程度のサティでも入っていたことは確かだし、サティの要素があったのです。
  練習とは、こういうものです。どの分野でも、練習の内容は不完全なものだし、不完全だから完璧な理想を目指して日々努力するわけです。ラベリングが付けられていたら、ラベリングできたご自分を褒めてあげてください。不完全な自分を責めない方が、次のヤル気につながります。

Dさん:瞑想を知る前は幸せな楽しい毎日でしたが、瞑想を始めてからは自分の感情(不善心所)が見えるようになったことで、苦が多くなった感じがします。それでよいのでしょうか。

アドバイス:
  素晴らしいですね。まさにそれがヴィパッサナー瞑想というものです。修行が順調に進んできた方の典型的レポートだと思います。昔「悟りとは、自分の程度の低さに気づくことだ」と定義したことがありますが、心が浄らかになればなるほど、自己客観視がうまくできればできるほど、自分の心が汚れていることに気づけるようになるものです。
  愚かな人、心が汚染されている人ほど、自分は優れている、自分は立派な心の持ち主だと錯覚しています。あるがままの実情が視えないからです。自分の心が真っ黒なのに気づかず、多くの人人に迷惑をかけたり苦しめたりしていることも、皆から嫌われ顰蹙をかっていることも一向にわからず、私のような素晴らしい人はいない、皆んな私のことを大好きで尊敬している・・と自惚れながら幸福感に浸っている人がいたりしますが、滑稽ですよね。真実に気づいて愕然とするまでは楽しき日々なのでしょう。
  以前のあなたがそうだと言ってるわけではありませんから勘違いしないでくださいよ。でも、多かれ少なかれ、私たちは誰もそうなのです。それだからこそ、もしヴィパッサナー瞑想を始めて、ありのままに自分の心の感情の動きに気づいたらどうでしょうか。不善心所だらけなのに打ちのめされるのではないでしょうか。暗澹として自己嫌悪にかられるかもしれません。しかし、それで良いのです。自分で気づいた方が、痛い目に遭って思い知らされるよりよいでしょう。
  心の便所掃除と言われるヴィパッサナー瞑想を始めて、自分の正体がありのままに見えてくると誰でも嫌になるし、続けるのが苦しくなるものです。あなたの感じられていることは、誰もが経験する通過儀礼のようなもので、そうしたプロセスを経ながら心がきれいになっていくのです。全ての苦しみを乗り超えていくための王道を歩んでいると言ってよいでしょう。素晴らしい瞑想レポートをなさっているのですから、どうぞ安心してそのまま頑張ってください。

Eさん:サティを入れて意識化している時と潜在意識下の思いのギャップを大きく感じます。例えば泥酔した友人に「大丈夫?」と声を掛ける自分と、そうして他人に迷惑を掛けるのを見下している自分という感じで、罪悪感を覚えます。本心に嘘をついているようで、これは五戒に反するのではないでしょうか。

アドバイス:
  いや、それを嘘と考え、五戒を破っていると解釈するのは妥当ではありませんね。欺く意志があって、虚偽の発言をしているのではないと思いますよ。もし破戒をしたと自分を責めれば、反省よりも自己嫌悪などの怒りが混入しがちです。そうではなく、あるがままを観るヴィパッサナー瞑想者らしい、正確な観察をしていたと考えてよいのではないでしょうか。人の心は多層構造で、その時々のさまざまな条件によっても大きく影響されるし、本質的に矛盾に満ちたものです。そうした実情に気づかれたレポートで結構だと思います。
  友人を介抱する優しい心の一瞬も本当だったし、他人に迷惑をかけてしまうだらしなさを見下している一瞬の心も本当だったのでしょう。そのことに罪悪感を感じたのも、あるがままに直視するのは辛いし苦しいので隠蔽したくなったのも、それを本心に嘘をついていると感じた一瞬も・・全部真実だったと認知しておけばよいのです。 
  どの瞬間も、どの心も全部本当の自分なのだ、と自覚し、悪い心や好ましくない傾向は必ず修正していく、浄らかにしていく・・と決意して進んでいくのが清浄道の瞑想者です。 

Fさん:瞑想が進むにつれて、執着が減ってきた分、逆に自分を引っ張るエネルギーも減り、無気力な感じがあります。瞑想を進めながら、無気力にならずに離欲するにはどうすればよいのでしょうか。

アドバイス:
  コンプレックスや過去のネガティブ体験、個人的な欲望など、不善心のエネルギーを起爆剤にしてヤル気や成功へのモチベーションを高めている方が結構いらっしゃいますね。強大なエネルギーの起爆剤にはなるので、それで金持ちになったり、社会的な成功をおさめた人も少なくありません。しかし望み通りの成功者になることと、真の幸せが得られることは必ずしも合致しません。幸福度は案外低い場合も少なくありません。
  ネガティブ体験やコンプレックスを起爆剤にしている場合は、エネルギーを動かしている根本には怒りがあるので、カルマ的には成功をもたらすかもしれませんが、破壊のエネルギーを出力した結果も味わうことになるでしょう。健康を害したり、人間関係が壊れたり、かけがえのない家族の和合が破れるかもしれません。温かい家庭や和合した優しい人間関係が壊れてしまえば、社会的に成功し望みが叶っても幸福と言えるでしょうか。不善心は、人を幸せにしないのです。
  欲望系の不善心はどうでしょう。怒りのように壊すエネルギーではありませんが、貪れば貪るほど不満足性という名のドゥッカ()に苦しみます。欲望とエゴはワンセットですから、欲を基盤にした人生は渇愛や執着が強まっていくのでその我執の臭み故に、人に嫌われ敬遠される傾向もあります。現象の表れとしては異なりますが、欲望も怒りもその根底には、妄想とエゴイズムと渇愛が元凶になっています。セオリー通り、苦の発生する構造です。
  欲の妄想を肥大させていく時のワクワク感は、ドーパミンという快楽ホルモンに由来しています。正確には、ドーパミンは快楽そのものを味わい体験している時のホルモンというより、快楽を幻想してワクワク感が催され、人を欲望に駆り立てていく原動力のようなホルモンであることが知られてきています。快楽ホルモンではなく、「渇愛ホルモン」と言った方がぴったりですね。だから、欲の妄想をしてワクワクすればするほどヤル気が刺激され、結果的には自分を引っ張るエネルギーが高められ、鼻先にぶら下がった人参を欲しがって疾走する馬のような具合になるでしょう。ところが、そんな欲望や執着に執われてはならないと仏教では言われているので、渋々それに従っていると無気力になってしまった・・と訴える人はとても多いのです。
  では、瞑想を進めながら、無気力にならずに離欲するにはどうすればよいのでしょうか、というあなたの質問になるわけです。
  まず、あるがままを観る瞑想をしているのですから、ご自分の心の底までありのままに観て、自分は本当は何を欲しているのか、自分にとって真の幸せとは何か、何のために自分は生きているのか・・、こうした問題にきちんと向き合うことが必要です。具体的に取り組まないと有効打が打てませんから、自分が死ぬまでにどうしてもやりたいことを紙に書き出してみるとよいでしょう。最初はランダムに頭の中に散らばっているものを紙の上に吐き出す感じで、次にその項目に順番をつけるのです。譲れるものと譲れないもの、一番やりたいことと2番3番にやりたいことを並べ替えてジッと眺めるのです。
  反対に、これだけはやりたくない、こんな情況だけは絶対に回避したいという、嫌なことへの順位づけをするのもよいでしょう。心の中をきちんと整理するためには、思い浮かぶことをただ考えているだけでは堂々めぐりになって混乱が整理されないものです。
  これで自ずから正解が導き出されるのではないかと思いますが、仏教的なヒントを申し上げると、自分自身の個人的な満足感を基盤にせず、人のため世の中のためにささやかながら貢献する要素があるか否かを検討してください。心理学的にも、自分の喜びのためよりも、人に喜んでもらえることをした方が幸福度が高いことが知られています。
  自分よりも人のために、世の中のためになること・・と発想する時には、不善心やエゴが入りづらいのです。人生を苦に導いてしまう欲や執着を回避させるのに、人世のために貢献する要素が入っていることは重要なことです。自分のためであれ、世の人々のためであれ、明確な目標に向かって頑張りはじめると、ヤル気も張り合いも出てくるので、毎日が生き生きしてくるでしょう。正しい生き甲斐の創出ができている状態です。自分のための欲望は不善心の執着になりがちですが、世の中のため皆んなの幸せのため・・と利他行の要素が入ってくる行為の実行が成熟の証しであり、大人になるということでしょう。
(文責:編集部)


