月刊サティ!

ブッダの瞑想と日々の修行 ~理論と実践のためのアドバイス~

瞑想への期待と質問 (1)

Aさん:
  会社ではいろいろな問題が日々起こります。そんな時にはどうしても今までの行動や感情のパターンで解決しようとしてしまうのですが、いつも迷いがあり自信が持てません。批判や否定的な反応を恐れているのかもしれませんが、瞑想をどう仕事に反映すべきか考えています。

アドバイス:
  意志決定をする時に大事なのは、何が問題なのか正確に現状を把握することと、揺るぎない判断基軸を持つことです。
  ヴィパッサナー瞑想は、仏教の価値観を判断基軸に、一瞬一瞬の現状をありのままに捉えていくものです。もしあなたがヴィパッサナー瞑想を拠りどころにして生きていくなら、問題を正しくとらえて明確な意志決定をくだしている自信が持てるでしょう。迷いのない生き方ができると思います。
  仏教が人生の指針になるのは、悪を避けて善をなすという方向性が明確であり、何をやればよいのか、何をしてはいけないのか具体的にを示しているからです。
  例えば、日々サティの瞑想を修行する大前提として、五戒を守り善行を心がけていく反応系の修行が提示されています。生命を殺したり傷つけない、盗まない、嘘をつかない、不倫をしない、お酒や麻薬で理性を麻痺させないという戒を守ることは確定なのですから、さまざまな場面で即断即決ができるでしょう。何ごとにもブレなくなるし、状況に流されて場当たり的になることもなくなるでしょう。考え方や行動が一貫してくるのです。
  もう一つのポイントである、問題を正確に把握し、現状を正しくとらえること。これはサティの瞑想の独壇場と言ってもよいものです。先入観や思い込み、早とちりなど、誤った対象認識をもたらす要素を徹底的に排除していくのがサティ本来の仕事なのです。
  いかがでしょうか。ヴィパッサナー瞑想は、非常に優れた問題解決のシステムでもあるのです。世界中の人が2500年間守り伝えてきた伝統の流れに自分も与して、生きる拠りどころとしている感覚があれば、誰かが批判したり否定しても恐れることのない自信が得られるのではないでしょうか。
  ヴィパッサナーを日々修行しながら、ぜひ仕事に反映させてください。

Bさん:
  最近もの忘れが特にひどいです。対策としてサティを活用できないかと思っているのですが。

アドバイス:
  サティという言葉の語源に記憶という意味があると言われます。おそらくサティを入れると記憶が強化されるという経験値が働いているのでしょう。見たものを「見た」、聞いたものを「聞いた」と再確認するのがサティの仕事ですから、一瞬一瞬の認知が記憶に焼き付いて強化されるのは当然です。
  パソコンのダブルクリックのようなものですね。老化とともに記憶が衰えてきた時に、サティの瞑想は第一でやっていただきたいです。
  その他にも瞑想からは離れますが、記憶力対策として例えば、体を使うことがとても大事だと言われます。逆に、体を使わなくなると認知症の進行が早くなる、と介護施設の方から聞いたことがあります。お年寄りの方が寝たきり状態で1週間の入院からもどると、認知症の症状が驚くほど進んでしまっていたというのです。
  認知症防止に最も効果があるのは、二重タスクといって例えば、早足で歩きながら100から7を引き、93からまた7を引き、さらに86から7を引くというように、体全体の筋肉を動かしながら脳を使うのがとてもいいそうです。脳トレと筋トレを同時に組み合わせるのが最高らしいです。
  人は仕事モードの時が一番真剣になるとも言われます。収入の有無は関係なく、ボランティアでも町内の幹事や役員でも、責任ある仕事を引き受けると否応なしにやらざるを得なくなり、脳の活性化に繋がります。だんだん体が老化してくると何をやるにも面倒くさくなるのが自然な流れです。そのまま誰かにやってもらって自分でやらなくなると、ますます記憶や脳の働きも衰えるという悪循環に陥ります。がんばって自分がやるしかない情況に敢えて身を置いてしまうのが智慧ではないでしょうか。環境やシステムの力を使って記憶の衰えを食い止める工夫をしたいものです。
  三浦雄一郎さんは80歳でエベレスト登頂の快挙をなし遂げましたが、足に錘を付けたり背中にも何十キロか背負ったりというトレーニングをしたそうです。また家の中にも低酸素室を作って平地の3分の1ぐらいの酸素で暮らしたりとか。その結果、骨密度や筋肉がほとんど20歳台、30歳台ぐらいの数値が出ていると聞きました。
  鍛えれば本当に何歳になっても可能性があります。脳も一緒です。三浦さんを見ていると、単なるトレーニングだけではなく、目標を持って、それを達成しようとするように脳を使っています。彼自身も、次の目標を失ったときには、実に無様にぶくぶく太って見られた姿ではなかったといいます。
  課題と義務に強いられて使い始めたとしても、脳はどこかで勢いがつき始めるものです。サティの瞑想と並行して対策を講じていけばだいじょうぶと信じてがんばりましょう。

