月刊サティ!
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~
<ヴィパッサナー瞑想の目的>
Aさん:ヴィパッサナー瞑想の目的を端的に言えばどういうことになりますか。また、それを実現していくには何から始めれば良いでしょうか。
アドバイス:
ヴィパッサナー瞑想の目的を端的に言えば、煩悩から離れた心の状態を実現することと言えます。
煩悩は、思考→妄想→煩悩というプロセスで出てきます。思考や妄想が働かなければ、あらゆる現象が法としてあるがまま、ただ痛みは痛みとして現れる、ただそれだけのことです。
ところが、そこから思考が働き始めると、あるがままを離れていろいろな妄想が始まり、それによって煩悩が出てきて結果的に苦(dukkha:ドゥッカ)が生じることになります。従って、妄想から離れた状態で生きられるなら、苦からは完全に解放されることになります。ではどうやって妄想から離れるかが問題となりますが、それは現在の瞬間に気づいていくことによってなされます。
ここで妄想というのは、過去を思い出したり今後の予定で
あったり、あるいは空想などであって、それらが「あるがまま」でないことは言うまでもありません。そして、集中して何かをしている時以外は、私たちは「ああでもない、こうでもない」「ああしよう、こうしよう」など、頭の中はいつでもそんな思いで占められているのです。逆の面から見れば、もし心が過去や未来に飛ばずに現在の瞬間に張り付いているとすれば、
それは妄想していないことを示しています。そして、その状態を日常生活の中で達成していこうとする訓練法、それがヴィッパサナー瞑想です。
では、具体的には何から始めていくのでしょうか。ヴィパッサナー瞑想はブッダの教えを受け継いで壮大な体系を持っていますが、初心者の方は先ず身体の動きを感じることから始めます。身体が動いたのを感じている「今」、その一瞬一瞬はまさに現在の現象です。身体の動きは夢でも幻でも妄想でもありません。ですから、身体が動いた通りに感じ、それを確認していくことが出来れば、心は常に現在の瞬間にあるということになります。
この身体の動きを感じて確認する、これを「身随観」と言います。具体的には歩行の時の(特に足裏の)感覚、坐って呼吸している時にお腹が膨らみ縮みする感覚、あるいは立つ瞑想では足の裏やその他の箇所の微妙な感覚、これを感じて確認、感じて確認していきます。これが妄想を離れていく訓練です。
このように身体の感覚をきれいに感じ取っている時に、もし次元の異なる情報、たとえば音や光が入って来ると、それはその異質性によってすぐに分かります。外部からの音や光、あるいは心の中に浮かぶ思考などは、身体感覚とは全く違う次元です。そしてその異質性に気づいた時に、「音」「見た」「妄想」などと内語で言葉確認(ラベリングと言います)して見送り、また身体の感覚に戻します。
ところで、ここで初心者の方のほとんどがぶつかる問題、坐る瞑想ではどうしても妄想が入りやすくなるということがあります。なぜかと言うと、歩行瞑想の場合は身体の動きがダイナミックですから、はっきり足が上がって動くというふうに体感も取りやすいのですが、坐る瞑想になると、腹部感覚はたいへん微妙でセンセーションとしてなかなか取りづらいところがあるからです。感覚を取る力が弱ければどうしても対象をはっきり確認できないために心は他の所に飛びやすくなってしまいます。多くの方がこのような経験をしています。
そこで、もしお腹の感覚がわからなくなった場合には、手のひらを当てて確認してください。たとえ腹部の動きが微弱でも、手のひらを当てれば必ず動きが確認されます。ただし、お腹に手を当てて確かめる一連の動作に必ずサティを入れながらしてください。
例えば、こんな風にです。「(お腹に手を当てよう)と思った」→「(膝の上の手を)上げた」→「(手首を)回した」→「近づけた」→「(お腹に手を)当てた」→「(温かい)と思った」→「膨らみ」→「縮み」→「膨らみ」→「縮み」→「(もうよい)と思った」→「(お腹から手が)離れた」→「伸ばした」→「(膝の上で手首を)回した」→「下ろした」→「触れた」・・・。
このように腹部の動きを確認する一連の動作にサティを入れて行なえば、何分おきにやっても構いません。いつまでも手のひらを当てっぱなしにしない方がよい理由は、腹部で感じられるセンセーションと手のひらで感じているセンセーションを頭のなかでミックスするのはよくないからです。六門からの情報が直接知覚された状態が「法」なのです。
また事前に、「必ずお腹に向かうんだ」とか「思考の中身には手を出さない」と決めておくのも効果があります。命じれば、心はその通りに言うことを聞くものだからです。
ただ、感覚が弱いからと言って、ことさらお腹の動きを強めたり、呼吸を大きくしたり、あるいは意図的な工夫をして心を強引にそれに張り付けようとするのは、あるがままを観ていくヴィパッサナー瞑想の本質から外れてしまうので宜しくありません。あくまでも心の方を訓練することで集中力を養い、頑張って微かな感覚を捉える、この努力をして欲しいのです。
