月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

日常における気づきモードの安定 (1)


Aさん:ヴィパッサナー瞑想の修行をしてサティが入るようになると、日常生活にはどのように生かされて来るのでしょうか

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想は、現在の一瞬一瞬の状態に気づくという心の要素を育てる訓練を基本とします。その訓練を日々頑張っていくことで次第にこの瞑想が定着してくると、今の自分の状態に対して確認する心や、生起するものごとに瞬間的に対応する即応性が育ってきます。例えば、家の団欒ムードの中では自覚的にマインドフルでいられますし、また仕事の上でいきなり緊張モードになるようなことが起こっても、そこでサティが入るようになります。人生の上でどのような突発現象が起きても気づきがポンと飛び出すようになる、その訓練をやっているということです。
  このように、サティという機能が自分の心に根付いていれば、仕事だろうが家族関係だろうが、淡々と観ていくという意識モードが続くようになって、何が起きても絶対に混乱しないし巻き込まれたりもしなくなります。さらに、サティを入れる対象に限定はありませんから、たとえどんな環境の中でも機能する、つまりはオールマイティということです。
  こうしてどんなことでも客観視が出来るようになれば、仕事の能率も人間関係も良くならない訳がありません。そういう意味でこれは素晴らしい訓練ですし、ぜひやってほしいです。

Bさん:この訓練によって、一日中サティを入れられるようになるのでしょうか。

アドバイス:
  プロのお坊さんであってもなかなかそうはいきません。出家して、すっかり態勢を整えた上でサティを入れることだけに専念しても、一日中一個も落とさないかと言ったらそれは難しいのではないでしょうか。まして在家では、日常的な生活、仕事をしながらという状況にありますから。
  これまでにも多くの方が仕事のすべてにサティ入れてやろうと果敢に挑戦しましたが、完璧に出来たということを聞いたことはありません。サティを一瞬も落とさないで日常生活を送ろうというのは、在家としては少々無理な注文になるでしょう。
  しかし、気づきを日常生活に取り入れようとする意志はとても大切です。ですから、日常の生活においては、「伸ばした」「触った」「取った」「思った」というような逐一のサティは無理にしても、今自分は何をしているかという大まかなレベルの気づきモード、自覚の状態を保つようにします。そしてそれは保てるはずですし、実際に保てます。
  このように、いつでもマインドフルでいよう、気づきの心を失わないようにしようと思って生きるだけでも、我を忘れて感情に振り回される生き方、自己中心のエゴを突出させる生き方とは全く違ってきます。もうそれだけで人生はとても良い方向に変わっていくのです。
  ブッダの瞑想というのは、基本的に「悪を避け善を為す」という倫理的にきれいに生きていくのが大前提ですから、それを自分の本筋の流れとして位置づけた上で、気づきモードを持続させてそこから外れないように心掛けていること、これは間違いなく仏教的な善い生き方なのです。 

Cさん:歩いている時や自転車に乗っている時なども同じでしょうか。

アドバイス:
  同じです。そういう時にもやはり纏まったことは出来ませんから、大まかであっても歩いていることや自転車をこいでいることに気づいている、マインドフルネスの状態を保つことが出来れば結構です。あるいは安全性を確認した上でのことですが、慈悲の瞑想を唱え続けるというのも良いでしょう。例えば電車に乗った時など慈悲の瞑想を唱えていたら、その間は少なくとも不善心所に陥ることはありませんから。
  そもそも、何の気づきもない日常生活の中では、妄想、連想が泡のように浮かんでは消え、浮かんでは消えを繰り返しています。そしてそれらはおおむね馴染みの煩悩であって、なかでも生命の生き残り戦術として備わった嫌悪や怒りの系統がとても出やすいのです。どんな微弱な嫌悪でも、もし一日の統計を取ってみたら膨大な数になるでしょう。もしそのまま放置しておけば、真っ黒にはならないかも知れないけれど、心は確実に薄汚れていくのです。
  ですから、先ずはマインドレスの状態を修正していつでもマインドフルでいるようにし、心を汚さないように生きましょうということです。

Dさん:気づきモードの安定を支えるには、どのような心掛けが必要ですか。

アドバイス:
  