修行上の質問  実践編(7)

Aさん:日常生活でサティを入れると余計なことを言えなくなったのはよいのですが、理論的な説明をする時にも言葉が出づらくなってきた感じです。


アドバイス:
  毎日瞑想される時間はどのくらいでしょうか。一日の瞑想が1~2時間以内だったら、その瞑想が原因で言葉が出づらくなることはあまりないように思われます。瞑想が終われば、普通に妄想し、会話し、メールを読んだり書いたり新聞を読んだり・・と言語の脳は必ず使っているからです。
  私の経験では、瞑想リトリートに入った3カ月間、来る日も来る日も1日中サティを入れ続けるだけで、本もパソコンも他人との会話も皆無になります。週に2回程度のダンマトークと面接時間以外は、言葉をほとんど使わないのです。言語脳は短いラベリングを入れるだけで休止状態になってきます。
  その結果、修行が終わって帰国直後、言葉が出にくくなっていることに驚いたことがあります。言語野が凍結したかのようでしたが、2~3日で回復し、その後は頭の回転が速くなり、適確な言語が流れるように出てくるのにまた驚きました。
  ディープなサマーディに入っている時間が長いと、その直後はやはり言葉が出づらくなる傾向があります。しかし在家の普通の生活をしている限り、深いサマーディも長時間の修行時間もなかなか取れないでしょうから、深刻な影響が出るとは思えません。読んで書いて会話をしている限り、言語脳を使用しているので大丈夫でしょう。
  これまで無自覚に言いたいことを言っていたことに気づき、人を傷つけてはいけないとか、正確に表現しなければ・・とマインドフルになり、失言しないよう慎重になり過ぎた結果、言葉が出づらくなるということは考えられるかもしれません。サティの瞑想というものは、ものごとを正確に観察し、分析的な見方が訓練されるようになっています。論理的思考が正確になり、理路整然と無駄のない説明をする能力はむしろ向上するはずです。正確にサティの瞑想を修行している限り、心配ありませんのでがんばりましょう。


Bさん:サマタ瞑想のサマーディに入り込まずにヴィパッサナー瞑想に戻るにはどうすればよいでしょうか。

アドバイス:
  多くの瞑想者がサマーディの快感に溺れて、サティの瞑想に戻りたくない傾向があります。肝心なのは、決意です。サマーディを高めることよりも、厳密にサティを入れ続けることに覚悟が定まっていれば、必ずヴィパッサナー瞑想に回帰できるものです。もしサティの瞑想が復活しづらいとしたら、ご自分の心をよく観察してください。サティよりも快感の伴うサマーディを楽しもうとする心はないか。対象と融合していく、とろけるようなサマーディ感覚に陥っていくと、変性意識状態ゆえに、いかにも瞑想をしているという達成感も起きがちです。
  サマタ瞑想ではなく、ヴィパッサナー瞑想をするのだと決意がしっかりできれば、サティを強化することが一番です。思考に手を出さない決意と、現実感覚を生々しく感じることがポイントです。中心対象の感覚を鋭く実感し、現実感覚を強化することが、サティに回帰してくる道です。
  もしサマーディが強すぎて、サティが入りづらくなっていたら、例えば、歩く瞑想中だったらわざと意図的にドスン、ドスンと歩いてサマーディ感覚を弱めます。あまりやり過ぎると、サマーディ感覚も破壊され失われるので適当にです。
  坐る瞑想中だったら、閉じていた目をパッと開いて、視野に飛び込んできたものを強く意識に焼き付けて「見た!」とサティを入れます。音に耳を澄ませて聞こえた瞬間に「音!」「聞いた!」と力強くラベリングして現実感覚を呼び戻すやり方もあります。
  普通に淡々とサティを入れ続け、強めていくのが最も望ましいのです。そうすると、高まった定力と明確なサティが連動して、瞬間定というヴィパッサナー瞑想に特有のサマーディが完成してきます。これが目指すべき正しい道です。


Cさん:少し前に瞑想をしていたら、自分ではとてもよい状態になりました。でも、その状態を再現しようとすると、焦って空まわりしてしまいます。再び同じ状態になるのは、どのようにしたらいいのでしょうか。


アドバイス:

  結論は、諦めることです。その状態は、1回だけでも体験できてありがたいことだった。良い思い出になりました・・と()
  どういうことかと言いますと、初体験の時は、淡々と無心に瞑想をしていて、たまたま良い瞑想ができる全ての条件が自然に出揃ったのです。ところが今度は、最初の記憶に邪魔されてどうしても期待や欲が出てきて初期条件が異なり、同じことが起きない構造です。
  過度の期待も欲も不善心所です。善心所のサティが不善心所の欲と同居はできないので、二度と起きないのです。
  無欲になれば、また初期条件が合致して同じ体験ができる可能性があります。しかし、無欲になるのは難しいでしょう。「無欲になれば、またあの同じ体験ができるのか・・。よし、わかった! 無欲になってやる」と無意識に狙い始めてしまうものです。これは、多くの瞑想者が繰り返し検証してきた事実です。欲は巧妙に忍び寄り、こちらはオモチャにされてしまうのです。
  だから「キッパリ諦めることです」というインストラクションにならざるを得ないのです。本気で諦めない限り、つまり少しでも欲がある限り絶対に同じことが起きないと心底理解した人に、再び同じ体験が起きるものです。「狙っている」「諦めようとして、諦められないでいる」と、起きた通り、感じた通りにサティを入れていく原則です。サティの瞑想というのは、どんなものも現れてくるままに見送って手放していく、離欲の訓練なのですから。


Dさん:歩行瞑想はゆっくりの方が瞑想の効果があるのでしょうか。また、自宅で歩行を中心に30分ほど瞑想すると気持ちがよく、手も熱くなり、頭の中もスッキリしてきましたが、これは瞑想の効果なのでしょうか。


アドバイス:

  中心対象の感覚が微妙に変化していくのを丁寧に感じ取ろうとすれば、動作のスピードは遅くなるのが自然です。だからといって、レベル高く瞑想しなければならないと頑張ってしまうのは、ヴィパッサナー瞑想としてちょっとおかしいですね。あるがままを観ていく原則から外れていくからです。
  心がザワザワして知覚力が弱ければ、感覚は詳細には感じられません。動作もそれ相応の速度になるでしょう。ゆっくり歩いて瞑想している人たちは、自然に集中が高まり、センセーションが微妙に推移し変化していくのを感じているので、自ずからゆっくりした速度で歩いているだけです。
  それを横から眺めて、あんな風にゆっくり歩くのが良い瞑想なんだ・・と猿真似で自分もゆっくり歩くのは勘違いです。真似をして動作だけゆっくり歩いても、感覚がしっかり知覚できていなければ、妄想が多発するし音に注意が取られるし、上手くいかないものです。
  感覚が丁寧に感じられたら「鮮明に感じた」とラベリングするし、大雑把にしか感じられないのなら「右・左」や「離れた・着いた」の段階に戻した方がよいでしょう。どちらが良い悪いと考えるのではなく、どのような状態であろうとも、その瞬間に経験されている現実をあるがままに自覚していくのがヴィパッサナー瞑想です。鋭く感じられたら鋭く、鈍くしか感じられないなら鈍く、ありのままに確認していけば、どちらも立派にサティが入っている状態であり等価なのだと考えましょう。自分のその時の知覚力に応じたスピードで行なえばよろしいです。
  また、手が熱くなったり頭がすっきりしてくるのは、瞑想が順調な時の兆候と考えてよいでしょう。過度に精進すれば、体に緊張やコリが発生しがちです。体が冷たく、固く、鈍く、重くなるのは不善心所の特徴であり、反対に、軽く、柔らかく、しなやかに、温かく、軽快であれば善心所の体感と考えてよいでょう。
  頭がスッキリしたのは、妄想が減少した証しです。妄想を止める瞑想が首尾よく機能したのです。ネガティブな妄想が激減すれば、心は善心所モードになり、善心所モードに特有の体感が感じられてくるということです。


