月刊サティ!
ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~
<尋ねたかったこと> (1)行為の結果と自由意志
(2)、 (3)
(4)善行と愛する人の死
(5)エゴをなくす修行
(6)夢の実現について
<行為の結果と自由意志>
Aさん:すべてが縁であるとすると、人は自由意志を持つことができるのでしょうか。
アドバイス:
これは哲学的にとても難しい問題です。
例えば「腹が立った」とします。果たして私たちは明確にその時の状況を理解した上で、ここで怒るべきかどうかを自由かつ冷静に判断して怒りを発しているでしょうか。大方の経験では、そうではなく、刺激に対してほとんど自動的に反応しているのではないでしょうか。もっとも、頭の隅に多少とも冷静さが残っていれば、相手によって手加減するとか、あるいは後々のことが頭をかすめて少しは計算するということなどはあると思いますが。
いずれにせよ、「自由」な意志で怒りを出したり引っ込めたり、そんなに都合良く出来るものではありません。怒るか泣くか喜ぶか、あるいはサティを入れて見送れるかは、あくまでも過去の蓄積の結果です。なかでも怒り系の反応は、生命が弱肉強食の中で生き抜くために太古の昔から身につけてきたものであって、もちろん人間にあっても、誰でもが昔から習熟し、かつしっかりと実績をあげてきています。
ですから、怒りは何の努力も必要とせずに自動的に簡単に立ち上がってしまいます。そういう意味では、「過去とまったく無縁な自由意志」というものはありません。
人は、一定の条件や環境の下では、反射的に一定の反応をしてしまうものです。しかも悪い業や善い業によって、どのような環境に置かれてしまうかは決定的です。不善業があれば、過酷な情況に押しやられてしまうのです。あまりの苦しさに、理不尽さに、嫌悪や怒りは不可抗力と感じられるかもしれません。
しかしそれでも仏教では、修行という立場から、また幸せな人生を具現化していく立場から、カルマの核ともいうべき意志(cetana:チェータナー)の働きを重視しています。過去の蓄積の結果が今の私たちの心の反応パターンを支配しているのは確かですが、仏教は、まさにそこにメスを入れて反応する心を再編成していこうというのです。
過去の蓄積の結果を受け入れた上で、絶対に悪を避け善を為すのだという確かな決意、何よりも先ずこれがなくては仏教は始まらないのです。自由意志が働かないような一瞬にも、よく気をつけて、暴発する本能の命令に逆らうのです。一方通行の電車道のように反応していくパターンにブレーキをかけ、煩悩を抑止して、善なるもの、正しい道を選び抜いていくのです。
つまり、不可能ではないかと思われるほど難しい一瞬にも、自らの意志で智慧の選択をしていくのが仏教です。
Bさん:過去の行為の結果はどうしても現れてしまうものでしょうか。またそうであれば、むしろ早く結果が現われてしまった方がかえって良いのでは、ということも言えるのではないでしょうか。
アドバイス:
そうですね。ネガティブな現象が生起し、苦受を受けた瞬間に不善業が一つ現れて消えていくのですから、負債返しができて良かった、悪業が消えた、と喜ぶこともできるでしょう。嫌な現象が起きた瞬間にサティを入れることが出来て、新たな不善業を作る悪い反応が起きないのであれば、その方が良いということも言えなくはないでしょう。
でも、痛いし、臭いし、苦しいし、ネガティブな現象を平然と、心を汚さずにやり過ごすのは容易ではありません。そこで、必然の力で帰結する因果の仕組みを心得た上で、相殺の思想を活用する智慧もあります。殺生をしたなら、命を助ける。奪ってしまったなら、与える。裏切ったなら、誠心誠意まことを尽くすのです。不善業を作った瞬間の正反対のエネルギーを出力すれば、業の結果が現れるのを未然に相殺することもできるのです。
いずれにしても、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなくてはなりません。悪いカルマを積んだ人と良いカルマを積んだ人とでは、どう転んでも結果として出会う現象が違ってきます。悪いことをしていれば嫌な現象、苦受を受けることになるし、徳を積んでいれば良い現象、楽受を味わうことになります。
誰でも、良いことばかりが起きる人生を望みますが、そうなったからといって、喜んでばかりもいられないのです。楽受を受けるということは、いわば宇宙銀行から徳の預金を引き出すようなもので、幸福感を味わうたびごとに、だんだん残高は減っていってしまいます。常に新たな徳を積み直す努力、つまり善行を怠らないことが大切です。
善いことも悪いことも「無常」です。いずれにしても、善悪にかかわらず、結局、私たちは因果によってカルマの自己消費と再生産のプロセスを延々と続けているということです。そして、仏教はそのこと自体をドゥッカ(dukkha:苦)であるとしているのです。
Cさん:ブッダは「来世」というものを説いたのでしょうか。証明されないことには言及しないという立場をとっていたように理解しています。そのような話をすることを禁じてはいなかったのですか。
アドバイス:
それはこういうことです。マールンキャ・プッタという、修行をしないで、証明不可能な議論や考えごとばかりしている出家者がいました。有名な毒矢のたとえが出てくる経典(注)にあります。その中でブッダは、「私は今お前に必要な法を説いているのだ」としてそのお坊さんを厳しく諭しました。確かにブッダは、この経典のなかでは、証明不可能なことを論議するのは良くないと説かれています。
しかしこの経典のケースでは、阿羅漢を目指して修行をするという、出家の初心を忘れてしまっているお坊さんに向けて諭しているのです。ブッダは基本的には対機説法といって、その人その人に応じた法を説かれていて、他のいろいろな経典からも分かりますが、輪廻転生を大いに語っています。
そもそも仏教の究極の目標は解脱です。では何からの解脱なのかと言えば、生まれ変わり死に変わりという輪廻からの解脱です。ですから、もし輪廻転生が無いなら解脱も無いし、ひいては仏教も無いと言うことになってしまいます。それくらい仏教と輪廻転生とは切り離せないのです。再生すること、そしてまた苦しみの生存を続けること、そういうことを本当に終わりにしたい、乗り越えたい、解脱したいという、仏教はそのために明確に設計されているシステムなのです。
さらに言えば、ブッダ自身は宿命通と言って過去世の記憶を再現する超絶した能力を備えていました。人々の過去世まで正確に見通すという神通力のあった方です。『清浄道論』に出ていますが、第四禅定に入って一瞬前を思い出し、その前を思い出し、誕生の瞬間からその前に遡ってというふうに、本当に厳密で緻密な手順を踏んだ訓練によるものです。
ただこのことは、タイムスケールが大きすぎて科学では証明がとても難しいです。実験も無理ですから、再現性のある法則をそこから取り出すことはできないでしょう。このように、科学的な手法にはなじまないところも確かにあると言えるでしょう。しかし、やはり仏教の依って立つところは、「輪廻あり」なのです。
注:『中部経典』第 63経『箭喩経』
Dさん:今のお話で、もし輪廻転生があるとするなら、生まれた時からカルマを持って生まれてくるわけですね。もし今世で死ぬまでにそれが清算できなければ、また来世でもそのカルマを引き継いでいくものでしょうか。
アドバイス:
ちょっと難しい話になりますが、アビダルマの業論では、そのことが詳細に言及されています。
例えば、今世で作ったカルマが今世で現れる「現法受業」。このカルマは、今世で縁に触れる機会がないとそれで立ち消えになります。来世に持ち越されることはありません。弱いカルマなのです。「次生受業」というのは、来世まで追いかけてくるカルマです。「後々受業」になると、何度生まれ変わろうと縁に触れて現象化するまでは永遠に追いかけてくる強烈なカルマです。
いずれも業を作る瞬間の意志(チェータナー)の強弱等より、強力な業や微弱な業などさまざまなバリエーションがあるのです。
もし輪廻転生がないとしたら、悪いことをしてもその結果が出ないうちに死んでしまえば、「死に得」みたいな話になってしまいますね。でも、原始仏教は輪廻転生ありの立場です。うまいこと今世は逃げおおせても、必ず業の報いを受けなければならない日がやってくる。そういう重たいカルマもあるんですね。
もし来世がなくて、死んだあと完全な無に帰することが出来るなら、それはある意味で原始仏教の涅槃のようなものかも知れません。そうだとすると、「死ねば誰でも涅槃に入れるのか!」という感じになるでしょう。それなら、「なんで我々は修行しているのだろう」というような話になってしまいますね。
毎晩眠りにつく時にはフッと意識がなくなるでしょ。で、もし、そのまま夢も見ないで目が覚めなかったらどうですか。別にどうってことないですよね(笑)。目が覚めなかったら怖いって言うけど、意識がなくなったらそれまでですからね。ところが朝になると目が覚めてしまう。目が覚めると、「寒いな~」「起きたくないなあ~」「仕事行きたくないなあ~」「腹が減ったなあ~」って、また人生が始まるわけですよ。
ですから、生死についても同じようなことで、そのまま目が覚めない、無になるというのは、本当はそんなに怖いことではないんだけれども、やはり生命としては自分の存在が消えることに対するすごい恐怖が組み込まれているのです。そうでないと、みんなあっさり死んじゃいますからね。
しかし、朝になったら目が覚めるように、実は再生してまた業の力に押しやられて次の生を生きなければならない、そしてこれを延々と繰り返さなければならないという、突き詰めるとそのことこそ怖ろしいのではないでしょうか。ですから、輪廻の枠から出たい、存在をいわば完全に終了させよう、それができたらそれはもう解脱だ、というのが原始仏教の悟りのイメージなんですね。ですから輪廻転生は大ありということです。
一つ例をあげましょう。なぜ人の才能は生まれつきこんなに違うのだろうとは思いませんか。小学校の時、Y君というスポーツ万能で勉強もとても良く出来る人がいたんです。天才的にすばらしかった。6人兄弟で、家は6畳一間に8人で暮らしているというような、お父さんが納豆売りをして生計立てているくらいだから、生活も大変だったと思います。
ところが彼のほかの兄弟はそろって勉強は出来ない、スポーツはダメ、そんな中で彼だけがダントツの才能なんですよ。父親もインテリとはほど遠いし母親も普通の人。なんでこの家にという感じで。それはもう完全に不思議で、何をやってもかなわない素晴らしい天才肌でしたね。ではそれは遺伝なの?・・・遺伝じゃないだろう・・・失礼ながら他の兄弟を見ればなあ・・・って言うことなんですけど。
こういった、なぜ天才が生まれるかということを輪廻転生に則って考えてみると、それは、過去世、またその前の生でも死ぬほど頑張った人なのだと言えるのです。ピカソやモーツアルトなどの場合、才能を開花させるのにベストの環境を選んできたかのように画家の家に生まれてくる、音楽家の家に生まれてくるという、過去世の延長のような連続の法則が働いているように思われます。
注釈書によると、だいたい輪廻転生というのはほとんど同じようなことやるそうですよ。例えばブッダがある街に行ったところ、見知らぬおじいさんがやってきて、「おお息子よ、お前何やってたんだ」と言って家に連れて帰ったそうです。それで他の子供たちに「お前たちの大きいお兄ちゃんが来たぞ」と言って、ブッダのことを家族に会わせました。そこでブッダが宿命通で観てみると、そのおじいさんは過去世でブッダの父親だったそうです。その前もその前もと、過去世で1500回くらいブッダの父親か伯父さんにあたる人でした。で、ブッダはそこを通り過ぎる予定だったのですが、予定を変更し3カ月の間留まって、そのおじいさんが預流果に達するまで指導したという話があるのです。
あるいは過去世で金細工師をやっていた人が、その前も金細工師その前も金細工師で、人間に生まれた時だけですけど、500回金細工師をやっていた人が、金細工の時のバーナーの火、赤い色ですから、赤い色に集中してサマーディを完成させて預流果に入ったという、そういう話もあります。
このように、原始仏教に出てくる輪廻転生の物語からすると、毎回の生で同じようなことをやっているのです。そうすると、私の場合・・・「過去世も瞑想の先生やってたのかなあ」って・・・。最初から瞑想出来ましたから。30歳で瞑想した時に出来ちゃったんですよ。水虫も一夜で治しましたから、本当に。
もう一つ例をあげれば、私は昔野球部にいて、県大会で優勝したし北関東大会でも優勝したりして、けっこう上手かったんですよ。もう何十年もやっていませんしグローブもボールも触っていませんが、もし今草野球でキャッチボールやバッティングを始めたとすれば、少し練習すればすぐに感が戻って、全然やってなかった人に比べるとやはり上手く出来るのではと思いますね。中学の時にあれほどやっていたのだから体が覚えていて、忘れる訳はないのです。
同じように、過去世で死ぬほど瞑想していたとすれば、30年間何もしなかったとしても、いちど瞑想の再スタートボタンを押したら出来て当たり前なんですね。