かすかな感覚も集中して捉えられるように頑張るのがサティを成長させていく方法です。そういう意味では、ヴィッパサナーは頭で理解してすぐに出来るほど易しくはありませんね。抜け道もあまりないですし。いろいろなことをやっても、結局オーソドックスな、最も正統でシンプルなやり方が一番良いのです。
私もさんざんいろいろな裏技をやってみたのですけれど、「あるがまま」から外れるものばかりでした。調子が良い時は良いように、ダメな時はダメなように、微かな時は微かなように、起きたままに、ありのままに気づきを成長させること以外にありません。
ただ初心者の方は歩行瞑想を多くしてください。あまり歩かずに、坐る瞑想を好んでおやりになる方がいますが、これではヴィパッサナー瞑想を正しく体得するのは難しいでしょう。微弱なお腹の感覚に明確なサティを入れるよりも、「離れた」「進んだ」「触れた」「圧」とダイナミックなセンセーションが現れる歩行瞑想でサティの基本を叩き込むのが先です。歩く瞑想が完璧にできれば、坐る瞑想も必ずできるようになります。その逆はないでしょう。
また、坐る瞑想では居眠りしてしまう状態であっても、歩く瞑想ならやれるものです。いつのまにか妄想にどっぷり嵌まってしまう危険性も、坐る瞑想の方がはるかに高いのです。坐る瞑想をしていて、眠気に巻き込まれ、妄想から脱け出られない状態になっていたら、立ち上がって別の瞑想に切り換えた方が宜しいです。そうすれば、立ち上がっていく感覚や歩く感覚は分かりますから。それにサティを入れて現在の瞬間に心をつないでいく、その方が良い修行になります。
その次には、身体感覚だけではなく、心に起きた現象も観ていきます。考えごと、妄想、イメージ、過去の記憶、予定等々、今起きた心の現象に対して、「妄想した」「連想した」「考えた」と気づきを入れていくのです。このように、訓練のメニューはいろいろありますけれど、先ずは、身体の感覚を感じてそれにサティを入れていく、そこから始めてください。
Bさん:思考や妄想が問題なことは分かりますが、それらを離れるのはとても難しく感じています。
アドバイス:
それは脳の中にそのような回路がしっかりできあがっていて、あまりにも当たり前すぎて普段はそういうことに気づこうともしないし、結果として生きていることと妄想していることがイコールになってしまっているからです。先ほど述べたように、私たちの頭の中はいつも思考、妄想でいっぱいなのです。私が自分で書いた文章ですが、「生きるとは、意識にぶつかってくる対象を自分好みに誤解しながら妄想で心を散乱状態にすることです」って。いやー、実にいいなーと思って。(笑)
生きるというのはまさにこういうことなんです。眼耳鼻舌身意から対象が意識にぶつかってきてパッサー(phassa)という接触が生じる。それを自分好みに勝手に誤認しながら妄想で心を散乱状態にする。思考がダラダラと出てきてそれに引きずられる。思考の中身に引っ張られてしまう。それも未来のこととか過去のこととか、今のことではないもので頭を充満させながら、それで生きているつもりになっている状態。これが問題を発生させている一番の原因なのです。
ヴィパッサナー瞑想は、この事実確認の気づきを徹底することによって妄想を離れる修行です。そこから事象の本質を洞察し、悟りに向かっていくのです。心が作り出す妄想の世界を完全に離れた者が如来である、という定義もあるのです。
そして、その訓練の基本はとてもシンプルです。先ずは中心となる身体感覚を対象にして、それにグッと注意を注いで考えごとや妄想に嵌まらないようにする。もし考えごとや妄想が出たらそれに気づいてサッと離れ、また中心対象に戻すということです。とはいえ、この辺りの微妙なバランスは口で言うほど易しくはありませんけれども。
なぜかと言うと、妄想を止めること自体が目的のようになってしまうことがあるからです。そうなると、何が何でも妄想を止めれば良いのだとなって、特殊なことをやったりするケースも出てきます。かりにそれで妄想が止まったとしても、それは集中力を養ってサマーディを高めるのには役立ちますが、ヴィパッサナー本来の気づきの瞑想、洞察智、直観智が出て来る訓練ではなくなってしまいます。
ヴィパッサナーはもう一つ上の段階、集中力が養われた状態を維持しながら、思考、妄想が出ても中立的、客観的に事実確認の意識モードでいる、この訓練です。難しいことは難しいですが、これがヴィパッサナーの仕事なのです。
<気づく」ことの意味>
Cさん:煩悩のコントロールにサティは不可欠ですか。
アドバイス:
サティの瞑想以外にも、心を統一し、煩悩を鎮めていく訓練法は様々なものがあります。なかでもサマタ瞑想は修行として充分意味があり、たいへん優れていると言えるでしょう。しかし、その修行は次のステップに行くのに大事なことではありますが、心を根底から組み換えるための発見には結びつきません。気づきなしにいくら心が静かに落ち着いても、それは「現世の楽住」であり、ヴィパッサナーの立場からはどうでもよいことです。もちろん悟ることもできません。気づきがなければ、自分の心の状態がどのようになっているかが分かろうはずがありませんし、煩悩も一時的に遮断しているだけで、無くなったことにはならないからです。
