月刊サティ!
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~
ラベリング (1) その働きと付け方
<ラベリングの基本>
Aさん:ラベリングと認識の関係について教えてください。
アドバイス:
まずラベリングは対象の中に入らない、情報の中身には入らないというのが大原則です。
「カァカァ」と聞こえたら、「からす」ではなくただ「音」「聞いた」とします。同じように赤でも紫でも色が出てきたなら「色」「見た」あるいは「イメージ」です。
ここからはラベリングの威力の話になります。例えば「からす」とした人と「音」で止まった人はどこが違うかということです。もし「音」で止まれば、その先、スズメのチュンチュンだろうが犬のワンワンだろうが、「音」というラベリングの貼り方をするでしょう。そうすると、認識というのはラベリングの影響を必ず受けるので、自分の貼ったラベリングに沿うような認識になっていきます。つまり、そういう経験なのだ、「音」という経験なのだという見方に変わっていくのです。
このように、現象に対する経験をどのようなラベリングで終了させるか、それがその人の認識の仕方に現れます。つまり、ラベリングの言葉は、その人がどのように現象を認識したかということとイコールだということです。したがって、その付け方によって、気づきの深さや客観視の程度まで解るわけです。
もちろん、ラベリングは正確でなければなりません。認識の仕方をきちんと正しく捉えられるラベリングを使わなければ、心の変化は起きないのです。
例えば、どんな色に対しても「見た」、どんな音に対してもただ「音」「聞いた」であれば、眼、耳に情報が接しただけの話です。このような、個々の対象の中身には入らない形でのラベリングは、すでにあらゆる現象から撤退する方向を向いています。ということは、心もすでにそちらを向いているわけで、これはそのまま欲や怒りを起こさない、煩悩を出さない訓練になるということです。
こうして、言葉選択の方向性は、幸せになる技術という面からもたいへん重要なのです。
対象の中身をいろいろ取捨選択しながら「好き」「嫌い」と反応しているのが世間です。「そういう反応をするな。中身に執着するな。それが幸せになる技術なのだ」ということです。面白い対象が出てこようが嫌いな対象が出てこようが、ただの音の現象、眼の現象という認知の仕方をして心は余裕綽々としている。対象から離れた、要するに無執着の心を作る一瞬一瞬、それがヴィパッサナー瞑想の訓練の現場です。
Bさん:中心対象から外れた時も、その外れたものに必ずラベリングして、行ったり来たりしています。
アドバイス:
妄想が浮かんでそれに行ったり来たりしながらもサティが入っている、そういうことですね。これは、よく気づけていると言う意味では結構なのですが、オーソドックスな瞑想理論からは、集中力を高めていくためにやはり中心対象に帰るようにします。
中心対象が感じられている時でも、他の妄想やら何やら、細かな泡みたいなものは観ようと思えば、いくらでも観えるのです。その泡みたいなものに対して行ったり来たりを繰り返していると、お腹の中心をもっと細かく細分化して生滅まで観ていくような仕事が出来なくなります。ですから、微かにチラチラしているような妄想は無視してください。それに対して、泡のようなものではなく、はっきりとお腹の感覚が消えてポーンと妄想が出た時には、立ち止まってしっかりラベリングを付けるのです。
中心感覚が消えるほど強いものであれば何回ラベリングしても良いし、チラチラ程度のものには手を出さないで中心対象をもっと細かく観るようにします。一点に注意を絞り込み集中力(=サマーディ)を高めていく仕事と気づく仕事(=サティ)を並行して養っている状態と考えてください。ですから、微細なものにまで行ったり来たりは、基本的にはやらない方が良いでしょう。
<ラベリングの重要性>
Cさん:ヴィパッサナー瞑想でラベリングはなぜ重要なのですか。
アドバイス:
ラベリングを付けるのは、気づきという意識状態になっていくために必要かつ有効だからです。そしてもちろん、気づきがなければ妄想に引っ張られて心のコントロールは出来ないと言うことです。
例えば、瞑想中に思考やイメージが出てきたとします。普通にはその時、「これは良くない」とか「もっと集中しよう」などと思うでしょうが、そう思ったところで心が統一されて思考やイメージの動きが止まるわけでもありません。因果関係によって次々に心は展開しますので、やはり妄想に巻き込まれる傾向は避けられないでしょう。つまり、心というものは心の法則に従って独自の展開をしていますので、基本的にコントロールが難しいわけです。自分が心を支配しているようでいて、実は心に振り回されている奴隷状態なのです。
