月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

尋ねたかったこと (1)

<行為の結果と自由意志>
Aさん:すべてが縁であるとすると、人は自由意志を持つことができるのでしょうか。

アドバイス:
  これは哲学的にとても難しい問題です。
  例えば「腹が立った」とします。果たして私たちは明確にその時の状況を理解した上で、ここで怒るべきかどうかを自由かつ冷静に判断して怒りを発しているでしょうか。大方の経験では、そうではなく、刺激に対してほとんど自動的に反応しているのではないでしょうか。もっとも、頭の隅に多少とも冷静さが残っていれば、相手によって手加減するとか、あるいは後々のことが頭をかすめて少しは計算するということなどはあると思いますが。
  いずれにせよ、「自由」な意志で怒りを出したり引っ込めたり、そんなに都合良く出来るものではありません。怒るか泣くか喜ぶか、あるいはサティを入れて見送れるかは、あくまでも過去の蓄積の結果です。なかでも怒り系の反応は、生命が弱肉強食の中で生き抜くために太古の昔から身につけてきたものであって、もちろん人間にあっても、誰でもが昔から習熟し、かつしっかりと実績をあげてきています。
  ですから、怒りは何の努力も必要とせずに自動的に簡単に立ち上がってしまいます。そういう意味では、「過去とまったく無縁な自由意志」というものはありません。
  人は、一定の条件や環境の下では、反射的に一定の反応をしてしまうものです。しかも悪い業や善い業によって、どのような環境に置かれてしまうかは決定的です。不善業があれば、過酷な情況に押しやられてしまうのです。あまりの苦しさに、理不尽さに、嫌悪や怒りは不可抗力と感じられるかもしれません。
  しかしそれでも仏教では、修行という立場から、また幸せな人生を具現化していく立場から、カルマの核ともいうべき意志(cetana:チェータナー)の働きを重視しています。過去の蓄積の結果が今の私たちの心の反応パターンを支配しているのは確かですが、仏教は、まさにそこにメスを入れて反応する心を再編成していこうというのです。
  過去の蓄積の結果を受け入れた上で、絶対に悪を避け善を為すのだという確かな決意、何よりも先ずこれがなくては仏教は始まらないのです。自由意志が働かないような一瞬にも、よく気をつけて、暴発する本能の命令に逆らうのです。一方通行の電車道のように反応していくパターンにブレーキをかけ、煩悩を抑止して、善なるもの、正しい道を選び抜いていくのです。
  つまり、不可能ではないかと思われるほど難しい一瞬にも、自らの意志で智慧の選択をしていくのが仏教です。

Bさん:過去の行為の結果はどうしても現れてしまうものでしょうか。またそうであれば、むしろ早く結果が現われてしまった方がかえって良いのでは、ということも言えるのではないでしょうか。

アドバイス:
  そうですね。ネガティブな現象が生起し、苦受を受けた瞬間に不善業が一つ現れて消えていくのですから、負債返しができて良かった、悪業が消えた、と喜ぶこともできるでしょう。嫌な現象が起きた瞬間にサティを入れることが出来て、新たな不善業を作る悪い反応が起きないのであれば、その方が良いということも言えなくはないでしょう。
  でも、痛いし、臭いし、苦しいし、ネガティブな現象を平然と、心を汚さずにやり過ごすのは容易ではありません。そこで、必然の力で帰結する因果の仕組みを心得た上で、相殺の思想を活用する智慧もあります。殺生をしたなら、命を助ける。奪ってしまったなら、与える。裏切ったなら、誠心誠意まことを尽くすのです。不善業を作った瞬間の正反対のエネルギーを出力すれば、業の結果が現れるのを未然に相殺することもできるのです。
  いずれにしても、自分で蒔いた種は自分で刈り取らなくてはなりません。悪いカルマを積んだ人と良いカルマを積んだ人とでは、どう転んでも結果として出会う現象が違ってきます。悪いことをしていれば嫌な現象、苦受を受けることになるし、徳を積んでいれば良い現象、楽受を味わうことになります。
  誰でも、良いことばかりが起きる人生を望みますが、そうなったからといって、喜んでばかりもいられないのです。楽受を受けるということは、いわば宇宙銀行から徳の預金を引き出すようなもので、幸福感を味わうたびごとに、だんだん残高は減っていってしまいます。常に新たな徳を積み直す努力、つまり善行を怠らないことが大切です。
  善いことも悪いことも「無常」です。いずれにしても、善悪にかかわらず、結局、私たちは因果によってカルマの自己消費と再生産のプロセスを延々と続けているということです。そして、仏教はそのこと自体をドゥッカ(dukkha:苦)であるとしているのです。