ヴィパッサナーというのは、徹底的な気づきで自分の心の正体を見抜いていくこと、そして戒定慧の順に心の全体的なシステムを組み変えていく作業です。
Dさん:歩く瞑想の時ですが、だんだん動作がラベリングと同じリズムになってきて心の中で唱えるだけになってしまい、妄想は出なくても感じることがおろそかになってしまいます。坐る瞑想でも、お腹の感じが微弱なので、最初は集中して感じていても、「膨らみ」「縮み」がだんだん心地よいリズムのように聞こえてきて、気がつくと感覚を感じる集中力が落ちています。
アドバイス:
心の統一法としてのサマタ瞑想には、繰り返し単調な言葉を唱えて妄想を遮断し、集中して深めていくやり方があります。ヴィパッサナー瞑想で気づきの修行をしていても、ラベリングをリズミカルに付けていったときに、それがあたかもメトロノームのような感じになってくると同じことが起きてしまいます。現実感覚を失ってくるからです。また、膨らみ縮みの実感ではなく、お腹のイメージを心に浮かべ、それに対して「膨らみ、縮み」と集中していけば、それもまた概念を対象にするサマタ系の瞑想になってしまいます。
ヴィパッサナーは、現実の生々しい一瞬一瞬に気づくことが絶対に外せない条件です。ラベリングが機械的になってパターン化すると、かなり現実から離れていく可能性があります足の感覚ではなくて、リズミカルなイメージの方にうっとり集中するようになると、ヴィパッサナーからは脱線していってしまいます。もしそうなりそうになったら、わざと立ち止まってみたり、感じられなかったら感じられるようになるまで歩かなくてもいいやぐらいの方が良いのです。
歩行でも坐る瞑想でも、「一回一回微妙に違う。絶対に同じものはない」ということを前提にして、それをきちんと識別できるように集中してください。
集中を意図的に高めるだけなら、その言葉に集中していくマントラ系のやり方でも意味がありますが、ヴィパッサナーを正しくやるためには現実感覚を失ってはならないのです。瞑想修行者の中には、自分の作り出した神秘的な世界に没入しておかしくなる人も無くはありません。
それに対してヴィパッサナー瞑想が絶対に安全なのは、現実から離れない、現実感覚を失わないということが大前提であって、常に今の状態に気づいているからです。ヴィパッサナーを正しく実践していて、おかしくなることはあり得ません。
Eさん:怒りが起きて「怒り」とラベリングすると消える時もありますが、消えたと自分で思い込んでいるだけということもあるようです。本当に気づいたというのは、怒りが確認出来たことと消えたという事実、そしてそれが自分で明確に分かるという言うことでしょうか。
アドバイス:
気づきが手遅れになると、「怒り」「怒り」とラベリングしても焼け石に水となってすぐには怒りが消えない時があります。また反対に、ドラマチックにドーンとそれこそ一瞬にして怒りが消える感動的な体験も多々あります。
心のどこかで「やはり間違っているのは向こうだ・・・」などという気持を抱えながら言葉だけ「怒り」「怒り」とラベリングを付けていても、これはうまく行きません。このように、何らかの原因があって怒りがなかなか消えないという状態は良くあることで、いつもうまくいくとは限らないというのも事実です。
でも、とりあえず「怒り」「怒り」とラベリングが出せているだけでもけっこうです。きれいに対象化、客観化という仕事をやっているわけではありませんが、とりあえず怒りを対象化しようと頑張っている姿だからです。いつも理論的に絵に描いたような感じでうまくいくのを期待しすぎると良くないので、その辺は淡々とやってください。
もちろん理想的には、あなたの仰る通り、怒りが確認出来たこと、消えたという事実、そしてそれが自分で明確に分かること。これだけ出揃えば、完璧に心から怒りが駆逐された状態といってよいでしょう。そんな素晴らしいサティが入るように、しっかり修行していきましょう。(文責:編集部)
Aさん:ヴィパッサナー瞑想の上達のコツを教えてください。
アドバイス:
今回が初めての方ですね。
瞑想はスポーツや芸事と同じで、少し練習しただけですぐに上達できるというものではありません。毎日10分間以上は必ず瞑想してください。やり方のポイントは、まず足やお腹の感覚をしっかり感じることに集中してください。
歩く瞑想の場合でしたら、足の感覚を丁寧に観ていきます。例えば、足先が離れた瞬間には接触感が消えていくという印象があるでしょう。その直後に、今度は、足指の肉が微妙に戻る感覚が生じてきます。その微細な感覚の変化まできちんと感じ取ろうとすると、自ら集中が高まりますから、余計なことを考えている暇などなくなります。