自然にしていれば心と心から生まれる感情に支配されてしまうのが私たちですが、サティという技法を使って一瞬一瞬気づきを打ち込んでゆくと、心が次々とかってに繋がっていくのを断ち切ることができます。サティというシステムの力を使えば心をコントロールすることも出来るのですが、それをきちっと訓練していくためにはどうしてもラベリングによって「妄想」「イメージ」「見ている」と言葉にすることから始めなければなりません。
初心者の方にラベリングなしで歩く瞑想をしてごらんなさいと言うと大抵の方はすぐにサティが続かなくなります。ラベリングの力に頼ってなんとかサティを維持しているのが初心者の現状です。ラベリングの技術があるので、気づけるのです。ラベリングしないで「気づく心」だけを養おうとしても至難の業です。ですから最初はラベリングを丁寧に付けて一瞬一瞬の気づきを持続させることに集中しなければなりません。ラベリングに助けられながら気づく力(=サティ)が育ってくると、やがてラベリングなしのサティも入るようになるでしょう。
「歩く」「座る」などの身体動作はセンセーションがはっきりしているのでラベリングなしでも出来そうです。実際ラベリングしない方が感覚をしっかり感じて集中できるのではないかと言う人もいるのですが、サマーディに偏ってサティが成長しないケースも多いのです。
身随観はまだしも、心の微妙な動きや感情を随観する仕事は、言語による明確な認識確定効果を活用しないと不可能と言ってよいでしょう。さらに申せば、洞察の智慧というものはラベリングの進化(=認識の深まり)とともに養われていくものです。ですから慣れないとラベリングが面倒に感じるでしょうが、正確なラベリングが貼れる能力と智慧の発現は比例すると理解して正確なラベリングを心がけてください。
Dさん:ラベリングはどのように付ければ良いのでしょうか。
アドバイス:
ラベリングは明確に言語で確認します。自己理解を深める、対象を明確に認識し確定するために、はっきりと言葉で断定的に言い切るという形です。
心の現象であれば、これは「怒り」だ、「嫉妬」だというふうに断言すると終了できるのです。
歩行やお腹の感覚の場合は、ラベリングは短めの方が望ましいでしょう。長いと言葉が感覚の展開に追いつかないからです。そうすると、順番待ちのようになって、いつまで経っても現在の瞬間に追いつけなくなります。中心対象に対しては記号的に、例えば膨らむ、縮むを「ふ」「ち」「ふ」「ち」と簡略化して、センセーションを感じることに集中するのも一理あると言えるでしょう。しかし原則として、サティの地力が付いていない初心者は丁寧にラベリングを練習した方がよいのです。
また、ラベリングを外すことと局部的に省略することは違うので気をつけましょう。予定通りのラベリングを必ず付けなければと律儀に考えすぎる方に多いのですが、次の現象が起きてしまっているのに一つ前に戻ってラベリングしようとするのは間違いです。例えば、バランスが崩れて足が床に着いてしまったのに、一つ前の「進んだ」とラベリングしてから慌てて「着いた」とラベリングするような「巻き戻し」をやっていたのではいつまで経っても現在の瞬間を捉えることができなくなります。たとえ「進んだ」のサティが入らなかったとしても次の現象が明確に起きてしまったなら、潔く省略して「(足が)着いた」「(バランスが崩れ)よろめいた」と今の瞬間にサティを入れるのが原則です。
基本的に「経験すること(感じること)」と「ラベリング」の比率は9対1ですから、感じたことを全てラベリングしようとするとラベリングだらけになってしまいます。ラベリングの個数を減らして、一つ一つの現象をよく観る、感じる、経験することが大事です。
Eさん:ラベリングを付けないでもサティを入れられるでしょうか。
アドバイス:
先ほども申したように、サティの地力が付いていない者にはラベリングを付けないでサティを入れられるのは短時間に限られるでしょう。「気づきの心」をラベリングなしで長時間続けるのは大変難しいのです。
また、ラベリングを付けないとサティが入っていた証拠が出せないのです。
私たちの普段の生活は、心が高速で相当スゴいことをしているにもかかわらず、それに気づかないでボーッと生きている状態です。それに対して、ヴィパッサナーの修行が深くなると、心がものすごい速さで生滅し、イメージが次々と転変しているのが分かるし、観えてくるのです。そんな時には高速すぎて一つ一つにラベリングは貼れませんから、自動的にラベリングなしのサティが入っていく状態になります。ラベリングなしで明確な気づきが連続しているのがはっきり観察できているのであればOKです。