才能というのは集積された努力の結果です。ですから、何で最初からそんなに出来るのか、生まれた時から才能が違っているというのは、今世だけじゃない、過去世でも死ぬほど頑張ったその結果だと考えれば当然なんですね。裏返せば、何もやっていなければその才能には乏しい訳で、そこで頑張って努力を積み重ねていく、こういう話になるのです。生まれた時の才能、美醜、貧富、環境等々、それらは全て過去の業の結果であって、そこから今世がスタートしていると考えれば実に公平、平等です。これが基本的な仏教の考え方です。
たとえ今世で結果が出なくても、壮大な輪廻転生を視野におさめて努力を積み重ねていくのです。確実に花開く時がやって来るし、どんな苦しい人生も、悪を避け善をなしていけば、必ず幸せな人生になっていきます。その幸せな人生も永遠には続かず、輪廻を続ける限り、苦楽がエンドレスに繰り返されていくのです。その虚しさ、怖ろしさに目覚めた人は、生々流転していく輪廻転生の流れから解脱したいと心底から願い、ヴィパッサナー瞑想に着手するというわけです。(文責:編集部)
Aさん:ブッダは悟りを開かれた時、なぜ伝道をためらったのでしょうか。 アドバイス: 「困苦してわたしがさとりを得たことを、今またどうして説くことができようか。貪りと瞋りに悩まされた人々が、この真理をさとることは容易ではない。 実は欲望を貪り満たすというのは生きる原動力であり、怒りは自分の生命を守っていく上での最強の武器となっています。生命というのは貪って怒って苦しむものであり、総じてこれが生命の原初の姿と言えます。 Bさん:煩悩の上で男と女の違いがあるでしょうか。 アドバイス: Cさん:友人からご主人の介護のことで相談の手紙をいただきました。かなり精神的に追い詰められているような文章でした。心配し過ぎて倒れてしまうのではないかという感じもします。楽になるような言葉を掛けたいのですが、先生に何かアドバイスを頂けたらと思います。お歳は70代前半です。 アドバイス: アドバイス: その時にサティが入らなかったところはやはり問題です。サティが入らないと、心はその意味付けの方に向かってしまいますから。 ヴィパッサナー瞑想は、気づく対象の内容の良し悪しは関係ありません。価値あることでも、くだらないことでも、素晴らしい意味のありそうな神秘体験であれガセネタ体験であれ、ただそのように体験していると気づきモードをキープできるか否かです。 定力が高まりサマーディ感覚が深まってくるとヴィパッサナー瞑想が高度なレベルになってきます。すると、不思議現象のようなものが強力に現れてきて、「観の汚染(ヴィパッサナーの汚染)」と言われるものが起きてくることがあります。その内容は瞑想体験として非常に素晴らしいのですが、その圧倒的な不可思議現象に惑わされず、足をすくわれないで観じ切っていけるか否か・・。これはかなりレベルの高い話なのですが、どんな素晴らしい現象や瞑想世界が出現してきても、淡々と客観視して見送っていくという意識モードを保つことが最重要なのです。 何かが出てきたら、そう「感じた」、驚いたら「驚いた」、「『これは何かすごいんじゃないか』と思った」というふうにどんなものも掴まないで見送るのです。進めば進むほど限りなく、いくらでも高いレベルの修行が要求され、それに応えれば応えるほど心は解脱の方向に向かいます。いかなるものにも食いつかずに淡々と冷静に観ていきましょう。 Eさん:出家と普通の在家の暮らしの中での清浄道の関係を教えてください。 アドバイス: それは、必然の流れで答えが自ずから出てきます。寺に入れば時間も環境も整っているので、瞑想の修行だけは存分にできます。しかし心を全体的に清らかにしていく「戒→定→慧」のシステムの流れのなかで清浄道の完成を目指さない限りは、仏教の悟りに達することはありません。 まず戒をしっかり守って倫理的にきれいに生きていく状態、あるいは人格がほぼ完成しているかのような安定した状態を目指す「戒の修行」から始めるのですが、実はその前にするべきことがあります。それは善行です。 善行によって善いカルマを積み重ね、それに支えられなければ、清浄道を進めていくことがなぜか難しくなり、阻まれてしまうものです。戒を守りたくてもなかなか条件が整わず、どうしても破戒の不善業を作ってしまうような流れになる。善行をしたくてもできない。瞑想をやりたい気持があるのに、時間も体調も環境も整わない・・というように、やるべきことができないのは徳がないからなのです。徳=善行の集積です。ここでは「布施(ダーナ)」という言葉で善行を代表させますが、ダーナ(善行)、シーラ(戒)、サマーディ(定)、バーバナ(慧)のこの流れは崩せないです。 瞑想と言うと多くの方が定から入ろうとしますが、その前の段階ができていないことが多いようです。これは私が痛感してきたところです。 タイ、ミャンマー、スリランカ、どこへ行っても、出家してしまえば戒律を守って同じ意識で修行している人ばかりなので、世俗でのようなトラブルは本当に少ないのです。ですが、そうすると自分の心の汚染は観えづらくなります。自分より修行ができている人に嫉妬したり、劣っている者を見くだすなどの問題は寺にもありますが、多くの煩悩が特殊な環境ゆえに観えづらいと言えます。ですから、戒の修行が完成していない状態で出家するのは、自分の心の汚染が見えなくなる状態、これを随眠と言いますが、そういう落とし穴があるのです。 アヌサヤー(anusaya:随眠、悪習、悪しき習い)というのは、本当は存在しているのに、現れる機会が無いとまったく存在しないかのように心の奥底で眠りこけている煩悩です。そうすると本人は無いと錯覚してしまいます。例えば電気も無いし水道もないし、釣瓶で水を汲み、カマドで薪を燃やして湯を沸かし、夜はアルコールランプだけといった環境の森林僧院では、欲望を刺戟する物も食べるものも異性ももともと無いのですから欲望の起こりようがありません。そんな環境にいれば、自分はもう物欲から解放されたのだ、というように錯覚してしまいます。でも、随眠状態でその煩悩が残っていれば、環境が変わればたちまち吹き出してくるということになります。 そうすると、反応系の修行というのは寺ではむしろ難しいというか、出来ないとも言えます。在家として娑婆世界で、愚か者も欲深な者も、いろんな人がいる中で揉みくちゃにされて、ストレスが多くイライラさせられ、食べるために嫌な仕事もして、そうした娑婆の苛酷な情況で心がいささかも乱れなくなったとしたら大したものです。あるいはどんなイヤらしい人や難しい人に対しても、嫌悪や怒りを出さず人としてなすべき完全な対応ができるでしょうか。至難の業です。こんな高度な修行は、苦海か憂き世かといった在家者の普通の日常生活の中で、玉石混淆の普通の人間関係を持ちながらの方がはるかに本格的な良い修行ができるのです。反応系の修行に関しては、寺よりも苛酷なこの世の方が立派な道場と言えるでしょう。 もちろんお寺に入れば瞑想は進みます。サマーディに到達し、サティも入るでしょう、瞬間定も出来るかもしれません。これはもうアスリートと同じ、朝から晩まで瞑想していたら、どんな人だってそういう脳の使い方のトレーニングで瞑想は上達します。でも、どれだけサマーディに入れても、瞬間定ができても、解脱の智慧が生じなかったら悟れないということを、徹底して理解しておくべきです。正しい順番で心の清浄道を歩んでいかないと、瞑想が現実逃避の手段にもなりかねません。 先ず戒を完全に守り善行を積みかさねたうえで、劣等感やトラウマやらいろんなものから解放され、人格が安定し、悪を避け善をなすということが完全にできた状態の人、そういうほぼ人格完成者のような印象の人が瞑想の修行に専念すべきなのです。そこまで行った人は寺に入って、朝から晩までいくら瞑想しても問題はありません。反応系の心のプログラムに汚染はほとんど無い状態ですから。 ということで、自分に何かへのこだわりがあって、意図的に出家してやろうとかこの世に留まってやろうとか言うのは、所詮エゴの囁いていることであって、概ねハズレになります。真の意思決定というのは、もっとダンマに任せて、あるいは三宝に任せきった先に自然に道がついたならそうすれば良いのです。完熟した柿が一人で落下するように出家する自然さが望ましいのです。 この世でうまくいかなくて、まるでヤケクソで出家しているかような人にも何人も会いました。それは事実上寺への逃避です。基本的に嫌な人はいなくて、慈悲の瞑想をして、みんな清らかに生きているから、そういう人にとっては寺は天国ですよ。でも、悟れないでしょう、現実から逃げていては。 この世に留まるだけの因縁があれば、それは留まって反応系の修行をした方が良いのです。そういうことが全部終われば自然に道がついて、まさに完熟した果実が落ちるように出家することになるだろうと思います。 (文責:編集部) |
Aさん:梵我思想とブッダの説かれた教えとの違いをわかりやすく説明してください。 アドバイス: 梵我思想は、ヒンドゥー教の根本原理であり、広義には中国思想のタオイズムや大乗仏教思想の根幹にも関わってくるものです。一方、ブッダの教えである原始仏教は、梵我思想と解脱観が異なります。 それは、現象世界を肯定するか否か、煩悩を否定するか否かという問題です。 ブッダが亡くなられて約五百年の後、インドで大乗仏教が興起してきますが、時代を経るにつれ、その教えの根幹が梵我思想と重なり合うようになりました。それと並行していわゆる菩薩思想というものが現れ、この世に仏国土を作ろうということになりました。しかし、その考え方では煩悩を否定し完全に消滅させていく教えとはどうしても矛盾が生じてきて、やがて巧妙に煩悩を肯定する思想が出てきたのです。 それは「空(くう)」の思想に基づき、「存在というものは本来、実体が何もないのだから煩悩そのものにも実体はない。ゆえに実体のない煩悩をなくして得られる悟りもない」という考え方でした。原始仏教と対比した時に、梵我思想の特徴は、現象世界の肯定論と言ってよいでしょう。 全ての煩悩を滅尽させ、現象の世界に生存を続ける輪廻転生の流れから解脱していくのが原始仏教の悟り観です。一方、ヒンドゥー教の根本思想である梵我思想では、存在の究極原理である梵(ブラフマン)が万物万象に顕現していると観ますので、現象=存在の世界は絶対肯定されるべきものとなります。全ての現象が肯定されるならば、現実に私たちが悩まされ苦しめられている煩悩の存在も肯定されることになります。「空の思想」は、巧妙な論理を用いて、煩悩を全否定する原始仏教に反する思想を正当化するものでした。 そうするうちに、大乗仏教のヒンドゥー化が進んでいきました。密教がその究極と言われています。密教はヒンドゥー教とほとんどイコールと学問的にも考えられているのです。 インド思想の根幹でもある梵我思想の「梵」は、大乗仏教では「仏性(ぶっしょう)」と名称が変わりました。ですから、大乗仏教の悟りの究極は、宇宙=全存在と一体であるということになっているでしょう。これは、ヨーガの根本思想「存在・意識・至福」ということなのですけれど、原始仏教に当てはめれば「存在(色法)・意識(名法)・苦」になります。「存在は至福」v.s.「存在は苦」ですから、正反対です。 このように、梵我思想では存在は至福とみなされているために、何回でも生まれ変わって来世はもっと人を救いなさいと説いたりしています。つまり、心と体の存在の世界を至福と考えているのが梵我思想で、それを苦と観るのが原始仏教です。存在の世界はドゥッカ(苦)だから離脱しようという方向になります。きわめて要点のみを申し上げましたが、このようなわけで、梵我思想とブッダの説かれた教えとは現象世界の否定論と肯定論ということで決定的に分かれてしまうということです。 私も修行時代は、なかなかここのところに気づけなく、長い間同じだと思っていました。たとえば、高尾山は1号路から6号路まであるのですが、頂上は一つだからどの路を選んで登攀しても同じという感じですね。大乗仏教の道もタオの道もヒンドゥーの道も、根本的には万教帰一なのだから同じであるということです。 自分は原始仏教という路を歩んでいる。他の人はほかの道を歩んでいる。でも最終的には同じ頂上に行くのだろうと思っていたのですが、実際にはそうではありませんでした。原始仏教から枝分かれしていった大乗仏教の変遷史がわかって、なぜ同じ仏教であるのに異なった考え方があるのか納得しました。 Aさん:仏教は、インドにおいてすでに本来のブッダの教えから変容してしまったということですが、なぜなのでしょうか。 アドバイス: その理由の一つは、原始仏教の教えに忠実に従っていくと、結局富や愛欲や名声など諸々の煩悩を捨てなさいという話になってしまいますので、特に当時の南インドの富裕な商人たちがそれだと不都合だと考えたせいでしょう。仏教も大事にしたいが、この世の幸福も満喫したいという本音を統合させたかったのではないでしょうか。キリストも、金持ちが神の国に入るのはラクダが針の穴を通るよりも難しい、と言っています。 富や財産に対する執着はとても強烈なので、それを手放すことは至難の業になります。ところが、原始仏教の実践に向かうとそれを最終的に手放していく方向に行かざるを得ないので、それは無理だということになって、それなら富を持ったまま悟りたいと考えたのでしょう。 その根拠として、『観普賢菩薩行法経(かんふげんぼさつぎょうほうきょう)』という大乗経典の冒頭部分は、仏弟子が「お釈迦様、煩悩を持ったまま悟るにはどうしたらいいか教えてください」と説法を願い出て、それにブッダが答えて「はい。では、しっかりとお聞きなさい」と原始仏教からは腰を抜かすような経典さえ出てきています。 