Eさん:ヴイパッサナ一瞑想がうまくできるコツがあったら教えてください。


アドバイス:
  2つあります。
  1つは、徳を積むことです。どんなことでもよいから、世のため人のためになるボランティアや善行を続けていくと、不思議に環境が整ってきて、良い瞑想ができるようになります。サティがきれいに入る一瞬にも、無量無数の因縁因果が働いています。その瞬間の物理的環境、体調、心の状態、周囲の協力・・等々。膨大な要因が有機的に結晶し、一瞬のサティが成立したのです。良い瞑想ができるのは、無数の徳の賜物と理解すべきです。
  徳のない、カルマの悪い人はどうでしょうか。まず瞑想時間が思うように取れません。時間があっても体調が悪い。ちょうどいいところで邪魔が入る。仕事や家庭に由々しい問題が発生する。心が乱れる。ヤル気が出ない。集中できない。坐ればとにかく眠いだけ。毎回コックリ舟こぎをする・・等々。良い瞑想ができるために必要なすべての条件が満たされなければ、瞑想はうまくいかないのです。
  なぜ仏教では、あらゆる悪を避け、善をなすことが奨励されているのか。その答の一つがここにあります。環境が整わないのは、不善業の結果であり、その責任は結局これまでの自分自身の行ないにあると考えられます。
  しかしたとえ悪条件の中にいる人でも、これから五戒を守って、あらゆる善をなしていくならば、必ずヴィパッサナー瞑想ができるようになります。希望も救いもあるのです。徳を積むこと。必死で頑張っているのに、修行が進まないと感じている方はぜひ試してみてください。
  もう1つは、心の中だけで構いませんから、瞑想中は一時的にこの世のことを捨てる覚悟をするのです。本物のこの世を捨てることは、おそらくできないでしょう。だから捨てるのは想いの世界だけでかまいません。浮かんできたどんな想念も、所詮この世のことであり、そのこの世の事柄に執着している証左なのです。
  瞑想がうまくいかないと感じるのは、多発する妄想にとらわれ巻き込まれてサティが入らなくなるからです。執着がある限り、その妄想は手放せず、巻き込まれて弄ばれてしまいます。だから、一時的に、今だけは、この世のことはどうでもよい、と潔く捨ててしまうのです。本気でこの世を捨てることなど、在家の私たちにはできません。でも今は、想いの世界だけですが、この世を捨てる覚悟をしてみるのです。その覚悟に比例して、妄想は激減するはずです。それが、今の一瞬一瞬に全てを懸けるということです。すると、きれいにサティが入り始めるでしょう。しょせん私たちには、一日に短い時間しか修行できないのですから、その束の間だけこうして腹をくくってみると良い瞑想ができます。


Fさん:瞑想をしていてもネガティブな方に心が向いていくことを止められず、結局瞑想もできなくなります。そこで他のことをして気をそらそうとするのですが、やはりうまくいきません。そのような状態の時には、どのように瞑想すればいいのでしょうか。
  状態が悪い時は、瞑想をやらない方がいいのでしょうか?

アドバイス:
  まず、歩く瞑想や坐る瞑想の最中だけが瞑想ではなく、瞑想が正しくできるように諸々の条件を整えていくことが瞑想の一部であると考えてください。
  あなたの場合、ネガティブな妄想に囚われて瞑想ができなくなり、気をそらそうとしてもうまくいかない状態ですね。ということは、気分転換やストレス解消のテクニックではダメだということですから、そのネガティブな問題にきちんと自分なりの解答を与えないと先には進めないし、瞑想状態に入ることもできないと考えるべきです。
  ネガティブな何に心が傾いていくのか、まずそれを整理してください。思考モードで構いませんから、その問題にどう対処すべきかを徹底的に考察し方向性を見つけます。もしうまくいかなければ、信頼できる人に相談します。自分とは異なる視座や発想やさまざまなヒントが得られるでしょう。自分よりも優れた智慧者と話すのが理想的です。
  もしそのような適当な人がいなかったら、ジャーナリングのように、思いつくことを手当たりしだい書き出すやり方も良いでしょう。頭の中だけで考えるのと、文字に書き起こすのとでは大きな違いです。
  きちんと紙の上に問題を書き出して、内観などの確立された技法で発想の転換を試みるのも効果的です。例えば、①恩恵を受けたこと、②自分がしてあげたこと、③自分がかけた迷惑や自分の落ち度や問題点に着目する、のが内観ですが、こうした自己中心的な発想を転換するためのきちんとした思考法に則って整理していくことが大事です。
  問題にきちんと向き合えば、仮に明確な対応策に至らなくても、今の自分にできることはここまで・・とやるべきことが整理されます。すると、同じ問題が堂々めぐりして、どうしても心が囚われてしまっていた状態に終止符が打たれます。
  ここまで来ると、瞑想ができる状態といっていいでしょう。サティを入れ、思考モードを徹底的に離れていくと、考察の次元では決して浮かばなかった智慧の閃きが得られたりします。
  以上のような営みはオーソドックスな瞑想とは言えませんが、「心の全体的成長」と言われるヴィパッサナー瞑想の一環と見なしてよいし、広義の瞑想になります。
  状態が悪い時は瞑想をやらない方がいいか、という問題も考えておきましょう。
  基本的に、コンディションの悪い時間帯に瞑想をするのはお勧めできません。瞑想する時間が自由に決められるのであれば、体調が良い時や心が整っているタイミングを狙って修行した方がよいのは言うまでもありません。瞑想は体調しだいです。瞑想を開始した瞬間にはすでに勝負がついているとも言えるほど、良い瞑想をするためには、その全ての条件を整えていかないとならないのです。
  とはいうものの、毎日仕事をし、諸々の人間関係を持ち、家庭があるのですから、こちらの望む通り、ベストコンディションの時間帯に悠々と瞑想ができる人は少ないでしょう。頭がスッキリ、体調も抜群、さあ、瞑想しよう・・と思っても、子供がビービー泣いていたり、「早く〇〇やってよ!」と奥さんに怒鳴られたりして、思い通りに静かに瞑想などできないのではないでしょうか。
  致し方ありません。それが在家の宿命です。やっと瞑想する時間が到来した時には、血糖値が下がって冴えなかったり、疲れて眠気に襲われたり、茶の間から聞こえてきたニュース番組の一言が心に刺さって妄想が多発するのを抑えがたくなったり・・等々。状態が悪い時にしか瞑想できない悲しさです。
  それでも毎日最低10分間以上は瞑想をすると決めたのですから、やるしかありません。サティが入らず、脱線するたびに戻して、眠気に襲われるたびに再び「眠気」とサティを入れて悪戦苦闘する。こんな瞑想でよいのか・・と疑が生じてくるでしょう。大丈夫です。それが修行というものです。ボロボロになりながら、負け戦をなんとか立て直そうと奮闘努力している時に力がついてくるのが練習というものです。
  スイスイ、スラスラできる練習はあまり効果がないかもしれません。できないことができるようになっていくのが練習であり、修行なのです。崩れながらも頑張って気づこうと努力している限り、立派な瞑想であり修行と考えてください。闘う気力が失せ、思いっきり眠気を貪っていたり、妄想に耽ってしまえば、それは修行とは呼べなくなるでしょう。でも、現場はボロボロでも、精進している限り必ず良い結果につながっていきます。
  一方、それとは対照的に、瞑想が深まり、心が澄み切って、サティの切れ味も鋭く、禅定感がいや増していく・・。こういう修行現場は素晴らしいですね。良い瞑想ができる条件をできるだけ揃えて臨んだ方が瞑想が進むのはもちろんです。そのためにエクササイズやヨーガをしてから瞑想を始めるのもよいでしょう。瞑想のために栄養バランスのよい食材を選び、過食しないよう細心の注意を払って腹7分目、6分目に抑えることも大事でしょう。ヤル気を高めるために「ダンマパダ(真理のことば・感興のことば)」の傍線を引いたページを再読し、感動を新たにするのも賢明な瞑想技術と言ってよいでしょう。
  まとめますと、時間が許すなら、状態の悪い時に瞑想するのは避ける。良い瞑想ができるための条件作りをする。やむを得ず、状態の悪い時にしか瞑想できないのであれば、果敢にチャレンジする精神さえあれば立派な瞑想になると心得る・・。以上です。 (文責:編集部)