しかしそれは、合宿などでかなりトレーニングした結果体験するようなレベルで、普通はなかなかそうはいきません。「ラベリングなしのサティをちゃんとやっていました」と言う人がいますし、また実際そういうこともありますが、自己申告通り本当にできていたかどうかは疑わしい場合が多いですね。そういうわけで、ともかくラベリングが付けられていればサティが入っていた証拠になると言うことです。第三者に対しての証拠にもなるし、自分自身に対してもその瞬間サティの心が存在した証拠になるのです。先ずはきちんと基本が身に付くようにオーソドックスな修行に努めてください。
<ラベリングのポイント>
Fさん:ラベリングを付ける要点を教えてください。
アドバイス:
先にも申しましたように、ラベリングで肝心なのは対象の中に入らないこと、つまり客観視の 要素が入っていることです。
例えば、瞑想会に参加している時、「次は何やるんだろう」とポッと頭に浮かんだとします。それをそのまま「次は何やるんだろう」と心の中でオウム返ししただけでは客観視の要素があるか微妙です。ですがそれを括弧で括って、「(次は何をやるんだろう)と思った」とラベリングすれば、そういう思考をしたという確認になり、客観視が出来たことになります。
このように、思考が出てきても、ラベリングによって今の自分の状態を客観的に正確に観ることができればそれで終わりになり、その結果、思考モードを離れて気づきモードに移ることが出来るということです。
また別の角度から要点を言えば、センテンスや言葉で何か浮かんできた時には「妄想」「思考」とし、映像が出てきた時には「イメージ」「妄像」と仕分けてラベリングするのも良いでしょう。この仕分け方もヴィパッサナーが進んでいけば厳密になっていきますが、正確であるなら、とりあえず始めのうちは好きなようにやっていいのです。
ラベリングは杓子定規にはいきません。こういうラベリングでなければ駄目だと考えると、言葉にとらわれて本来の仕事がやりづらくなってしまいます。
Gさん:ラベリングの言葉はどう選んだらよいのでしょうか。
アドバイス:
アドバイス:瞑想修行中ということで考えてみましょう。例えば、一瞬特殊な感覚が頭皮に起こったとか、そういうものは、その瞬間に厳密な表現が出来なくてもまあ仕方がありません。原則としてラベリングの言葉探しに長々と考えてしまうのはバツですから、その時はただ「感じた」「感覚」とかするしかないでしょう。「違和感」などと即座に浮かんでくるとよいのでしょうが・・・。
一過性の現象はその程度で良いのですが、お腹を中心対象にしている時にはそうはいきません。中心対象というのは一時的な現象ではなく、繰り返しずっと観るものです。したがって、それが曖昧な表現であったり、ずれた感じで付けているラベリングでは、実際に感じていることと違う認知をやっていることになるので良くないのです。
ですから、もしいつもとは違う、固かったり緊張している感じがあったりして、その感覚が良く分かってしかも長く繰り返されている時には、「硬直している」とか「緊張している」とか、その現象に相応しい表現にします。
実際に感じていることとズレたラベリングを長く続けているのは、まさに現実を正しく認識出来ずに、心が現実と食い違った妄想で占められていることになります。ところが正確なラベリングができれば、そのラベリングに触発されて「硬直しているのはお腹だけではないかもしれない」と観察のポイントがメンタルなものに向かい「心の緊張状態」に気づきが深まっていくかもしれません。正確なラベリングは、正しい認知の証しです。ありのままに現実を正しく観ることと、それを正確に認識することは不可分なのです。
ところが瞬間的に正確なラベリングの言葉が浮かばないのが多くの人にとって悩みの種になっています。ラベリングの正確さにこだわってモタついていると現実から置いてきぼりにされてしまうし、現在の瞬間を逃さずに気づき続けようとすると当たらずとも遠からずの甘いラベリングで妥協しなければならない。・・・こうした不完全な印象の中でやっていくのが練習であり修行なのです。
ではどうしたら良いかと言えば、洞察の眼を養い、正確に分析する力をつけ、ボキャブラリーを増やし、常日頃から正確な言葉を選んで話し、明晰な文章を書くように心がけるとラベリングは上達します。とても大変なことですが、智慧の人になるためにチャレンジしていきましょう。
