月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

ヴィパッサナー瞑想の基本(2)

Aさん:ヴィパッサナー瞑想の上達のコツを教えてください。

アドバイス:
  今回が初めての方ですね。

  瞑想はスポーツや芸事と同じで、少し練習しただけですぐに上達できるというものではありません。毎日
10分間以上は必ず瞑想してください。やり方のポイントは、まず足やお腹の感覚をしっかり感じることに集中してください。
  歩く瞑想の場合でしたら、足の感覚を丁寧に観ていきます。例えば、足先が離れた瞬間には接触感が消えていくという印象があるでしょう。その直後に、今度は、足指の肉が微妙に戻る感覚が生じてきます。その微細な感覚の変化まできちんと感じ取ろうとすると、自ら集中が高まりますから、余計なことを考えている暇などなくなります。

  感覚がしっかり感じ取れたら、その感覚に対して「離れた」とラベリングします。そして次の動作に対して、動き出す最初の瞬間の感覚を逃さないように集中をかけます。動き出す
足が前に進んでいく感覚止まった瞬間の微細なブレまで、一瞬も逃さない意気込みで丁寧に感じていくのです。すると、ここまで徹底してセンセーションの変化に注意を注いでいくと、中心対象外に注意が逸れる余地がなくなり、思考もイメージも出なくなるはずです。
  初心者は瞑想中に必ず雑念に悩まされますので、まずセンセーションに没入して集中を高め、雑念や妄想が入らない状態でサティが連続するのを確かめていただきたいのです。このやり方は、集中の要素と気づきの要素が同時並行的に訓練できるように設計されています。

  この「法の確認のサティ」は、中心対象に絞り込み、顕微鏡モードで観察するやり方なので、普通の日常生活でサティを入れる時にはふさわしくありません。普段の生活では、今自分が何をしているのか、ざっくり自覚できれば良しとする肉眼モードのサティになります。これは「自覚のサティ」と呼ばれます。ざっくりでも、今自分は何をしているか、に気づいていれば客観視ができているのだから良しとするやり方です。

  日常では、中心対象を定めず、ランダムに「見た」「感じた」「思った」と、意識に強く触れたものは全て気づいていくやり方です。ただ、中心対象無しは初心者には少し難しいかもしれません。やはり、初めのうちは一つの中心対象に絞り込むマハーシ・システムがやりやすいでしょう。
  サティの瞑想の最も大事な基本ポイントは、妄想と事実の識別です。思考でまとめ上げた概念世界と、概念化されていない、純粋な事実の世界とをゴッチャにしないことです。

  自分がとらえている世界は、先入観が投影した思い込みの世界であって、ありのままの事実ではないという自覚があれば、あまり問題は起きてこないでしょう。ところが、自分の思い込んだ世界が事実そのものなんだと錯覚すると、さまざまな人生苦が発生してくることになります。

  事実に反応しているのではなく、自己中心的な思い込みに反応して憎んだり、貪ったりした揚げ句、苦しい人生になっていくのを無明の状態と言います。妄想で眼が曇って真実が見えなくなっているのだから、事実を正確に、ありのままに観る技法を訓練するのです。それが、気づきの瞑想であり、妄想を排除し、ものごとを正確に、ありのままに観ていく観察の瞑想です。

  初心者の場合、最初は中心対象の感覚をしっかり取る身随観から始めます。感覚に没入できると、余計な妄想をシャットアウトできるので、妄想や概念の世界と、あるがままの事実の世界との識別が明確になります。具体的な方法の詳細は『ブッダの瞑想法
ヴィパッサナー瞑想の理論と実践』の第四章を参照してください。
  瞑想を開始する前にテキストをよく読んでポイントを押さえ、実践した後、もう一度テキストを見直してチェックします。このようにすると自己流に流れたりせず、セオリー通り正確にレッスンできるので間違いも起きにくくなります。独習の大事なコツです。

  ポイントをマスターし完全に体得するには、毎日必ず
10分間以上は瞑想修行をやりましょう。一度頭に入ったことでも、だんだん曖昧になるのが人の認知や記憶ですから、繰り返しテキストを読み込んで厳密に修行すると上達が早くなります。
  他にお薦めできるものとして、映像付きの『
DVDブック』があります。これはグリーンヒルで長年瞑想をやっていた方がモデルとなって実演しているので、どこでラベリングするか、どこで間を入れるかなどの要点を画像でしっかり確認できます。直接瞑想指導を受けられない方のために製作されています。
  ラベリングや間の取り方などポイントがあやふやなままで行なうと、「次に何をやるんだっけ?」というふうに混乱してきますので、集中どころではなくなってしまいます。瞑想中に妄想が多発するのは、技術的な理解が不徹底だからです。これには、テキストを繰り返しおさらいすることです。