修行上の質問 実践編(8)        -サマーディの周辺-


Aさん:歩行瞑想の時に集中ができ、結構楽しいなと感じました。人が多くて邪魔になるかと思い外に出ようとしましたが、「この感じが多分消えてしまうだろう。行きたくない」と心に浮かび、「欲」というラベリングでサティが入りました。そうしたら、「欲をなくしに来ているのに何をやっているのだ」と浮かび、「じゃ外に出よう」とした時、「これはレポートするのに良い材料が出来たな」と思ったので「慢」とラベリングを入れました。このような感じでやっていってよろしいのでしょうか。

アドバイス:

  外へ出て行くまで同じような密度でサティが入っていれば何も問題はありません。
  基本的には、非常に集中が高まってきた時にはその状態で頑張った方が良いでしょう。サマーディは最初に立ち上がるまでがとても大変で、しかもたいそう壊れやすいものなのです。喜んだり期待したり、複雑なことをやるとせっかくのサマーディ感覚が立ち消えになり雲散霧消しがちです。
  楽しいという感じは、サマーディの構成因子であるピーティ()のはずです。うまく集中できてだんだん楽しくなってきたら、セオリー通りの展開でサマーディが高まってきているので、静かにその場に留まって頑張る方が良いでしょう。
  いろいろな思考が浮かぶ状態は集中が破れていく傾向なので、中心対象の感覚に集中を深めていく方がサマーディ確立に有利なはずです。しかしあなたの場合は、「欲」とサティ入れたり「慢」とラベリングしたりとてもうまくやれているので、心随観のセンスがあるのではないかと感じました。素晴らしいです。


Bさん:内観中、足が畳にくっついて離れなくなったことが何度もあります。これは一種のサマーディでしょうか。


アドバイス:
  足が畳にくっついて離れなくなったのは集中が深まっていたことを物語っていますが、それだけでサマーディと言えるかどうかは微妙です。
  内観の現場でサマーディが起きるとしたら、そうですね、内観は過去の記憶の想起が中心的タスクですから、思い出される記憶の内容が単なる回想モードではなく、リアル感がいや増す方向に絞り上げられていくべきですね。昔のことを思い出すレベルを超越し、タイムマシンで過去のその世界に戻ったような、鮮明で生々しい現実感覚が伴うようであれば、サマーディ状態が理想的に内観に適応されていると言ってよいでしょう。 
  足がくっついて離れなくなったのは、身体感覚が日常レベルとは異なって意のままにならない状態ですから、サマーディとは言えなくても、通常より集中がよくなっていたのは確かなことでしょう。もちろん足が痺れて動かなくなっていたのでなければですが・・。(笑)
  集中が深まっている状態の時に、動作の前にインテンションを入れないと固まるようになる事例はけっこう多いですね。


Cさん:サティを細かく入れると集中が高まらないような気がします。それでもサティはなるべく細かく入れた方が良いのでしょうか。

アドバイス:

  それは、その時の自分の状態にもよるし、瞑想をどの方向に進めていきたいかにもよります。サティとサマーディには拮抗し合う関係がありますので、今はどちらのファクターを成長させるべきかによって瞑想の展開が変わるということです。
  あなたの仰るように、サティを細かく入れすぎると、サティは強化されるが、集中を破る傾向があります。もしサマーディが自然に高まっていく流れにあり、集中を高めるべきだと判断された時には、意識的にサティを弱めた方がよいのです。なんとしても集中を高めたいのであれば、サティを一時的に中断し、時間を区切ってサマタ瞑想に切り換えるやり方もしばしば行なわれます。
  反対に、サティを成長させ強化したいのであれば、どんなものも必ず対象化し客観視すると断固たる決意をすれば当然そのようになっていきます。
  集中も弱くサティも甘くて不安定な時には、どちらに注力すべきか悩ましいでしょう。何のために瞑想をするのか。今の自分に必要なのは、気づきなのかサマーディの定力なのか。その瞬間の瞑想をどの方向に進めたいのか自覚的であるべきです。なんとなく場当たり的に瞑想をしていると、迷いが生じてきます。
  総じて、集中を高めるよりもサティを成長させた方がメリットが大きいでしょう。瞑想時間が限定されている在家の瞑想者はサティ中心になるのが一般的です。しかし瞑想修行としては、サマーディが高まらないとレベルの高い瞑想になりませんので、どちらに歩を進めるべきかは当人の判断に委ねるしかありません。
  そもそもこうした問題が発生しないように、古来から「戒→定→慧」の修行の流れが定められていたとも言えます。理想的な順番は、サマーディの修行をして集中力を完成させてからサティの修行に入る流れです。私流の言い方をすれば①反応系の修行(戒&善行)→②集中力の特訓(定力=サマーディ)→③洞察智の修行(サティ)ということになります。しかしこれはプロの世界のことであり、素人が俗世のベターライフのために瞑想する場合には②のサマーディの修行は後回しにならざるを得ないだろうということです。
  定力のない人が意図的にサマーディを高めようとしてもなかなか上手くいかないことが多いものです。原則としてサティを中心に瞑想し、たまさか自然発生的に集中が高まった時には、その自然な流れに乗ってサティよりもサマーディを狙うというスタンスもよいかもしれません。
  サマーディ重視の時に気をつけるべきことは、集中がよくなり心がシーンとなってくると惛沈睡眠に酷似してくることがあります。睡魔に襲われてトローンとなるのと紙一重の一面があることも心得ておきましょう。またサマーディ感覚が高まると脳内ホルモンの働きでうっとりとなり、気持ちよく現実逃避感覚を楽しんでしまうこともあります。さらに、サマーディが完成に近づいてくると強烈な快感ホルモン故にサマタ瞑想にハマり込みヴィパッサナー瞑想に戻りたくなくなる人も少なくありません。これも心すべきです。
  各人各様常に心身の状態は違いますし、同じ人であっても栄養状態とか抱えている問題によってコンディションはたえず揺れ動いているものです。その時々に応じたやり方を自分で調整しながらセルフインストラクションできるようになるためには、基本的な知識を取り入れるとともに経験的に体得する必要があります。


