月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

ヴィパッサナー瞑想の基本(1)

<ヴィパッサナー瞑想の目的>
Aさん:ヴィパッサナー瞑想の目的を端的に言えばどういうことになりますか。また、それを実現していくには何から始めれば良いでしょうか。

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想の目的を端的に言えば、煩悩から離れた心の状態を実現することと言えます。
  煩悩は、思考→妄想→煩悩というプロセスで出てきます。思考や妄想が働かなければ、あらゆる現象が法としてあるがまま、ただ痛みは痛みとして現れる、ただそれだけのことです。
  ところが、そこから思考が働き始めると、あるがままを離れていろいろな妄想が始まり、それによって煩悩が出てきて結果的に苦(dukkha:ドゥッカ)が生じることになります。従って、妄想から離れた状態で生きられるなら、苦からは完全に解放されることになります。ではどうやって妄想から離れるかが問題となりますが、それは現在の瞬間に気づいていくことによってなされます。
  ここで妄想というのは、過去を思い出したり今後の予定で あったり、あるいは空想などであって、それらが「あるがまま」でないことは言うまでもありません。そして、集中して何かをしている時以外は、私たちは「ああでもない、こうでもない」「ああしよう、こうしよう」など、頭の中はいつでもそんな思いで占められているのです。逆の面から見れば、もし心が過去や未来に飛ばずに現在の瞬間に張り付いているとすれば、 それは妄想していないことを示しています。そして、その状態を日常生活の中で達成していこうとする訓練法、それがヴィッパサナー瞑想です。
  では、具体的には何から始めていくのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想はブッダの教えを受け継いで壮大な体系を持っていますが、初心者の方は先ず身体の動きを感じることから始めます。身体が動いたのを感じている「今」、その一瞬一瞬はまさに現在の現象です。身体の動きは夢でも幻でも妄想でもありません。ですから、身体が動いた通りに感じ、それを確認していくことが出来れば、心は常に現在の瞬間にあるということになります。
  この身体の動きを感じて確認する、これを「身随観」と言います。具体的には歩行の時の(特に足裏の)感覚、坐って呼吸している時にお腹が膨らみ縮みする感覚、あるいは立つ瞑想では足の裏やその他の箇所の微妙な感覚、これを感じて確認、感じて確認していきます。これが妄想を離れていく訓練です。
  このように身体の感覚をきれいに感じ取っている時に、もし次元の異なる情報、たとえば音や光が入って来ると、それはその異質性によってすぐに分かります。外部からの音や光、あるいは心の中に浮かぶ思考などは、身体感覚とは全く違う次元です。そしてその異質性に気づいた時に、「音」「見た」「妄想」などと内語で言葉確認(ラベリングと言います)して見送り、また身体の感覚に戻します。
  ところで、ここで初心者の方のほとんどがぶつかる問題、坐る瞑想ではどうしても妄想が入りやすくなるということがあります。なぜかと言うと、歩行瞑想の場合は身体の動きがダイナミックですから、はっきり足が上がって動くというふうに体感も取りやすいのですが、坐る瞑想になると、腹部感覚はたいへん微妙でセンセーションとしてなかなか取りづらいところがあるからです。感覚を取る力が弱ければどうしても対象をはっきり確認できないために心は他の所に飛びやすくなってしまいます。多くの方がこのような経験をしています。
  そこで、もしお腹の感覚がわからなくなった場合には、手のひらを当てて確認してください。たとえ腹部の動きが微弱でも、手のひらを当てれば必ず動きが確認されます。ただし、お腹に手を当てて確かめる一連の動作に必ずサティを入れながらしてください。
  例えば、こんな風にです。「(お腹に手を当てよう)と思った」→「(膝の上の手を)上げた」→「(手首を)回した」→「近づけた」→「(お腹に手を)当てた」→「(温かい)と思った」→「膨らみ」→「縮み」→「膨らみ」→「縮み」→「(もうよい)と思った」→「(お腹から手が)離れた」→「伸ばした」→「(膝の上で手首を)回した」→「下ろした」→「触れた」・・・。
  このように腹部の動きを確認する一連の動作にサティを入れて行なえば、何分おきにやっても構いません。いつまでも手のひらを当てっぱなしにしない方がよい理由は、腹部で感じられるセンセーションと手のひらで感じているセンセーションを頭のなかでミックスするのはよくないからです。六門からの情報が直接知覚された状態が「法」なのです。
  また事前に、「必ずお腹に向かうんだ」とか「思考の中身には手を出さない」と決めておくのも効果があります。命じれば、心はその通りに言うことを聞くものだからです。
  ただ、感覚が弱いからと言って、ことさらお腹の動きを強めたり、呼吸を大きくしたり、あるいは意図的な工夫をして心を強引にそれに張り付けようとするのは、あるがままを観ていくヴィパッサナー瞑想の本質から外れてしまうので宜しくありません。あくまでも心の方を訓練することで集中力を養い、頑張って微かな感覚を捉える、この努力をして欲しいのです。
  かすかな感覚も集中して捉えられるように頑張るのがサティを成長させていく方法です。そういう意味では、ヴィッパサナーは頭で理解してすぐに出来るほど易しくはありませんね。抜け道もあまりないですし。いろいろなことをやっても、結局オーソドックスな、最も正統でシンプルなやり方が一番良いのです。
  私もさんざんいろいろな裏技をやってみたのですけれど、「あるがまま」から外れるものばかりでした。調子が良い時は良いように、ダメな時はダメなように、微かな時は微かなように、起きたままに、ありのままに気づきを成長させること以外にありません。
  ただ初心者の方は歩行瞑想を多くしてください。あまり歩かずに、坐る瞑想を好んでおやりになる方がいますが、これではヴィパッサナー瞑想を正しく体得するのは難しいでしょう。微弱なお腹の感覚に明確なサティを入れるよりも、「離れた」「進んだ」「触れた」「圧」とダイナミックなセンセーションが現れる歩行瞑想でサティの基本を叩き込むのが先です。歩く瞑想が完璧にできれば、坐る瞑想も必ずできるようになります。その逆はないでしょう。
  また、坐る瞑想では居眠りしてしまう状態であっても、歩く瞑想ならやれるものです。いつのまにか妄想にどっぷり嵌まってしまう危険性も、坐る瞑想の方がはるかに高いのです。坐る瞑想をしていて、眠気に巻き込まれ、妄想から脱け出られない状態になっていたら、立ち上がって別の瞑想に切り換えた方が宜しいです。そうすれば、立ち上がっていく感覚や歩く感覚は分かりますから。それにサティを入れて現在の瞬間に心をつないでいく、その方が良い修行になります。
  その次には、身体感覚だけではなく、心に起きた現象も観ていきます。考えごと、妄想、イメージ、過去の記憶、予定等々、今起きた心の現象に対して、「妄想した」「連想した」「考えた」と気づきを入れていくのです。このように、訓練のメニューはいろいろありますけれど、先ずは、身体の感覚を感じてそれにサティを入れていく、そこから始めてください。

