月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

   瞑想と環境(1)

Aさん:40年以上も空いていた自宅の隣の空き地に家が建つことになりました。そうなると、おそらく瞑想する上では環境がかなりマイナスの方向になってしまうのではないかと予想され、へこんでいます。
  また、越して来る本人が挨拶に来るのが常識だと思うのに、情報は全て業者からというのも気になっていて、慈悲の瞑想でこちらが受け入れる姿勢を何とか発揮しなければと思っています。環境の変化には自分の心を整える必要があるのかなという気がしています。

アドバイス:
  眺めも良く静かな場所であったり、森林僧院のような所で気づきの瞑想が安定的に集中して出来るのはいわば当たり前で、ある意味やりやすいと言えます。しかし、テレビの音や外部から騒音が絶え間なく聞こえるような、劣悪な環境でも全く心が乱れることなくサマーディに入れるなら、そちらの方が明らかに瞑想者としてはワンランク上なのです。
  私にもかつて同じ経験がありました。あたかも自分の瞑想を破壊するために起きたのかというような、いらいらさせられる環境要因が入ってきた時です。最初はちょっと嫌だなあと思いましたが、すぐに発想を切り替えました。「あ、これはワンランク高い瞑想をしなさい」という天の教えによって環境が変わったのだと。
  ですから、劣悪な環境の中で心が乱れないように集中してサマーディに入るという、そちらの方が難易度が高いのでチャレンジしなさいと言うことだと、瞑想に関してはそういうプラスの発想で受け止めれば良いのです。
  また、もし引っ越してきた人が自分にとって困った人だったとしたら、それは今さらどうしようもない過去世からの宿業の結果として出会うべくして出会ったのだと腹を括るしかありません。仰られるように、慈悲の瞑想で対応してその因縁を解いていくのもたいへん良い修行となります。そういったような、少し苦があって、それを乗り越えようとして人の成長は促されるのです。
  毎日良いことばかり起きていて周りもまた善い人ばかりという環境の中では、成長するには相当な自覚が必要でしょう。そのような意味で、ここは良い成長のチャンスと捉えて、積極的に気持ちを切り替えてください。

Bさん:部屋がなかなか片付きません。すっきりさわやかに暮らすにはどうしたらいいでしょう。

アドバイス:
  自分の部屋にお客さんを呼んだらいかがでしょうか。いや応なしに片付けざるを得ませんから。
  生活環境というのは、日々の暮らしの中で自分のやり方でパターン化しているでしょう。ある意味で固まってしまっていますので、そういう強制力を使わなければ転換はなかなか難しいものです。例えば、家を散らかしっ放しにしている夫婦がいたとして、田舎から親や姑さんが急に上京すると聞いて慌ててきれいにするのと同じです。
  基本的にはこれまで保存してきたものを取捨選択すること、そして後に残った情報をきちんと整理することです。整理・整頓の達人が書いている本なども参考にすればいろいろなアイディアを発見できるでしょうし、それによって、嫌々やる不快な整理と捉えるのではなく、ご自分の工夫も加えて積極的で達成感の感じられる収納を実践することができます。大変ですが、そこは心の整理、知恵の働かせどころと考えて楽しく挑戦してみましょう。
  私の場合、前の道場では、合宿の時には私物がほとんど見当たらなくなるような空間に変わるのですから、合宿の度に毎回徹底的に片づけをさせられることになり、合宿直後の道場の清浄な雰囲気は感動的でした。

Cさん:マンションが工事中で、音がしっ放しで瞑想する妨げになっています。

アドバイス:
  大きな音に心が飛んでそれに度々サティを入れていると、肝心の中心対象の方が連続的に観察できない状態になってしまいます。ですが、連続的に恒常的に続く音は、必ず心が慣れの現象を起こしてくるものです。
  音量そのものは大きくても、心の関心が徐々に無くなってくる。そうすると、それはほとんど聞こえなくなるのと同じということです。そうなったら、そのまま中心対象、お腹の感覚、足の感覚を取っていくことが出来るはずですから、気にしないでそのまま続けていくように努力してみてください。
  問題となるのは、音に対してすごい不快感があって、それに嫌悪や執らわれが強く出て、そのために結果的に反応が止まない場合ですね。そういう時には、嫌悪や怒りの反応をしっかり観ること、そしてそれを自覚して手放すという方向です。
つまり、それも気づきを進める一つのチャンスと捉えるということです。何事も執拗な反応が起きるときは、必ず相応の原因があるものです。そうした執らわれの原因が明瞭になると、人間的にも一歩前進できることが多いものです。前向きにチャレンジしてください。