Dさん:集中がよくなり妄想のチラつきが取れてきたところでサマーディ状態を経験し、恐ろしくなりました。そうしたら、継続したい気持ちと恐怖心の葛藤が生じて集中を維持できませんでした。

アドバイス:

  惜しいことをしましたね。多くの人にとって、サマーディ状態は得がたい体験ですから、そのチャンスが到来した時には完成形に持ち込むように頑張った方がよいでしょう。
  サマーディは変性意識状態と呼ばれるように、日常意識とは異なるモードに入っていくので突然その状態に切り換わると恐怖感を覚える人も少なくありません。しかしそこがサティの瞑想の正念場です。サティというものは、妄想を離れて現実の瞬間に戻ってくる修行です。何も考えない完全な無思考状態で恐怖感が生じることはない、と心得ておいてください。目の前の現実の出来事から心にさまざまな想いが駆け巡ってきます。その思考のプロセスで怒りも恐怖も喜びも・・あらゆる情動が起きてくるのです。つまりセオリー通りサティが入って妄想が止まれば、どんな恐怖もパニックも立ち消えになるということです。
  何が起きても、どんな状態になっても、サティさえ入れば大丈夫、と心に叩き込んでいただきたいのです。怖くなってきたら「不安」「恐怖」とサティを入れます。きちんとサティが入りさえすれば、その状態は必ず雲散霧消していきます。不安な、恐ろしい状態が対象化され見送られてしまうからです。サティが入った瞬間、その状態にのめり込んでいないからです。
  しかしラベリングをしてもこの対象化が完全にできていないと、恐怖感は多少弱まりはしますが、結果的にあまり変わらないでしょう。するとますます焦るかもしれません。そうしたら、その焦っている状態に「焦っている」「恐怖感が続いている」「(サティを入れても恐怖が止まらないんだ)と思った」・・と、どこまでも次の瞬間の状態を対象化しようと、サティを入れ続ける「無限後退」をしていきます。たとえ効果のないラベリングでも、ラベリングできたということは対象化や客観視のファクターがあるのです。100%呑み込まれてしまって髪の毛が逆立つような状態とは違うのです。どんな状態になっても、次の瞬間の心がその状態を対象化するという原則が機能すれば、その情動から脱することができるしパニック状態も止まります。
  「サティが入れば、絶対に大丈夫!」という確信を持っていただきたいのです。これが身について成功体験を重ねると、人生を生きていく上での最強の武器になっていくでしょう。心が落ち着く。冷静さを取り戻す。その時が最も賢明な正しい判断や意志決定ができるものです。


Eさん:どのようになった時にサマーディと言われるのでしょうか。

アドバイス:

  集中の良い状態が極まっていくのがサマーディです。周囲の人も物音も気にならなくなり、頭や手や上半身など中心対象以外の身体感覚も意識されなくなります。足の歩行感覚やお腹に注意が絞り込まれ、自然に集中していきます。センセーションが非常にクリアーになり、努力感なしに安定してサティが入っていくのです。今まで感じたことのない鮮明さで中心対象が知覚されるので、思わず興味が惹かれて魅せられていく人も少なくありません。
  サマーディが高まってくると、対象への集中度、意識の明晰さ、知覚の透明感が印象的です。瞑想を意識的に展開させている印象が乏しくなり、無努力感が極まってくると完全に自動化して、コントロール不能性に陥るでしょう。固まるというか、没入感と合一感がピークに達してくるということです。
  この状態は、サマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想に共通する集中の完成ですが、ヴィパッサナー瞑想では、この状態にさらにサティというファクターが連動するのが特徴です。対象と合一し融け合ってしまうほど集中が極まっている状態に加えて、現在の瞬間の事実に気づく仕事が連動するのです。猛烈なスピードで生滅する事象のひとつ一つに対して、ブツブツにサティが入り続ける「瞬間定」と呼ばれる状態です。ヴィパッサナー瞑想者としては、この瞬間定を目指していくのが正道です。


Fさん:サマーディの状態になった時に注意すべき点を説明して下さい。

アドバイス:
  サマーディが未完成の時には、さらに集中を高めて安定した状態を確立するのがよいでしょう。サマーディが壊れない状態になれば、集中を高める努力は不要になるので、そこから意図的にサティを強化していくことが大事です。ヴィパッサナー瞑想の正しいサマーディは「瞬間定」だと心に刻んでおいてください。これを忘れてサマーディ状態になると、多くの人が快感ホルモンの気持ちよさにサマーディを楽しんでしまう傾向があります。
  崇高なものや美しい対象と合一するサマタ瞑想の方が楽しいし、面白いと感じられるのが普通です。ヴィパッサナー瞑想は、苦(ドゥッカ)を徹底的に見ていく瞑想です。しかも他人や世の中の苦の状態を観察するのではなく、自分自身の苦しみの原因である不善心の状態をありのままに直視していかなければなりません。多くの人が、ヴィパッサナー瞑想を続けていくのが苦しくなる一因はここにあります。サマタ瞑想のサマーディは、エクスタシーとも言える強い快感に惹き込まれる要素がありますから何度でも繰り返したくなる誘惑に駆られるのです。瞑想の心地よさを楽しんでも、人生の苦しみから根本的に解放される道は開かれてはこないのです。何のための瞑想修行か・・が問われます。
  「気持がよい」と感じたら「快感」とサティを入れ、それが生理的なものなのかメンタルなものなのか仕分けられるように観察眼を働かせてみるとよいでしょう。ダンマの知識があれば、メンタルな気持ちよさはサマーディの構成因子である「喜(ピーティ)」と判断されて「喜」とサティを入れることもできます。
  この「喜」の状態にサティを入れるタイミングが微妙なのです。繭玉の中の快感や蜜の味の蛸壺感覚に溺れ込まないと決心し、ヴィパッサナー瞑想をやり抜く覚悟が定まっていても、「喜(ピーティ)」が十分に成長しないうちにサティを入れて対象化してしまうと立ち上がってきたサマーディ感覚そのものがしぼんで元の木阿弥になることも多々あります。サマーディを安定させる努力とヴィパッサナー瞑想を貫こうとする努力は拮抗し合うので、ここが一番気をつけるポイントでしょう。
  ヴィパッサナー瞑想を維持しながらサマーディが成立すれば、サティが自動化して無努力で、どんな対象にもサティが勝手に入っていくようになります。サティの瞑想をやりながら自然に集中が高まってきた時には、力の配分として、サティをやや弱めてサマーディが安定するように集中をたかめるほうがよいでしょうね。
  私の場合も日によっては集中が悪い時もありますから、時間を区切って意図的にサマタ瞑想をやる、と決めて集中をかけることをよくやりました。サマーディ感覚が高まってくると「ニミッタ()」と呼ばれる視覚像やヴィジョンが出てくることがよくあります。この時そのニミッタにサティを入れてすぐに消してしまわず、その鮮明度や明るさや輝度をさらに高める方向に注力してサマーディの確立をうながすようなことをしましたね。サマーディが安定してきたら、再びサティを連動させてオーソドックスなヴィパッサナー瞑想を展開させるという具合にです。このあたりの展開は、一回一回の瞑想が微妙に異なるので失敗を重ねながら経験的に体得していくことになるでしょう。
  こんな事例もありました。長年に渡って寝る前にサマタ系の瞑想をやっていた方がいました。眠気が来た時点で瞑想を打ち切り、就寝するというパターンです。その方がヴィパッサナー瞑想を覚えて、いつも通り寝る前にサティの瞑想を始めました。するといつものパターンが崩れてしまって「眠れなくなった」というレポートです。眠くなってきた時に「眠気」とサティ入れたために、眠気が対象化されて消えてしまい、頭が冴えてきて眠れなくなったらしいのです。
  サティの特徴がよく現れていますね。サマタ瞑想のサマーディは心がシーンと静まり返って、昏沈睡眠と紙一重の際どさがあります。順調にサマーディ感覚が高まってきたのに、スルリと昏沈睡眠に移行してしまうことも珍しくないのです。サマーディに入っていましたとレポートされる方に、厳しく突っ込みを入れると「ひょっとしたら寝ていたのかもしれません・・」などと言うのです。
  サマーディという因子は、散乱する心を鎮めて、微動だにしない対象と融け合っていくような静けさの極みなのですが、意識活動が抑えられ停滞し静かに睡眠に移行する状態と酷似する一面があるということです。
  しかるにサティというのは、現実感覚に鋭く目覚めさせていくのが特徴ですから、これがうまく機能すると眠気が消えてしまうだろうし、高まってきたサマーディもかき消されてしまうことがあるということです。
  また、よく報告される事例としては、トローンとした気持ちのいい状態になってサティそのものが完全に失われれば、さすがに自分でもわかります。しかしそのような状態でも「膨らみ・縮み」「膨らみ・縮み」とラベリングが頭の中でメトロノームのように繰り返されていることが多いのです。『ラベリングしているのだからサティは続いているはずだ。大丈夫だろう・・」と現実のセンセーションに対してではなく、脳内にイメージされている腹部感覚に対して「膨らみ・縮み」とラベリングしているのです。
  これは厄介な事態です。光がキラキラしていたり綺麗なヴィジョンが出現したり、明らかにニミッタと分かれば、サマタ瞑想になっている自覚が生じますが、ニミッタの内容が「膨らみ・縮み」では当人に気づきづらいのです。これが、ヴィパッサナー瞑想がいつの間にかサマタ瞑想に陥っていく典型的なケースです。
  肝に銘じていただきたいのは、ヴィパッサナー瞑想が正しく実践されているか否かは、現実感覚の有無が目安だということです。怪しいと感じたら、現実の音に耳を澄ませてみたり、身体感覚の生々しさを確かめてみたりして「現在の瞬間の事実に気づく」というサティの鉄則が守られているかを確かめてみるとよいでしょう。
  話し始めるとキリがないのですが、最後に、サマーディを高めようと頑張り過ぎると上手くいかないことが多いということです。サマーディが完成するのは、成立するだけの全ての条件が自然に整った結果なのです。意識的にサマーディを狙っても、そうなるだけの流れになっていなければ良い結果にはなりません。欲が邪魔してしまうのです。がつがつサマーディを狙う、という点にそもそも問題があります。自然に来るものは来るし、来ないものは来ない、と心得て、淡々とその時の展開に身を任せ、何が起きてもそのように、ただあるがままに気づいていくだけ・・という覚悟が定まっている時の方が成功するでしょう。(文責:編集部)