Bさん:思考や妄想が問題なことは分かりますが、それらを離れるのはとても難しく感じています。

アドバイス:
  それは脳の中にそのような回路がしっかりできあがっていて、あまりにも当たり前すぎて普段はそういうことに気づこうともしないし、結果として生きていることと妄想していることがイコールになってしまっているからです。先ほど述べたように、私たちの頭の中はいつも思考、妄想でいっぱいなのです。私が自分で書いた文章ですが、「生きるとは、意識にぶつかってくる対象を自分好みに誤解しながら妄想で心を散乱状態にすることです」って。いやー、実にいいなーと思って。(笑)
  生きるというのはまさにこういうことなんです。眼耳鼻舌身意から対象が意識にぶつかってきてパッサー(phassa)という接触が生じる。それを自分好みに勝手に誤認しながら妄想で心を散乱状態にする。思考がダラダラと出てきてそれに引きずられる。思考の中身に引っ張られてしまう。それも未来のこととか過去のこととか、今のことではないもので頭を充満させながら、それで生きているつもりになっている状態。これが問題を発生させている一番の原因なのです。
  ヴィパッサナー瞑想は、この事実確認の気づきを徹底することによって妄想を離れる修行です。そこから事象の本質を洞察し、悟りに向かっていくのです。心が作り出す妄想の世界を完全に離れた者が如来である、という定義もあるのです。
  そして、その訓練の基本はとてもシンプルです。先ずは中心となる身体感覚を対象にして、それにグッと注意を注いで考えごとや妄想に嵌まらないようにする。もし考えごとや妄想が出たらそれに気づいてサッと離れ、また中心対象に戻すということです。とはいえ、この辺りの微妙なバランスは口で言うほど易しくはありませんけれども。
  なぜかと言うと、妄想を止めること自体が目的のようになってしまうことがあるからです。そうなると、何が何でも妄想を止めれば良いのだとなって、特殊なことをやったりするケースも出てきます。かりにそれで妄想が止まったとしても、それは集中力を養ってサマーディを高めるのには役立ちますが、ヴィパッサナー本来の気づきの瞑想、洞察智、直観智が出て来る訓練ではなくなってしまいます。
  ヴィパッサナーはもう一つ上の段階、集中力が養われた状態を維持しながら、思考、妄想が出ても中立的、客観的に事実確認の意識モードでいる、この訓練です。難しいことは難しいですが、これがヴィパッサナーの仕事なのです。