第一に肝心なのは、「このやり方が一番問題を発生させないんだ」ということを「本当にそうなんだ」と心から納得して徹底することです。この納得がないと結局は反応してしまうということになります。
  第二は、この世的なことがらに対する姿勢を改めていくことです。
  例えば、「何が何でも成功したい」「人の上に立つぞ」「投機で大儲けしてやろう」などというギラギラした野心があって、それが人生そのものであるように思っていれば、少し離れて自分の行いを対象化してみようということなど思いもつかないでしょう。ということは、世俗的なことに対する執着、つまり煩悩の少なくなっている度合いに比例して気づきモードは安定するということです。
  ですが、その無執着が完全に実現した状態というのは解脱したということですから、ほとんどの人には不可能ということになってしまいます。
  ですから、私たちはそこまではいかなくとも、エゴを弱める修行をして多少とも自己を客観視する意識を育てていきましょう。そうすれば、それに応じて一定の気づきは保てますし、また気づきを保てる場面も確実に増えてきます。そうすると、逆に仕事はうまくいくようになるのです。「俺が!俺が!」という我執から離れて仕事をするので、人間関係を始めとしてものごとがスムーズに回転するようになり、かえってうまくいくということです。
  「客観視する心を育てる」というのは、一見するとこの世からの隠遁のように捉えられる面がありますから、「すべてがうまく回転するようになる」と言うと表面的には矛盾しているような感じを受けるかも知れませんが、事実は事実です。
  このように、客観視する心を養って気づきモードが安定してくれば、必然的に不善心所に陥ることが減って人生は良い方向へと舵が切られていきます。

Eさん:では、客観視する心を養う上で、瞑想修行以外に日常生活で出来ることがあるでしょうか。

アドバイス:
  いつでも可能なものとして三つのことを習慣づけるといいでしょう。
  第一は、「相手の立場に立つ」ことです。とくに、身近な人や縁の深い人との間では、相手が自分の思う通りにならない時にはかえって深刻で、意識して努力しないとなかなか出来ません。
  心・口・意のアクションを起こす前にちょっと立ち止まって考えてみます。もしかすると相手は体調が悪いか、あるいは病気かも知れません。また精神的に追い詰められているのかも知れません。「何であの人は!」と思っても、ちょっと踏み止まってみます。ある現象には必ずそうなるだけの理由、背景があるはずです。もしその背景が分かったり推測されれば、こちらには寛容の心が生まれ易くなります。そうすれば、不善心所に傾くことは避けられます。
  しかし、仮にその背景への理解や推測が出来なくても、現状は受け入れるしかありません。自分の思い通りにならないからといって相手を責めていては何も好転しません。相手の立場に立つというのはイコール「あるがまま」を受け入れることです。たやすいことではありませんが常に心掛けていきましょう。
  第二に、「全体的に眺める視点を養う」ことです。鳥瞰図のように大空から眺めるような視点を持つと、小さなことに執らわれてつまらない欲望に悩んでいた自分に気づかされます。
  また、世間には深刻な悩み苦しみを抱えながらも勇気のある生き方をしている人が数多くいます。そのような情報に接し、記憶し、思いが及べば、自己省察も出来て煩悩も働きを弱めるでしょう。大きな高い視点を持って、「何でこんなことに悩んでいたんだろう」と、欲望を右から左へ見送ってしまいましょう。
  第三に、「自分が経験したこと、経験することはすべて意味がある」と考えて受容します。自分の経験を否定することは自己を否定することです。欲望に負けた、怒りに我を忘れた、こうした経験もすべて今の自分を作ってきたのです。
  もし今、煩悩に巻き込まれて苦しんでいるのなら、世間的な言い方ですがその苦しみが自分を鍛えるのだと思ってとことん乗り越えようと決心しましょう。そして、これが肝心ですが、これまで積んできた不善業の代償を今このタイミングで払うことが出来ていると一歩離れて考える、つまり客観視するのです。ブッダでない限りその苦が何時どういう形で終わるのかは知りようがありません。しかし必ずいつかは終わります。
  いずれにしても全ては自分次第、成るべくして成っているのです。そのためには先ず過去と現在の経験に正面から向き合い、ウペッカーの心で受容していきましょう。(文責:編集部)

前ページへ
『月刊サティ!』トップへ
Greenhill Web会トップへ