月刊サティ!
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~
Aさん:ブッダは悟りを開かれた時、なぜ伝道をためらったのでしょうか。 アドバイス: 「困苦してわたしがさとりを得たことを、今またどうして説くことができようか。貪りと瞋りに悩まされた人々が、この真理をさとることは容易ではない。 実は欲望を貪り満たすというのは生きる原動力であり、怒りは自分の生命を守っていく上での最強の武器となっています。生命というのは貪って怒って苦しむものであり、総じてこれが生命の原初の姿と言えます。 Bさん:煩悩の上で男と女の違いがあるでしょうか。 アドバイス: Cさん:友人からご主人の介護のことで相談の手紙をいただきました。かなり精神的に追い詰められているような文章でした。心配し過ぎて倒れてしまうのではないかという感じもします。楽になるような言葉を掛けたいのですが、先生に何かアドバイスを頂けたらと思います。お歳は70代前半です。 アドバイス: アドバイス: その時にサティが入らなかったところはやはり問題です。サティが入らないと、心はその意味付けの方に向かってしまいますから。 ヴィパッサナー瞑想は、気づく対象の内容の良し悪しは関係ありません。価値あることでも、くだらないことでも、素晴らしい意味のありそうな神秘体験であれガセネタ体験であれ、ただそのように体験していると気づきモードをキープできるか否かです。 定力が高まりサマーディ感覚が深まってくるとヴィパッサナー瞑想が高度なレベルになってきます。すると、不思議現象のようなものが強力に現れてきて、「観の汚染(ヴィパッサナーの汚染)」と言われるものが起きてくることがあります。その内容は瞑想体験として非常に素晴らしいのですが、その圧倒的な不可思議現象に惑わされず、足をすくわれないで観じ切っていけるか否か・・。これはかなりレベルの高い話なのですが、どんな素晴らしい現象や瞑想世界が出現してきても、淡々と客観視して見送っていくという意識モードを保つことが最重要なのです。 何かが出てきたら、そう「感じた」、驚いたら「驚いた」、「『これは何かすごいんじゃないか』と思った」というふうにどんなものも掴まないで見送るのです。進めば進むほど限りなく、いくらでも高いレベルの修行が要求され、それに応えれば応えるほど心は解脱の方向に向かいます。いかなるものにも食いつかずに淡々と冷静に観ていきましょう。 Eさん:出家と普通の在家の暮らしの中での清浄道の関係を教えてください。 アドバイス: それは、必然の流れで答えが自ずから出てきます。寺に入れば時間も環境も整っているので、瞑想の修行だけは存分にできます。しかし心を全体的に清らかにしていく「戒→定→慧」のシステムの流れのなかで清浄道の完成を目指さない限りは、仏教の悟りに達することはありません。 まず戒をしっかり守って倫理的にきれいに生きていく状態、あるいは人格がほぼ完成しているかのような安定した状態を目指す「戒の修行」から始めるのですが、実はその前にするべきことがあります。それは善行です。 善行によって善いカルマを積み重ね、それに支えられなければ、清浄道を進めていくことがなぜか難しくなり、阻まれてしまうものです。戒を守りたくてもなかなか条件が整わず、どうしても破戒の不善業を作ってしまうような流れになる。善行をしたくてもできない。瞑想をやりたい気持があるのに、時間も体調も環境も整わない・・というように、やるべきことができないのは徳がないからなのです。徳=善行の集積です。ここでは「布施(ダーナ)」という言葉で善行を代表させますが、ダーナ(善行)、シーラ(戒)、サマーディ(定)、バーバナ(慧)のこの流れは崩せないです。 瞑想と言うと多くの方が定から入ろうとしますが、その前の段階ができていないことが多いようです。これは私が痛感してきたところです。 タイ、ミャンマー、スリランカ、どこへ行っても、出家してしまえば戒律を守って同じ意識で修行している人ばかりなので、世俗でのようなトラブルは本当に少ないのです。