感覚がしっかり感じ取れたら、その感覚に対して「離れた」とラベリングします。そして次の動作に対して、動き出す最初の瞬間の感覚を逃さないように集中をかけます。動き出す→足が前に進んでいく感覚→止まった瞬間の微細なブレまで、一瞬も逃さない意気込みで丁寧に感じていくのです。すると、ここまで徹底してセンセーションの変化に注意を注いでいくと、中心対象外に注意が逸れる余地がなくなり、思考もイメージも出なくなるはずです。
初心者は瞑想中に必ず雑念に悩まされますので、まずセンセーションに没入して集中を高め、雑念や妄想が入らない状態でサティが連続するのを確かめていただきたいのです。このやり方は、集中の要素と気づきの要素が同時並行的に訓練できるように設計されています。
この「法の確認のサティ」は、中心対象に絞り込み、顕微鏡モードで観察するやり方なので、普通の日常生活でサティを入れる時にはふさわしくありません。普段の生活では、今自分が何をしているのか、ざっくり自覚できれば良しとする肉眼モードのサティになります。これは「自覚のサティ」と呼ばれます。ざっくりでも、今自分は何をしているか、に気づいていれば客観視ができているのだから良しとするやり方です。
日常では、中心対象を定めず、ランダムに「見た」「感じた」「思った」と、意識に強く触れたものは全て気づいていくやり方です。ただ、中心対象無しは初心者には少し難しいかもしれません。やはり、初めのうちは一つの中心対象に絞り込むマハーシ・システムがやりやすいでしょう。
サティの瞑想の最も大事な基本ポイントは、妄想と事実の識別です。思考でまとめ上げた概念世界と、概念化されていない、純粋な事実の世界とをゴッチャにしないことです。
自分がとらえている世界は、先入観が投影した思い込みの世界であって、ありのままの事実ではないという自覚があれば、あまり問題は起きてこないでしょう。ところが、自分の思い込んだ世界が事実そのものなんだと錯覚すると、さまざまな人生苦が発生してくることになります。
事実に反応しているのではなく、自己中心的な思い込みに反応して憎んだり、貪ったりした揚げ句、苦しい人生になっていくのを無明の状態と言います。妄想で眼が曇って真実が見えなくなっているのだから、事実を正確に、ありのままに観る技法を訓練するのです。それが、気づきの瞑想であり、妄想を排除し、ものごとを正確に、ありのままに観ていく観察の瞑想です。
初心者の場合、最初は中心対象の感覚をしっかり取る身随観から始めます。感覚に没入できると、余計な妄想をシャットアウトできるので、妄想や概念の世界と、あるがままの事実の世界との識別が明確になります。具体的な方法の詳細は『ブッダの瞑想法―ヴィパッサナー瞑想の理論と実践―』の第四章を参照してください。
瞑想を開始する前にテキストをよく読んでポイントを押さえ、実践した後、もう一度テキストを見直してチェックします。このようにすると自己流に流れたりせず、セオリー通り正確にレッスンできるので間違いも起きにくくなります。独習の大事なコツです。
ポイントをマスターし完全に体得するには、毎日必ず10分間以上は瞑想修行をやりましょう。一度頭に入ったことでも、だんだん曖昧になるのが人の認知や記憶ですから、繰り返しテキストを読み込んで厳密に修行すると上達が早くなります。
他にお薦めできるものとして、映像付きの『DVDブック』があります。これはグリーンヒルで長年瞑想をやっていた方がモデルとなって実演しているので、どこでラベリングするか、どこで間を入れるかなどの要点を画像でしっかり確認できます。直接瞑想指導を受けられない方のために製作されています。
ラベリングや間の取り方などポイントがあやふやなままで行なうと、「次に何をやるんだっけ?」というふうに混乱してきますので、集中どころではなくなってしまいます。瞑想中に妄想が多発するのは、技術的な理解が不徹底だからです。これには、テキストを繰り返しおさらいすることです。
技法がよく理解され、体調が整っていても、家庭や仕事など人生上の悩みを抱えている時には必ず妄想に巻き込まれます。この場合は、思考モードで結構ですので、きちんと対策を講じてから瞑想するのが順番です。問題解決の仕方は千差万別ですが、五戒を守り善行をする基本が普遍的な対応となるのを検証してください。
Bさん:先ほど瞑想していたとき、のどがいがらっぽくなってきて、「いがらっぽい」とか「のどが痛い」とか、中心対象のお腹以外の体の中の感覚にいろいろ気がつきました。
アドバイス:
ラベリングがきちんとされていたならOKです。
起きた現象自体はあまり問題にはなりません。関係ないと考えて結構です。ヴィパッサナー瞑想では体の感覚であれ外乱の刺激であれ妄想であれ、優勢の法則に従って淡々とサティが入っているか否かが問われます。何があっても、どんなことが起きても、必ずそれを対象化して観る練習をすることによって、怒りや欲望に巻き込まれたりパニックに陥ったりしなくなります。現象に無我夢中でのめり込み巻き込まれていく時に問題が起きます。あらゆる事象を客観視する、気づきの力が働けば、冷静に落ち着いて物事に対応できるようになってきます。