Dさん:外部の騒音や音楽が耳障りで瞑想に集中できません。

アドバイス:
  ヴィパッサナーは、いくら何をどう説明しても結局は「あるがままに見る」という基本的な原点に帰ってくるのです。もっとも、これだけのことがなかなか出来ないからヴィパッサナーは難しい訳なのですが(笑)。
  あるがままというのは、音がうるさいというその劣悪な環境そのものです。外国のテーラワーダ寺院でも、都市部の交通量の多いところはうるさいし、森林僧院ですら修修や増設など、工事中のところはいつも何か音がしています。
  結局、あるがままに起こってくる現象を好き嫌いで反応することなく、そのまま「経験した」で止められないから問題なのです。何とかして良い修行に持っていきたいという発想がありますから、どうしても対象の方、環境の方をあれこれいじりたくなるのです。例えば、静かな環境で修行したいと思えば、「うるさい」「ここはいやだ。場所を変えたい」という発想になり、逆に、静か過ぎればそれはそれでまた耐えられなくなる。
  また、うるさくても場所を変えられないとなれば耳栓をしたりする。たしかに音は半減します。西洋人はよく耳栓をやっていますね。よほどの初心者で、どうしても自分の心を制御できなければ、とりあえず一時的に耳栓を使うのもやむを得ないという人もいるでしょうが、ヴィパッサナーの基本精神からすると良くないと思います。耳栓をして音を遮断して「イライラする」のが無くなって、「おっ、膨らみ縮みがよく見える」というわけでしょう。これは、うるさい音に悩まされコントロールできないので、仕方なく耳栓によって遮断してサティができているということですね。これでは、あるがままの今の自分に気づいているとは言いがたいですね。
  あるいは呼吸にしても、皆さんやっていないと思いますけれども、わざとベルトを強く締めあげて腹部感覚を強めて膨らみ縮みを分かりやすくする。こうした対策を講じ過ぎると、環境をコントロールしようとしているエゴに振り回されている状態です。
  もちろん、普通に暮らしている時は、もし何か異臭がしたらその原因を突き止めなければなりませんし、光にしても音にしても、暮らしに大きな影響を及ぼすような場合には、状況により対策を立てる必要は当然出てきます。そこのところは、世間の論理でどこまで可能か、バランスを取りながら対応していかざるを得ないでしょう。
  しかし、ヴィパッサナー瞑想の修行からは、たとえその現象が強烈な音であれ臭気であれ光であれ、何であってもあるがままに受容するのが基本です。そのような望ましくない環境に対して嫌やなあ、これはやってられないというふうに反応するその心が問題なのです。それを直していく・組み替えていく作業がヴィパッサナーの修行なのです。劣悪な環境は劣悪なままで、心は全くウペッカー(upekhā:捨)の状態で冷静であること、これは認知の仕方や反応パターンなど心の方を変えることで可能になっていきます。
  さらに、もっと積極的な対応としては発想を変えることです。劣悪な環境に置かれた時には自分の心の傾向、癖、偏りが浮き彫りになるので、「ありがたいことだ」と思うのです。環境となる対象世界が悪ければ悪いほど良い修行ができると考えましょう。ですから、もし性格の全く合わない人と結婚してしまったらこちらが磨かれるチャンスだと・・・、極端ではありますが。もしそういう人とでも問題を起こさないでやれるなら、こちらの心が相当立派だという証かも知れません(笑)。