修行上の質問 実践編(9)        -初心の方へ-

<ヴィパッサナー瞑想の基本>

Aさん:
  一点に集中しようとしても外からの情報に注意が行ってしまいますが、どちらに焦点を合わせたら良いのでしょうか。また、歩きの瞑想と坐りの瞑想のバランスはどう取れば良いのでしょうか。

アドバイス:
  グリーンヒルで指導しているヴィパッサナー瞑想は、ミャンマーのマハーシ・サヤドウが世界的に広めた方法に基づいています。ヴィパッサナー瞑想の原則はどこも同じですが、瞑想の具体的なやり方は寺や指導者によってさまざまです。サティの瞑想の基本をマスターするのに、マハーシ・システムはとてもよくできているので、初心者にはイチ押しです。
  瞑想の現場では、修行が進めばそのつどやり方も調整していきます。例えば、中心対象を定めず意識に触れたものは全てサティを入れていくやり方などもあります。あなたの最初の質問は中心対象についてですが、これは集中力をどう訓練するかの問題になるでしょう。
  「戒→定→慧」のセオリーどおりに修行できれば理想的ですが、在家の瞑想者には、特に「定(サマーディ)」の修行を完成させるのは容易ではありません。出家に比べて圧倒的に時間が足りないからです。しかし在家の私たちは解脱するためではなく、人生の苦しみを無くしてベターライフのために瞑想する方がほとんどです。だから集中力の完成は犠牲にして、いきなりサティの瞑想から始めるのです。究極の解脱には至らなくても、一瞬一瞬マインドフルに気づいて、自己客観視するメリットが絶大だからです。人生の苦しみがゼロにはならなくても、大幅に軽減されれば良いというのが在家のスタンスです。

*中心対象を定める意味
  しかしそんな在家の修行でも、集中力の乏しい瞑想よりも、集中力の伴ったサティの方が圧倒的に優れています。集中力は、無いより、在った方が良いのです。そこで中心対象を定めたサティの瞑想が、一石二鳥のやり方として推奨されます。
  ヴィパッサナー瞑想を進めるのに最も大事なファクターは、「サティ」と「サマーディ」です。「気づき」と「集中力」が車の両輪なのです。中心対象を定めず、心に触れたものはどんなものも必ず気づいて対象化していくと、当然気づく力が成長し「サティ」が強化されます。集中力は、心を一点に据え付ける力です。心に音や妄想やいろいろな感覚が押し寄せてきても、それに捉われず、中心対象の一点に注意を徹底して向け続けるのです。
  どんなものにも無差別平等に気づく力と、一点に強力に絞り込む力を同時に養うのは難しいので、仕事を2つに分けて訓練するのがオーソドックスなのです。集中力のみに特化して徹底的に修行する瞑想を「サマタ瞑想」と言います。このサマタ瞑想を完成させるのが「定(サマーディ)」の修行だと先ほど説明しました。本格的に解脱を目指すなら、何年かかろうが「定」→「慧」の順番で修行しなければなりません。初心者がサティとサマーディの一石二鳥を狙うのですから限界はありますが、それでも中心対象を定めてサティの瞑想を練習すると、集中力が養われていくのです。

*中心対象以外へのサティ
  あなたの質問を言い換えると、「一点に集中しようとするが、外乱に注意がそらされてしまう。飽くまでも中心対象の足やお腹の感覚に集中すべきか。それとも、中心対象以外の音や妄想に集中してもよいのか。どちらに焦点を合わせるべきか」ということですね。これは、ヴィパッサナー瞑想を始めた瞑想者が必ずぶつかる問題です。私も当初この問題に悩んだのですが、明確な説明をされる指導僧に出会えなかったので、私の経験から「5050の法則」を目安にして教えることにしたのです。
  私の場合、どんな微弱な思考やイメージにも立ち止まって厳密にサティを入れていたら、部屋の向こう側にたどり着けなくなってしまい、文字通り立ち往生になりました。どうすべきかは瞑想理論によって異なりますが、初心者は中心対象のお腹や足の感覚に集中した方がよいでしょう。
  そもそも集中力が不安定なので、音や妄想などの外乱に飛びついてしまうのです。あちこちキョロキョロしていたのでは、肝心なものを詳細に観察できないし、しっかり観察しなければ洞察の智慧が閃くこともありません。心がいくら飛んでも、中心の一点に、一点に、とどこまでも注意を注ぎ続ける努力が集中力を養います。一つのことをやり遂げる粘り強さが育つという報告もあります。中心対象以外の外乱が気になっても、印象の度合いが半々を超えるまでは無視した方がよいのです。微弱なものにはラベリングも何もせず、ひたすら足やお腹のセンセーションに集中するのです。こうして、集中力を養う修行と気づく修行が同時に練習できるという訳です。中心対象も感じているが、音や妄想もかなりはっきりしている。例えば4951ぐらいに感じられ大差がない。あるいは、どちらの印象が強いのか迷ってしまう。そんな時は、中心対象に戻すと決めておけばよいでしょう。