また、瞑想中にいろいろな感覚が起きてきますが、常にフィフティー:フィフティー(50対50)の原則を優先することが大事です。何かが優勢に感じられたのは、潜在意識も含めて自分がそちらに最も多くの注意を注いだ結果なのです。自分自身の真の姿が映し出される重要な瞬間と言ってよいでしょう。意識に強く触れたものには必ずサティを入れ、中心対象に戻すことを繰り返していけば、ヴィパッサナーのやり方としては大丈夫です。
Cさん:怒りを内に秘めたままで瞑想を続けることはあまり効果があるとは感じられないのですが。そういう場合には、怒りそのものの内容に注意を向けるか、あるいは、取りあえず中心対象に意識を向け直すかでいつも迷っています。
アドバイス:
この問題も、まず優勢の法則が最優先です。その瞬間の状態をよく観て、怒りのモヤモヤ状態と中心対象の感覚のどちらが明確で優勢なのかを見極めて、そちらにラベリングするのが原則です。
怒りの内容に注意を向ければクローズアップされてきますが、そこから思考モードに陥り、怒りの原因をまさぐり始めたりすると、瞑想としては脱線です。思考での探索モードにならないように気をつけましょう。
「今、自分は怒っている」と自覚されるのは気づきであり、サティが入っています。サティが入れば、そこでブレーキがかけられて怒りのボルテージは半減したり激減します。怒りそのものがなくならず、くすぶっていても、怒りが抑止できていれば、サティが機能している状態です。取りあえずこれでOKです。
そこから先は、認知の問題となるでしょう。
怒りが出るのは、何か理不尽なことが我が身に起きていると認識しているからです。基本的には、そのような認知の仕方が変わらない限り、怒りは治まりません。人は怒りを露わにするのは恥ずかしいと感じるため、取りあえず我慢して抑え込もうとします。そうすると、表面的には怒りがないように見えるのですが、本心には怒りが抱え込まれているので、このままで怒りが根絶されることはないでしょう。サティの抑止力が強烈なら、問題は何も発生せず、うまくやり過ごすことができるでしょうが、根本解決に導くためには、反応の仕方を変えなければなりません。反応を変えるとは、認知の仕方を変えることです。問題のとらえ方や情況把握の仕方が怒りの結論に導かれていくのを変えなければなりません。
人は、さまざまな理由で怒りを覚えます。ここで大事なのは、なぜ怒りの状態になるのかをよく知ることです。同じ立場に置かれたとしても、怒りの出る人もいれば出ない人もいます。もし「嫌なことになってしまったが、ま、こうなるのも当然だ」とか「自業自得なのだから、この状態は自分にふさわしい・・」と考えられたら怒りは生まれません。つまり、怒るべき現象があるわけではなくて、その現象についての認識の仕方がポイントだということです。
自分は何ひとつ悪いことをしていないのに、不当な扱いをされていると思えば、当然怒りが出るでしょう。確かに、その出来事だけを見れば、まったく自分に非が無いと考えられるかもしれません。しかし1週間前、1ヶ月前、半年前から振り返ってみれば、自分も相当身勝手なことをしていたり、挑発的な言動があったりしませんか。今日に限って自分に落ち度はないが、お互い様という理解の仕方になるかも知れません。人は、自分に都合の悪いことはさっさと忘れるものです。いつの間にか自己中心的なものの見方に傾いてしまい、また、そのことに気づきづらいものです。ヴィパッサナー瞑想が必要不可欠な所以です。
ツイッターにも書いたことですが、「人は自分が正しいと思っている時に最もよく怒る」傾向があります。自分と相手の認識は基本的に違いますし、そもそもそういうトラブルに巻き込まれること自体が自分の不善業の結果だという見方もできます。
視座の転換を練習していけば、多角的なものの捉え方が自在になされるようになり、怒りのカードを本気で切るようなことはなくなっていくものです。例えば、嫌な出来事に遭遇した時には、これで不善業が一つ現象化して消えていくのはありがたい、と解釈する発想もあります。苦受を受けるということは、苦受を受けるだけの原因を過去に作ったわけですから、その原因が具現化して消えていったのは誠に慶賀すべきことで、ありがたいという考え方もできるのです。
このように、怒りの理解の仕方を多角的に変えていくことが大切です。自分の価値観だけに縛られていたのではないかと気づければ、とたんに視野が拡がり、怒りを手放す方向に向かうのです。 怒りに限らず、グリーンヒルではネガティブなことがあったら、「祝いコーヒー」と言っているのですね。五戒の不飲酒戒の関係で「祝い酒」は飲めないので、「祝いコーヒー」なのです。嫌な出来事に腹を立てるのが世間の常識ですが、瞑想者たちは、怒りの正反対の発想で祝ってしまうのです。
反応系の心の修行というものは、こうして自在に発想を転換し、認知を一変させて、あらゆる現象を捨の心で悠々と受け容れていくのです、
Dさん:あるがままに受容するとはどういう意味なのでしょう?