  技法がよく理解され、体調が整っていても、家庭や仕事など人生上の悩みを抱えている時には必ず妄想に巻き込まれます。この場合は、思考モードで結構ですので、きちんと対策を講じてから瞑想するのが順番です。問題解決の仕方は千差万別ですが、五戒を守り善行をする基本が普遍的な対応となるのを検証してください。


 Bさん:先ほど瞑想していたとき、のどがいがらっぽくなってきて、「いがらっぽい」とか「のどが痛い」とか、中心対象のお腹以外の体の中の感覚にいろいろ気がつきました。

アドバイス:
  ラベリングがきちんとされていたなら
OKです。

  起きた現象自体はあまり問題にはなりません。関係ないと考えて結構です。ヴィパッサナー瞑想では体の感覚であれ外乱の刺激であれ妄想であれ、優勢の法則に従って淡々とサティが入っているか否かが問われます。何があっても、どんなことが起きても、必ずそれを対象化して観る練習をすることによって、怒りや欲望に巻き込まれたりパニックに陥ったりしなくなります。現象に無我夢中でのめり込み巻き込まれていく時に問題が起きます。あらゆる事象を客観視する、気づきの力が働けば、冷静に落ち着いて物事に対応できるようになってきます。
  また、瞑想中にいろいろな感覚が起きてきますが、常にフィフティー:フィフティー5050
の原則を優先することが大事です。何かが優勢に感じられたのは、潜在意識も含めて自分がそちらに最も多くの注意を注いだ結果なのです。自分自身の真の姿が映し出される重要な瞬間と言ってよいでしょう。意識に強く触れたものには必ずサティを入れ、中心対象に戻すことを繰り返していけば、ヴィパッサナーのやり方としては大丈夫です。


 Cさん:怒りを内に秘めたままで瞑想を続けることはあまり効果があるとは感じられないのですが。そういう場合には、怒りそのものの内容に注意を向けるか、あるいは、取りあえず中心対象に意識を向け直すかでいつも迷っています。

アドバイス:
  この問題も、まず優勢の法則が最優先です。その瞬間の状態をよく観て、怒りのモヤモヤ状態と中心対象の感覚のどちらが明確で優勢なのかを見極めて、そちらにラベリングするのが原則です。

  怒りの内容に注意を向ければクローズアップされてきますが、そこから思考モードに陥り、怒りの原因をまさぐり始めたりすると、瞑想としては脱線です。思考での探索モードにならないように気をつけましょう。

  「今、自分は怒っている」と自覚されるのは気づきであり、サティが入っています。サティが入れば、そこでブレーキがかけられて怒りのボルテージは半減したり激減します。怒りそのものがなくならず、くすぶっていても、怒りが抑止できていれば、サティが機能している状態です。取りあえずこれでOKです。

  そこから先は、認知の問題となるでしょう。

  怒りが出るのは、何か理不尽なことが我が身に起きていると認識しているからです。基本的には、そのような認知の仕方が変わらない限り、怒りは治まりません。人は怒りを露わにするのは恥ずかしいと感じるため、取りあえず我慢して抑え込もうとします。そうすると、表面的には怒りがないように見えるのですが、本心には怒りが抱え込まれているので、このままで怒りが根絶されることはないでしょう。サティの抑止力が強烈なら、問題は何も発生せず、うまくやり過ごすことができるでしょうが、根本解決に導くためには、反応の仕方を変えなければなりません。反応を変えるとは、認知の仕方を変えることです。問題のとらえ方や情況把握の仕方が怒りの結論に導かれていくのを変えなければなりません。

  人は、さまざまな理由で怒りを覚えます。ここで大事なのは、なぜ怒りの状態になるのかをよく知ることです。同じ立場に置かれたとしても、怒りの出る人もいれば出ない人もいます。もし「嫌なことになってしまったが、ま、こうなるのも当然だ」とか「自業自得なのだから、この状態は自分にふさわしい・・」と考えられたら怒りは生まれません。つまり、怒るべき現象があるわけではなくて、その現象についての認識の仕方がポイントだということです。

  自分は何ひとつ悪いことをしていないのに、不当な扱いをされていると思えば、当然怒りが出るでしょう。確かに、その出来事だけを見れば、まったく自分に非が無いと考えられるかもしれません。しかし
1週間前、1ヶ月前、半年前から振り返ってみれば、自分も相当身勝手なことをしていたり、挑発的な言動があったりしませんか。今日に限って自分に落ち度はないが、お互い様という理解の仕方になるかも知れません。人は、自分に都合の悪いことはさっさと忘れるものです。いつの間にか自己中心的なものの見方に傾いてしまい、また、そのことに気づきづらいものです。ヴィパッサナー瞑想が必要不可欠な所以です。
  ツイッターにも書いたことですが、「人は自分が正しいと思っている時に最もよく怒る」傾向があります。自分と相手の認識は基本的に違いますし、そもそもそういうトラブルに巻き込まれること自体が自分の不善業の結果だという見方もできます。