もう一つ考えられることは、原始仏教では出家して死ぬほど修行しないと悟れない構造になっているという点です。そうすると、出家が不可能な在家の人たちは昼間は仕事をしていますから、それが終わった後では瞑想の修行も十分にはできません。それでは絶対に今世では悟れませんね。もしどうしても悟りたいとなったら仕事をやめて出家しなければならなくなります。あるいはまた、出家するほど徳がないのだったら、今世では徳を積んで来世に備えるしかないということになってしまうでしょう。それでは不満だった人たちがいろいろ考えたからだと思います。 もう一つは、今のアフガニスタンあたりにとんでもない比丘がいて、布施をすれば修行しなくても悟れるというようなことを説いて信者を増やそうとしたことが挙げられます。 私は、そのあたりから崩れてきたのではないかと見ています。修行しなくても悟れるとか、お布施の力で悟れるとか、徳を積めば悟れるとか、あるいは在家のままで悟れるとか、だんだん安易な方向に流れていますよね。(笑) 『維摩経(ゆいまきょう)』になるとさらにエスカレートします。この経の主人公である維摩は世俗の人で、有名な居士でもあり実業家でした。その維摩が十大弟子のサーリプッタやモッガラーナ尊者よりも優れているという役まわりになり、出家より在家の方が偉いと言いたいような経典です。あるいは『勝鬘経(しょうまんぎょう)』といって、在家の王妃である勝鬘夫人がブッダに許されて出家に対して教えを説き、ブッダがそれをその通りだと承認されるという経典までが現れます。 ただそうはいっても、大乗仏教は哲学としては素晴らしく深いものがありますし、原始仏教の八正道や四諦、縁起などの根本的な教えまで否定している訳ではありません。仏教の枠内に留まってはいるのですが、ただ、どうしても「無常・苦・無我」の「苦」は認めたくない。なんとか省きたくて「諸行無常・諸法無我・涅槃寂静」が三宝印だ言い出し、「苦」を抜いてしまったりしました。 テーラワーダでは「無常・苦・無我」は揺るがせようのない根本原理です。存在の本質は無常であるがゆえに、存在を現象の流れとして捉えているのです。存在するものはすべて一瞬一瞬変わっていってしまうのですから、永遠の天国や仏国土なんてあるわけがない。また、あらゆるものが相関関係の中で生きているし存在している。相互に支え合いつながり合っている宇宙網目の因果性が諸法無我であり、それが刻々変化しているのですね。 この無常と無我を悟ったところに涅槃寂静がある、というふうに大乗仏教ではもってきて、「苦」を抜いてしまっているのです。でも、さすがに気が引けたのか、後には「苦」をプラスして四宝(法)印などという言い方をしていたりもします。これは原始仏教から言えばとんでもない話です。存在が「苦」であることが見えなくなった時点で、仏教の衰滅が始まるとさえ言われています。 たしかに、一瞬の幸せというのはあるかもしれません。夢が叶った瞬間とか、愛する人と結ばれた瞬間などに幸せだと感じる時はあるでしょう。しかしそれも一時的なものに過ぎず、瞬く間に変化していってしまう。幸福がたちまち崩壊していくのです。同一の状態を保つことの不可能性が「苦」なのだということです。つまり、幸福や快楽には苦の側面が常に内在しているという現実を見るのです。だからこそ、幸せに執着があればあるほど、苦しみは大きくなるということです。 もし愛する人が亡くなったらどうでしょう。その愛が大きいほど、執着が強いほど、失われた時の苦は激しいものになるでしょう。名誉や社会的地位や財産にしがみついていればいるほど、それが奪い取られたときには耐えられないでしょう。だからこそ原始仏教は無執着であることを目指すのです。文字通り、本当に苦の無い世界を。 ところが大乗仏教のなかには、それを歪めた解釈さえ起きてきてきました。「執着がなければ、何を持とうが、何をやろうが関係ない」と。「大乗無戒」という言葉があるように、事実上戒律が無きに等しい状態になっていった時に、日本仏教の衰微が始まったと言えるでしょう。出家得度式では誰も五戒を誓いながら、酒を「般若湯(はんにゃとう)」と称して飲酒が公然と行なわれています。仏教の根本的な教えが事実上崩れたのは、妻帯を許可して世襲で寺を継ぐということになってからかもしれません。会社にしても権力にしてもお寺にしても、世襲を続けていると必ずおかしなことになって傾いていくのが常です。 ちなみに、どの世界でもこうした世襲制度を廃止するのは難しいことですが、徳川綱吉はその英断をなし得た好例でしょう。当時は、老中や旗本のような役職は世襲になっていたために、苦労せずにそのまま親から役職を引き継いだので、質の悪い人材が蔓延していました。綱吉は、その世襲制度を撤廃したのです。彼は優れた官僚体制を整備した最初の改革者でした。そしてこの改革が、後の明治維新を成功に導いた一つの大きな原動力になったとさえ言われています。 自分の役職を愛着のある子孫に継がせたいという欲はたいへん強く根深いものです。そうした人たちに恨まれた綱吉が『三王外記(さんのうがいき)』でひどく貶められ、後世まで「犬将軍」などと暗愚な将軍にデッチ上げられた理由だとされています。世襲制がなくなって利権を奪われた守旧派の人たちは綱吉憎しだったのです。 関が原の戦いが終わって徳川幕府が開かれたといっても、島原の乱までは武断派の時代で、武士は平気で人を殺していました。大きな戦争はなくなったけれど、命が粗末にされていた野蛮さは凄まじいものでした。若い頃の水戸光圀が、辻斬り同然の刀の試し斬りを平然と行なっていたり、病んだ旅の者が宿屋の裏に生きたまま捨てられたりしていたのです。その時代を大きく動かし、日本人の優しさの原点を築いたのは綱吉の「生類憐れみの令」が発端だったとも考えられるのです。 武断派から文治派へと、時代が推移していったのも歴史の必然だったのですね。殺し屋の暴力装置だった武芸を、緩やかに切り替えていったのが柳生の活人剣でした。殺さない剣の道が始まったのです。また宮本武蔵の場合も、もはや武の時代ではないと気づきました。武蔵には、三木ノ助(主君本多忠刻に殉死、享年二十三)と伊織という養子が二人いて、立派に仕官させたのですが、武蔵もあれだけ強くなりたかったのは、自分も仕官したかったからなのです。武蔵自身も細川の殿様に客分としてかわいがられたのですが、その殿様は短命でした。そのために『五輪書(ごりんのしょ)』を記したという流れだったのですが、驚いたことに、息子には兵法を教えませんでした。それは、時代を読んでいたからなのです。自分がどれだけ武術を極めたところで、島原の乱で石を投げられて足に怪我をしたら歩けないし戦えないと悟って武蔵は転身したのですから。転身後には、武蔵は絵も描くし文も書くという文人になりました。 実際に、武蔵は細川の殿様に御伽衆(おとぎしゅう)という役職を与えられたのですが、文人としての才能も素晴らしいものでした。武蔵が描いた絵の中で一番有名なものに『枯木鳴鵙図(こぼくめいげきず)』がありますが、その筆さばきなど本当にすごいと驚嘆いたします。枯木の一直線のサーッとした流れなどは、超一流の剣豪ならではのものだと思いますね。たしかに才能があったから文人にもなったのですが、その背景には、時代の流れを読んでいたこと、それを知り尽くしていたからこそ自ずから変わっていったのでしょう。 このように、それまでのパラダイム転換ということでは、私の修行にも当て嵌まるところがあります。つまり、梵我思想も素晴らしいものでしたが、私の求めていた道からは、どうしても無理があると感じてしまっていたのです。梵我思想と原始仏教では悟り観・解脱観が根本的に違うことが解ってきたのです。 私はそれまで、老子や荘子にも傾倒していたのですが、そのタオを梵我思想の梵に置き換えれば、そして大乗仏教の仏性に置き換えれば、本質的にすべて同じなのです。ですから、原始仏教もそうだろうと思っていたのですが、それが違っていたのです。そのことを知って受け容れる時は相当ショックでしたね。 アドバイス: 中国の天台大師智顗(ちぎ)が説かれた『天台小止観(てんだいしょうしかん)』の止観というのはまさにサマタ瞑想とヴィパッサナー瞑想のことですから、知識としては知られていたでしょう。また、『阿含経(あごんきょう)』という漢訳の経典も伝来していて原始仏教の経典は一応あったのですけれど、それが中心的に取り上げられることはなく、重視されなかったようです。 日本では聖徳太子が仏教の父とされていますが、太子自ら多数の経典の中から『法華経』『勝鬘経』『維摩経』を選んで講義するとともに、またその注釈書『法華義疏』『勝鬘経義疏』『維摩経義疏』を著されたほどです。これらはすべて大乗経典です。『法華経』はご存じの通り、また『維摩経』も『勝鬘経』もさきほど申し上げたとおりです。 おそらくそこには、原始仏教よりも大乗仏教の方が政(まつりごと)には良いという判断が働いていたのだと思います。しかし大乗仏教ではどうしても戒律厳守が徹底せず、平安時代になるとあまりにも仏教界が乱れてしまいました。そこで仏教を立て直そうとして、鑑真和上(がんじんわじょう)がお弟子さんとともに唐から招かれ、それなりの成果はあったのですが、鑑真和上が亡くなってからは元の木阿弥になってしまいました。 私も昔は『維摩経』を読み感動していたのですが、実際の修行現場で心から納得するのは難しいですね。怒りがまったく起こらずに心の底から爽やかな時と、ムカッとした時が同じであるとは到底思えませんね。怒りや欲が立ち上がった時には、どうしても束縛されている印象が消しがたいでしょう。 それで、大乗仏教で言っている「煩悩即菩提」というのは嘘ではないかと思いながら修行を続けていたのですが、原始仏教に出会ったことで決定的になりました。そうか、全部捨てるしかないんだということに確信が持てたのです。原始仏教も厳しい道には変わらないのですが、こちらがブッダの本当の道だと得心がいきました。 我々のレベルでは、実際には全てを捨てるところまでには至らなくて、強欲が少欲となり、だんだん無欲に近づいていったあたりで幸福度が上がって、それで死んで、来世でまた続きをやるという展開になるのが関の山でしょうけどね。(笑) ただ私は、原始仏教の教えを知った時には、立ち直れないくらいショックでした。それまで十年以上やっていたことは何だったのかと打ちのめされました。「ええッ!!・・違っていたのか」と。でも当時の私には、もはや他にやるべきものが無くなっていたので、原始仏教の道を歩み抜くしか選択肢がなかったのです。 それまで十年以上、ヨーガやヒンドゥーや莊子や大乗仏教を命がけでやってきて、また幼稚園生から今度は原始仏教をやり直さなければならないのか・・という感じでした。それまでの歳月が水泡に帰したかのような徒労感や虚しさで、起ち上がれないほどショックを受けていました。なんとも辛いものがあったのですが、でもこっちが本物だという確信がありましたので、タイやミャンマー、スリランカなど外国の寺を訪ねて修行を重ね、それで今原始仏教を教えているということです。 (文責:編集部) |
【善行と愛する人の死】 |
Aさん: 善行とボランティアはどのように捉えればよいでしょうか。 アドバイス: 善行は、①財施、②身施、③法施の3つに分類されるのが一般的です。 ①財施は、お金や物品など物質系エネルギーの価値を無償で差し上げることです。 ②身施は、ボランティアやサポート、手伝いなど労力系の価値あるエネルギーを差し上げることです。 ③法施は、情報系です。物質や労力のエネルギーは動きませんが、相手の人生が幸せな良い方向に展開するように価値ある情報を差し上げることです。 仏教の因果論では、自分が出力したものと同じものを未来に受け取ることになると考えます。自分が蒔いた種を自分で刈り取る法則です。善い種を蒔けば良い収穫が得られ、悪い種を蒔けば苦い果実の悪い収穫を得る。われわれが日々経験する事象というものは、そのような摂理に則って生滅していると考えています。だから人に善行を施すことは未来の自分に幸福を与えることと同じとなり、本来の意味通り「情けは人の為ならず」と理解されます。 あなたのご質問のボランティアは、身施系の善行になります。例えば、水害の被災地で一日泥かきをしたり、ホームレスの方々への給食のボランティアに加わったり、老人施設で介護や傾聴のお手伝いをしたり、虐待されたり足を失った犬猫のケアをしている方もいます。困った時に義援金や物資が届くのもありがたいことですが、生身の人間が駆けつけてくれて自分たちのために無償の手助けをしてくれる姿を目にすることはどれほど力づけられるか。 そのような善意に満ちた支援を受けられる人となぜか受けられない人の差は偶然ではなく、仏教的には因果応報ということになります。こうした理解が共有されている仏教圏では、多くの人が基本的に善行をやろうとしています。しかし行為は同じようであっても、カルマはチェータナーという意志の問題ですから、善行をする一瞬一瞬の自分の心をよく観察し、不善心や不純な心が混入しないように気をつけましょう。 ポイントは、①劣善にならないこと、②善行の意義を理解し、今自分が行なう善行為の因果性を心得ること、③善行を受けてくださる方々への配慮を忘れないこと、などです。少し説明しておきましょう。 ①「劣善にならないこと」は、同じ善行でも行為する瞬間の意志(チェータナー)によって、優れた善にもなるし劣った善にもなってしまうことです。これは、下位から<劣善→中善→勝善>と上位になるほど善行としてのポイントが高いというか、優れた善になるということです。 