Cさん:
  瞑想をしたいと思う半面、それに踏み込めない自分がいます。

アドバイス:
  煩悩を無くそうとする心と、煩悩を捨てたくない心が併存しているのが人の心というものです。悪いことをやりたい心と悪を抑止する心がバトルを繰り広げているのです。ですから、心をきれいにしよう、煩悩を手放そうと一歩進もうとすると、必ずエゴが抵抗します。煩悩の方は消されたくないから、なんとか修行をやらせないように企てるのです。
  瞑想をやりたいのに、やりたくない、というのは、どなたにでもあり得るごく自然な反応です。そこで瞑想を放棄するという選択肢もありますが、もしやらなければ、これまでと同じ人生です。苦しみも繰り返されるだろうし、何も変わらないでしょう。縁があったのだから、瞑想に踏み込んでいただきたいと思います。
  しかし、踏み込めないのはなぜか・・と問う必要があるのかもしれません。一般論で片付けられない何かがあるのでしたら、それをつまびらかにしないと先に進めません。心に謎があれば、それを解かないと矛盾した反応は治まらないものです。
  精査して何もなければ、ヤル気を起こすのに一番よいのは感動することです。瞑想は素晴らしい、これはやりたい、やらなければならない・・と瞑想関連の情報に感動すると俄然ヤル気が出ます。

Dさん:
  ヴィパッサナー瞑想以外にも、マントラを唱えるようなサマタ系の瞑想を毎日やっていますが、そのまま続けてもいいでしょうか?

アドバイス:
  サマタ系の瞑想で定力を訓練してからヴィパッサナー瞑想をやるのは正しい道筋なので、やっていただいても問題ありません。ただし、ヴィパッサナー瞑想を修行する時には、他の方法とミックスさせないで厳密にやってください。自己流でいいとこ取りをすると必ず破綻するでしょう。
  マントラ系で十分集中力を高めた後には、潔く切り換えてヴィパッサナー瞑想を修すれば、むしろその方が望ましいくらいです。

Eさん:
  中心対象にイメージを重ねているような感じです。

アドバイス:
  中心対象をイメージ化してしまうのはよろしくありません。イメージは概念であり妄想に分類されるものです。法としての存在に妄想をダブらせて感じたり知覚するのは不純ということになります。まさにこの二重性が煩悩が始まる最初の瞬間というべきです。イメージと直接知覚とは完全に仕分けなくてはいけないのです。腹部の感覚に「膨らみ・縮み」とラベリングして、イメージが浮かべられ重ねられているのに気づいたらそれには「妄想」「イメージ」とラベリングして、感覚とイメージは2つの現象であることを確認してください。
  おそらく中心対象にイメージを重ねた方が、感じ方が強化されるので何となくしていたのではないかと思います。中心対象を鮮明に感じようと執着が起きると、目的のためには手段を選ばず、と強引なことを始めてしまうものです。鮮明に感じられたら「鮮明」、ボケていてハッキリしなかったら「不鮮明」とラベリングして、経験されている通りに、淡々とあるがままに気づいていくのがヴィパッサナー瞑想です。

Fさん:
  全てを受け容れるというところに、意志の力というのは必要なのでしょうか。

アドバイス:
  必要でしょうね。「全てを受け容れる」ということは、ネガティブな出来事や絶対にイヤだといった凶々しきことも含めて「全て受け容れる」わけですから、できますか? 普通はよほどの意志の力がなければできるものではありません。エゴ感覚も限りなく削り落とさなければ、これはイイが、あれはイヤ・・となります。
  となると、苦楽を等価に視ることができなければ、そして限りなく無我に近づかなければ、全てをありのままに受け容れることはできないものです。つまり大変難しいということです。悟りの境地に達していない者がそれをやろうとすれば、強烈に意志の力を働かせて苦行としてやることになるでしょうね。・・でも、がんばってやってみてください。