*原則に従い、臨機応変に
  まだ未熟な初心者のタスクは2つあります。

  ①考えごとは全てクズと心得て、サティをできるだけ持続させること。脱線したら、サティが途切れたことにできるだけ早く気づいて、サティのモードに戻ること。
  ②集中力を高めていくこと。

  ①②が安定してきたら、心の随観や中心対象以外の観察も重視するやり方に切り換えます。もちろん身の随観をさらに深めていく人たちもいます。この辺は、その人のタイプにもよるし、心の浄化の度合いにも拠ります。
  集中力は才能だけではなく、その時の体調に左右されるし、ストレスや心配事などの条件によって毎回微妙に異なるものです。どうしても中心対象に集中できない日があっても、自分にダメ出しをする必要はありません。あるがままを観るのが第一義の瞑想ですから、その瞬間の心の状態に応じて、無理に中心対象回帰にこだわらなくてもよい場合もあります。その時の瞑想に限り、どんな音に反応し、どんな妄想や連想が展開するのかをしっかり観察すればよいと気持ちを切り換えて、思考モードにだけは陥らないように心がければよいでしょう。そんな日もあるのです。
  手本どおり、マニュアルどおりやらなければ、とかたくなにこだわり過ぎれば、ヴィパッサナー瞑想の本義から外れていくので臨機応変に対応します。理念に忠実であろうとし過ぎる傾向の方は、「実存は本質に先立つ」という言葉を思い出すとよいかもしれません。ヴィパッサナー瞑想では、今この瞬間に生起している現実をありのままに観ることが大事です。
  しかしその時は臨機応変にたまたま上手くいっても、翌日はまた中心対象に集中する基本的なやり方をするのが原則です。自己流で上手くいった場合、少なからぬ人たちがそれに固執してしまいます。修行を始めた頃の私にも、その傾向が少しありました。すると膨大な時間を費やして回り道をすることになります。凡夫の試行錯誤など、先人の英知の伝統には及びもつかないのです。瞑想に限らず、どの道でも、初心者は型に従って修行し、「我」を弱めるのが先決です。ヴィパッサナーはエゴを無くしていくための瞑想ですから、エゴが喜ぶやり方を場当たり的にやっていては必ず躓くし、頭打ちになるでしょう。

*座るよりも歩く・・・
  2番目の質問は、歩く瞑想と坐る瞑想のバランスをどう取ればよいのか、ということですね。結論から申しますと、初心者は歩きの瞑想を中心に行なってください。感覚の取り方もラベリングの仕方も、サティの基本をマスターするのに歩きの瞑想が最適です。足の感覚は身体の他の感覚に比べてはっきりと感じられるし、ステップが明確なので「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」とラベリングの練習もやりやすいのです。
  他の瞑想法を修行してきた方の中には、座禅に慣れているので、歩きの瞑想を軽視して始めから坐りの瞑想だけをやりたがる人もいます。しかし、歩く瞑想が正確にマスターできなければ、その先はありません。歩く瞑想がいい加減だとしたら、それはサティの基本が曖昧でよくわかっていないことを意味します。残念なことですが、ヴィパッサナー瞑想がよくわからないまま、あるいは勘違いしたまま続けている人は少なくないのです。

*基本の習得
  では、サティの基本を覚えたというのはどのような状態を指しているのでしょうか。
  まず、考えごと瞑想に陥らないことが第一です。思考が入ったら、必ず「思考」「考えた」「妄想」とラベリングして、見送れるか。そのまま考えごとモードに入ってしまわず、思考が現れた事実を対象化できるか、ということです。
  第二は、経験する瞬間と気づく瞬間がきれいに仕分けられ、現象→確認、現象→確認、とサティが続くことです。具体的には、「離れた」「進んだ」「着いた」「圧」の感覚に対して、正確なタイミングでラベリング出来ている状態です。集中力が弱ければ、中心対象から外れて、音や妄想に反応してしまうでしょう。しかし、サティの基本が安定していれば、どんな対象や出来事も必ず気づくことができるし、見送れるのです。仮にサティが入らず思考モードに陥ったり、情動に捉われても、セオリー通りその状態に気づいて「考えた」「妄想」あるいは「ム
ッとした」「嫌悪感」と対象化して、原状回帰できるでしょう。

  この2つの仕事ができていれば、サティの基本がよくわかっている、と言えます。基本をマスターするのに、歩きの瞑想がいちばん重要ですから、修行の配分は歩きの瞑想を中心にしてください。集中力もないし修行時間も少ない方で、歩きの瞑想しかやっていないという人も珍しくありません。しかし、サティの基本が身に付いたら、体調もよく頭脳明晰な時に、座る瞑想もやってください。瞑想自体が繊細に、ディープに、深まっていく感覚は、やはり歩く瞑想よりも座る瞑想が一枚上と言えるでしょう。

*サティと慈悲
  どんなに忙しくても毎日最低10分以上は瞑想のための時間を確保しましょう。初心者は、歩く瞑想の配分を多くしてください。何事か新しいものを体得するのに一日10分間はあまりにも短いのですが、20余年瞑想を教えてきた経験から、これでも心は成長していくものです。
  瞑想の大前提である五戒を守れば、きれいな生き方ができます。良い瞑想をしようとすると、体調を整えて摂生し、健康管理を心がけることにもなります。瞑想は生活全体に繋がっていくので、技術的な習練時間は短くても、人生のクオリティが向上していくのです。
  また、サティの瞑想の極意は、あらゆるものを公平に、等価に眺める「捨(ウペッカー)」の心が機能するか否かです。まず始めに慈悲の瞑想をしてからサティの瞑想を開始すると、一時的に「捨」の心が強化されるので、サティの瞑想に有効です。多くの方が、サティの瞑想の前と後に慈悲の瞑想をおやりになっています。

 純粋にサティの瞑想をする時間が10分程度であっても、通勤時や、日に何度かトイレに行く往復の時だけは会社でもサティを入れると決めると、案外修行ができるものです。ダメ元でやってみてください。

 どんな練習も上手くいかないからやるものです。眠気と妄想ばかりで、ちっとも良い瞑想ができない・・と嘆かないでください。空振りや凡ミスを繰り返しながら上達していくのは、どの分野でも同じです。

 

Bさん:

 細かなものにまでサティを入れるようにすると歩行瞑想が楽しくなりました。 

 

アドバイス:

 微細な身体感覚にまでサティが入るということは、集中力が伴ったサティの証しとも言えます。サティに専念できれば、余計な情報に心が惑わされず、中心対象へ注意が注がれ続けます。するとセンセーションが細かく観察できるようになるので、当然楽しくなってくるのです。本来のやるべき仕事が上手く展開している時に生じてくる喜びを「ピーティー()」と言います。もしこの喜が生じているのなら、舞い上がらずに「喜んでいる」「(楽しい)と思った」とサティを入れましょう。

 多くの方が「喜」にサティが入らず、執着してしまった結果、元の木阿弥に陥ることを心に留めておいてください。

 こう言われると、「喜」が生じるや否やすぐにサティを入れて見送ってしまい、セットで集中力の高まりも消えてしまったというレポートもあります。この辺がヴィパッサナー瞑想の難しいところです。乱心・乱想状態からやっと集中が高まり、「喜」が生じてきた場合、その状態が安定するまで持続した方が良い場合もあるのです。やり過ぎたり、足りなかったり、失敗しながら一つひとつ体得していくのが瞑想です。失敗してよいのです。小さなミスや失敗を正していく過程で、正確なやり方が覚えられるのです。