アドバイス:
現象をあるがままに受容するという、このあるがままという言葉はとても誤解されやすいものでもあります。世間では「あるがままでいいのね」と、煩悩まみれの自分の存在をそのまま容認してしまう勘違いが多いのです。何にでもすぐに腹を立て、怒りを思いっきり爆発させてしまうと、今度はだらだらと後悔する、そんな自分が嫌でどうしようもないと思って苦しんできた人が、「あるがままでいいのよ」と言われて救われたような気になって嬉しくなってしまう・・。そういう感じですね。
しかし原始仏教では、怒りや欲が強くてもそれがあるがままなのだからそれで良いと居直ることはあり得ません。怒りや欲の存在は事実なのだから、ありのままに認めるが、それで結構と容認してしまう発想はまったくありません。
あるがままと言うのは、現象世界のどんなものも眼耳鼻舌身意の対象として存在するのだから、それに手を加えたりすることなく、ただありのままに認知する、そういう意味なのです。例えば、自分の心に怒りが生まれた瞬間、怒りは良くないからすぐに消そうと考える前に、ただ「怒り」とサティを入れます。怒りがなかったフリはせず、怒りが出たのは事実だから仕方がないと潔く承認するのです。ありのままに認めることができれば、それが純粋なサティですから、怒りは消えます。そしてその次の心で、私は怒りを離れた者になろう、と静かにきっぱりと決意するのです。あるいは欲を離れた者になろう、貪瞋痴を離れた者になろうという決意です。
サティを入れる瞬間、煩悩の心を叩き潰そうとするのではなく、いったん不善心が出た事実を客観的に認めなくてはならないということです。自分にはまだ煩悩の心がある。その事実を潔く認めるからこそ、必ず無くしていくし、乗り超えていくという決意が揺るぎなくなるのです。怒りの心が生起した事実を、怒りの伴ったサティで叩き潰すのは、不純なヴィパッサナーです。
このように、原始仏教では煩悩を「あるがまま」に放置しておいてよしとするものではありません。嫌悪や怒りの心で叩き潰してやるという態度も、あるがままから離れていきます。白い事実も黒い事実も正確に、あるがままに認めた上で、「悪を避け善をなす」心に組み替えていく。これが正解です。
Eさん:「うまくいかない」とか「うまくいっている」とかも考えるのも、よくないと言うことですか。
アドバイス:
よくないと言うよりも、「おお、うまくいってるぞ」「あ、ダメだ、うまくいってない」という心がすでに起きてしまっているのですから、「判断している」「評価している」と、その瞬間のあるがままの状態にサティを入れれば良いということです。サティの瞑想をしながら、あれこれ判断を差しはさむのは本来ではありませんが、それが良い悪いと言うよりも、判断したり評価したりしていたのだから、その事実にサティが入れば、そこでパタッとおしまいになるのです。瞑想にとって好ましいことであっても、好ましくない何が起きても、その直後にそれを対象化し客観視する気づきがあれば、内容は何であれ離欲している心があったのです。
もしサティが入らなければ、「考えてはいけない」「判断するのは悪い」・・と展開し、ヴィパッサナー瞑想から逸脱していくことになります。妄想の中身に入り込み、やるべきではないことをやってしまった、という後悔が生じ、心に葛藤が始まるでしょうから。
何度も繰り返し申し上げていることですが、本当に何が起きてもいいのですよ。どんな現象も無差別平等に対象化できればそれでいい。起きたことは起きたことです。ブッダの瞑想法に基づいている限り、悪を避け善をなしていくことは揺るぎない基本方向なのですから、どんな事実もありのままに承認し、堂々と人生を生きていけばいいのです。ヴィパッサナー瞑想を続けていく限り、いついかなる時でも正しい反応ができるようになっていきます。
(文責:編集部)
Aさん:禅宗の坐禅に対して、ヴィパッサナー瞑想の坐る瞑想の特徴は何でしょうか。
アドバイス:
禅とヴィパッサナーでは、そもそも悟り観が違うので行法も異なりますが、共通点もあります。禅宗の中でも、例えば臨済宗では数息観から始まって公案を用いるし、曹洞宗ではひたすら坐り抜く只管打坐ですね。どちらも思考モードを離れることが最大のポイントで、概念の世界から来るものはしょせん妄想であって真実ではないという立場です。この点は、ヴィパッサナー瞑想とまったく同じと言ってよいでしょう。
思考を止めるために、ヴィパッサナー瞑想ではサティという技法を使いますが、臨済禅では思考モードでは絶対に答えが出ない公案に取り組ませるし、曹洞宗では妄想を歓迎もせず嫌悪もせずひたすら坐り抜いていくようです。