Eさん:自宅の環境ではやはりテレビや外からの騒音が避けられません。

アドバイス:
  今も申し上げましたとおり、発想の転換をすればいいのです。一人暮らしで悠々と瞑想三昧の生活をしていると怒ることもないし、静かな心で淡々と暮らせるので悟ったのではないかと錯覚しかねません。しかし結婚したり子供が産まれたりお邪魔虫の居候が同居したりすると、テレビや台所の音、話し声、さまざまな生活音がガンガン耳に飛び込んできます。静かな瞑想が破壊されているという印象でしょうね。
  もうやってられない!と静かなお寺かどこかに逃げ出しますか? そうすると、わざわざ森林僧院を選んだのに、すぐ隣で新しいクーティの工事音が朝から晩までガンガン鳴り続けたりするのです。これはたまらん、と今度は海辺の静かな寺に移りますか?
  すると、何やら毎日ダンスパーティのような世俗的な音楽が大音響のスピーカーから聞こえて、前よりもっと悪い。そんなものなのです。
  だから、逃げ出すのではなく、起きたことは全て正しい、と発想を変えるのです。
  「あ、これは、静かな環境でサマーディができるのは当たり前であって、こういう人の欲望を刺激するようなテレビ・コマーシャルがガンガン耳に入ってくる時に、それを平然と無視できるだろうか。それでもサマーディに入れるかどうかの修行を与えられているのだ」と考えるのです。「よーし、やってやろうじゃないか」と、指をボキボキ鳴らす感じで(笑)。
  いったん受け入れてしまえば、消したい、無くしたい、という否定する心の葛藤が生じなくなります。すると、どんなCMソングだろうが騒音ガンガンだろうが、瞑想に集中できるようになるものです。ま、私もそんな風に修行してきました。
  もし家族との絆を大切にするなら、妨害されているのではなく、レベルの高い修行を要求されていると考えるのです。もちろん、静かにこちらの希望を伝えて、改善されるならそれで結構でしょう。しかしどうにもならないのがカルマというものです。その時は自分の不善業の結果だと受け入れて、より高い修行を目指すのです。
  どうにもならないことが起きるのが人生です。
  情況や相手の人物など対象を変えるのは業の世界です。
  瞑想は、対象を変えるのではなく、心を変える営みです。
  心を変え、受け止め方を変え、発想と反応を変えて、今まで嫌だったものが嫌でなくなっていく世界です。

Fさん:瞑想を始めてから、これまで和気藹々と見ていたテレビがなぜかすごく耳障り、目障りになってしまいました。好きだった音楽も、ただの雑音というか、耳が痛いという感じにしかなりません。初心者でもこんなふうになるなら、この先だんだん世間に居づらくなる、そんな感じがするのですが。

アドバイス:
  仰るとおりで居づらくなりますよ(笑)。世間を出るつまり出世間の修行、解脱の修行をやっているのですから。世間を楽しみたい修行なら別のやりかたがありますが、ヴィパッサナーはそういうこの世的なものから撤退していく、現象世界から撤退していくという修行ですから。
  例えば、好きな歌を聞いて感動するのは、歌詞やメロディーが感情に訴え、時には想い出と結びついたりして、切なさとかいろいろなものが頭に飛び交っているからです。もし純粋に、厳密に「音」「音」とサティを入れていくと、ただの純粋な音の羅列になってしまい、音楽として成立しなくなります。単音と単音の連なりを、心の中でひとまとめにまとめ上げるのでメロディーとして楽しめます。そのメロディーに彼女と一緒に見ていた海辺の夕焼けなどをくっつけて妄想しながら聴くと、感動して涙ぐんだりする訳です。
  いろいろなものが頭に飛び交ってそれを楽しんでいる世界、それを欲界というわけです。自分が楽しんでいる世界が本物の世界だと思っているけれども、実は妄想が編集している概念の世界を楽しんで欲望を起こし、今度はそれが阻まれたといって怒りを発するという、そういう世界です。ですから、ヴィパッサナー瞑想を修行して妄想を止めてしまったら、今までのように、妄想の力で楽しんだり怒ったりしていたことができなくなるでしょう。
  そうやって、欲望と怒りから解放されていくので、苦しかった人生が苦しくなくなるのです。
  しかし、まったく音楽を楽しめなくなってしまうほど徹底して修行する人は少ないです。()て言うか、ほとんど無理です。でもそこまでやらなくても、程度の差はあれ成果はあります。その人なりに皆さん煩悩の夢から醒めますから。(文責:編集部)

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