Cさん:ブッダは「来世」というものを説いたのでしょうか。証明されないことには言及しないという立場をとっていたように理解しています。そのような話をすることを禁じてはいなかったのですか。

アドバイス:
  それはこういうことです。マールンキャ・プッタという、修行をしないで、証明不可能な議論や考えごとばかりしている出家者がいました。有名な毒矢のたとえが出てくる経典(注)にあります。その中でブッダは、「私は今お前に必要な法を説いているのだ」としてそのお坊さんを厳しく諭しました。確かにブッダは、この経典のなかでは、証明不可能なことを論議するのは良くないと説かれています。
  しかしこの経典のケースでは、阿羅漢を目指して修行をするという、出家の初心を忘れてしまっているお坊さんに向けて諭しているのです。ブッダは基本的には対機説法といって、その人その人に応じた法を説かれていて、他のいろいろな経典からも分かりますが、輪廻転生を大いに語っています。
  そもそも仏教の究極の目標は解脱です。では何からの解脱なのかと言えば、生まれ変わり死に変わりという輪廻からの解脱です。ですから、もし輪廻転生が無いなら解脱も無いし、ひいては仏教も無いと言うことになってしまいます。それくらい仏教と輪廻転生とは切り離せないのです。再生すること、そしてまた苦しみの生存を続けること、そういうことを本当に終わりにしたい、乗り越えたい、解脱したいという、仏教はそのために明確に設計されているシステムなのです。
  さらに言えば、ブッダ自身は宿命通と言って過去世の記憶を再現する超絶した能力を備えていました。人々の過去世まで正確に見通すという神通力のあった方です。『清浄道論』に出ていますが、第四禅定に入って一瞬前を思い出し、その前を思い出し、誕生の瞬間からその前に遡ってというふうに、本当に厳密で緻密な手順を踏んだ訓練によるものです。
  ただこのことは、タイムスケールが大きすぎて科学では証明がとても難しいです。実験も無理ですから、再現性のある法則をそこから取り出すことはできないでしょう。このように、科学的な手法にはなじまないところも確かにあると言えるでしょう。しかし、やはり仏教の依って立つところは、「輪廻あり」なのです。
注:『中部経典』第 63経『箭喩経』

Dさん:今のお話で、もし輪廻転生があるとするなら、生まれた時からカルマを持って生まれてくるわけですね。もし今世で死ぬまでにそれが清算できなければ、また来世でもそのカルマを引き継いでいくものでしょうか。