エゴを手放して無我を目指すところも共通点といえるでしょう。他力本願ではなく、自力の修行によって究極を目指すのも同じです。
禅とヴィパッサナーが決定的に異なるのは、悟り観です。ヴィパッサナーでは、輪廻転生から解脱して存在の世界から全面撤退しますが、禅では輪廻転生を問題にしない立場のようです。存在の世界からの撤退とは、現象世界否定論と言うこともできます。一方、禅宗では万物万象と一如になる方向で、根本は現象世界肯定論であり、梵我思想と軌を一にすると言えるでしょう。
禅の場合には、坐禅のやり方をあまり丁寧に説明しないところがあるようです。かつて八王子でグリーンヒルの合宿をやっていた頃、禅宗のお坊さんたちが何人も参加されました。ヴィパッサナー瞑想では、坐る瞑想のやり方を始め、歩く瞑想や立つ瞑想、喫茶や食事の瞑想など、どのようにサティを入れるか、詳細に徹底的に説明します。禅の修行を深めるのに、ヴィパッサナー瞑想の説明がとても分かりやすいし参考になる、ということで、いろいろ壁にぶつかっていた出家の方がかなり来られました。
しかし坐禅の深め方や修行論でいくら参考になっても、そもそも解脱観が異なるので最終的には禅かヴィパッサナー瞑想か二者択一を迫られることになります。そのまま禅の修行を続けていくお坊さんもいましたが、なんらかの迷いがあって来られた方も多く、しだいに原始仏教に傾倒し、ヴィパッサナー瞑想に鞍替えして、禅僧の黒い衣から原始仏教の赤い衣に宗旨変えしたお坊さんも少なくありません。
アドバイス:
そうです。今も申し上げましたように、両者の間には悟り観や解脱観の明確な違いがあります。それはどちらが優れていて上だとか下だとかと考えるのではなく、総合的に検討し自分に合っている道を歩んでいくのがよいでしょう。
優劣を問題にすれば喧嘩になるし、古来から宗教戦争までしてきたのが人類の歴史です。お互いの立場を尊重し合い、自分の求めている道に通じると感じる方を選んで他宗教を批判しないのが原則と心得ましょう。
ヴィパッサナー瞑想はサティの技法を訓練していきますが、ご存知のように、サティはたんに思考を止めるだけではなく、気づき→観察→洞察→という方向に悟りの智慧が発現するように設計されています。
その智慧は苦しみの元凶である煩悩を無くしていくためのものであり、智慧の深まりがそのまま心を浄らかに成長させていく営みになります。
智慧の修行は反応系の心の修行と重なりますが、その具体的方法については、拙著『瞑想のフシギな力』という文庫本を参照してください。
ヴィパッサナー瞑想の特徴を整理すると、
①存在の世界を輪廻転生する流れから完全に解脱するための行法である。
②存在の世界は一切皆苦であるから、あらゆる苦を乗り超え滅尽させていった究極に解脱がある。
③解脱の瞬間は、存在の世界や生存そのものに対する完全な離欲であり、渇愛(執着)が絶え果てた状態である。
④解脱はサマーディなど特殊な変性意識状態の一時的な所産ではなく、心底から渇愛が手放され安定している状態である。
⑤それには、日常の通常意識モード時や土壇場の正念場でも諸々のこだわりや執着から解放されていなければならない。
⑥つまり、知的にも情緒的にもあらゆる意識レベル時に安定して無執着の離欲の状態が完成している。
⑦ヴィパッサナー瞑想とは、この智慧の完成を目指して、まず存在の世界の本質を洞察し一切皆苦の構造を検証する。
⑧苦の原因となる欲望や怒りなどの煩悩は、不正確な対象認知に端を発するので、事実を正確に、あるがままに観て、その本質を洞察する修行の流れになる。
⑨事実をあるがままに観るのを妨げているのは、妄想や妄執である。その妄想を排除する必要不可欠な技法をサティと言う。
⑩サマーディが完成し、サティが成長し、智慧が閃き出るのに充分な仕込みがなされると悟りの瞬間に近づく。
以上、ゴールに到達するのは至難の業ですが、原始仏教には明確な悟りへの道が連なっています。
Bさん:煩悩から離れるのは分かりますが、良いことでも手放さなければならないのでしょうか。
アドバイス:
悟りを開くための修行も含めて、生きていくために必要なものを全て捨てることはできません。
しかし私たちは、無ければ無くてもよいものを貯め込んで執着していないでしょうか。自分の人生にとって本当に必要不可欠なものは手放さなくて良いのですが、シンプルな生活を目指せば今持っている大半は、無ければ無くても何とかなるものばかりではないかということです。
人は所有しているものに束縛される法則なのです。
美しいものや価値あるもの、好ましいものを多く持てば持つほど幸福度が上がると、欲望を煽る足し算がこの世の幸福原理です。しかし仏教では、良いものへの執着が苦の発端であると見なします。良いことを掴む欲望も、嫌なことを忌み嫌う怒りもネガティブに執われているので、両者には執着という渇愛があり、苦の原因である渇愛は手放していく方向になります。
