月刊サティ!
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~
Aさん:「妄想」「妄想」と何度サティを入れても消えない場合、どうしたらよいのでしょうか。 アドバイス: 瞑想している時に、妄想を消すことにこだわってあれやこれやと試みることは執着につながります。妄想が出たのはちょっと前のことなのに、それにこだわると次々と新たな妄想を生み出して現在の瞬間をとらえるという定義からは外れることになりますから。 その場合は、素直に「消えないんだ」とか、「妄想が止まらないんだ」とラベリングするといいでしょう。なぜなら、そのラベリングはまさに今のその瞬間の状態にふさわしいからです。 「妄想」「妄想」と何度サティを入れても止まらなければ、「妄想が止まらない状態」とラベリングし、次の瞬間にも同様にラベリングして無限後退していけばよいのです。妄想している状態をありのままに認めてしまえば、不思議に妄想は消えていくものです。そのうちうまくサティが入ったら、「いいサティが入った」とラベリングします。 高尚なカッコよいラベリングをしようと構える必要はありません。どこまでも今の瞬間を対象化できていればそれでよいのです。その訓練がサティの瞑想なのですから。 このように、妄想が消えなかったら、消えないという現実を承認したサティを入れてください。 Bさん:妄想がネガティブなことばかりです。ポジティブなことは消えていくのに、なぜネガティブなことはまとわりついて消えないのでしょうか。また、なかでも特に不安や怒りが出てきやすいのはなぜでしょうか。 アドバイス: 不安も怒りも嫌悪も、煩悩としては欲望系ではなくすべて瞋り系です。基本的に、瞋り系の反応というのは欲望系よりも速くて執拗なのです。 例えば、心理学的な実験があります。50人ほどの小さな顔写真をズラーッと並べておいて、その顔の中に一枚だけ挿入した笑顔の写真を見つけるのと怒り顔を見つけるのとでは、どちらが速いかというものです。圧倒的に怒った顔を見つけるのが早いのです。 これは人間に限らず生命というものは、瞋りに対して敏感でなければ自己保存が難しいということから来ています。もし猛獣に襲われたら直ちに危険を回避しないと生命が存続できません。そのような時には、攻撃にせよ逃走にせよ瞋り系の反応をただちに立ち上げて身を守ってきたということです。 それとは違って、人類の歴史上、空腹などはゆるやかに耐えていくものだし、楽しいことをしたい好きなものを手に入れたいという欲望や、何か目標に向かって頑張ろうなどのポジティブな思考は、すべて「命あっての物種」ですから、生存の危機を回避する欲求を超えるものではありません。つまり、自分の生存が関わっている以上、生命としてはどうしてもネガティブな不安や瞋り系の反応が多くなるのは避けられないということなのです。 ただし、反応の立ち上がり方には個人差があるのも事実です。同じ現象に対してある人は瞋りや嫌悪を覚え、別の人はそうではないということもよく見られることです。結局それはアドレナリンなど瞋り系のホルモンの関係で、習慣づければいくらでも分泌しやすくなるというわけです。瞋りの本能も、使えば使うほどいつでもスタンバイの瞬間起動状態でどんどんエスカレートしていくのです。 希望は、「逆もまた真なり」と言えることです。ネガティブな妄想、怒り系の妄想を止めるためにどうするか、それには瞋りを抑制するのです。一見すると循環論法のように見えますが、そうではありません。瞋りを抑制している時は、やはりそのためのホルモンを使っています。ですからたとえ初めのうちは出づらくても、繰り返し習練していけば脳のその回路が活発化して分泌しやすくなるのは脳科学的に知られています。 ブッダは経典の中で「怒らないことによって瞋りにうち勝て」(注1)、「『他の者たちは瞋恚の心がある者になるかもしれない。しかしわれわれは、ここに瞋恚の心がない者になろう』と削減を行なうべきです」(注2)と言われていますが、まさに脳科学的にその通りなのです。怒らない時には瞋りを抑制するホルモンを使っている、それを繰り返せば安定化していくということです。 ということで、ネガティブな妄想が消えないというのは、瞋り系の不善心所モードに巻き込まれている状態ですから、それに気づて「瞋り」「嫌悪」「不安」とラベリングしましょう。ポイントは、そうした瞋り系モードを嫌わないことです。当たり前の反応なのです。そういう反応が出たのだから、ああそういう状態なのね、と気づいて見送るのです。 しかし、どうしてもそれでは離れられないという場合には、根源的な心のプログラムに問題があるかもしれません。幼児期の悲しかった体験、苦しかった過去、トラウマ等々があれば、不安、怒り、恐怖、嫌悪といった反応が多くなるのは当然です。その場合には、問題をはっきり見定めて自覚化し、受け止める発想の転換をして、完全に受け容れて手放せる方向で最終解決していけばよろしいのです。そうすれば瞋りの根源が一つ消えた状態になります。 このような作業を続けながら、最終的に貪り、瞋り、無知という貪・瞋・痴の煩悩をなくしていけるように、心の清浄道を静かに歩んでいくのがヴィパッサナー瞑想です。その現場は、まさに妄想に気づいて捲き込まれないようにしていくところから始まりますので、これからもぜひ頑張ってください。 注1:『ダンマパダ』第17怒りの章 223偈 注2:中部経典第8『削減経』 Cさん:この世の存在の世界は甘く美しい、という印象をどうしても持ってしまうのですが・・・。 アドバイス: 存在そのものの本質を本当に観てしまえば、そのおぞましさとかドゥッカ(dukkha:苦)性とかが身に沁みるのですが、頭の中で快楽系の妄想を追い回して楽しんでいる時には、この世は甘く美しいという印象になるでしょうね。