ですが、そうすると自分の心の汚染は観えづらくなります。自分より修行ができている人に嫉妬したり、劣っている者を見くだすなどの問題は寺にもありますが、多くの煩悩が特殊な環境ゆえに観えづらいと言えます。ですから、戒の修行が完成していない状態で出家するのは、自分の心の汚染が見えなくなる状態、これを随眠と言いますが、そういう落とし穴があるのです。 アヌサヤー(anusaya:随眠、悪習、悪しき習い)というのは、本当は存在しているのに、現れる機会が無いとまったく存在しないかのように心の奥底で眠りこけている煩悩です。そうすると本人は無いと錯覚してしまいます。例えば電気も無いし水道もないし、釣瓶で水を汲み、カマドで薪を燃やして湯を沸かし、夜はアルコールランプだけといった環境の森林僧院では、欲望を刺戟する物も食べるものも異性ももともと無いのですから欲望の起こりようがありません。そんな環境にいれば、自分はもう物欲から解放されたのだ、というように錯覚してしまいます。でも、随眠状態でその煩悩が残っていれば、環境が変わればたちまち吹き出してくるということになります。 そうすると、反応系の修行というのは寺ではむしろ難しいというか、出来ないとも言えます。在家として娑婆世界で、愚か者も欲深な者も、いろんな人がいる中で揉みくちゃにされて、ストレスが多くイライラさせられ、食べるために嫌な仕事もして、そうした娑婆の苛酷な情況で心がいささかも乱れなくなったとしたら大したものです。あるいはどんなイヤらしい人や難しい人に対しても、嫌悪や怒りを出さず人としてなすべき完全な対応ができるでしょうか。至難の業です。こんな高度な修行は、苦海か憂き世かといった在家者の普通の日常生活の中で、玉石混淆の普通の人間関係を持ちながらの方がはるかに本格的な良い修行ができるのです。反応系の修行に関しては、寺よりも苛酷なこの世の方が立派な道場と言えるでしょう。 もちろんお寺に入れば瞑想は進みます。サマーディに到達し、サティも入るでしょう、瞬間定も出来るかもしれません。これはもうアスリートと同じ、朝から晩まで瞑想していたら、どんな人だってそういう脳の使い方のトレーニングで瞑想は上達します。でも、どれだけサマーディに入れても、瞬間定ができても、解脱の智慧が生じなかったら悟れないということを、徹底して理解しておくべきです。正しい順番で心の清浄道を歩んでいかないと、瞑想が現実逃避の手段にもなりかねません。 先ず戒を完全に守り善行を積みかさねたうえで、劣等感やトラウマやらいろんなものから解放され、人格が安定し、悪を避け善をなすということが完全にできた状態の人、そういうほぼ人格完成者のような印象の人が瞑想の修行に専念すべきなのです。そこまで行った人は寺に入って、朝から晩までいくら瞑想しても問題はありません。反応系の心のプログラムに汚染はほとんど無い状態ですから。 ということで、自分に何かへのこだわりがあって、意図的に出家してやろうとかこの世に留まってやろうとか言うのは、所詮エゴの囁いていることであって、概ねハズレになります。真の意思決定というのは、もっとダンマに任せて、あるいは三宝に任せきった先に自然に道がついたならそうすれば良いのです。完熟した柿が一人で落下するように出家する自然さが望ましいのです。 この世でうまくいかなくて、まるでヤケクソで出家しているかような人にも何人も会いました。それは事実上寺への逃避です。基本的に嫌な人はいなくて、慈悲の瞑想をして、みんな清らかに生きているから、そういう人にとっては寺は天国ですよ。でも、悟れないでしょう、現実から逃げていては。 この世に留まるだけの因縁があれば、それは留まって反応系の修行をした方が良いのです。そういうことが全部終われば自然に道がついて、まさに完熟した果実が落ちるように出家することになるだろうと思います。 (文責:編集部) |
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