Hさん:音を聞いた時に「音」とラベリングを入れ、それから「戻ります」とラベリングしてからお腹に戻しましたが、それで良いのでしょうか。
アドバイス:
それで結構です。もう少し厳密に言うと、ちゃんと音なら音を聞いてサティを入れ、その直後に「お腹に戻らなければ」という意志を感じた場合には、そういう心が生じたのですから、「(戻らなくては)と思った」あるいは「戻りたい」「戻ります」という形でラベリングし、それでフッとお腹に「膨らみ」「縮み」を感じた。これならマルです。
ただ、「戻ります」というラベリングは微妙なところがあります。今お話ししたように、「お腹に帰らなくては」「戻りたい」「戻ろう」と現象として経験したならたいへん結構なのですが、そうではなく、機械的に「音」と付けて、掛け声のように「戻ります」と言ってお腹に帰っているのだとすると、ラベリングとしてはちょっとどうでしょうか。その瞬間の経験をどのように捉え認識したか、その言語的表現がラベリングだ、という定義からは、別に「戻ります」と言う必要はないのではないかという感じもします。「戻ります」と言わないとお腹の中心対象に意識が向けられないのなら、そう言うことに意味はあります。もしそうでもなければ、省略してもよいのではないでしょうか。
Iさん:私は、どこの感覚で捉えるかということを明確にしたい気持ちがあって、音がしたときに「聞いた」ではなく「耳」、「見た」ではなく「目」とういうふうにしていました。それで良いのでしょうか。
アドバイス:
方向としては、正しいです。ただ、これはシステムに沿ってきちんと進んでいくようになっています。あなたのそのラベリングは「六門確認」という技法なのです。全ては六門の現象に過ぎないと認識を深めていくのは段階的に進められていくべきなのです。まずその瞬間瞬間の自分の経験を自覚し、意識化する基本的な認識確定のラベリングを修練し、自分の人生を整理して捨てるべきものは捨て、残っている煩悩は煩悩としてありのままに心得ておく仕事が先です。それから全ての煩悩を手放し、この世から撤退していく方向に意識をフォーカスしていく。そういう段階に達した時にこの「六門確認」のラベリングが真価を発揮するのです。
ですから、基礎トレーニングが終わっていない人がやってもうまくいきません。まず一瞬一瞬の自分の経験を自覚する具体的なラベリングが安定して付けられるようなサティの訓練が基盤になります。その上でのラベリングの変化、イコール認識の変化と間違いなく進めていくのがヴィパッサナーのシステムです。それにって着実に進められるよう頑張ってほしいです。(文責:編集部)
◎ラベリングの言葉
Aさん: Bさん: Cさん: |
Aさん:適切なラベリングの仕方を教えてください。
アドバイス: ヴィパッサナー瞑想は「心の清浄道」を完成させるための技法です。これは人格完成の道と同じような意味になりますので、瞑想者の人格や才能や実力の段階によって修行のやり方が異なってきます。プロ野球選手の練習と中学の野球部の練習は違うようにです。 サティはシンプルな技法ですが、瞑想を進歩させていくためにはその時々の修行のやり方があります。サティを入れる一瞬一瞬、どのようにラベリングするかがとても重要になるのです。まず初心者が最初にやるべきことは、サティという意識モードをいかに持続させるかです。ホームランを打つためには、まずバットの素振りから始めるようにです。心に触れた情報の中身に手を出さず、サティを入れ続けることを第一に取り組むのです。どんなイメージや思考が浮かんでも「妄想」「雑念」とサティを入れて中心対象に戻し、どんな音に対しても「音」「聞いた」とラベリングして相手にしない覚悟が大事です。 こうしたラベリングは、対象に深入りせずすぐに撤退するので「撤退型」と呼ばれ、初心者が最初にやるべきやり方です。情報の内容は無視して機械的に「音」「妄想」と定番のラベリングを入れて見送ってしまえばよい。とにかくサティの持続が最重要と考えます。こうしてまずサティの脳回路を安定させてから次の仕事に移ります。「撤退型」から「特化型」へ切り換えるのです。 「特化型」のサティというのは、一瞬一瞬の対象を正確に、詳細に観察し洞察していこうとする意識の張り方です。「撤退型」のように切れ目のないサティの持続を重視するのではなく、一つひとつの対象を詳細に観察し鋭く洞察するのを心がけるのが「特化型」です。情報の中身から撤退する努力をやり続けていたのでは、当然のことながら、物事の本質も自分の心の汚染も見えてきません。機械的にサティが連続するだけでは、瞑想が深まらないのです。 