Cさん:
  歩きの瞑想の時、手を動かすなどの動作を入れてもよいでしょうか。

アドバイス:
  あまりやらない方がよいでしょう。歩く瞑想の最中は、全ての注意を一足一足の歩行感覚に注ぐべきです。もし本当に足に集中できたなら、下半身や上半身の感覚が消えてしまい、宇宙空間に「離れた」「進んだ」「着いた」のセンセーションの生滅以外何も存在しないかのような感じにまでなります。サマーディの伴った歩く瞑想は、そんな風に一点集中が極まっていくのです。
  中心対象を設定し、集中力を養いながら身随観を修行している時は、歩行感覚に集中すべきであって、手も動かして感覚を感じたりするのはよろしくないということになります。

Dさん:
  歩行瞑想中に大きなクシャミが聞こえ、「音」「驚き」「驚いた感覚が体中に拡散」とサティが連続して入りました。ところが上手くできた自分に対し「オレもなかなかやるなぁ」とか、「これをレポートしよう」という思いが浮かび、その有頂天になった気持ちにはサティが入りませんでした。

アドバイス:
  よいレポートですね。「驚いた感覚が体中に拡散」などのラベリングには感心します。その瞬間のあなたの経験の実質が目に浮かぶように伝わってきます。素晴らしい。
  しかし、小気味のよいサティが入った感動には失敗した訳ですね。でも、これは失敗したことに意味があるのです。ご存知のように、ヴィパッサナー瞑想は心の清浄道です。煩悩や不善心所で汚れた心に気づいて、しっかり自覚しながら手放していく。乗り超えていく。だんだん再現されなくなっていく。生活全般で総力戦を展開しながら、貪りや怒りや高慢などの煩悩を駆逐していくのが本来のヴィパッサナー瞑想です。

*心随観
  有頂天になった心にサティが入らなかったのは、反射的に掴んでしまったからです。執着しているものには思わずのめり込んでしまうので、対象化できずサティが入らない法則です。何に執着し、こだわり、強く反応してしまうかは人さまざまで、怒りタイプもいれば貪りタイプもいるし千差万別です。
  あなたの今回の修行現場で露わになったのは、何だったのでしょうか。自惚れや、承認欲求や、エゴ感覚ですね。これは「慢」と呼ばれる煩悩に分類され、聖者の第三段階「不還果」になっても残ると言われます。根の深い煩悩なので、簡単に無くすことはできません。しかし瞑想の修行現場で、自分にとっての修行ポイントが鮮やかに浮かび上がったのです。己の不善心所の存在に気づかされた瞬間であり、何より素晴らしいのは、心に刻み込まれる体験として理解したことです。思考や考察で気づいたものはすぐに忘れてしまいます。考えごとというものには、人間を変える力はほとんどありません。怒らないようにしよう、などといくら思っても、相変わらず怒ってしまうのです。怒りが猛毒であることを、生身の体験として思い知らなければ、心に響かないのです。失敗事例のようですが、本当は素晴らしい体験だったのです。
  では、その時どうすればよかったのでしょう。サティの原則どおりやるべきでした。ベストは、「(良いサティが入った)と思った」「感動」など、その直後の状態を対象化できれば申し分ありません。しかしそのサティは入らなかったのだから、次の現象「オレもなかなかやるなぁ」という所感に対して「と思った」、それよりもベターなのは「自惚れ」「慢」でしょうね。「レポートしよう」という思考に対しては、「思考」や「と思った」でもよいでしょうが、「誉められたい」「認められたい」「承認欲求」などのラベリングが入ったら、心随観としては理想的かもしれません。
  セオリー通り、何が起きても、経験されても、次の心が直前の現象を対象化してラベリングするということです。これがなかなか出来ないので、日々修行なのです。サティの瞑想というものは、失敗の現象から多くの学びを得ていくものです。とてもいいレポートでした。

Eさん:
  読書をしたり人の話を聞くなど、集中すると口元に力が入って「へ」の字になり、呼吸も浅くなってしまいます。瞑想中にも、考えごとが浮かぶと同じパターンになって時々口の状態にサティを入れながら確認していますが、それでよいのでしょうか。

アドバイス:
  時々でも、口の状態にサティを入れて確認しているなら、よいと思います。その「時々」が1時間に1回なのか、3回なのか、10回なのか、多ければ多いほどよく気づいていることになります。
  口元が「へ」の字になってるのに気づかないのは、集中したり、緊張したり、夢中になっているからです。それに気づいて、対象化して観るのがヴィパッサナー瞑想なのですが、余暇で楽しむ読書やリラックスした談話ならかなり出来るかもしれません。しかし仕事中にサティを入れようとして撃沈した方は無数におります。できる人は限りなくゼロに近いと思います。サティを入れることしか求められない修行中ならともかく、日常生活の中で集中しつつ客観視もするというのは至難の業です。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想の最終ステージでは、互いに拮抗し合うメンタル・ファクターが合計7つ、見事なバランスで出そろう瞬間が訪れて悟りを開くとも言われます。先ほどから話題に出ていた「サティ」と「サマーディ」の2つのファクターだけでも、セットで同時に機能させるのは容易ではないのです。全身全霊で一点に集中していく仕事と、あらゆるものに等しい距離感を保ち、公平に客観視する仕事を同時に並行させるのです。大変でしょう?

*日常のサティ
  でも、複数のファクターを並行処理するマルチタスク能力は養っていくべきです。断続的に、時々しか気づけないでしょうが、集中しているときでも、ほんの一瞬だけ今の状態を俯瞰してサティを入れることを心がけてください。単純なルーティンワークなら、サティが入る可能性は高まります。昔、会社で伝票をめくっていく感触にサティを入れ続けながら仕事をしている、とレポートされた方がいました。長時間続くプレスの仕事の最中にサティを入れ続けたら、仕事が面白くて感動したと言った方もいます。
  しかし、接客や臨床や頭脳労働の最中のサティは非常に難しく、出来る方はほとんどいないでしょう。概念を操作しながら素早く脳内処理をする仕事の詳細にまでサティを入れるのは、まず無理なのです。
  私の場合は、原稿を書いたり、資料を読んだり、概念モードで情報を扱う仕事が多いので、一瞬一瞬の詳細にまでサティを入れることはできません。できるとしたら、断続的にざっくりしたサティを入れるのが精々ですね。そこで、個人的な課題を与えています。あまり参考にはなりませんが、呼吸を使ってマインドフルネスの維持を心がけているのです。仕事に集中していても、長息の呼吸を忘れないようにするだけです。マインドレスになれば、普通の自然呼吸になってしまいます。
  私は昔から呼吸法をやっていましたので、長息を意識すると、1分間に3往復程度になります。吸うのが3回、吐くのが3回ですが、吐く時間がとても長いのです。これは意識していないと続きません。ラベリングはやらずに、仕事に没頭しながらでも長息を保持できるか、できれば気づきの心は維持されていたと判定するのです。真似しないでください。() 私の個人的な行法にしか過ぎません。
  日常のサティは、在家の瞑想者にはとても難しいものです。瞑想よりも、生活や仕事の方がはるかに大事な価値観で生きることを選んだのが在家です。サティは二の次にされてしまうのもやむを得ません。とは言え、全てを変えるのは、決意(アディッターナ)の力です。たとえ在家でも、この世に咎を見て、命を懸けて日々修行している方も稀には存在します。その方たちの決意の力は半端ではありません。事実上、この世のことよりも修行の方が大事になっている人たちです。これが真の出家です。頭を剃り、衣を着て、寺に止住すれば出家か?そんなことはありません。ただのライフスタイルで比丘をやっている方々にも大勢会ってきました。
  私も、1ヶ月の瞑想リトリートに入ると決めて、フライトを予約したら、途端に日常のサティが入るようになったことがあります。気持ちが引き締まり、決意が新たになったからでしょう。しかし修行の進め方は、各人各様、千差万別です。自分の立ち位置を正確に把握して、そのあるがままの自分を観ていくのがヴィパッサナー瞑想です。


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