善行は「利他行」とも言われ、他者を利する行為です。他人を幸福にし、さらに多くの不特定多数に利益をもたらそうと考えるのは、自己保存を最優先する自然界のエゴイズムに反する要素があります。こうした利己的な本能を乗り超えようとする修行が、善行と慈悲の瞑想に共通しています。自分以外の他人を慈しみ、家族でもないのに苦しんでいる人や困っている人を助けてあげたいという「悲(カルナー)」の心は、人間的に成長しないとなかなか身に付きづらいものです。 純粋な善行は、エゴイズムの本能を引き算しなければならず、容易なことではありません。因果論が分かってくると、自分のカルマを良くしてもっと幸せになろう。そのために人に善行をしよう、と考える人が多いのも当然と言えば当然です。しかし子供ぽいというか、自分が幸せになる手段として人を助けるという発想は、慈悲の点からも善行の点からも優れたものとは言えず「劣善」というちょっと恥ずかしい呼び方をされてしまうのです。 とは言うものの、真実をありのままに直視する瞑想をしているのですから、もし劣善しかできていないのが現状なら、自分はまだそのレベルなのだと自覚しながら清浄道の道を歩んでいけばよいのです。「仏も昔は凡夫なり・・・」という戯れ歌がありますが、最初から完成した心の人はおりません。これまで善行の「ぜ」の字も知らなかった人が、初めて善行をやってみるのですから、最初は劣善からスタートして構いません。やらないより、やった方がよいのです。最初の打席からホームランが打てないのなら、野球はやりたくない、と考えたら縁がつくことはありません。 ミャンマーで出会ったオーストラリア人の瞑想者が、「売名行為で善行をやってる人が多いよね。偽善者だよ。薄汚れた善行なんかやらない方がいい」と言うのです。吝嗇の言い訳を自分にしているという印象を受けました。この人は何年経っても、このまま何も変わらないだろうとも感じました。 たとえピュアな心ではなくても、善は善なのです。行為の実行が及ぼす影響は大きく、劣善でも、人生を善い方向に向かわせる力があるのです。物惜しみの不善心で汚れていた人が、初めて清浄道の第一歩を踏み出すのですから、カッコ悪いヨタヨタ歩きでも致し方ないのです。自分の現状をありのままに承認し、自分の汚れた心をきれいにするために、善いことを考え、善い行ないをして、心を成長させながら人格完成に向かって歩み続けると決心するのです。 ②の「善行為の因果性を心得る」には、3つのポイントがあります。まず、善行の意志が強化されることです。「富者の万灯よりも、貧者の一灯」と言われるように、行為を実行する瞬間のチェータナー(意志)が業を作るのですから、自分のやる善行の意義を心得、その意志を明確に自覚することが大事です。身を切られるような痛みを感じながら、それでも善をなしたいという意志は、善行のもたらす果報を理解しているからです。大事なのは、善行をして幸福になることではなく、現象世界を貫いている法則性を心得ることなのです。因果が帰結する業の世界を構造的に理解し、悟りを求める心を起こすことが仏教の本義です。 次に、日々さまざまな出来事を経験しながら「悪因悪果、善因善果」の法則性を忘れなければ、結果的にサティが常に維持され、マインドフルネスによく気をつけていることに繋がります。因果論を理解し、常に善をなそうと努め、行為の結果を想定することには、一石二鳥の価値があるのです。一つはサティを忘れないために、もう一つは、事の因果を理解しようと努めることが智慧の修行になるからです。 まとめると、「善行為の因果性を心得る」ことは、善意の強化のために、常にサティを忘れないために、業論に貫かれている現象世界を読み解く智慧のために、良い修行になります。 ③の「善行を受け取る側への配慮」は、謙虚な心と相手を思いやる優しさを育む良い修行になります。社会的な弱者や苦しんでいる方々に対する善行は「悲の瞑想」に通じるものですが、この現場では特に気をつけなければなりません。善行を始めたばかりの人は、善行をしている自分に自己陶酔したり、傲慢な波動が出ていたりしがちです。自分のささやかな善行を受けてくださる相手への配慮や思いやりはブッ飛んで、「弱者を救済している立派な私」にうぬぼれていたりするのです。相手を純粋に憐れむのではなく、劣った者をどこか上から目線で見くだすような、あわれみを垂れるような、そんな汚いオーラを感じたら誰でも普通に傷つくでしょう。 健康で幸福に暮している人たちは、他人から善行を施される必要もありません。善行を受ける側は、困っている人や苦しんでいる人、心や身体に障害のある人、介護を必要とする人たちです。多かれ少なかれ、自分の現状にコンプレックスを持ちがちな立場の方々です。その心を傷つけないように細心の注意を払わないと、見透かされてしまい、怒りや反感を買うことになりかねません。 ボランティアの介護を受けている身障者の人が書いた「ボランティアの犬どもめ!」という激烈な詩を読んだことがあります。鈍感な善行の怖ろしさを感じました。他人の善意に支えられなければならない屈辱や無念さ、弱者の立場でしか生きられない自分に憤りを覚えている人たちも少なくないでしょう。繊細な配慮から純粋な優しさの手が差しのべられたら感動もしますが、善行に自己陶酔している鈍感な人の、汚れた善意など受けたくないでしょう。 その詩の一部を、ベタ書きで紹介します。 【・・ボランティアの犬達は、私をアクセサリーにして街を歩く。ボランティアの犬達は、私を優しい青年達の結婚式を飾る哀れな道具にする。ボランティアの犬達は、私を、夏休みの宿題にする。ボランティアの犬達は、彼らの子供達に観察日記を書かせる。 私はその犬達に尻尾を振った。私は彼らの巧みな優しさに飼い慣らされた。汚い手で顎をさすられた。 私は、もう彼らをいい気持ちにさせて上げない。今度その手が伸びてきたら、私は、きっとその手に噛みついてやる・・・】 弱者の立場にいる方々の心情を思いやることの難しさを教えられたように感じました。善行を受ける方々に、善意をきれいに受け取ってもらうためには、相手を傷つけないように慎重に、細心の注意を払わなくてはなりません。身を屈め腰を折り「申し訳ないのですが、受けていただけますか・・」とお伺いを立てるぐらいの調子でやらないと難しいのです。そのような配慮が、傲慢な心を打ち砕き、謙虚な心を養う修行にもなっていくでしょう。 スリランカのニャーニャナンダ長老は、「クーサラ(善行)をやる時は、過去世で自分がお世話になった方へ、恩返しをさせていただいているのだと思いなさい」と教えていました。善を行じながら陥りやすい慢の心を戒めるための考え方の一つでしょう。 劣善の段階にいる人は、どうしても自分の利益を重視するので自己中心性が強くなり、相手を傷つけていることに鈍感になりやすいのです。善行としての値打ちが下がる一因でしょう。それでも善行を続けていけば、こうした失敗を重ねながら多くのことを学び、だんだん心が成長していきます。善行が当たり前になり、相手を思いやる心も修練されていくうちに、純粋に相手のためを思いやり、きれいな善行ができるようになっていることに気づくでしょう。これが「中善」です。 中善は純粋な善行なので善業のポイントも高くなりますが、しょせん因果の法則に縛られた業の世界です。どんな善き果を得て幸福になっても、無常に変滅し壊れていくドゥッカ(苦)に打ち克つことはできません。人の心が成長していけば、いつか必ず現象世界の幸福の限界を覚ることになり、この世に咎を見て王宮から出離したシッダールタ王子の出離に近づきます。ここから本格的な仏教の修行の流れに入ると言ってよいでしょう。 本気で解脱を目指し、聖なる修行を完成させる道に入ると、やがて誰もが気づくのです。「修行を進ませる原動力は、波羅蜜(善業の集積エネルギー)以外の何物でもない」と。悟りの瞬間が訪れるまでには、個人の修行努力だけではなく、多くの人に支えられ、教えられ、人生の流れが整い、諸力に助けられ、導かれ、奇跡のように絶妙なタイミングで全てがその一瞬に集約しなければならないのです。たった一つのピースが欠けただけで、起きるはずの宇宙的現象がガラガラと総崩れになっていくのです。 私も長いリトリートの最中に何度か、異常なまでに修行が深まり、奇跡の瞬間が訪れるのではないかというまさにそのタイミングで、修行が叩き壊されるような突発事が発生し、ものの見事に阻まれて撃沈してしまったことが何度もありました。万物万象と調和しながらしか、稀有な一瞬は訪れないのだと痛感させられました。仏教がなぜ「衆善奉行」を強調し、ありとあらゆる善行を奨励しているかの所以です。自分を取り巻く人、物、環境、万物万象との相関関係の中で、全ての事象が生滅しているのですから、そのような諸力に助けられ、支えられ、導かれ、調和していかない限り、何事も成り立っていかないのです。 現象世界の本質は諸法無我であり、万物との相関関係なのですから、ありとあらゆる善行をなして波羅蜜を貯えていかなければ、奇跡の一瞬は訪れない。この世の幸福のためにではなく、解脱の一瞬のためにあらゆる善行をなしていくことが「勝善」です。 以上、ちょっと詳しく「劣善→中善→勝善」について解説しました。善行がおやりになれるチャンスに恵まれたら、逃さずに財施、身施、法施をなさってください。徳のない人には徳が積めない法則があります。善行をやるチャンスが訪れないのです。それでも善をなそうと願い、努力していけば、ささやかな善行ができるよになり、一つできれば後はわらしべ長者のように、虻がミカンに、反物に、馬に・・と、しだいに良い善行ができる流れが形成されていくものです。心にキッパリと決心したことは、必ずそのようになっていくのが現象世界です。どうぞ身近なボランティアからあなたの善行を始めてください。 1週間くらい前に、祖父が亡くなりました。亡くなる直前まではとても元気でしたし、これからもずっと長生きしてくれると思い込んでいましたから、突然のことでショックを受けました。小さい頃からかわいがってもらっていたので、とても寂しい思いもあります。原始仏教の教えでは、人の死、特に身近な人の死はどのように受け止めるべきだとされているのでしょうか? アドバイス: 原始仏教では、死ねば必ず再生して輪廻転生が続くと考えられています。果てしなく続く輪廻の環からいかに解脱するか、その方法論と教えを提示したものが仏教なのです。輪廻転生が本当にあるのか無いのか、科学的に証明するのは現段階では難しいですね。つまりどのような死生観を持つかは、個人の信条や思想の問題になります。 輪廻転生否定論では、歳を取り人生の終末が近づくにつれて未来への希望が持ちづらく、前向きに最後の日々を送りづらい傾向があります。また、死ねば自分の存在が完全に無になって消されてしまうことに恐怖感を持つ人が多く、安らかな死をどのように迎えてよいのか難しくなりそうです。輪廻転生の有無は確率50%なのですから、有りという前提で心の準備をしておいた方がよいのではないかと思います。 私は原始仏教を拠りどころに生きているし、あなたも仏教に共感してこの場に来られたのですから、ここでは輪廻転生論を前提に考えてみましょう。 幼い頃から可愛がってくれた祖父の死は、最も辛い肉親との別離だったでしょう。臨終に立ち会い、最期を看取ることができたなら、当人はすでに再生してしまっていますから、あなたの中で祖父の死がこれからどのように受け止められていくかの問題です。 これから死を迎える人に対して、仏教徒してどのように接するか、何をしてやれるかは心得ておくべきことがいくつかあります。死んでいく人はすぐに再生し、新たな生存の流れが始まっています。あるいは輪廻転生否定論では、死の瞬間、完全な無になって存在が消されてしまいます。どちらの場合も、死の体験は当人にはほとんど問題にならないのです。 死が問題になるのは、残された者にです。死を怖れ、死について悩み苦しむのは常に、まだ生きている人だけです。大切な人との別れがきちんとなされないと、いつまでもその死や喪失感を終わりにできず引きずることになります。愛する人との永訣に、どのような心構えで臨むべきか考えてみましょう。大事なポイントが3つあると思います。 ①は、死んでいく人にどう対処し、何をしてやれるかです。 ②は、愛する人の死をどう受け止めるかです。 ③は、死者との関係性を見直しておくべきです。 まず①は、死にゆく人の再生が最高のものになるよう、できるだけのことをしてあげることです。原始仏教の理論では、死の直前、業を作る最後の心(死近心)が、再生した最初の瞬間の心(結生識)と同じになると考えられています。怒りの心で死んだ人は、怒りの心で次の生涯を始めることになります。感謝の心も、後悔の心も、優しい心も、傲慢な心も、善心も、不善心も、死近心がそのまま次の人生の始まりとなり、その生涯を決定づけてしまうのです。気をつけるべきことは、死んでいく人が不満や後悔や恐怖感など不善心所に陥らないように、安心して最期の瞬間を迎えられるように、穏やかで快適な環境を整えてあげることです。 私が母親を看取ったときには、実家に帰って、母親と一緒に暮らすことから始めました。認知症が始まっていたし、施設に入りたくないのが明確だったからです。母親が亡くなるまでの2年間、毎日食事を作り、懐かしい昔の話をし、スクワットをやったり、散歩をしたりしながら、息子と一緒に暮すことを切望していた母の願いに添いました。この間の母親の介護については、ホームページの『今日の一言』に詳細に記しました。