  視座の転換を練習していけば、多角的なものの捉え方が自在になされるようになり、怒りのカードを本気で切るようなことはなくなっていくものです。例えば、嫌な出来事に遭遇した時には、これで不善業が一つ現象化して消えていくのはありがたい、と解釈する発想もあります。苦受を受けるということは、苦受を受けるだけの原因を過去に作ったわけですから、その原因が具現化して消えていったのは誠に慶賀すべきことで、ありがたいという考え方もできるのです。

  このように、怒りの理解の仕方を多角的に変えていくことが大切です。自分の価値観だけに縛られていたのではないかと気づければ、とたんに視野が拡がり、怒りを手放す方向に向かうのです。 怒りに限らず、グリーンヒルではネガティブなことがあったら、「祝いコーヒー」と言っているのですね。五戒の不飲酒戒の関係で「祝い酒」は飲めないので、「祝いコーヒー」なのです。嫌な出来事に腹を立てるのが世間の常識ですが、瞑想者たちは、怒りの正反対の発想で祝ってしまうのです。

  反応系の心の修行というものは、こうして自在に発想を転換し、認知を一変させて、あらゆる現象を捨の心で悠々と受け容れていくのです、


Dさん:あるがままに受容するとはどういう意味なのでしょう?

アドバイス:

  現象をあるがままに受容するという、このあるがままという言葉はとても誤解されやすいものでもあります。世間では「あるがままでいいのね」と、煩悩まみれの自分の存在をそのまま容認してしまう勘違いが多いのです。何にでもすぐに腹を立て、怒りを思いっきり爆発させてしまうと、今度はだらだらと後悔する、そんな自分が嫌でどうしようもないと思って苦しんできた人が、「あるがままでいいのよ」と言われて救われたような気になって嬉しくなってしまう・・。そういう感じですね。
  しかし原始仏教では、怒りや欲が強くてもそれがあるがままなのだからそれで良いと居直ることはあり得ません。怒りや欲の存在は事実なのだから、ありのままに認めるが、それで結構と容認してしまう発想はまったくありません。

  あるがままと言うのは、現象世界のどんなものも眼耳鼻舌身意の対象として存在するのだから、それに手を加えたりすることなく、ただありのままに認知する、そういう意味なのです。例えば、自分の心に怒りが生まれた瞬間、怒りは良くないからすぐに消そうと考える前に、ただ「怒り」とサティを入れます。怒りがなかったフリはせず、怒りが出たのは事実だから仕方がないと潔く承認するのです。ありのままに認めることができれば、それが純粋なサティですから、怒りは消えます。そしてその次の心で、私は怒りを離れた者になろう、と静かにきっぱりと決意するのです。あるいは欲を離れた者になろう、貪瞋痴を離れた者になろうという決意です。

  サティを入れる瞬間、煩悩の心を叩き潰そうとするのではなく、いったん不善心が出た事実を客観的に認めなくてはならないということです。自分にはまだ煩悩の心がある。その事実を潔く認めるからこそ、必ず無くしていくし、乗り超えていくという決意が揺るぎなくなるのです。怒りの心が生起した事実を、怒りの伴ったサティで叩き潰すのは、不純なヴィパッサナーです。

  このように、原始仏教では煩悩を「あるがまま」に放置しておいてよしとするものではありません。嫌悪や怒りの心で叩き潰してやるという態度も、あるがままから離れていきます。白い事実も黒い事実も正確に、あるがままに認めた上で、「悪を避け善をなす」心に組み替えていく。これが正解です。


Eさん:「うまくいかない」とか「うまくいっている」とかも考えるのも、よくないと言うことですか。

アドバイス:
  よくないと言うよりも、「おお、うまくいってるぞ」「あ、ダメだ、うまくいってない」という心がすでに起きてしまっているのですから、「判断している」「評価している」と、その瞬間のあるがままの状態にサティを入れれば良いということです。サティの瞑想をしながら、あれこれ判断を差しはさむのは本来ではありませんが、それが良い悪いと言うよりも、判断したり評価したりしていたのだから、その事実にサティが入れば、そこでパタッとおしまいになるのです。瞑想にとって好ましいことであっても、好ましくない何が起きても、その直後にそれを対象化し客観視する気づきがあれば、内容は何であれ離欲している心があったのです。
  もしサティが入らなければ、「考えてはいけない」「判断するのは悪い」・・と展開し、ヴィパッサナー瞑想から逸脱していくことになります。妄想の中身に入り込み、やるべきではないことをやってしまった、という後悔が生じ、心に葛藤が始まるでしょうから。

  何度も繰り返し申し上げていることですが、本当に何が起きてもいいのですよ。どんな現象も無差別平等に対象化できればそれでいい。起きたことは起きたことです。ブッダの瞑想法に基づいている限り、悪を避け善をなしていくことは揺るぎない基本方向なのですから、どんな事実もありのままに承認し、堂々と人生を生きていけばいいのです。ヴィパッサナー瞑想を続けていく限り、いついかなる時でも正しい反応ができるようになっていきます。

(文責:編集部)

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