この「特化型」のサティになると個人差が大きくなり、ラベリングの技術や瞑想のセンスが問題になってきます。一瞬一瞬の現実にありのままに気づいていく仕事は、そのとき経験されたことをどうラベリングするかという認識の問題になってくるからです。 例えば、雑念はすべて「妄想」の一語で済ませていた人が、目を凝らしてよく観ると怒り系の妄想なのか、欲望系の妄想なのか、自慢話系の妄想なのか、妄想や雑念の詳細に気づくはずです。微かなレベルであっても、妄想が浮かんだ瞬間イラっとしていたり、ムラッとしていたり、何か情動が立ち上がり始めていたりします。このあたりを見逃さず丁寧にサティを入れてラベリングすることによって、自己客観視が深まり、心の変容につながり、瞑想が心の清浄道に直結してくるという訳です。人格的成長の度合いや瞑想センスなど個人差が大きくなり、ヴィパッサナー瞑想がちょっと高度なものになってきます。 ヴィパッサナー瞑想を深めるためには、事実を正確にあるがままに観る訓練と、それを言語化する練習のどちらも大事です。どうしたら適切なラベリングが付けられるか。原則として、サティの瞑想をする時間帯とは別枠でラベリングの練習はやった方がよいでしょう。ひと度サティの瞑想を始めたら、思考モードを離れてナンボの世界ですから、ラベリングの言葉選びを考えている余裕はありません。たとえ100%的を射た言葉ではなかったとしても、その瞬間浮かんだ言葉でラベリングするしかありません。不完全な印象が気持ち悪い、もっと適切なラベリングを・・と感じる人は多いのですが、残念ながらその程度のラベリングしか浮かんでこなかったのがその時の実力だったのです。ありのままに認めるしかないでしょう。瞑想を中断して言葉探しを始めるのは本末転倒です。 サティの瞑想を始めたからには、たとえラベリングについての思考であっても「妄想」であり脱線です。その場は「不完全」「不満足」「(気持ち悪い)と思った」とサティを入れてしのぎ、瞑想をいったん終了させてから、緻密に考察するのです。もっと適切なラベリングがあったのではないかと反省し、最適な言葉を吟味し、時に辞書を引いてみたりするとよいでしょう。普段から言葉の使い方に敏感になることが大事ですね。本を読んでいてもテレビを見ていても、素晴らしい表現やドンピシャの言葉に出会った時はメモを取ったり、メールを書くとき特に件名を付けるのが一番良い練習になります。これから送信するメールの内容を一言で表わしているようなタイトルは、ラベリングを付ける瞬間と酷似しています。 瞑想中の心がけとしては、多くの人が一度ラベリングの言葉を決めてしまうと毎回それで済ませようと定番化してしまうことをやりがちですが、あまり良くありません。人の心は毎回多くのエネルギーを費やして綿密な観察をするのを嫌い、なるべく低コストで済ませたがる傾向があるので、苦労してやっと確定したラベリングなら何度も使い回しをしたくなるのです。しかし現実の経験というものは二つとして同じものはなく、常にその瞬間の一回性のものなのです。ざっくり見れば似たような現象だからと、毎回定番のラベリングで括ってしまうのは「ありのままに」の現実から遊離していきます。事実と微妙にズレ込んだ概念のフィルターでいい加減に、曖昧に、不正確に、観ているだけになってしまう恐れがあります。 このあたりに瞑想がマンネリ化していく要因の一つがあります。目に思い込みの鱗をくっ付けて人生をやり過ごしているうちに、現実に目を叩かれてポロリと鱗が落ちて愕然とする普通の人と変わらなくなるでしょう。人の心は毎回多大なエネルギーを費やして観察したりせず、なるべく低コストで済ませたがる傾向があるので、どうしても初体験の新鮮さで毎回丁寧にラベリングするようにはならなくて、単純化していこうとします。つまり、一度ラベリングの言葉を決めてしまうとそれでいこうとなるわけです。そうすると、観察そのものもあまり精度が上がらず、マンネリ化していい加減になり、機械的に概念のフィルターをかぶせて観ているだけというようになってしまう恐れがあります。 例えば、お腹の中心対象に本当に集中し丁寧に観察すると「一回ごとに微妙に全部動きが違うことに感動しました」というレポートになったりします。何万回も感じて飽き飽きしているセンセーションなのに、新鮮な観察眼を働かせることができるのが、才能であり根性なのです。毎回なぜ瞑想をするのか、サティがなぜ大切なのか、を問い直し、心を新たに取り組んでいる人がそのようになっていきます。 最後に、中心対象の歩行や腹部のセンセーションはラベリングが定番化していても、観察そのものが丁寧になされていればあまり気にしなくてもよいでしょう。