アドバイス:
  ちょっと難しい話になりますが、アビダルマの業論では、そのことが詳細に言及されています。
  例えば、今世で作ったカルマが今世で現れる「現法受業」。このカルマは、今世で縁に触れる機会がないとそれで立ち消えになります。来世に持ち越されることはありません。弱いカルマなのです。「次生受業」というのは、来世まで追いかけてくるカルマです。「後々受業」になると、何度生まれ変わろうと縁に触れて現象化するまでは永遠に追いかけてくる強烈なカルマです。
  いずれも業を作る瞬間の意志(チェータナー)の強弱等より、強力な業や微弱な業などさまざまなバリエーションがあるのです。
  もし輪廻転生がないとしたら、悪いことをしてもその結果が出ないうちに死んでしまえば、「死に得」みたいな話になってしまいますね。でも、原始仏教は輪廻転生ありの立場です。うまいこと今世は逃げおおせても、必ず業の報いを受けなければならない日がやってくる。そういう重たいカルマもあるんですね。
  もし来世がなくて、死んだあと完全な無に帰することが出来るなら、それはある意味で原始仏教の涅槃のようなものかも知れません。そうだとすると、「死ねば誰でも涅槃に入れるのか!」という感じになるでしょう。それなら、「なんで我々は修行しているのだろう」というような話になってしまいますね。
  毎晩眠りにつく時にはフッと意識がなくなるでしょ。で、もし、そのまま夢も見ないで目が覚めなかったらどうですか。別にどうってことないですよね(笑)。目が覚めなかったら怖いって言うけど、意識がなくなったらそれまでですからね。ところが朝になると目が覚めてしまう。目が覚めると、「寒いな~」「起きたくないなあ~」「仕事行きたくないなあ~」「腹が減ったなあ~」って、また人生が始まるわけですよ。
  ですから、生死についても同じようなことで、そのまま目が覚めない、無になるというのは、本当はそんなに怖いことではないんだけれども、やはり生命としては自分の存在が消えることに対するすごい恐怖が組み込まれているのです。そうでないと、みんなあっさり死んじゃいますからね。
  しかし、朝になったら目が覚めるように、実は再生してまた業の力に押しやられて次の生を生きなければならない、そしてこれを延々と繰り返さなければならないという、突き詰めるとそのことこそ怖ろしいのではないでしょうか。ですから、輪廻の枠から出たい、存在をいわば完全に終了させよう、それができたらそれはもう解脱だ、というのが原始仏教の悟りのイメージなんですね。ですから輪廻転生は大ありということです。
  一つ例をあげましょう。なぜ人の才能は生まれつきこんなに違うのだろうとは思いませんか。小学校の時、Y君というスポーツ万能で勉強もとても良く出来る人がいたんです。天才的にすばらしかった。6人兄弟で、家は6畳一間に8人で暮らしているというような、お父さんが納豆売りをして生計立てているくらいだから、生活も大変だったと思います。
  ところが彼のほかの兄弟はそろって勉強は出来ない、スポーツはダメ、そんな中で彼だけがダントツの才能なんですよ。父親もインテリとはほど遠いし母親も普通の人。なんでこの家にという感じで。それはもう完全に不思議で、何をやってもかなわない素晴らしい天才肌でしたね。ではそれは遺伝なの?・・・遺伝じゃないだろう・・・失礼ながら他の兄弟を見ればなあ・・・って言うことなんですけど。
  こういった、なぜ天才が生まれるかということを輪廻転生に則って考えてみると、それは、過去世、またその前の生でも死ぬほど頑張った人なのだと言えるのです。ピカソやモーツアルトなどの場合、才能を開花させるのにベストの環境を選んできたかのように画家の家に生まれてくる、音楽家の家に生まれてくるという、過去世の延長のような連続の法則が働いているように思われます。
  注釈書によると、だいたい輪廻転生というのはほとんど同じようなことやるそうですよ。例えばブッダがある街に行ったところ、見知らぬおじいさんがやってきて、「おお息子よ、お前何やってたんだ」と言って家に連れて帰ったそうです。それで他の子供たちに「お前たちの大きいお兄ちゃんが来たぞ」と言って、ブッダのことを家族に会わせました。そこでブッダが宿命通で観てみると、そのおじいさんは過去世でブッダの父親だったそうです。その前もその前もと、過去世で1500回くらいブッダの父親か伯父さんにあたる人でした。で、ブッダはそこを通り過ぎる予定だったのですが、予定を変更し3カ月の間留まって、そのおじいさんが預流果に達するまで指導したという話があるのです。
  あるいは過去世で金細工師をやっていた人が、その前も金細工師その前も金細工師で、人間に生まれた時だけですけど、500回金細工師をやっていた人が、金細工の時のバーナーの火、赤い色ですから、赤い色に集中してサマーディを完成させて預流果に入ったという、そういう話もあります。
  このように、原始仏教に出てくる輪廻転生の物語からすると、毎回の生で同じようなことをやっているのです。そうすると、私の場合・・・「過去世も瞑想の先生やってたのかなあ」って・・・。最初から瞑想出来ましたから。30歳で瞑想した時に出来ちゃったんですよ。水虫も一夜で治しましたから、本当に。
  もう一つ例をあげれば、私は昔野球部にいて、県大会で優勝したし北関東大会でも優勝したりして、けっこう上手かったんですよ。もう何十年もやっていませんしグローブもボールも触っていませんが、もし今草野球でキャッチボールやバッティングを始めたとすれば、少し練習すればすぐに感が戻って、全然やってなかった人に比べるとやはり上手く出来るのではと思いますね。中学の時にあれほどやっていたのだから体が覚えていて、忘れる訳はないのです。
  同じように、過去世で死ぬほど瞑想していたとすれば、30年間何もしなかったとしても、いちど瞑想の再スタートボタンを押したら出来て当たり前なんですね。
  才能というのは集積された努力の結果です。ですから、何で最初からそんなに出来るのか、生まれた時から才能が違っているというのは、今世だけじゃない、過去世でも死ぬほど頑張ったその結果だと考えれば当然なんですね。裏返せば、何もやっていなければその才能には乏しい訳で、そこで頑張って努力を積み重ねていく、こういう話になるのです。生まれた時の才能、美醜、貧富、環境等々、それらは全て過去の業の結果であって、そこから今世がスタートしていると考えれば実に公平、平等です。これが基本的な仏教の考え方です。
  たとえ今世で結果が出なくても、壮大な輪廻転生を視野におさめて努力を積み重ねていくのです。確実に花開く時がやって来るし、どんな苦しい人生も、悪を避け善をなしていけば、必ず幸せな人生になっていきます。その幸せな人生も永遠には続かず、輪廻を続ける限り、苦楽がエンドレスに繰り返されていくのです。その虚しさ、怖ろしさに目覚めた人は、生々流転していく輪廻転生の流れから解脱したいと心底から願い、ヴィパッサナー瞑想に着手するというわけです。(文責:編集部)

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