しかし実際にそれが手に入り現実のものになると、途端に色が褪せてしまうものです。快楽は、頭の中で妄想されている時が最も純度の高い快美な印象でウットリと人を誘惑するものです。妄想はどのようにでも「いいとこ取り」ができますが、現実の存在の現場はそうはいきません。つまり、妄想する力を借りなければ煩悩が紡ぎ出す快楽を味わうことはできないのです。 例えば、誰かに身体を触られたとします。それが好きな人であれば心地良くても、嫌いな人だったら鳥肌が立つでしょう。ヴィパッサナーの視点からはどうでしょうか。「触れた」「圧」。これだけ。ただの接触感とその生滅です。好き嫌いによって正反対の反応をしてしまうのは、全て思考プロセスから生み出されてくる妄想の所産です。妄想の力を使わなければ楽しめる世界ではないし、憎んだり嫌悪したりもできないのです。 これを欲界と言います。誰でも自分が生きているこの世界はまさに本物であり、事実の世界だと思っていますが、実は妄想が編集している世界です。私たちはそこで楽しみ、欲望を起こし、それが邪魔されたといって怒ったり嫉妬したりしているのです。 見るものも聞くものも全て妄想の力を使って楽しんでいる。徹頭徹尾そうなのです。歌や音楽が分かりやすいので例に挙げますが、ヴィパッサナーのやり方で純粋に「音」とサティを入れ、確認していったらまったく快楽とは無縁になるでしょう。絶対音感を持つ人は音が全てドレミに還元されて音楽を楽しめないと聞いたことがありますが、中身はともかく様子は似ています。そもそも、他人が楽しんでいる音楽でも興味がなければただの騒音、耳障りにしかなりません。 ですから、ヴィパッサナーの修行をやっていけば、少なくとも欲望や怒りの度合いは減っていきます。妄想を止めるのですから今まで楽しんでいたものもストップです。もちろん人によって違いはありますが、どの段階で夢から覚めても成果はあるのです。完全に覚める人と半覚半眠の人、いろいろでしょうけれど。(笑) Dさん:私は思考型の妄想がたくさん出てきます。それ自体にはいいとか悪いとかいう価値判断をまったく挟まずにただ観ています。「こういう事を考えているな」と気づき、「考えてもいいのだ」というふうに心の中で言って戻るのですが、それでよいのでしょうか。 アドバイス: 思考や妄想を非常に嫌悪して、「妄想が出たら駄目だ!」と瞬間的に判断を入れている場合には「妄想」「妄想」とやってもなかなか妄想は止まりません。ところが出たら出たでいいのだと、それをあるがままに容認すると妄想は止まることが多いのです。 妄想が出るという現象が起きている。それに対してこれはいけないとネガティブに掴んでいる。これが次々と妄想を発生させている原因です。妄想が起こると無意識のうちにそれを嫌がる。妄想は出ない状態が正しいのだと心に決めて出ないように頑張ると、かえっていくらでも出てくるのです。 ところが、考え方を変えて「出てもいいぞ」「出たらその瞬間に気づいてやるぞ」「よし出て来い、待ってるぞ」という感じになると今度は出ないのです。 心というのは天の邪鬼です。嫌がると言うことは却ってそのことに執らわれているわけで、そちらにチャンネルを合わせているのです。それを最初からあるがままに容認してしまう。自然な展開にまかせてネガティブに掴まない。関心を向けない。だから出なくなる。こういうことです。 ですが「そうやると妄想が止まるのか。それならそういう風にやろう」と狙うと、今度は作為的でうまくいきません。最初の内はいろいろと工夫をしたがるのですが、結局ヴィパッサナーというのは、何をどうやっても加工をしない、テクニックを弄さないでやるのがベストという結論です。 Eさん:会社から帰る途中に今日あったことなどの考えごとをしていても、ふと気づいて歩く瞑想などをしてみると、家に帰り着くころには考えごとを全くしなくなっていることに最近気づきました。 アドバイス: 考えごとに引きずられないと楽でしょう。ヴィパッサナーは、考えても仕方がないことをいかに手放していくかです。特に妄想などに対して「思考」「妄想」「雑念」とサティを入れるということは、妄想を続行しない、いわば離欲の一瞬一瞬です。 存在というのは無常の法則を受けて壊れていってしまうのですから掴めるわけがないのです。それなのに、どうしても概念の世界、妄想の世界ではずっとその状態が続くものと勘違いしてしまい、掴んで、執着するのです。仏教ではそれを放さないことが苦しみの原因だと考えています。そういう意味で、心が成長するということは執着しなくなることと比例しているので、大変結構なレポートです。 ◎「妄想」について・・・修行をもう一歩進めるためのアドバイス こちらが何もコントロールしないで自然に起きてきた現象を「法」と呼びます。妄想も同じで、消すことなくまた反応することなく、ただ何でも受け身、受け身でピンポン玉を打ち返すように気づき続けるのがヴィパッサナーです。むしろ法随観なら妄想を中心対象にしても良いような話で、要するに全現象完全受容です。 妄想を消すことだけが目的であれば、マントラを繰り返したりするなどいろいろな技術があります。しかしヴィパッサナーは、妄想が出るんならしようがない。それが現象なのだから、それに対しては「受け容れ」という姿勢です。何があっても瞬間的な反応をすることはないのです。 現象というものは、さまざまな原因とこちらの諸々の事情によって否応なく起きてしまいます。自ずから生起するのです。妄想が起きてくる自分の心は、今まで条件づけてきた刺激に勝手に反応しているだけですからコントロールできません。そこで、それを正しい善なる条件づけに組み替えていこう。そうするとその先に前進して行けますよということです。 (文責:編集部) |