観察がマンネリ化していなければ、身体感覚の言語化にエネルギーを費やしてもあまり意味がありません。問題は中心対象以外の現象、音や妄想や匂いや特に心の状態にサティを入れる一瞬です。この瞬間のラベリングがマンネリ化し定番化していると、これまで述べてきたような瞑想の堕落になりかねません。音や匂いや妄想にどう反応したかの一瞬に、自分の本音や心の闇が見え隠れするものです。「特化型」の瞑想は、鋭い自己客観視で心の清浄道を深めていくのがポイントですから、ラベリングの言葉選びは慎重であるべきなのです。 Bさん:似たりよったりのラベリングになってしまうのですが。 アドバイス: はじめのうちはそれで結構です。これからボキャブラリーを増やすように心がければ良いのです。 私は若いころ類語辞典を読むのが大好きでした。一つの言葉の類語を見ていくと、微妙にずれていながらもこんな言い方があるのかという発見があって、とても面白かったことを覚えています。私がボキャブラリーを増やすことができたとすれば、そのお陰も大きかったと今でも思っています。 人は使う言葉の角度からものごとを認識します。ボキャブラリーが豊かになれば、当然ものごとの見方が多角的になり、異なった切り口から新しい発想が閃く可能性も増します。言葉が変わり意味が変われば、認知も影響を受け認識が変化しやすくなります。頑固に紋切り型の一つの言葉に執着している人は、その角度からしか物が見えないのと同じでしょう。発想や視座が変わる瞬間の現場は、言葉が変わるので見方が変わるのか、視座が変わり見方が変わるので認識の言葉が変わるのか微妙です。いずれにしても、語彙が豊富で表現の豊かな人の方が、多彩な見方ができる可能性が高くなります。適切な表現が見つかるまでのプロセスも、ピタリと最適な文言が見つかる確率も、その速度も速くなるのも、言語能力の高い人の方が有利でしょうね。ラベリングの練習や補強は、セオリー通りサティの瞑想の修行現場とは別枠でやりましょう。 Cさん:自分の感情について正確にラベリングできたかどうかはどのようにわかるのでしょうか。 アドバイス: 真っ芯に当たったホームランのように、ヒットしたラベリングには一発で現象を雲散霧消させる力があります。妄想も感情も音も眠気も・・どんな対象も、サティを入れた瞬間劇的に消えていくことに衝撃を受ける人も多いですね。鮮やかな体験なので、瞑想のモチベーションが俄然高まるでしょう。 私たちの心はその瞬間瞬間の現象に巻き込まれ執われて、熱く反応していることに気づかないものです。しかるにサティという正確な客観視ができた瞬間、居眠りからパッと目覚めて現実に帰ったようになるのです。執着していたものを手放すとはこういうことか・・と感動するでしょう。ぜひ体験して検証してください。 適切なラベリングは、正確な認識に由来するものです。ただ瞑想の時間を多くすれば良いというものではありません。普段からものごとを正確に認識するように心がけることが第一です。よく注意すること、多くの情報を得ること、疑問を曖昧にしないこと、きちんと考察して納得すること、対象についてよく知ろうとすることです。 良い瞑想が良い人生に通じているのは、日々丁寧に注意深く生きてる人に正確な認識も智慧も生じやすく、適切なラベリングができるし良い瞑想ができるものだからです。 ラベリングには複数の機能があり、代表的なのは、経験に意味付けをして認識する作用です。「ラベリングの認識確定効果」と私は呼んでいます。例えば、何かモヤモヤしたネガティブな情動がうごめいていると感じても名辞(ネーミング)できなければ、自分の感情が何なのかわからない状態です。しかし次の瞬間、これは「嫉妬だ」「自己嫌悪だ」「怒りだ」と言葉が浮かべば、その状態が意味付けられ認識が確定します。複雑な心理状態や情動になるほど、言葉が浮かばなければ自分の状態も不明なままになります。心は立派に嫉妬したり怒っているのに、当の本人はモヤモヤしていてよくわからないのです。本心が嫉妬していることに、エゴの自分がハッと気づく。「嫉妬」という言葉が浮かんだ瞬間、「嫉妬していた」ことに気づけたのか。「嫉妬」と認知できたので「嫉妬」という言葉が浮かんだのか。因果が同時の印象です。 嫉妬であれ怒りであれ、その瞬間の自分の状態を対象化して気づいている。これがサティであり、「メタ認知」とも呼ばれる気づきの瞑想です。一瞬一瞬の自分の状態を明確に自覚するには言葉が不可欠であり、これが「ラベリングの認識確定効果」です。 さて、「怒り」とラベリングすると、ますます怒りに巻き込まれて消えていかないという質問ですね。