<気づく」ことの意味> 

Cさん:煩悩のコントロールにサティは不可欠ですか。

アドバイス:
  サティの瞑想以外にも、心を統一し、煩悩を鎮めていく訓練法は様々なものがあります。なかでもサマタ瞑想は修行として充分意味があり、たいへん優れていると言えるでしょう。しかし、その修行は次のステップに行くのに大事なことではありますが、心を根底から組み換えるための発見には結びつきません。気づきなしにいくら心が静かに落ち着いても、それは「現世の楽住」であり、ヴィパッサナーの立場からはどうでもよいことです。もちろん悟ることもできません。気づきがなければ、自分の心の状態がどのようになっているかが分かろうはずがありませんし、煩悩も一時的に遮断しているだけで、無くなったことにはならないからです。
  ヴィパッサナーというのは、徹底的な気づきで自分の心の正体を見抜いていくこと、そして戒定慧の順に心の全体的なシステムを組み変えていく作業です。

Dさん:歩く瞑想の時ですが、だんだん動作がラベリングと同じリズムになってきて心の中で唱えるだけになってしまい、妄想は出なくても感じることがおろそかになってしまいます。坐る瞑想でも、お腹の感じが微弱なので、最初は集中して感じていても、「膨らみ」「縮み」がだんだん心地よいリズムのように聞こえてきて、気がつくと感覚を感じる集中力が落ちています。

アドバイス:
  心の統一法としてのサマタ瞑想には、繰り返し単調な言葉を唱えて妄想を遮断し、集中して深めていくやり方があります。ヴィパッサナー瞑想で気づきの修行をしていても、ラベリングをリズミカルに付けていったときに、それがあたかもメトロノームのような感じになってくると同じことが起きてしまいます。現実感覚を失ってくるからです。また、膨らみ縮みの実感ではなく、お腹のイメージを心に浮かべ、それに対して「膨らみ、縮み」と集中していけば、それもまた概念を対象にするサマタ系の瞑想になってしまいます。
  ヴィパッサナーは、現実の生々しい一瞬一瞬に気づくことが絶対に外せない条件です。ラベリングが機械的になってパターン化すると、かなり現実から離れていく可能性があります足の感覚ではなくて、リズミカルなイメージの方にうっとり集中するようになると、ヴィパッサナーからは脱線していってしまいます。もしそうなりそうになったら、わざと立ち止まってみたり、感じられなかったら感じられるようになるまで歩かなくてもいいやぐらいの方が良いのです。
  歩行でも坐る瞑想でも、「一回一回微妙に違う。絶対に同じものはない」ということを前提にして、それをきちんと識別できるように集中してください。
  集中を意図的に高めるだけなら、その言葉に集中していくマントラ系のやり方でも意味がありますが、ヴィパッサナーを正しくやるためには現実感覚を失ってはならないのです。瞑想修行者の中には、自分の作り出した神秘的な世界に没入しておかしくなる人も無くはありません。
  それに対してヴィパッサナー瞑想が絶対に安全なのは、現実から離れない、現実感覚を失わないということが大前提であって、常に今の状態に気づいているからです。ヴィパッサナーを正しく実践していて、おかしくなることはあり得ません。

Eさん:怒りが起きて「怒り」とラベリングすると消える時もありますが、消えたと自分で思い込んでいるだけということもあるようです。本当に気づいたというのは、怒りが確認出来たことと消えたという事実、そしてそれが自分で明確に分かるという言うことでしょうか。

アドバイス:
  気づきが手遅れになると、「怒り」「怒り」とラベリングしても焼け石に水となってすぐには怒りが消えない時があります。また反対に、ドラマチックにドーンとそれこそ一瞬にして怒りが消える感動的な体験も多々あります。
  心のどこかで「やはり間違っているのは向こうだ・・・」などという気持を抱えながら言葉だけ「怒り」「怒り」とラベリングを付けていても、これはうまく行きません。このように、何らかの原因があって怒りがなかなか消えないという状態は良くあることで、いつもうまくいくとは限らないというのも事実です。
  でも、とりあえず「怒り」「怒り」とラベリングが出せているだけでもけっこうです。きれいに対象化、客観化という仕事をやっているわけではありませんが、とりあえず怒りを対象化しようと頑張っている姿だからです。いつも理論的に絵に描いたような感じでうまくいくのを期待しすぎると良くないので、その辺は淡々とやってください。
  もちろん理想的には、あなたの仰る通り、怒りが確認出来たこと、消えたという事実、そしてそれが自分で明確に分かること。これだけ出揃えば、完璧に心から怒りが駆逐された状態といってよいでしょう。そんな素晴らしいサティが入るように、しっかり修行していきましょう。(文責:編集部)

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