例えば、瞑想中に集中が良くなり、心が静まって好い感じになると、ついその快さを味わいたくなります。しかしこの快い状態も対象化しないと、いつの間にか巻き込まれて欲望や貪りが生じます。欲望や貪りは不善心所なので当然、好い状態は崩れていき、今度は失望や寂しさや失ったものに対する怒りが出るという具合になってしまいます。
気持ちが良ければ「心地よい」とサティを入れ、静かに落ちついた感じなら「落ちついている」「静けさ」などとサティを入れます。
これはとても重要なことで、嫌な現象にはサティを入れて見送るが、好ましい現象にはサティを入れずに楽しんでしまうものと心得て、気づきを維持する覚悟が必要です。
妄想も同じです。嫌な妄想はなるべくサティを入れて消そうとしますが、好い想い出やアイデアなどはサティを入れずにのめり込んでいきたくなるのです。
実際の現場では至難の業ですが、あらゆる現象に対して等しい距離を保ち、対象化して認知することがヴィパッサナー瞑想の極意です。
好いものを掴む。執着する。ここからあらゆる苦が始まります。嫌なものを掴む人はいません。好いものを獲得したい。手に入ったら握りしめて離したくない。これが怒りの母親です。
執着しない人、掴まない人は、何を奪われても別にどうということもないでしょう。捨てようと思っていたものを誰かが持って行っても、どうということはありません。ところが大事なもの、大切なものを奪われたら怒りや悲しみが出てきます。このように、好いものを掴もうとすることで執着が始まります。そしてそれも対象化し認知していくのです。
あらゆるものを対象化し、「捨」の心で常に気づいていなさいと言うと、それは「私にはできません」となってしまうでしょう。だから、瞑想する10分でも30分でも、その間だけは何が現れても対象化して見送っていく練習です。
心の中だけでも無差別平等に観ることができれば、少しずつ現実に反映してくるでしょう。そうして心は成長していくのです。
Cさん:サマーディが近づいてきた時にはどうしたらよいでしょうか。
アドバイス:
自然展開に任せて、徹頭徹尾サティを入れ続けるだけです。集中がよくなってくれば嬉しいし、期待や欲が必ず出てくるものです。そうした心の現象が明確であれば「喜んでいる」「期待している」「狙っている」など、自覚された通りにサティを入れ続けます。
サマーディ感覚が高まってきたのは、サマーディの構成因子が自然に出そろってきたからです。意識的な努力もありますが、たまたま全ての条件が整ってきたので、そのような展開になってきたのです。それまでと同じ状態を淡々と続けていけば、さらに深まり完成に近づいていく可能性があります。
しかるに、多くの方がワクワクしたり、欲を出したり、ことさらなことをして自滅していきますね。たとえ欲や執着が出ても、平然とサティを入れて見送ることができれば問題ないのです。ところが、上手くいっているほど、期待が強くなり、その執着には気づくことできず、大魚を釣り落としたと後悔の臍をかむ人が多いですね。
サティに徹してください。サマーディ感覚が遠のいても、失望落胆しないで、遠のいていくその状態に淡々とサティを入れることができれば、復活してくる可能性もあるのです。サティに始まり、サティに終わると心得ましょう。
Dさん:瞑想を終える時に終了宣言みたいなものは必要ありませんか。
アドバイス:
一点集中型のサマタ瞑想では、瞑想が深くなるほど日常意識とは異なる変性意識状態になるので、「瞑想は終了。日常意識に戻ります」と宣言して瞑想状態を解くことも必要でしょう。しかし、ヴィパッサナー瞑想では、その必要はありません。サティが持続する状態で、通常の生活に戻ることは望ましく、むしろ奨励されるべきことです。
サティがなければ、我執にとらわれたり自己中心的になったり、さまざまな失敗をするのです。気づきがなく、ものごとを客観的に観られないのが敗因なのですから、常にマインドフルに、普段の生活でもサティが入るのは素晴らしいことです。
サティの瞑想を終了して、生活にもどる瞬間にも、サティを失わない!気づきを維持する!と決心した方がよいくらいです。
サティの瞑想に関しては、終了宣言はないと心得ましょう。ついでに言えば、慈悲の瞑想が終わった時も同じです。普段の生活でも、慈悲モードで生きることができるのは素晴らしいことです。
ヴィパッサナー瞑想は、実生活に瞑想が直結する稀有な瞑想なのです。
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