これは、ラベリングによって現状が明確になると次の心、そのまた次の心が「怒りの状態」をさらに鋭く認識し続けてしまうからです。 認識を明確にするだけではなく、ラベリングのもう一つの機能が、この状態をさらに強化していきます。言葉には対象に意識を向けさせる力があり、私は「対象指示性」と呼んでいます。「怒り」とラベリングすると、次の心がピンポイントで怒りにフォーカスしていきます。「天井!」と言われれば反射的に頭上を見上げるし、「後ろ!」と言われれば背後を振り返るでしょう。 あなたの状態は、「怒り」とラベリングすることによって怒りが鮮明に自覚され、同時に言葉の対象指示性が次の心をその怒りに向かって突き刺すように振り向けるのを繰り返している状態だと思われます。 これでは「怒り」に巻き込まれて消えないのも当然です。どうしたら良いのでしょうか。まず第一に、中心対象以外の現象にサティを入れたら、必ずいったん中心対象にもどるという原則を思い出すべきです。歩行瞑想なら「足の感覚」、座禅なら「腹部感覚」が中心対象です。音であれ妄想であれ怒りであれ、中心外にラベリングしたら、次は必ず中心対象に帰るのが原則です。 「怒りそのものが雲のようにワーッと来てしまって・・」と表現されていますが、これは注意が連続的に怒りに向けられている時のレポートです。もし「怒り」とラベリングした直後、セオリー通り中心対象に意識を向ければ、体の感覚で心がいっぱいになります。その次の心も中心対象の感覚に向けられれば、怒りはそのまま立ち消えのようになる可能性があります。怒りにサティを入れて見送った・・という印象です。もちろん、再び怒りの状態に注意が向けば、その瞬間生々しく怒りを感じるでしょう。しかしその次の瞬間、セオリー通り中心対象へ回帰すれば、怒りはいったん消えるでしょう。このように、中心対象へ帰る重要性を再認識すれば、この状態から脱出できるはずです。 別の考え方もあります。もし怒りが中心対象よりもはるかに強烈な現象であれば、そこから徹底的に怒りを観察する「心の随観」に切り換えるのです。優勢の法則に従うのがセオリーですから、それで正しく瞑想できています。心随観の瞑想を開始するのも、終了して再びお腹や足の感覚を感じて身随観に戻るのも、ポイントは自然展開に従っていくことです。これは優勢の法則に従うのと同じ意味です。つまり、怒りを消してやろうと強引に狙い過ぎないことです。怒りは不善心であり消さなければならないと躍起になると、ラベリングするほどますます強化され消えていかないことに狼狽えますが、消えなければ「消えない状態」に気づいてさらに観察を深めていくのが本来のやり方です。 Eさん:では、怒りが消えるまで「怒り」「怒り」「怒り」とずっと連続してラベリングしない方がよろしいのでしょうか。 中心対象ではなく、心の状態を連続的に観察していくのが心随観です。優勢の法則に従えば、強烈な怒りの情動を無視して微弱なお腹や足の感覚に注意を向け続けるのは理にかなっていないし、ありのままに観る瞑想の本質から外れてきます。怒りの観察を続行してOKです。 もう一度整理して言い直しますと、まず最初にやるべきことは「怒り」とラベリングしたら次は機械的にいったん中心対象の感覚に戻します。そのまま腹部感覚が続けば「怒り」は一過性のものなので座りの瞑想を続行します。しかし怒りが強烈な状態であれば、そうはいかないでしょう。すぐに怒りに巻き込まれていくでしょうから、「怒り」とサティを入れます。ここで公平に中心対象と怒りの感情を眺めて、怒りの方が強烈であれば心随観に切り換える方針を選ぶのです。これが優勢の法則に従って、座りや歩きの身随観から心随観に切り換えるやり方です。 こうして心随観で怒りの観察が始まったとします。問題は、「怒り」「怒り」「怒り」と何回も同じラベリングを繰り返すのは良くないということです。もし「怒り」のラベリングが的確で、その瞬間の状態を正確に捉えていれば、怒りの現象は消えていく可能性が大です。しかし消えないということは、「怒り」というラベリングがその時の怒りの状態を完璧に対象化できていないということです。実際に起きている現象とそのラベリングの間にズレがあるのでヒットしていないと考えられます。「怒り」に限らず、同じラベリングを5、6回続けても状態が何も変わらなかったら、文言を見直すべきです。正確に的を射たラベリングができれば、その状態に夢中でのめり込んでいた自分自身がきれいに対象化できるので、次々と怒りに巻き込まれていた状態に突然終止符が打たれるのです。 