この介護に関する部分だけを抜粋して、ブックレットにまとめるという話もあります。原始仏教の修行者が、自分の母親をどのように介護し、看取っていったかの事例の一つにはなるでしょう。その素材の原稿は、2010年から12年あたりの範囲を検索していただくと、今でも読むことができます。 母の最期を看取った2年間、毎日のように母に伝えたことは、安らかに死んでいくことでした。死期の近づいた人が恐れているのは、これからどうなるのか、訳の分からない、得体の知れない、真っ暗な世界に放り出されるような心もとなさです。死んだらどうなるのか、明確な死生観を何も持たない人が、不安と混乱に巻き込まれるのは容易に想像がつくでしょう。だから私は母親に、原始仏教の死生観を繰り返し語りました。死ぬとはどういうことか、死んだ後どうなるかの明確なイメージと見通しが立っていれば、怖れは激減するものです。 死んでいく人に対しては、まだ元気なうちに死について語り合い、関連書に目を通したり動画から情報を得て、その人なりの明確な死生観が持てるように援助してあげることです。死を怖れないように、輪廻転生についてきちんと理解してもらうことが良いと考えますが、仏教以外の死生観でもOKです。何もわからず、何の見通しも持てない無明の状態が、得体の知れない化け物のような妄想を肥大させてしまうのです。 私の母親は認知症が始まっていましたが、「お母さん、これから死ぬんだからね。人生最後の大仕事は、いかに自分の人生を全うして死ぬかということなんだよ」「死んで終わりにはできないからね」「必ず再生しちゃうけれど、きれいな心で死ぬば、その心に対応した良いところに再生するのだから、不安も恐怖もなんの怖れもなく、安らかに、安心して、きれいな心で死ぬんだよ」と、優しく、噛んで含めるように繰り返し話しました。死後の戒名を一緒に考えながら作ったり、実に明るく、楽しそうに、死んでいく話を毎日しました。これから外国旅行に行く計画を二人で話し合うような感じでした。 私は、これを「死のレッスン」と呼んでいました。母が穏やかに、幸せに死んでいけるレッスンを毎日したのです。死ぬ直前の心が再生の心と直結するという理論も、表現や譬えを変えながら繰り返し説明しました。介護が始まって間もない頃、「お母さん、死ぬのは怖い?」と訊いたことがあります。そうしたら、「ちょっと怖い」という正直な答えが返ってきました。でも、毎日死のレッスンを繰り返し行なっているうちに、「全然怖くないよ。だって再生しちゃうんでしょ」と言うようになりました。こうしたことから、死を存在の抹消と捉えるよりも、再生の瞬間なのだと理解することで、安心して死ねるということがわかりました。輪廻転生論が思想として有効な所以だと思います。 周りの者としては、死にゆく人に絶対に嫌な思いをさせないで、愛する家族に見守られ、手を握られながら、安心して穏やかに死ねるような情況を作るように心掛けることです。きれいな心で穏やかに死んでいける環境設定。これがポイントです。 母の臨終が近づい頃には、パーキンソン病の影響もあったのか、食べ物を噛む力も弱まり、ほとんど話すこともできず、首を振ってイエス、ノーを伝える状態でした。母の意向を知るのが難しかったのですが、死期の近い母親の心を忖度し、何が一番の望みか考えて、母親が生涯最も大事にしていた親族や友人、知人に次々と電話をして、母との最期の対面の機会を作ってあげました。それが母の最良の死近心に通じるのではないかと思ったからです。また、何も話さず黙って傍らにいるだけでも安心するので、病床の側の椅子に座り、スマホで作業をしながら時々母と目を合わせていました。できるだけ意向に寄り添い、不満や不全感を持たないようにしてあげることですね。以上が、死者を看取る側のなすべきことです。 第2のポイントは、看取りをする側、残される者が、いかにその死を受容するかです。愛する人を突然喪い、心が折れたように、深刻な悲嘆に苦しむ人たちも少なくないのです。この世で最も大切な人と別れを惜しむ暇もなく、突然、絆がブチ切れ、永遠に喪ってしまう悲劇を、人の心はなかなか受け容れられないものです。死にゆく人の看取りというものは、愛する人とゆっくり互いの人生を総括し合いながら、別れを惜しみ、ゆるやかに、かけがえのないものを手放していく儀式なのです。死んでいく者にも、残される者にも、双方にとって、最も大事な人と永訣するために必要な手続きではないかと思われます。 私が八王子の道場を売却し、下館に道場を移転させるまでにまる1年かかりました。売れるまでにそれだけの時間を要したのです。その間、私にとってかけがえのなかった道場と別れを惜しみながら、別離と手放すことの意味を学びました。私の人生の花だった時代に、命をかけて修行し、大勢の人たちと瞑想合宿を行なった拠りどころを、「よく気をつけて」手放していきました。何百本もの栗林に囲まれ、四季折々の花と緑の豊かな、心から愛してやまなかった道場での記憶を反芻しながら別れを告げたのです。 この眩いばかりの樹々の新緑をもう二度と見ることはない。これが見おさめだ。夏の夕暮れの木立ちを次々と輪唱するような蜩の鳴き声を聞くのも、これが最後だ。濃厚な油絵のような紅葉に陽が射し、黄葉が舞い落ちるのを見るのもこれが最後・・・と心に焼き付けながら、心おきなく、愛したものとの別離を完成させる時間を、天が与えてくれたと受け止めていました。 その結果、未練というものはまったく何ひとつ残らずに、愛してやまなかった道場ときれいに別れることができたのです。・・・これが、愛する人や物や土地と別離する手本だと感じました。こうした別れを惜しむ時間を持てずに、突然もぎ取られるようにかけがえのない存在を奪い去られた方々が、受け容れることも整理することもできないまま、長く「悲嘆(グリーフ)」に苦しむのだと思います。 こうした介護は、する方もされる方も非常に苦しく、逃げ出したいのに逃げられず、互いに傷つけ合い、悪いカルマを応酬し合う最悪の形になりがちです。そうなれば、死んだ後も心の問題は何も解決せず、死を受容しきれず、大きな骨が喉に刺さったまま自分も同じように死んでいくことになるでしょう。 私は父親と最悪の確執があったのですが、仏教のダンマの力で乗り超えることができました。それ故に、かつて激しく憎んだ償いの想いを込めて、父親の最期の看取りをやり抜くことができました。死者との関係性がきれいに整理され、意味づけられていれば、その死の受容もうまくいくものです。 最後に、死者は残された者の心の中に生き続けるのだと心に止めておいてください。一瞬一瞬の意志決定や自分の生き方の背景に、かけがえのなかった人が死んだ後にも暗黙の影響を及ぼし続けているものです。これを死者との「出会い直し」と表現している人もいます。あなたが誰かに無意識に優しくしてしている瞬間、心をよく観れば、あなたが祖父から可愛がられたときの印象が原動力になっているかもしれないでしょう。それは、あなたの祖父があなたの中で生き続けている証しではないでしょうか。 昔、『孫』という歌謡曲が、誰も予想しなかったヒットを飛ばしたことがありました。Jポップ好きな女子高生にも不思議な人気があったそうです。その話を聞いた時、私はその理由を、女子高生たちが幼い頃におじいちゃんやおばあちゃんにものすごく可愛がられた記憶があるためではないかと思いました。その歌詞は、孫が可愛くてかわいくて、どうしようもないという内容ですよね。 たとえ親子関係が最悪だったとしても、優しい祖父母にしっかり愛された経験があれば、子供はフォローされ、人間として一人前になっていけるのです。これまでに、ひどい家庭環境だったけど、祖父や祖母だけが救いだったと言っている人に何人も出会ってきました。まだ日が浅いので、祖父の死が受け止めきれないかもしれませんが、生きた人間が成長し続けるように、死者もまた残された者の心の中で変容し続けるのです。それを検証していってください。 |
-エゴをなくす修行- |
Aさん: エゴを出来る限りなくしていくことの意味はわかるような気がします。ただ、そうすると、スポーツを始めとする競技会やコンクールなどで表彰されたりした時、特にはオリンピックなどでメダルを取った時などの感動などどうなのでしょう。喜怒哀楽もなくしていこうということでしょうか。 ★喜怒哀楽を無くすのではなく、愚かしいエゴ妄想を手放していくのが瞑想者です。 血の滲むような練習を重ねてきたアスリートがオリンピックの晴れ舞台で獲得した栄光の金メダルです。人生最高の喜びにガッツポーズをして欣喜雀躍、感涙にむせぶのも自然なことです。 こうした喜怒哀楽を感じることに問題がある訳ではないのです。我執が強くエゴがギラギラしたアスリートもいるし、ひそかに原始仏教の無我論を学びヴィパッサナー瞑想を修練しているアスリートもいるでしょう。エゴの強いA選手と瞑想者のB選手が金メダルを獲得した瞬間、どのような違いがあるのか考えてみましょう。 A選手は、オレが世界一だ!と、まるで自分という人間全体が世界一になったように錯覚するかもしれません。このオレ様が金メダルを獲ったのだ!オレの実力であり、世界で一番だ・・と滑稽なエゴ妄想にのめり込んでいる状態です。 一方、瞑想者のB選手は常日頃から、この世のどんな存在も現象も互いに繋がり合っていて、その関係性を切り離して個別に分離独立しているものはないことを心得ています。ものごとは宇宙網目のような相関関係に織り込まれた複雑系であることを熟知しています。確かに自分は今回金メダルを獲れたが、それは持ち前の才能と子供の時から重ねてきた膨大な練習量と、素晴らしい師匠や先輩やコーチの指導と、健康状態を気づかい無理なスケジュールにも嫌な顔ひとつしないで協力してくれた家族と、切磋琢磨してきた良きライバル達との出会いと、不思議に怪我ひとつなく最高のコンディションに恵まれた運の良さ、などが今回のオリンピックの瞬間に美しく結晶したに過ぎないと覚っているのです。 仏教用語で言えば「諸法無我」の消息を心得て練習に励み、試合に臨んできた結果が金メダルに繋がったと心得ているのです。オレ様がどんだけ凄いか、お前ら、この金メダルで分かったか!!と鼻の穴を大きくしながらガッツポーズを振りかざしたりしないのです。 A選手もB選手も嬉しいのは変わりません。達成感や勝利感を喜ぶのは人間の自然な反応であり、ただそれだけのことです。違うのは、エゴ妄想で頭がいっぱいか、この世の実状があるがままに観えているか、です。実相が観えていれば、多くの人に助けられ支えられた複雑系のチームで勝ち取った皆の金メダルであり、たまたま自分が代表で表彰台に立ったに過ぎないと心得た上で、思いっきり感動し喜んでいるのです。最高位に昇りつめて傲慢になる人と、この世の事象の本質を心得ている謙虚な人の差も、このエゴ感覚に由来しているでしょう。 Bさん: 今のことと関連しますが、「今以上にもっと良くしたい」という気持ちがないと、人は向上心を持てないのではないかと思いますが。 アドバイス: そうですね。向上心はとても大事なものですが、たんなる欲望に過ぎないものと真の向上心は微妙に違いますね。ポイントは智慧が伴うか否かだと思います。人間としてもっと立派になろう、心をさらに浄らかにしよう、預流果の悟りに達したのだから次は一来果を目指そう・・と望み誓願する心は素晴らしい向上心でしょう。これは最終的に人を悟りに導き、ドゥッカ(苦)から解脱させる究極の目標に通じています。 一方、愚かさや欲に根ざした不善心からお金や地位や権力を求める上昇志向に過ぎない場合も少なくありません。誰でも幸せになりたいし、今よりもっと良い状態になりたいと願っているのですが、智慧のない人は結果的に自分で自分の首を絞めることをします。 「ダンマパダ」(66)では「あさはかな愚かな者たちは、自分自身に対して敵のように振舞う。 悪い行ないをして、苦難の結果を得る」と説かれています。そんな身勝手な欲望がかなえば自分が不幸になることに気づかないで、目先のものに刺激され罠にハメられ自滅していくのです。 *向上心を支える智慧の4つのファクター 正しい智慧の伴った向上心とはどんなものでしょうか。ポイントが4つあると思います。 まず第一に、現実をあるがままに認識する智慧です。この智慧を体得するには先入観や思い込みを除外しなければなりませんから、サティの瞑想が必修になりますね。「よく気をつけておれ」とブッダが生涯言い続けたように、マインドフルによく気づいて常に客観視できるように心がけます。 今よりも良くなりたかったら、今自分に何が与えられているのか。何が決定的に不足していて、補完しなければならないものは何か。現状の問題点と必要不可欠なものとを見定める智慧がなければなりません。前から持っていたのと同じものを2つ買ってしまったことはありませんか?必死に探し求めた青い鳥はどうしても得られず、帰宅したら鳥籠の中にいた・・・という物語は何を意味しているのでしょう。 私たちは常に何かが足りないと感じて、慢性的な不満足感を覚えています。欲しい、欲しい、もっと、もっと・・・と果てしなく求めていく「渇愛」という名の欲求性に苦しむように設計されています。人は必ず妄想するからです。現実の存在はどこか不完全で、苦の要素が包含されていますが、妄想は甘美なのです。今、ここに、無いものは、限りなく美しく妄想され、私たちを誘惑します。その渇愛に駆り立てられるのと、真の向上心を識別しなければなりません。 妄想を止めて、何も求めなければ、本当に必要なものは既に与えられている、と気づくのではないか。