Gさん:
  瞑想修行をしている時と違って、日常生活の中ではサティがかなりいい加減になってしまいますが、それでも良いのでしょうか。

アドバイス:
  それで全然かまいません。いい加減でも、日常生活の中でサティが入るということは素晴らしいことです。普通に仕事をしたり、何人もの家族と暮らしている生活では、とても入らないものです。
  日常生活の中ですべての現象に気づくのは困難ですが、一点に絞り込んで例えば、嫌悪にだけはサティを入れる、高慢にだけは絶対に気づくと決意すると、その不善心が出た時にはセンサーランプが作動するようにサティが働くようになるものです。
  それは、嫌悪や高慢などの不善心を容認しないで手放す覚悟に比例するでしょう。どれだけ真剣に受け入れているかによって、心の中で情報処理をする時にその意識がいちばん上位で働くので、敏感に気づけるようになるのです。

Hさん:
  普段の生活での心構えを教えてください。

アドバイス:
  ヴィパッサナー瞑想者にとっては、不善心所の状態でいることが悪なのだと心得ましょう。
  不善心所モードでいるときの一瞬一瞬のチェータナー(cetanā:意思)が不善業を作っていきます。貪りでも、瞋りでも、嫉妬でも、高慢でも、後悔でも、不善心所の状態でいることが苦しみの原因になっていくので、そこから離れなければいけません。
  心をきれいにするというのは、そういうことです。それが未来に起きる現象を決定づけていきますから。不善心所は止めると強く決意すれば、その命令が強力であれば、不善心所に気づき、歯止めがかかっていくでしょう。

Iさん:
  瞑想を始めて2週間です。この瞑想で人格の完成をめざすというところにゴールを設定して、あとは今自分の身に起きてくることに対処していくしかないのではないかと思いましたが、いかがでしょうか。

アドバイス:
  仰るとおりです。一瞬一瞬サティを入れて、ありのままに正しく現状を把握しながら、悪を避け善をなす原則を貫いていく覚悟で対処していけば、やがて人格完成のゴールに到達していくのです。
  それが心を限りなく浄らかにしていく清浄道の瞑想の完成です。

Jさん:
  この瞑想が悟りにつながっているという確信が持てません。そもそも悟りというものがよく分からないのです。(『月刊サティ』2002/6 再録)

アドバイス:
  悟りは、自由になることだと考えておけばよいでしょう。人は誰でも束縛されて苦しいのです。何に束縛されているかというと、自分の心に、です。怒り、嫌悪、侮蔑、嫉妬、渇望、物惜しみ・・・などの不善心に巻き込まれ、うざったく、鬱陶しく、イライラする不快感に支配されて自由になれないのです。
  悟った人たちは、どんな劣悪な情況でも束縛を感じることなく、心ひろびろと爽やかに生きています。
  ヴィパッサナー瞑想で心をきれいにすると、現象は悪いままであっても苦しくないのです。認知を変えることができれば、ひどい環境でも心から満足し感謝を捧げることができてしまうのです。
  その反対に、心が汚ければ、汚いとは、怒りや欲にまみれ、嫉妬に支配され、劣等感と高慢の往復に振り回され、絶望的に落ち込んだりしている状態ですが、こうした汚い心でいること自体が苦しいのではないですか。それゆえに、汚い心をきれいにすることが苦しみをなくすことに通じています。心をきれいにしていく清浄道の瞑想を実践することが、すべての束縛から解放され苦しみから完全に自由になる道なのです。
  なぜ、苦しい世界にいながら、悟った人たちが苦を感じないかと言えば、現象を経験する瞬間の心にサティを入れると、不快だ、イヤだと反応する心が起動しないのです。ただあるがままの事象がそのまま経験されているだけで終ってしまいます。これが全ての苦をなくしていくブッダの方法です。
  聖者たちは、事象が心にぶつかった瞬間に離脱が終っているかのような世界におります。私たちも1回でもサティが入れば、その究極に向かって一歩前進していると考えてよいのです。
(文責:編集部)

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