ところが「怒り」「怒り」とラベリングしながら、怒りの内容に執われて手放そうとしていなければ、虚しい空念仏のようにラベリングが繰り返されているだけで何も変化が見られないということになります。「あ!自分はこのことに腹を立てているんだ!」と本気モードで気づければ、その瞬間冷水をかぶったような気持ちになって怒りは雲散霧消していくでしょう。腹を立て続ける妄想がパタリと止まれば、その瞬間に怒りは立ち消えになるのは確かなことだし、事例もたくさんあります。 これが正確な対象認知のラベリングの威力です。正しく機能していないラベリングの言葉を繰り返しても怒りが消えることはないでしょう。ラベリングは一応やっているものの、本音では怒りの妄想を止めようとしていない状態がありのままに観察されていないからです。もしこの瞬間の本当の状態に気づけたなら、「怒りを止める気がない」「(サティを入れて巧妙に自分をダマしながら)怒り続けたい」「怒りで血をたぎらせるのは楽しい」・・・などと別のラベリングが浮かぶはずです。つまり、観察の角度を変えて怒りの状態を見直し、その結果ラベリングの文言が変化する、という方向に瞑想を進めるべきです。そのために、事実をもっと正確に、より詳細に観ることが必要です。同じ怒りでも攻撃的に相手に向かっている怒りなのか、自分に向かっている怒りなのかを詳しく観ていくようにです。何に怒っているのかよりも、怒りに巻き込まれて怒りの泥沼から出られないでいる自分に怒っている、などという場合もよくあります。 例えば、こんな事例もあります。友だちにお金を貸して結局そのまま盗られた結果になってしまった人が、それを思い出すたびに「怒り」「怒り」とラベリングしていたのですが、なかなか消えなかった。そこでよく観てみたら、お金を失った事実よりも、人を見る目が無かった自分に怒っていたことに気づいたのです。裏切られた無念さや、そんな人と見抜けなかった自分が腹立たしかったのです。プライドや自尊心が傷ついた状態が怒りの源にあったわけです。そういうことがはっきりわかったら、同じ「怒り」というラベリングでもその時の怒りの本質を突き刺す気づきとなったため、蒸し返しが止まった例がありました。つまり「怒り」の状態は同じかもしれないが、厳密に観ると、お金を盗られた怒りと自分が人を見抜けなかった怒りとは質が違うし、怒りの対象が微妙に異なっているのです。 「あるがままに観て正確にラベリングしたら、一発で怒りが撃ち落とされて出てこなくなりました」というレポートをした方がいましたが、観察が正確だとこうした鮮やかな事例もあり得るのです。文言を変えればその言葉の角度から対象を観ることになりますが、それでは順番が違います。その瞬間の状態や瞑想対象を、心新たに眺め直してよく視たらそれまでとは違ったものが見えてきたので、それに相応しいラベリングをしたら劇的にヒットした・・という順番が本来あるべきものでしょう。 アドバイス: 怒りを一時停止させたいだけであれば、ヴィパッサナー瞑想以外にもいろいろな方法があります。例えば、怒りからサッと目を背けて、何か善なる対象に集中してしまえばその時の怒りからは解放されるでしょう。しかし根本治療をしない限り、いつまた蒸し返してくるかわかりません。怒りを根っこから断ち切りたいのであれば、対症療法的な怒りの消し方を繰り返しても目的を遂げられないでしょう。ヴィパッサナー瞑想は、現象をあるがままに観察することによって、怒りの根源まで遡って突き止められる可能性を秘めた技法です。 自分の心を占有している怒りの状態を否定も肯定もしないであるがままに客観視できれば、具体的には、ラベリングして消えるものはかってに消えていくし、消えないものは消えない状態を淡々と観察することができるかどうかです。しかし心がエゴレスの状態でないと、なかなか自然展開に任せられないものです。煩悩であり不善心である怒りは何がなんでも消さねばならぬ・・・とどうしても熱くなりがちで、消えない怒りを冷静に淡々と観察し続けるのは容易ではありません。他人の見物ならできるが、自分の心になるとそうはいかなくなるのです。 ヴィパッサナー瞑想のコツは「他人事のように、自分を観察する」ことです。怒りの煩悩も、必然の力に催されて法として生起してくる事象なのだと心得ると、ちょっと客観視しやすくなるかもしれません。毛嫌いして反射的に叩き潰そうとするのではなく、「優しく見守る」ように観察する、という言い方でピンと来る人もいるでしょう。不善心だからこそ、優しく見守るくらいにしないと、公平な「捨(ウペッカー)」の心が生じづらいのです。エゴ感覚が弱められた時に浮かび上がってくるものを洞察していくのがヴィパッサナー瞑想です。 |