妄想しなければ、心が静かになり、人と自分を比べなくなるし、昔と今を比べることもしなくなります。すると、存在しているものがありのままに視えてくるので、大事なものは、あるいは自分に相応しいものは全て与えられていたことに気づくのではないか。幸せの青い鳥は、見知らぬ国へ探しに行かなくても、最初から家にいた・・・と。今自分に与えられているものを正しく理解しないと、渇愛という名の盲目的な向上心に駆り立てられて膨大な時間と労力を虚しく費しながら歳を取っていくし、最後まで不満足感に苦しみながら死んでいくのです。 ②客観的に観る智慧 自分の現状を正確に把握するだけでは十分ではありません。他人との関係も自分を取り巻く環境や情況も正しく捉えないと、向上心が虚しいものになりかねません。今よりもっと良くなると思っているのは自分だけで、周囲の人は誰もそう思っていなかったら、他人には迷惑千万な改悪であり下落なのです。 独善的な政治思想や社会改革に限らず、例えば、これはいい!と興奮してすぐに友人や知人に同じものをプレゼントして、相手はありがた迷惑でウンザリしているのに気づかなかったことはないですか?相手と自分は性格も好みも環境も生き方も生活レベルも違うのです。相手の立場に立ってみる発想と情況全体を俯瞰する客観視の視座が修得されないと、向上心どころか今よりもっと悪くなったと恨まれ、人間関係にヒビが入るかもしれません。 向上心のポイントは、現在と未来の因果関係を正確に把握する智慧です。さらに突っ込めば、他人と自分の関係を客観視する智慧と、エゴや我執を離れる智慧になるでしょう。ものごとを客観的に観るには、自己チューを止めなさい、と言い換えることもできます。自己中心的な視座から「捨(ウペッカー)」の視座に昇格されれば、自分も他人も情況も俯瞰できるのです。 すると現象世界の仕組みが構造的に覚られてくるはずですが、私たちにできる具体的な修行としては、利他行がイチ押しです。 他人の幸福や世の中のためになることを無償の行為として実践するのです。例えば、寄付をしたり義援金を送ったりお布施をしたりする財施があります。さまざまなボランティア活動は非営利的な無償の行為であり、いずれも利己のためではなく利他のためになることです。これを身施と言います。相手のためになる情報を無償で提供し公開する情報系の利他行は法施と呼ばれ、いずれも仏教の定番です。 自分さえ良ければ、あとは関係ないしどうでもイイや、と考えているエゴイストは利他行をやりたがりません。知的には理解できても、慣れ親しんだ自己中心的な考えを乗り超えるのは難しいのです。どうやって乗り超えていけばよいのでしょう。仕事でもプライベートでも常に相手の立場に立ってみる思考実験の癖をつけると、自己チューを乗り超える練習になります。ロールプレイングという確立された技法も有名です。 私は若い頃、利己的な考えに陥ってくると何となく後味が悪く、薄汚れた感じがするのに気づき、対処法として、その日の気になる言動を想起して「ブッダなら、こんな時どうするだろう?」と問いかける癖をつけました。すると、その日の自分の言動や考えたことは、偉大なブッダだったら絶対にあり得ない、愚かしいお粗末な反応だったと恥ずかしくなるのでした。 何もせず放置された人の心は汚れていくし、人は必ず自己正当化していくものです。向上に努めないで歳を取っていけば醜い老人になって老醜を晒すことになります。 向上心ひとつ取っても、その中に仏教の真理が読み取られていきます。日々サティの瞑想を深め、苦の根本原因である妄想を手放して智慧の眼を体得していきましょう。 Cさん: 今日の講義の中で、親鸞聖人の悪人正機説のことに触れられていましたが、それはどのような思想なのでしょうか。 アドバイス: 私は仏教学者ではないし、若い頃、大乗仏教系の修行も多少かじりましたが、今は門外漢なので語る資格はありません。凡夫の素人考えを少しだけ申し上げれば、親鸞は浄土真宗の開祖の方ですね。大乗仏教の中でも他力本願の浄土真宗は、原始仏教とは最も対照的な教えかもしれません。 *自力と他力の行 原始仏教は、自分自身の修行によって煩悩を乗り超え心の清浄道を完成していく自力の行法です。絶対的な神や仏を信仰し、その超越的な力によって救われていく信仰型の宗教とは立場が異なります。業論に基づいて倫理が説かれ、因果応報のメカニズムで人生の苦楽が経験されると考えています。悪を避け善をなしていけば必ず苦しい人生から解脱できるし、業を作った者が業の受け手であって、何ものも他人の罪や業を代わりに引き受けることはできないとする立場です。 しかるに、十字架に磔にされた神の子が、全ての人類の罪や業を引き受けてくれる。あるいは阿弥陀仏が救ってくれる。泣きながら神を求める純粋な信仰こそが救済への道であり、自分を捨てきって阿弥陀仏の救済意志にひたすら帰依を貫き通す道もあるわけです。 私は常に修行を重視してきたので、宗教思想を論じる情熱があまりありません。毒矢の成分を論議することも大事でしょうが、ブッダはまず煩悩の毒矢を抜き取れ、と哲学好きな比丘を諭しています。親鸞上人の教えの全容は私の関知するところではありませんが、ここでは、なぜ親鸞が徹底的に自力を否定し、ひたすら他力にゆだね切ることを説いたのかを考えてみましょう。 *無我に通じる他力の行 私はイエスの福音書を拠りどころに修行したことがあり、また念仏の修行も私なりに真剣に試みたことがあります。その経験から、他力の行法は、エゴをなくす修行としてとても効果的で優れていると感じています。今は原始仏教に信が定まって無我の修行を完成させようと思っていますが、イエスと親鸞の行を経験しなければ、今の私はなかったかもしれないのです。 絶対的な神への信仰を説くキリスト教も、一切衆生をあまねく救済しようとする阿弥陀仏への帰依を説く浄土宗も、その宗教構造は同じではないかと思われます。どちらも、エゴによる自力救済が不可能であることを自覚し、阿弥陀仏や神に救いを求めようとしています。 エゴに執着している限り、底知れない煩悩の闇や原罪から救われることはない、と打ちのめされた者が己の無力を覚り、エゴを手放し、自我を終焉させようとしているのではないか。心の底から神仏への信仰が定まった瞬間、胡麻や辛子の粒のような自分が眩い太陽の中に投げ込まれ、無限なるものと一つに融合したような感覚になる・・・。この自我の崩壊感覚が、原始仏教の無我の修行に通じているように思われるのです。 *滝行の経験から ささやかな体験ですが、昔、初めて滝行の修行をしたとき、10月末の寒さに震えながら、水量の激しい滝壺にどうしても入れなかったのです。行者は私一人で、堂守りの飯炊きおばさんがいるだけでした。根性でなんとか滝の落下点に入ってやろうとあがいている間はいかんともしがたかったので、オレ様感覚を手放して謙虚な心で広大無辺な仏に祈りを捧げ、導きを乞いました。すると、我が身を仏の手にゆだねた瞬間、サラリと滝壺に入ることができ、それからは頭上から落下してくる滝に無心に打たれ続けることができました。・・・なるほど、こうして自力の限界を思い知らされたときにエゴ感覚を手放すのが他力の行なのかと鮮烈な印象を受けました。オレの力で修行して悟ってやる、などと思い上がっているうちは青二才の若僧もいいところなのだと深く教えられたのでした。 *無我の修行としての内観 内観はヴィパッサナー瞑想の反応系の修行の一環として活用すべきではないか、というのが私の持論です。しかし歴史的には、内観は親鸞聖人の時代にさかのぼる「身調べ」という修行法を発展させたものなのです。「身調べ」の伝統を継承しながら現在の「内観」を確立したのは、吉本伊信という方で1988年頃まで活躍されました。精神的指導者になられる前はビジネスの経験があったので、ただ「反省しなさい」「懺悔しなさい」という「身調べ」のやり方では曖昧なので、より近代的な体系を作りました。 両親や養育者に対する自分の過去を懺悔し反省するポイントとして①「お世話になったこと」②「お返しをしたこと」③「迷惑をおかけしたこと」という3つの観点を明確にしたのです。内観が強力な効果を発揮するのは、自己中心的なエゴ感覚を手放して根本から発想の転換を迫るからです。エゴイスティックに歪められた過去の記憶を「在ったがまま」の正確な記憶に正していく行法はヴィパッサナー瞑想に直結すると私は考えています。今の瞬間をあるがままに観るのか、過去の事実をあったがままに観るのか・・・。いずれも、自己チューを乗り超えて自分を客観視する無我の修行そのものではないか。 *浄土真宗の悟りと内観 私がかつて大乗仏教の修行をしていた頃、内観の修行を通して浄土宗での悟りを体験してみたいと考えていたことがありました。内観の修行は、今申し上げたように、愛されてきた確認と迷惑をかけたことへの懺悔が骨子です。 特に重要なのは、自分がかけてきた迷惑の精査です。自己中心的なものの見方を捨て、相手の立場に立たなければ自分のかけた迷惑に気づけないので、ここで相手の立場に立ったり全体を客観視したり視座の転換が迫られるのです。 しかし自分が人に迷惑をかけ苦を与えてきたことを徹底して調べていくと、傲慢の鼻がへし折られていくのです。と同時に、やがて暗澹として自己否定感覚や自罰的傾向が強まることも少なくありません。すると、内観を深くやりすぎて自殺したくなったりしないのですか、という質問もよく受けるのですが、①の「お世話になったこと」を丹念に調べるので、そこは大丈夫なのです。自分がどれだけ愛されてきたかという感動と、真っ黒などうしようもない自分を黙って赦してくれてきた人たちがいた事実に打たれるので、自己破壊の方向に行くことはないのです。 ところが私の場合は、①②を省いて③のみに絞り込んで修行したことがありました。私は、吉本伊信先生がまだご存命だった頃の最後の時期にぎりぎり間に合ったため、吉本先生に直接面接していただくことができました。2週間連続で修行したので、その後半戦で「自分の心の汚れだけを徹底的に観たいので、自分の犯した罪業や邪悪な考えや腐った心だけに絞り込んで調べてもよろしいですか?」と訊ねたところ、吉本先生は「好きなようにやりなさい」と言ってくださいました。 *地獄は一定すみかぞかし こうして連日連夜、自分の罪業とどうしようもない心の闇を徹底的に調べていくうちに、穢れきった自分の心のあまりの真っ黒さに打ちのめされました。たとえ地獄に堕ちても自分のような者は救われようがない、と文字通り目の前が真っ暗になり、絶望のどん底に叩き落されたのです。もう生きていけない、救われようがない・・と追い詰められたとき、心の底から神仏の力に救い取られたい、と呻くように思いました。自力の無力さに絶望し、エゴに頼る心は全捨て、ただただ他力におすがりするしかない・・・と完全にノックアウトされたのです。 絶望の果てに、他力の救いを求める心が純粋に突き上がってきた貴重な体験でした。オレの力で悟ってやる、などという慢の心は木っ端微塵になり、エゴが全面降伏した爽やかさすら感じていました。この時の体験から、ここまで追い詰めてエゴの息の根を止め、自力の心を捨てさせる他力の修行構造が理解できたように思いました。 それが浄土真宗の教義の正解かどうかは知りませんよ。私たちは言葉では簡単にエゴを手放すとか言いますけど、エゴというのは本当にしぶといのです。どれほど修行しても、どのような体験をし今度こそ息の根を止めたと思っても、不死鳥のように甦ってくるのがエゴ意識であり自我感覚です。もし完全に終止符が打たれ、恒久的に無我が現成したならば、それは究極の悟りが完成した阿羅漢果の状態ということになるでしょう。 *総力戦の修行 「どんな教えや戒律であっても、八正道がありさえすれば解脱する者が現れる」とブッダは涅槃経の中で言ってますね。これが、なぜ私が内観のような他宗教の行法をヴィパッサナー瞑想の一環として取り入れているかの根拠です。心の清浄道が完成するなら、上座仏教の伝統も、イエスの教えも、親鸞の他力の修行も、何でも活用すればよいではないか。八正道を基本に修行することが肝心なのであって、純粋な上座仏教以外の修行では悟りたくない、などとカルトのようなセクト主義には陥りたくないのです。 さて、親鸞上人が説いた悪人正機説はどんな教えなのか、正確なところを私は知りません。ヴィパッサナー瞑想に役立つか否かが、常に私のスタンスです。親鸞上人は浄土真宗の開祖として偉ぶることもなく、恐ろしいまでに厳しい求道者として一貫していたように思われます。 自力に頼る心(=エゴ意識)を1ミリたりとも許さず、徹底的に粉砕しようとする厳しさが悪人正機説に繋がったのではないでしょうか。自分は善人だと思った瞬間、エゴ意識が芽生え、やがて傲慢の枝が肥え太って毒々しい花が開いていく・・・。 しかるに徹頭徹尾、自分は救われようのない悪人なのだと心得れば、オレが、私が、の我執は鳴りをひそめて生じてこない。エゴ意識を微塵も起こさせない装置として、悪人こそ救われる、悪人の自覚を片時も忘れずエゴを叩きのめした方が、どんな弱者も愚者も悪人も救おうと誓願した阿弥陀仏の本意に叶う、としたのが悪人正機説ではないでしょうか。 歎異抄には「善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉があります。阿弥陀仏は、自力を頼みとするエゴの強い善人ですら救ってくださるのだ。そんな善人が救われるのだから、エゴの無力さを思い知らされ阿弥陀仏に我が身を丸投げした愚かで無力な悪人こそ先に救われるのは当たり前ではないか・・ということでしょう。 *自ら悪をなす(造悪無碍) ところが、そこから「本願ぼこり」という問題が起きてきたのです。「悪人の方が先に救われるなら、よーし、悪をやりたい放題やってやろうじゃないか」と、意識的に悪行をやり始める者が現れてしまったのです。困った親鸞は「そうやって積極的に悪をなして救われようというのも自力のハカライであり、他力本願ではない」「薬あらばとて、毒を好むべからず」と諌めたというのです。 そこで関東の門徒に広まったこの本願ぼこりを鎮めようと、親鸞の息子である善鸞が高齢の父の名代として派遣されました。ところが、あろうことか善鸞は、「親鸞は、息子の自分だけに秘かに教えてくれた真実の法門がある」などと吹聴し、邪宗門の教祖のような振舞いを始めたのです。 その報に接した85歳の親鸞は断腸の思いで息子の勘当を決意し、激しい口調の義絶状を送ったというのです。 ・・しかし、このような話になってくると、もはや私の関知するところではありません。原始仏教を拠りどころにしている私にとっては、業論上否定すべき「悪人正機説」から一つの教訓が学び取れれば充分なのです。他力の行者の恐ろしいほど厳しいエゴの滅ぼし方は尊敬に値するし、ヴィパッサナー瞑想を完成させるのに大いに役立つと考えています。 *宗門の違い・悟り観の違いを超えて 阿弥陀仏に救われて極楽に再生したい、と私は思っておりません。無限に繰り返される輪廻転生の流れから解脱したい。そのために煩悩の最深部に巣食っているしぶといエゴ意識を根本から解体させて無我を体得したいと願っている者です。 浄土への往生を願う解脱観と原始仏教の解脱観は異なるのですが、親鸞の限りなく我をなくしていく厳しさは潔くも魅力的に映るし、エゴを滅ぼす修行として私はチャレンジしたくなるのです。 バクティ・ヨーガの聖者ラーマクリシュナも、悟りを開いた禅の老師も、他宗教の行法を学ぼうとしたときは、それまで自分が拠りどころとしてきた神仏も行法も見事にかなぐり捨てて、きれいな白紙状態になって謙虚に教えを乞い、素直に指導に従い修行したといいます。 エゴがなければ、本来相容れないはずのものにも相和すことができるのですね。「水は方円の器の如し」と言います。金魚鉢に入れれば丸い球形の水になるし、豆腐を作るときの四角い器に入れれば四角い形の水になり、争うことがないのです。 私はヴィパッサナー瞑想を至高のものとしてインストラクターなどしておりますが、さまざまな宗教や修行法を遍歴してきた過去があります。心境が進めば、過去の稚拙な教えや行法を見下したくなりがちですが、失敗経験も含めていずれも、その時の自分には必要なものばかりでした。お世話になったのだから、敬意をもって振り返るべきでしょう。 悪人正機説は、イエスの教えと同様、私にとっては最重要な修行体験でした。宗教とイデオロギーの違いと利害の対立から、人類は互いに殺し合い憎み合ってきましたが、今もそれは変わりません。自分とは何もかも異なった異質の存在だからこそ仲良く和合することができれば、多様性の価値を最高度に発揮できるはずです。 いかなる事象もどのような存在も、あるがままに承認していくヴィパッサナー瞑想は嫌いなものに対しても慈愛の念を放射していく瞑想です。他宗教の教えや行法からも謙虚に学ばせていただく姿勢を貫いていきたいですね。(完) |
<夢の実現について>
Aさん:
仏教では「今」ということを何よりも大切にしていると感じます。そうすると、将来のこととか考えたらダメなのでしょうか。夢を目指すのはいけないのでしょうか。
仏教でも他の宗教や行法でも「今、この瞬間」をとても大事にしています。Be Here Now ! という言葉も有名ですね。
なぜ今の瞬間を大事にするのか考えてみましょう。
*事実を正確に見る
今この瞬間を大事にするとは、目の前の現実を大事にするということです。人の頭の中は、常に妄想だらけなのです。ヴィパッサナー瞑想やマインドフルネス瞑想など特殊な訓練をしない限り、人はいつでもボーッとしていて、何か思い出したり連想したり、帰ったら何を食べようかなど取りとめもないことを考えているものです。みんなそうなので、「よく気をつけておれ!」とブッダは生涯言い続けたのです。
「ボーッと生きてんじゃねーよ!」という決めゼリフは、「ぼんやり妄想してないで、目の前の現実によく気をつけておれ」と言い換えられるでしょう。先入観や思い込みで頭がいっぱいのとき、目の前の対象が正確に認識できるでしょうか。できる訳ないですね。頭の中を空っぽにしておかなければ、見誤るし、聞き間違えるし、勘ちがいするのです。さらに、自分の誤認や錯覚に気づかなければ、嫌悪や欲望の反応がほとばしり、悪いカルマを作っている自覚もないまま、いつの間にか苦しい人生に巻き込まれ、なぜこんな目に遭うのだと嘆くことになるのです。
なぜ、今の瞬間を大切にするのか。答えは、事実を正確に見るためにです。頭の中から余計な妄想を排除しなければ、目の前の事実に集中できないからです。正確な対象認知ができなければ、正しい判断、正しい反応、幸せに通じる意志決定ができません。夢をかなえ、幸福度を上げるためにも、思考を止めて頭を空っぽにする練習が必要です。
*観察と考察を仕分ける
「将来のことを考えたらダメなのですか」というご質問ですが、答えは、ダメです。(笑) ただし、ヴィパッサナー瞑想を行なっている最中はダメということです。サティを入れる修行ですから、思考を止めてナンボの世界です。過去のことも未来のことも次元の高いどんな思考も、瞑想中はご法度です。
しかし、永久に考えるなというのではありません。もし死ぬまで何も考えないということになれば、おバカになるのと同じです。ニワトリなんかも何も考えずにひたすらエサを食べ、狭い鶏舎で卵を産み続けて死ぬみたいですね。嫌ですね、ああいう人生は。死ぬまで何も考えなければ、ニワトリと同じです。
ヴィパッサナー瞑想は、思考能力の弊害を除去するための技法と言えるでしょう。正確に、正しく思索し、思考するために、余計な妄想を排除する訓練が必要になったのが人類です。ですから、瞑想修行が終わったら普通の意識モードにもどり、いろいろ考えながら生きていく訳です。当然なぜ失敗したかを反省したり、綿密に将来の計画を検討したり、思考も考察も必須アイテムになります。
ヴィパッサナー瞑想に限らず、ものごとを観察したり経験している瞬間は、頭の中を空っぽにして、対象を正確に認知すべきだし体験すべきです。余計な妄想をしているから誤認や錯覚や早とちりが生じるのです。
将来のことを考えるな、ではなく、観察モードと考察モードをきちんと仕分けることです。対象を正確にありのままに観察し、熟考し、決断するという順番です。
多くの人が分不相応な滑稽な夢を描いて挫折します。正確な対象認知と情況把握と自己認識が必要不可欠なのです。そのために、何も考えず、今の瞬間に集中しなければならないということです。
*失敗学
現状認識が正確でも、それでも失敗も間違いも犯すのが人間です。特に若いうちは無謀な事や愚行をするものです。失敗や成功というものはどの時点で評価するかが問題で、99回の失敗が100回目の大成功に繋がれば万々歳ということにもなります。
「四十にして惑わず」と孔子も言ってますから、40歳くらいまでは大いに失敗し、挫折経験や失敗から学びを得ることが大成に繋がると考えた方がよいでしょう。なぜかと言うと、失敗の数だけ経験値が上がるし、弱者や傷ついた人たちへの共感能力が高まるからです。
失敗は創造の母とも言います。どこをどうすれば良い結果が得られるか、新たなものを創造するヒントが、失敗経験には満載されているからです。ものごとを要素や要因に仕分けて、分析的に観る能力が鍵になります。瞑想修行の用語で言えば、「択法(ダンマヴィチャヤ)」です。なぜ失敗したのか、何が悪かったのか、失敗の要因を徹底的に分析し、洗い出していくプロセスは、新しいものが着想され創り出されていくプロセスと酷似しています。なぜそれがダメなのか、みんな何に不便を感じ、困っているのか、ネガティブ要因がピンポイントで分かれば、どうすれば良いのか閃くのにあと一歩です。
畑村洋太郎という人が、失敗をプラスに換えていく「失敗学」 というものを提唱していて、私は当初から共感を持っていました。科学者の研究などは失敗の連続と言われますね。どんなスポーツの練習も芸事の稽古も、上手くできないから、失敗ばかりだから頑張ってできるようになる訳です。失敗学の日々を重ねているようなものじゃないですか。瞑想の修行だって、妄想ばかりでしょう?(笑)。居眠りばかりしてるんじゃないですか?(笑)
問題は、なぜ上手くいかないかの要因分析です。失敗を何度も繰り返してしまう人と、すぐに修正してくる人の差です。ボールから目を離すのが早いから空振りするのです。お手本を何度も凝視して、師匠の型を脳内イメージに叩き込んで稽古に臨む人は上達が早いのも当然です。瞑想のモチベーションを見失い、なぜ瞑想するのかよく分からなければ疑いや迷いが多くなります。一身上の気がかり事項を抱えていれば、今は瞑想どころではないし、妄想が多発するのも自然なことです。毎回眠くなるのであれば、瞑想をやる時間帯や過食を疑うのは瞑想者の常識です。
*敗因の研究
上手くいかず失敗するのには原因があります。なぜ失敗したのかを徹底的に究明していくと、システム全体を構造的に理解することにもなるし、そこから創造性が開発されていくのは典型的なパターンと言ってよいでしょう。
私は「敗因の研究」と呼んでいましたが、人間探究の視点からは、成功者の自慢話よりも、敗北していった者や滅びに至った過程を詳細に分析したものの方が人間の真実についてより深く教えられ、学ぶものが多いと感じてきました。なぜなのかを考察してみると、昔から反面教師から多くの学びを得てきたからかもしれません。
尊敬すべき人を立派な手本として真似たり学んだりするのは、誰にでもできる単純な構造で、お猿さんにもできそうです。しかるに反面教師から学びを得るには、脳内で自在に視座を転換させる柔軟さが必要です。お前はこうなってはいけない、というネガティブな見本から、ではどうあるべきなのか、何をどうすればよいのかを導き出すには、考察や想像力やシミュレーションなど多角的な発想が必要です。
なぜこの人はこんな風にダメになったのか。何が欠落していて、どうすれば良かったのか。いかんともしがたい因縁の流れで破綻していった模様が読み取れると、個人の力量だけではなく、環境の力や情況の力、人の関係性が生み出す力が、宇宙の網目のように絡まり合っていたことも見えてきます。
私は、偉大なる反面教師だった父親からそれらを学ばざるを得なかったのですが、立派な手本を猿真似するだけの単純構造よりも、視座の転換や智慧の発現にはるかに資するものがあったと感謝しています。
順風満帆な人生よりも逆境から学ぶものの方が大きく、成功よりも失敗の方が儲かる、というのが私の持論です。あらゆる経験が情報として宝物になり得るのであれば、失敗も成功もどちらも未来を豊かにしてくれるのではないでしょうか。
夢を叶える人もいますが、それ以上に、叶えられない人の方がはるかに多いでしょう。完全に敗北し、心が折れ、失意のどん底で打ちひしがれている人が世界中にどのくらいいるでしょう。程度の差はあれネガティブ体験をしていない人はほとんどいないのではないでしょうか。失敗学とは別の視点から、挫折体験の意味を考えてみましょう。
ハリウッド女優たちに、こんな質問をした人がいます。
「同じ才能、同じキャリアの監督が二人いたとする。Aは痛切な挫折体験を乗り超えた経験がある。Bは一貫して順風満帆、挫折体験は無い。あなたはどちらの監督と仕事をしたいですか?」
回答は、全員、仕事をするなら、挫折体験のあるA監督としたい、でした。
この答えには、人間全般に当てはまる普遍性があるように思われます。誰でも直観的にわかっているのです。失敗や挫折を経験している人の方が、その経験の無い人よりも優しくて包容力があるのではないか。能力の高い人にありがちな、傲慢で自己中心的で上から目線で見下すようなことをしないのではないか。自分の苦しみや心の痛みを理解してくれる可能性が高いのではないか・・と。
人の痛みに共感できるか否かは、自分自身の純粋体験に根差しています。まだお母さんが元気な人には、母親を喪った悲しみや喪失感をリアルに想像するのは難しいのです。たいした恋愛もしていないし結婚もしていない人に、最愛の伴侶を突然喪った人の悲しみがわかるでしょうか。目の前で3歳の我が子に即死された人のグリーフ(悲嘆)がいかばかりか。そのような当事者の方に心から等身大の共感ができるとしたら同じ経験をした人だけでしょう。子供を持ったこともないし、愛する家族は皆元気だったら、映画の1シーンなどを思い出しながら空想するしかないでしょう。
経験がなければ他人の痛みがわからないのであれば、夢が破れて挫折するのも、人生最大の苦しみに打ちひしがれるのも、素晴らしい宝物になるのではないか。人の痛みがわかる慈悲の人になれるかもしれない・・・。苦しんでいる人に寄り添い、救いの手が差し伸べられる優しさは、最高の宝でしょう。
苦しんだ人、失敗した人、心が折れ、挫けた経験のある人は、同じドゥッカ(苦)を経験した人の痛みを自分のこととして共有し、共感できるでしょう。ああ今、この人は、私と同じあの苦しみを味わっているのだ・・・と、他者の痛みを我がことのように共感できる人は「悲(カルナー)」の瞑想の達人になれるのです。
*毒が薬になるには・・・
ただし、自動的にそうなれる訳ではありません。自身のネガティブ体験を乗り超える仕事ができなければ、優しさに繋がることはないでしょう。苦がいまだに苦のままであれば、嫌悪や怒りや恐怖の対象のまま放置されていることになります。自分も苦しんだのだから、お前も苦しめという怒りが、虐待の連鎖や冷酷な事件の背景になっているケースも多々あります。苦しみは乗り超えられなければならない。もし認識革命や認知の大転換が起きれば、ネガティブ体験をありのままに受け容れることができるでしょう。その時こそ、ドゥッカ(苦)が「悲(カルナー)」の優しさに昇華し、宝物に変容するのです。
となれば、夢は叶ってもよし、叶わなくてもよし、になりませんか。夢が叶った達成感は幸福が実現している瞬間でしょう。慶賀すべきことです。夢が叶わず失意のどん底を体験をすれば、それを乗り超えて真の慈悲の人になれるのだから、これまた慶賀すべきことです。才能は同じでも、幸福な人生だったA監督よりも、挫折を乗り超えてきたB監督の方が経験値が高いし、人の痛みに共感できるだけ人間として深いのです。
いかがですか?このように考えれば、夢を叶えるべく一生懸命努力はするものの、何がなんでも!と強烈に執着することも、苦しみの原因である渇愛の状態に陥ることもないのではないでしょうか。
もし夢が破れ、失意のどん底に落ち込んだら、心が折れ目の前が真っ暗になったら、このことを思い出してください。今、私は人生最大の宝を手中におさめようとしているのだ、と。今こそ「人は、傷ついた数だけ優しくなれる」という言葉の意味を腹に落とし込む時なのだ、と。
*願望は叶う
失敗もまた楽しからずやですが、願望を実現し夢を叶える経験も、幸福の限界を知る上で大事なことです。
どうしても夢を実現させなければ人生の次のステージに行けないのであれば、業の世界にまみれる覚悟の上で、引き寄せや願望実現の術を試みるのも致し方ないでしょうね。バカなことと解っていても、経験しなければ卒業できない通過儀礼というものが世の中にはあるものです。
少女時代に漫画を読ませてもらえなかった女性が、結婚してからそのことを夫に話し、毎日好きなだけ漫画に読みふけったそうです。近所の貸本屋で次々と借りてはまた借りて、漫画漬けの日々が続きました。そんなある日、彼女は「もう漫画はいいわ」と呟き、夫にありがとう、と言ったそうです。好きなことを好きなようにやらせてくれ、見守ってくれていたことに感謝し、心の底から気が済んだことを確認したのです。こうして子供の時に抑えつけられていた欲望が存分に満たされ、思い残すことなく完全に離れることができたといいます。
これも卒業の仕方でしょう。あんまり大したものじゃないよ、といくら言われても、一度食べてみなければ気が済まない人は、高い代価を支払っても経験するしかないという考えもあり、なのです。想いを遂げれば満足し、気が済んで、終わりにすることもできるでしょう。一度も経験しないまま、くだらないことだと断念しても、果たして本当に終わりにできているのか微妙です。心の片隅でどことなく引きずっていて、未練が残っていることを自覚しないでいると、「随眠」という潜在煩悩となって眠り続け、やがて縁に触れた時に噴き出して暴れまわるかもしれないのです。
それならいっそのこと願いを叶えて、さっさと体験して終わりにするという考え方です。この世は業の世界ですから、強烈に願い続ければやがてそうなっていくものです。
*なぜ願望が実現しないか・・
願望が本当に叶うとは思えない? まあ、そうでしょうね。そう思っている人は多いです。しかし、この世は因果の法則に貫かれているので、強く願ったチェータナー(意志)が具現化し現象化していく業の世界なのですよ。実現しないものは実現しませんが、それには必ず原因があります。ちょっと考えてみましょう。
まず、心がブレていませんか。朝、必死で願望実現のイメージを描いたのに、夕方になるとそんな上手い話が自分に起きるとは思えない。これまで挫折ばかりで、夢が叶ったことなんかないし、どうせダメだろう・・などと、朝、肯定したことを夜、否定していませんか。
これは願望が実現しない人に典型的に見られるパターンです。心に迷いがあり、ブレている人の願望は実現しないのです。必死で押していたのに、急に引き技を使ったり、上手くいかないとまた押してみたり、ブレている力士は必ず敗けますね。せっかく積み上げてきた積み木を自分の手で崩すようなことをしているのに気づかず、ダメだ、自分にはできない、と投げ出してしまう人が多いですね。
この世で夢を実現させた人に共通しているのは、もの凄い執念です。何がなんでも、絶対に、必ずやってやる!と恐ろしい執着心でやり続けた人が夢を叶えている傾向ですね。一定の方向に出力され続けたエネルギーは、必ず一つの形にまとまっていくでしょう。業が作られるというのは、そういうことです。願望実現は、カルマが現象化していくプロセスの別名と考えてよいでしょう。
*夢が叶えば、幸福か?
諦めなければ、夢はいつか必ず叶うものです。ただし、夢を叶えることと、幸福になることは、別のことだと心得ておきましょう。若い頃からの夢を実現させて、3つの会社を所有するまでになった人に会ったことがあります。老人施設で私に話しかけてきて、いまだに持っている昔の名刺の肩書きを見せてくれたのです。家族が誰ひとり訪ねて来ない孤独な老人が、自分は昔は凄かったのだ、と誰かに認めてもらいたかったのでしょう。寂しさと、後悔と、やるせない憤りと、諦めが渦巻いていて、痛々しい哀れさを覚えました。
ああ、この方は事業には成功したが、家族のためと言いながら結局、自分の野望のためにのみ生き、家族をないがしろにした挙句、誰からも見捨てられ、独り寂しく死んでいこうとしているのではないか。そんな思いが去来しました。母に寄り添って世話している私の姿を羨望の眼差しで眺めていて、たまらず話しかけてしまった、という風情でした。
なんのために夢を叶えたいのか。なぜ、何のために、自分は生きるのか。この根本的な問いを忘れずに、願望実現に励んでもらいたいですね。
*結婚願望
願望が比較的簡単に叶えられる人と、難儀しながら、ぎりぎりセーフで、ようやっと叶えられました・・という人の差は何でしょう。過去のチェータナー(意志)の違いではないかと考えられます。
結婚したいのに、いくらセオリー通り願望実現法をやっても良縁に恵まれない人がいます。一方、身のほどをわきまえず、よくそんな高望みができるものだと呆れる人が、完璧に、100%ドンピシャの伴侶をゲットした話もあります。
テクニックの問題でしょうか。それもあるでしょう。ヴィジュアライゼーション(視覚化)が上手い人も、不得手な人もいます。もともと肯定的な思考パターンの人もいれば、ダメだしが多く、いつでもネガティブなことばかり考えたり言ったりしている人もいます。実現する願望は最初からスラスラ簡単にイメージが描けるが、実現しない願望はなぜかイメージがまとまらず、上手くヴィジュアライズできない。あるいは願望実現法をやるのを忘れてしまったりする・・・等々。
これは過去のカルマの問題ではないか、と私は考えています。例えば、小さい頃から仲の良い両親に憧れて、素直に結婚願望を持ってきた人がいます。一方、冷え切った夫婦仲で、喧嘩ばかりしている両親を見てきた人は、結婚なんか絶対したくないと思いながら育ちます。この両者が同じ結果になるでしょうか。
長年に渡って集積されてきたチェータナーが業を作るのですから、前者は結婚しやすいし、後者は難しいのです。今まで否定し続けてきたのに、いい歳になり急に結婚したくなって慌てて願望実現法をやってみたところで、これまでとは正反対のカルマを新規作成しなくてはならないのです。過去の業の力に圧倒され、この願いはなかなか成就しないだろうということになります。
では、永遠に望みはないのでしょうか。そんなことはありません。諸行は無常ですから、ブレることなく願い続け、持続する志を貫き通していけば、いつか必ず実現し、成就するでしょう。それが、業の世界です。華やかな結婚式のイメージを描き、それが事実であると信じ切ることができれば、その通りに夢が叶うでしょう。映画ならそこで終わるのですが、人生には明日があり、明後日があります。結婚式の翌日から、どのような人生が展開するのかは知りません。遠からず、犬も食わない夫婦喧嘩がおっ始まるかもしれません。(笑)
夢や願望が叶うことと、幸福度は別のことなのです。私も若い頃、願望実現を次々と成功させて狂喜したことがありましたが、短時日で次のステージを目指していったのは、この構造に気づいたからでした。
*渇愛ホルモン
夢も欲望も実現するまでが最高にワクワクするのです。ドーパミンという快楽ホルモンは、快楽そのものを味わうというより、快楽に向かって人を駆り立てる「渇愛ホルモン」と言うべきものなのです。さあ、その先に至福の快楽が待ってるぞ!
なんだかもの凄いことになりそうだ!と胸を高鳴らせ、欲しがらせ、頑張らせるのがドーパミンの役目です。このホルモンが人を欲望へ駆り立て、未来に甘美な夢を描かせるのです。
夢が首尾よく叶えば、一瞬、ヤッター!万歳!と舞い上がるのですが、よく見てみると、あれ? こんなもの? 思っていたほどではないやん・・・と、妄想の甘美さと現実のギャップを検証させられることになります。心に夢を描いているときは妄想はイイトコ取りばかりをしていて、現実に内包されているドゥッカ(苦)の要素が見えないのです。
芥川龍之介の「芋粥」には、長年の夢だった芋粥が食べ放題の状態になった時の幻滅感が描かれています。夢は叶うまでが甘美なのであって、夢が現実になった瞬間、妄想特有の甘美さが失われるのです。
「幻滅」とは、なんとヴィパッサナー的な言葉でしょう。正鵠を射た素晴らしい決め言葉ですね。現実が直視された瞬間、目から鱗が落ちるのです。現実を目の当たりにすると、甘美な妄想が音を立てて崩れていく。文字通り幻が滅していく瞬間、法としての存在の実状がありのままに直視されるのです。
願望は叶うまでが幸福で、甘美な妄想が現実になった瞬間から、一切皆苦のリアル世界が始まるのです。ドンファン達も、女性をあの手この手で誘惑し、落とすまでが最高にワクワクし情熱的なのですが、望みが叶った瞬間からシラけて、釣った魚にエサはやらずに次の獲物に向かうようです。
昔読んだアメリカ文学の短編に、印象的な一作がありました。
若い新婚夫婦がカフェでくつろいでいるのですが、美しい女性が通るたび通るたびに、夫の目がキラキラ輝き、後姿にいつまでも熱い視線を注いでいるのです。妻は、そんな夫にイライラしていましたが、業を煮やして化粧室かどこかに向かって歩き出します。すると夫は、その後姿を凝視しながら、いちだんと目を輝かせて『なんて、いい女なんだ・・』と呟くのです。
なるほど、これは妄想の甘美な構造を描いた短編なのだ、と私は読みました。
*天命を果たす・・
夢がなければ人生は輝かない、と信じている人が多いですね。三浦雄一郎も、エベレスト登頂などの夢を達成し、目標がなくなると、ただ食べてぶくぶく太ってメタボになり、何か次に挑戦するものが見つかると、再び苛酷なまでにトレーニングに励んで夢に向かっていくのを繰り返したと言ってましたね。
誰からも賞賛される立派な人生なのでしょうが、虚しくないのだろうか・・と疑問を呈したくなります。鼻先のニンジンを死ぬまで追い続ける馬のような人生だ、などと言ったりはしませんよ。(笑) でも、甘美な妄想に踊らされ、具現化すると幻滅し、それを死ぬまで繰り返すのは、私には耐えられないですね。
夢を持ち、それが達成した瞬間の感動を味わい、たちまち色褪せていく現実に幻滅の構造を教えられるのも、何度か繰り返して検証すれば充分でしょう。
体力があるのも、圧倒的な才能に恵まれるのも、反対に、病弱なのも鈍才なのも、運が良いのも悪いのも、夢が叶えられるのも、叶うことなく見果てぬ夢を追い続けるのも、すべてカルマのなせる業であり、一瞬一瞬のチェータナーと出力してきたエネルギーの集積に過ぎません。
良いカルマを作り、完璧に夢を叶え、理想的な幸福を実現しても、長くは続かないのです。全ては無常に変滅していくし、やがて崩れ去り、年老いていくし、死んでいく無常の苦を免れることはできないのです。死ねば必ず再生し、生まれてくるのは、また業の世界です。そんな業の法則に縛られるのはいい加減ウンザリやな・・・と、因縁因果に束縛されたこの世に咎を見るのが「行苦」(サンカーラ・ドゥッカ)です。
ここからが、仏教の修行の本番であり、輪廻の流れから決定的に解脱するにはヴィパッサナー瞑想に命を懸け、聖なる修行を完成するしかありません。
そんな仏教の真髄に参入するには、心の成長の順番というものがあります。あるがままの自分を正しく見ることができれば、今の自分の立ち位置がグラデーションのどのあたりか覚られるでしょう。そこから歩を進めていくしかありません。夢を達成しなければ何としてもオサマラナイのなら、必死で叶えて、幻滅をしっかり体験することが、今のやるべきことです。
幼稚園生には幼稚園生の学びと修行があり、森林僧院で阿羅漢を目指す修行に命を懸ける者はそれをやり遂げるしかないでしょう。与えられたものに全力で取り組めばよいのです。
天命を果たすというのは、自身の業が呈示してきたものをことごとく受け切って、正しい方向に全うしていくことではないかと私は理解しています。(文責:編集部)
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